「ふぅ..........」
黙々と車を運転していた俺は、信号待ちで止まったタイミングで大きく息を吐いて、ドリンクホルダーに置いてあるブラックコーヒーを一口飲む。猛烈な苦味に思考がクリアになるのを感じると共に、愛飲するあの甘いコーヒーを恋しくも思ってしまう。
「八幡さん。もしかしてお疲れですか?」
「肉体的な疲労はねえよ。あるのはどっちかと言うと精神的な方だな」
現在俺が向かっているのは東京レース場。スズカの復帰レースの翌日に開催されるジャパンカップ。かのヨーロッパ最強のウマ娘、ブロワイエが。何より、我らがスピカのメンバーであるスペが走るレース。
当事者ではない俺が何をとは思うが、当日の朝こうしてレース場に赴く間も緊張がほどけない。何せスペの相手は名実共に最強の名を冠するウマ娘。スペが負けるなんて思いたくはないが、当然簡単に勝てる相手ではない。そんな焦りと不安が、いつもと違ってブラックを買ったところにも表れている。
「.........スペちゃん、勝てるでしょうか?」
「さあな。ただ言えるのは、俺達は信じるしかないってことだけだ」
今回も先輩の車と分けて向かうつもりだったが、何故かちゃっかり助手席に座っているスズカの不安にそう答えながら、青になった信号に置いていかれないようにゆっくりとアクセルを踏むのだった。
***
東京レース場に着いた俺達は、ルドルフの像の前で待ち合わせしている先輩の元へ向かう。約束通り先輩は像の前で手を挙げてこちらを待っていた。その隣に見知らぬ女性を一人携えて。
「すみません先輩、お待たせしました。それで、そちらの方は?」
「ああ、この人は.........」
「もしかして、スペちゃんのお母さんですか?」
先輩に代わってそう告げたスズカの言葉を肯定するように頷く女性。そうか、この人がスペの育ての母親か。
「連れが遅れて申し訳ありません。ああ、こいつは.........」
「初めまして。サイレンススズカと申します」
「ほ、本物.........」
ペコリとお辞儀をしながら自己紹介するスズカに気圧されるようにそう零すスペの母親。まあ、スズカの名前は今や全国に轟いているだろうし、あちらからしたら有名人と会ってるのと変わらんからな。実際はただのちょっとポンコツな先頭民族なんだけど.........って、こっちを睨むな。なんで考えてることがバレてるのん?
「それと、こっちがスピカのアシスタントトレーナーのーーーー」
「.........比企谷八幡です」
当然俺も自己紹介することになり、先輩の紹介に続くように名前を言って頭を下げる。短すぎるって?ぼっちにはこれが限界なんです。
「スペシャルウィークの母です。いつも娘がお世話になっております。皆さんのことは娘からよく聞いていますよ」
え、マジ?スペってば俺のこと母親に話してんの?目の腐った不審者予備軍とか紹介されてたらどうしよう。一気に通報案件なんですけど。
「比企谷さんのことは、『とても優しくていつも自分達のことを考えてくれる素敵なトレーナー』だと伺ってますよ」
そうか、それならよかっ.........いや、それはそれで恥ずかしいからやっぱ死にたい。俺が優しいとか頭おかしいんじゃないの?あと、なんであなたまで俺の心を読んでるんですかね?
「「八幡(さん)はわかりやすいからなあ(ですから)」」
「口揃えて言わなくていいですから.........」
おっかしいなあ。ぼっち生活で身につけたポーカーフェイスがあるはずなんだけどなあ。それとスペのお母さん?なんか優しい笑み浮かべてこっち見るのやめてくださいません?
「なんだなんだ〜?もしかして照れてんのか〜?」
「..........さっさとスペの控え室行きますよ」
ニヤニヤしながら肘でつついてくる先輩とその後ろで微笑み合うスズカとスペの母親を無視しながら、足早にスペの控え室へと向かうしかできない俺であった。
目の前にある一つの扉。それを見て一呼吸置いた俺は、その扉を拳で軽くノックする。そうすれば、すぐに中から「どうぞー!」という声が返ってきて、それを聞いてからゆっくりと扉を開ける。
「よう、調子はどうだ?」
「問題ありません!少し緊張はしてますけど、今は早く走りたいっていう気持ちの方が大きいです!」
随分見慣れてしまった勝負服に身を包んだスペにそう聞けば、気合いの入った声音でそう返される。見た感じ気負いすぎてる雰囲気もなさそうだな。
「本当はこういう時先輩が来るんだろうけど、何故か俺に任されちまってな。悪いが我慢してくれ」
「何言ってるんですか。八幡さんが来てくれて私は嬉しいですよ」
まあ、なんていい子なの!八幡感激で泣いちゃいそう!お世辞とはいえ、はっきり拒絶されるよりかはマシだからなあ。
「........今回のジャパンカップ。名を連ねてるのは強者ばかり。だが、そんな中でも警戒するべきなのは間違いなくブロワイエ一人だ」
「.........はい」
「ヨーロッパ最強のウマ娘と走るんだ。このレースで1着を取れれば文句なしで日本一のウマ娘と言われるだろうな」
「日本一........」
彼女が反芻するのは己の夢であり誓い。このレースで、その夢が現実のものになると言っても過言ではない。
「........だが、別にそれを考えすぎる必要はない。今日でレース人生終わるわけじゃないんだし、この舞台だけが日本一の場っていうわけでもない。お前はただ、いつも通りレースを楽しんでこい」
スペ飲み力は何もその走りだけじゃない。強者とのレースを楽しみ、誰かと肩を並べて走ることに喜びを感じられるその素直さこそ、彼女の一番の魅力だと思っている。だからこそ、この舞台でも自らの走りを貫いてほしい。そんな願いを胸に抱いてそう告げる。
「........八幡さんは、私に勝って欲しいですか?」
「.........こんなんでもアシスタントだからな。担当に負けて欲しいとは思わんだろ」
「もうっ。またそうやって」
“素直に言ってくれればいいのに”なんて頬を膨らませるスペだが、生憎こんな性格だからしかたない。
「.......私、絶対に勝ちます。応援してくれる皆さんのためにも、お母ちゃんに日本一になる姿を見せるためにも!」
そう言うスペの顔は決意によってキラキラと光っているように見えた。まったく、夢を追うウマ娘というのはつくづく眩しくてぼっちには耐えきれんと苦笑。
「........んじゃ、行くか」
「はい!」
元気よく返事をしたスペに背を向けて控え室の扉を開ける。その先に居たのはーーーー
「あれ?皆、どうしたの?」
グラスワンダー、セイウンスカイ、エルコンドルパサー、キングヘイロー、ハルウララ。スペの同期の面子が勢揃いしていた。何故、なんて聞くのは野暮だろう。きっとこれから走るスペの応援に来たに違いない。仲の良いこって。
「はぁい。スペちゃん、勝てそうかしら?」
「........その前になんでお前まで居るんだよ」
「可愛い後輩の晴れ舞台ですもの。応援に来るくらい普通でしょ?」
同期同士で盛り上がっている状況に水を差すわけにもいかないため、持ち前のステルス機能でそっと離れた俺に相変わらずの調子で話しかけてくるマルゼンに溜息をつく。
「それで、スペちゃんはどうなの?勝てそう?」
「さあな。少なくとも今の状態だけじゃ断定はできん」
ブロワイエという圧倒的な脅威に加え、他のウマ娘も歴戦の猛者ばかり。まだターフにすら立っていないこの状況で勝敗がわかるのは、居るとすればそれこそ神様くらいなもんだろう。
「でもまあ、スペに勝って欲しいとは正直思ってるよ」
「ふふ、随分大事に思ってるのね」
「........アシスタントだからな」
何処か温かい目でこちらを見ながら微笑むマルゼンに何となくそっぽを向いた俺は、話は終わったのか元気よく走り去っていくスペの後ろ姿を眺めていたのだった。.........あ、コケた。
***
ひと仕事終えた俺はとりあえず観客席に居る先輩達と合流。スペの母親はこことは違う席でレースを見守るらしい。本当は彼女にも控え室に出向いてもらう予定だったのだが、思うところがあるのか結局一緒に来ることはなかった。流石に無理強いするのも変な話だからな。これに関しては致し方ない。
出走を目前に控え、ゲート前に集まるウマ娘達。そこには当然スペの姿も。そして、かの有名なブロワイエの姿も見える。以前も見たが、流石にオーラが他とは違う。
ん?スペがブロワイエになんか言ったな。ブロワイエは笑顔で握手してるけど、何故かさっきより迫力増してね?スペの奴、ブロワイエに何言いやがったんだ?
『今ゲートに入りました!ジャパンカップ、いよいよスタートです!』
そうこうしているうちに全員のゲート入りが完了。間もなくしてゲートが開き、ついにジャパンカップが幕を開ける。
一斉にスタートするウマ娘達。スペはいつもと同じ集団の後方から差す走り。そしてブロワイエは、そのスペの更に後ろを追走している。どうやら差しのスペを更に差すつもりらしい。
ヨーロッパ最強のウマ娘に徹底的にマークされている状態。そのプレッシャーは尋常じゃないだろう。ペースを狂わされなければいいが。
レースは早くも1000メートルを通過。通過タイムは約1分。平均的なタイムだ。どうやら俺の心配は杞憂だったらしい。とはいえ、ブロワイエが追想しているのには変わらない。多分あいつならそろそろ.........
(やっぱ仕掛けてきたな)
ここに来てどんどん上がっていくスペ。いつもより早い仕掛けだが、相手が相手なのでこれは正解と言えよう。ぐんぐんと追い上げるスペは、大欅を超えても更に加速する。
レースは第3コーナーを抜けて第4コーナーへ。大外からスペが上がってくる。そして、その更に外からブロワイエが追い上げてくる。しかし、スペとの距離は縮まらない。
勝負は第4コーナーを過ぎて最終直線。遂にスペが先頭に立つ。ここにきて最強も後がなくなったのか、ようやく本気を出してきた様子。ゴール直前で僅かだが確実にブロワイエとの距離が縮まる。
思い浮かぶのはリギルのエルコンドルパサーが走った凱旋門賞。ゴール手前で最強に追い抜かれる怪鳥の姿。スペもその二の舞になってしまうのではないか、そう考えると自然と握りしめる手に力がこもった。
「スペちゃぁぁぁぁぁん!!」
大きな声でスペの名前を呼ぶスズカ。他のスピカのメンバーも、会場を埋め尽くす観客達も、日本の総大将に声援を送る。誰もが彼女の勝利を、日本一のウマ娘になる姿を望んでいる。こんなの、声が出ない方がおかしいだろう。
「行けっ.........!!勝てっ、スペ!!」
「っ!!だあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
瞬間、スペが更に加速する。そのまま彼女の身体がゴール前を駆け抜け、それに続いてブロワイエがそこを通過する。その状況が示す現実は、紛れもなくただ一つ。
「.........勝った.........!」
スペの勝利。その事実に東京レース場が揺れんばかりの大歓声が響き渡る。あのブロワイエを抑え、見事スペがジャパンカップを制したのだ。
「日本一.........マジで叶えやがった.........」
別に信じていなかったわけではない。それでも、決して簡単なことではなかった。不安だってあった。しかし、彼女はそれを払い除けた。自らの力で夢を叶えてみせた。
(やったな、スペ。.........おめでとう)
そして始まるウイニングライブ。実況の“次の目標”という問いかけに、彼女はこう答えた。
「これからも私を応援してくれる皆の夢を背負えるような.........そして、私を応援してくれる人達に夢を見せられるような.......そんなウマ娘になることです!!」
高らかに言い切ったスペに、まったくもってあいつらしいと苦笑する。今日のレース、多くの人の期待と夢を背負って彼女は走り、見事にそれに応えてみせた。その姿は見に来てくれた彼女の母親と、今も天国で彼女を見守っているであろうもう一人の母親の目にしっかりと焼きついたことだろう。
(........ほんと、眩しすぎて嫌になるな)
彼女達に会って俺も随分と変わったもんだ。それも悪くないなんて毒されてしまっているくらいには、誰かの夢を追う姿というのは周りに大きな影響を与えてしまうらしい。他人にアテられてしまうなど、ぼっちの風上にも置けない事態だな。
そんなことを考えながら、今もステージ上で大勢に囲まれているスペに、もう一度心の中で“おめでとう”と呟くのだった。
「ーーーースズカさん、忘れ物ありませんか?あっちでも怪我や体調には気をつけてくださいね?向こうに着いたらすぐに日本の人参送りますから!それから.........」
「お前はオカンか」
俺のツッコミに苦笑いを浮かべるスズカ。俺達が今居るのは空港、目的はアメリカに挑戦するスズカの見送りだ。
元々海外に挑戦するというのが彼女の目標だった。秋の天皇賞の怪我でそれどころじゃなくなったわけだが、ひたむきなリハビリと努力によって見事に復活を遂げた。加えてスペの大一番も終わったため、このタイミングで当初の予定を実現することにしたのだ。
「スペの真似じゃないが、体調には気をつけてな。向こうは食事も随分違うだろうし、しばらくは慣れ親しんだものを食べるのも大事かもな」
「それなら大丈夫です。心優しいルームメイトが沢山人参を送ってくれるみたいなので」
「えへへ〜」
本当は全員で見送りする予定だったのだが、流石に大人数で押しかけるのは周りの迷惑だろうとのことで、こうして俺達が代表して見送りすることになったのだ。
正直それなら先輩が来るべきだろうと思ったのだが、他でもない本人の頼みで俺が駆り出されることになった。俺は最後まで渋っていたが、他のメンバーにケツを蹴られたのとスズカの上目遣いのおかげで現在に至るわけだ。
「........八幡さん。私、本当に向こうでもやっていけるでしょうか?」
「なんだ?心配なのか?」
俺の問いかけに静かに頷くスズカ。あれほどの走りをすると言っても中身は高校生くらいの歳の女の子。見知らぬ土地に一人赴くという不安はあるだろうし、海外のレベルの高さを知っているからこそ弱気になってしまうのもしかたない。
「心配しなくても、お前なら海外でも間違いなく通用する。そう思ったから俺も先輩もこうして送り出したんだからな」
「.........はい」
そう返事をするスズカだが、まだ若干の不安が見てとれる。こういう時どうすればいいかなんて、ぼっち歴の長い俺にはわかるはずもなく、どうしたもんかと頭を搔くしかない。
「........八幡さん、一つお願いしても良いですか?」
「.........とりあえず聞くだけなら」
「その.........頭を、撫でてくれませんか?」
うん、なんで?いくらなんでも唐突すぎない?
「八幡さんに撫でられると、なんだか安心できるんです。だから........」
..........ったく。そんな顔して言われたら断るにも断れないだろ。
「あっ.........」
「その、なんだ.........俺の言葉じゃ説得力ないだろうが、お前なら大丈夫だと信じてる。だから、安心して行ってこい」
要望通り彼女の頭を優しく梳くように撫でる。それに少し身動ぎした彼女だったが、すぐに気持ちよさそうに目を細めて受け入れる。これで少しは不安が晴れてくれると考えれば、向けられているいくつかの視線も我慢できるだろうか。
「.........ありがとうございます。いってきます」
「.........ああ、行ってこい」
しばらくそうしていたスズカだったが、顔を上げてゆっくりと搭乗口へと向かっていく。その背中に不安の色はなく、レース前の堂々たる姿がそこにはあった。
(.........頑張れよ、スズカ)
その姿にほんの少しだけ寂しさを覚えつつも、心の中で彼女を応援する。やがてその背中も見えなくなり、俺は軽く伸びをする。
「さて、俺らも戻るとするか」
「あ、あの........八幡さん」
これで役目も終わったのでさっさと学園に戻ろうとすれば、何故かモジモジしているスペに呼び止められる。何事かと振り返れば、意を決したような顔でこちらを見上げるスペと目が合う。
「その.........わ、私の頭も撫でてくれませんか?」
「.........いや、なんで?」
「い、いえっ!その........スズカさんの顔見てると気持ちよさそうだなあって思って.........だから、私も撫でて欲しいなあって.........」
スペの口から告げられた斜め上のお願いにガチトーンで聞き返せば、顔を真っ赤にしたスペからそんな答えが返ってくる。その様子に俺はふっと笑みを浮かべーーーー
「絶対やだ」
「そ、そんなぁ〜........」
この後、すっかりへそを曲げてしまったスペの機嫌を取るためにコンビニで大量にスイーツを買うことになってしまったのは別の話。
ようやく1期分が終わりました。まだまだ先は長そうですね.........頑張ります。