コツコツという靴音だけが響く静かな地下通路。この上には凄まじい数の大観衆が今か今かと待ちわびているであろう中、俺はスズカと並んで地下通路内を歩いていた。
今日はいよいよスズカの復帰レースの日。オープン特別だというのに、観客の数はまさにGIレース並み。この殆どがスズカの復帰を心待ちにしているというのだから、まったくつくづく愛されてる奴だな。
「........なあ、スズカ」
「はい?」
靴音だけの空間にふとスズカに語りかける。突然話しかけたことに驚いたのか、不思議そうに返事をするスズカに俺は言葉を続ける。
「俺は今から、スピカのアシスタントトレーナーとして........人として最低なことを言う。ただの独り言だと思ってくれ」
俺のその言葉に返答はない。その沈黙が肯定だと勝手に判断した俺は、ポツポツと続きを話し始める。
「俺は今、本当はお前に走って欲しくないと思っている」
「..........」
「勿論お前が復帰してくれるのは素直に嬉しい。だが、同時に思っちまうんだ。また怪我をしてしまうんじゃないかって。今度は本当に走れなくなってしまうんじゃないかって」
スズカの脚がもう完全に治っていることは、トレーニングを見てきたからわかっている。それでも、どうしても不安が拭えない。それどころか、レースが始まろうとするにつれそれは大きく膨らんでいく。
「お前を信じていないわけじゃないし、お前の走りをもう一度見たい気持ちもある。だが、もし仮にこれでまた怪我するくらいなら、いっそ走らない方がいいんじゃないかって........」
「八幡さん」
俺の言葉を遮るように名を呼ぶスズカ。無理もない。今から走ろうとする彼女のモチベーションを下げるような言葉をつらつら並べているんだ。こんなのトレーナー失格も良いところだ。どんなことを言われようとも覚悟はできてーーーー
ーーーーギュッ
「お、おい。スズカ?」
しかし、俺の予想を裏切り、何故かスズカは俺を抱きしめてくる。訳が分からない俺は、ただオロオロするしかない。
「........ありがとうございます、八幡さん。私のことをそこまで心配してくださって」
「.........心配なんて、そんなんじゃねえよ」
そう、これは心配なんて綺麗なもんじゃない。もっと汚くて、ドロドロとしたもの。俺はただ、スズカがまた目の前で倒れるのを見たくないだけ。二度とあの光景を目に映したくないだけなんだ。そんな自己満足な感情に過ぎない。
「........私は、また走りたい。スペちゃんに、皆に、トレーナーさんに........何より八幡さんに、また私の走る姿を見て欲しいんです」
「私は勝ちます。勝って、八幡さんの不安を吹き飛ばしてみせますから」
そう言って俺を見つめる彼女の瞳は確かな決意を秘めていて、思わず吸い込まれそうになった。
「........アホか。んな事考えなくて良いっての。お前はただ、走るのを楽しんでこい」
「きゃっ.........もう」
そんな心を誤魔化すようにスズカの頭を乱暴に撫でれば、頬を膨らませて上目遣いでジト目を返してくる。そんな彼女に苦笑を浮かべた俺は、そっと彼女の背中を前へと押す。
「.........頑張れよ」
「........はい、いってきます」
そう言い残して地下通路を真っ直ぐに歩いていくスズカの背中を、俺は見えなくなるまでずっと見つめていたのだった。
「おっ、戻ったか。スズカとちゃんと話せたか?」
「ええ、まあ」
地下通路から出てスピカが居る観客席の最前列に戻った俺は、そう尋ねてくる先輩に短くそう答える。
「それにしても、いくら明日がジャパンカップだからってなんでスペちゃん応援に来ないんだろ」
テイオーが若干不満そうにそう呟く。彼女が言ったようにこの場にスペは居ない。自らの意思で明日のジャパンカップのために調整をすると言ったのだ。
「まあスペは、今日がゴールじゃないって思ってんだろうな」
そんなテイオーの言葉にルービックキューブを回しながら答えるゴルシ。きっとスペは信じてるのだろう。スズカならこのレースを勝てると、勝ってまた走る姿を見せてくれると。それに対して俺はーーーー
そんなことを考えていると、ふと観客の声が聞こえてくる。“スズカは勝てるのか?”だったり、“完走してくれるだけで十分”だったりと、多くの観客がスズカの走りに不安を覚えている様子。
「あんた達ねえ.........スズカ先輩が勝つに決まってるでしょ!」
「お、おい。やめとけって」
そんな観客達に噛みつくスカーレットとそれを宥めるウオッカ。それを見ながら考えてしまう。俺もそんな観客達と同じなのではないかと。ただ無事に走りきって欲しい、そんな思いが強くあることは否定できない。
『私は勝ちます。勝って、八幡さんの不安を吹き飛ばしてみせますから』
ならばせめて、これから走るスズカを心から応援しよう。横で謎の念を送るスピカメンバーを見ながら、俺は一人そんなことを考えるのだった。
***
それから今レースの二番人気で最近調子を上げてると噂のウマ娘、サンバイザーがスズカに宣戦布告をするなど一悶着ありながらも、いよいよ全員がゲートへと入る。数秒置いて、いよいよスズカの復帰レースがスタートする。
『おおっと!?サイレンススズカ、出遅れました!最後方からのスタートです!一方でサンバイザーは良い位置につけている!』
スズカの位置は集団の一番後ろ。今まで大逃げで走ってきたスズカからは信じられないスタート。前に行こうにも他のウマ娘に塞がれて叶わず、その位置のままレースが進む。
途端に聞こえ出す観客の不安げな声。“やっぱり無理だ”、“無事に走り終わってくれれば良い”ーーーーそんな声に自分の拳に力が入るのを自覚する。思わずギリッと歯を食いしばる。
レースはいよいよ4コーナーを回り最終直線に入る。依然としてスズカは最後尾に位置している。
(スズカっ.........!!)
実際に彼女が走る姿を見てわかった。やっぱりスズカには先頭を駆け抜けて欲しい。彼女の今日までの努力を知っているから、彼女の走ることに対する思いを知っているから。何よりーーーーもう一度あの風のようにターフを駆け抜ける姿を見たいから。だからーーーー
(勝てっ.........!!スズカっ.........!!)
俺は今度こそ、偽りのない本心で彼女に勝って欲しいと、そう心の中で強く願う。
「ーーーーーっ!!」
そんな俺の思いに応えるように、短く深呼吸したスズカが勢いよく地面を踏みしめ、一気に加速する。
「やっと来やがった!!」
「まったく、ハラハラさせますわね」
「いっけえ!!スズカー!!」
次々と前を走るウマ娘を抜き去っていくスズカ。そのまま先頭のサンバイザーにまで迫り、並ぶことなく追い抜いていく。負けじとスパートをかけようとするサンバイザーだが、それ以上のスピードで後続を突き放していく。
「凄い!あそこから巻き返すなんて!!」
「スズカ先輩カッコよすぎ!!」
「いけいけー!!」
「くうぅぅぅ!やっぱスペにも見せてやりてえ!!」
「また見れますわ!!これからも、ずっとずっと........!!」
これこそ俺が、俺達が待ち望んだスズカの走り。風のようにターフを駆け抜ける、誰の追随も許さない逃げ脚。見る者を魅了する異次元の走り。これがスズカの本来の姿。帰ってきたスズカの走りに多くの人が喜び、感動し、涙する。
(.......おかえり、スズカ)
目から頬へと流れ落ちる温かい何かを感じながら、今ゴールを駆け抜けたスズカに心の中でそう呟くのだった。
***
ガコンという音とともに落ちてくる飲み物。それを手に取ってプルタブを開け、中身を呷った俺は大きく息を吐く。
今回の復帰レースはスズカの勝利で幕を閉じた。今頃スピカメンバーや関わりの深い奴らに囲まれて騒がしく賛辞を受けていることだろう。ぼっちの俺にはその雰囲気に混じるなどハードルが高すぎるので、一人抜け出して飲み物を買いに来たわけだ。
「八幡さん」
そんなことを考えながらもう一口呷れば、俺の名前を呼ぶ声に振り返る。そこには本日の主役様がポツリと立っていた。
「なんだ、あっちはもういいのか?」
「はい。それに、八幡さんに聞きたいこともあったので」
「聞きたいこと?」
そう言ったスズカは俺に一歩近づき、下から覗き込むように尋ねてくる。
「八幡さん、泣いてたって本当ですか?」
「........にゃんのことでしゅか?」
え、待って。なんで知ってるのん?いや、あれは違うから。目から汗が出てきただけだから。泣いてたわけじゃないから。.........誰に言い訳してんだ俺は。
「テイオーが言ってましたよ?八幡さんが泣いてたって」
「.........さあな」
誤魔化すように手に持っていた缶を一気に飲み干した俺は、ゴミ箱にそれを放り込んでこの場を後にする。そんな俺に並ぶようにして横を歩くスズカ。くっそ、恥ずかしくて顔見れねえ.......
「..........八幡さん、ありがとうございます」
「なんだよ、藪から棒に」
「八幡さんのおかげで、私はまたこうして走ることができました。だから、ありがとうございます」
「.........俺は何もしてねえよ。全部お前の頑張りだ」
それに、お礼を言うのは俺の方だ。彼女はその走りで、俺達にまた夢を見せてくれた。レース前に言っていたように、勝つことで俺が抱いていた不安を取り払ってくれた。年下の彼女に勇気づけられるなど、良い大人が情けない話だな。
「........これからです。私は私の夢を叶える。そして、約束を守るために走り続けます」
「だから、これからもよろしくお願いします。八幡さん」
そう言って微笑んだスズカ。再びせりあがってくる熱い何かを誤魔化すように「.........おう」と短く返事をする。
ーーーーおかえり、スズカ。そして、ありがとう。もう一度走ってくれて。