すっかり日も暮れ、寮の門限も近づいてきた頃。未だに煌々と明かりの点くトレーナー室が一つ。床を見れば幾本ものエナジードリンクとちらほら見られる千葉を代償する黄色い缶の残骸。お世辞にも綺麗とは言えない。
「くそっ........」
その一角にある机に座る俺ーーーー比企谷八幡は、頭を掻き毟りながら一言恨み言を呟いた。目の前には積み上げられた本の山。そのどれもが怪我の治療や処置に関する内容のものだった。
時間が経つのはあっという間で、テイオーが出走予定の菊花賞はすぐそこまで迫っていた。にもかかわらず、未だに有効な手立てが何一つ見つかっていない。テイオー自身ギプスも取れて走れるようになったものの、全盛期の仕上がりとは程遠い状況。今の仕上がりで勝つことが無謀に等しいことなど火を見るより明らかだ。
(レース前のマッサージなんかはやるにしても所詮気休めにしかならない。サポーターを付けて走る選択肢もあるが、それでも絶好時の状態には足りない。走り方を変えるなんて以ての外だ。そもそもテイオーのレースはここで終わりじゃない。怪我を悪化させずにかつ強敵だらけの菊花賞で勝てる走りをする方法。そんなのあるわけが.........)
それ以上考える前に頭を振って思考を切り替える。今更弱気なことを言っていてもしかたない。最後までサポートするって約束したんだ。今ここでテイオーを走らせてやれないで何がアシスタントトレーナーだ。何がチームの一員だ。
「うわっ、何この散らかり方。トレーナーのとこより酷いじゃん」
そんな思考は、俺一人しか居ないはずのトレーナー室に響いた誰かの声によって途切れた。ハッとして顔を上げれば、そこに居たのは床に転がる大量の空き缶を避けながら近づいてくるテイオーの姿だった。
「お前........なんでここに.........」
「トレーナーに八幡の居るとこ聞いたら、八幡は八幡で別にトレーナー室があるって聞いてさ。場所教えてもらったんだ」
俺の質問に“にししっ”と笑いながら答えるテイオー。俺が聞きたかったのはここに来た理由なのだが。確か今日テイオーは病院に行って..........そうだっ、病院!
「テイオー!医者はなんて........」
慌てて尋ねた俺に、少しだけ目尻を下げながら首を横に振るテイオー。たったそれだけでも、返答としては十分すぎるほど明確で残酷だった。
「トレーナーには伝えたけど、菊花賞は諦めるよ。そういう約束だもんね」
やめろよ........そんな下手くそな作り笑いで誤魔化すなよ。悔しくないわけがない。誰よりも菊花賞に出たかったのは、他でもないテイオー自身だったのだ。それなのに、なんで.........
「.........すまん」
“諦めるな”、“まだ何か方法があるかもしれない”ーーーー口から出かけたその言葉を俺は飲み込んだ。だって、俺は彼女に何もしてやれないから。唯一呟いたのは、掠れたような謝罪の言葉だけだった。
「もうっ、謝らないでよ!八幡もトレーナーも、ボクのために寝る間も惜しんで色々考えてくれたんだもん!.........むしろありがと!ボクのために無理させちゃって」
テイオーはそう言うが、結局そんなのは言い訳にしかならない。俺は彼女の夢を守ることができなかったのだから。スズカの時といい、俺はこいつらの夢を奪ってばかり。その感謝を受け取る資格は俺には........ない。
「約束通り菊花賞は諦める!........その代わりってわけじゃないけど、八幡に一つお願いがあるんだ」
「.........あんま大したことはできないぞ」
「わかってるよ。あのねーーーー」
東京から遥々新幹線で辿り着いた京都レース場。暖かいくらいの晴天の中、ここに集まった人達のお目当てはただ一つ。
「.........そろそろ始まるね」
「.........だな」
テイオーのお願い、それは一緒に本日行われる菊花賞を見に行くこと。先輩には先に許可を貰っていたらしく、俺もそれくらいならと承諾することにしたのだ。
「というか、本当に俺とでよかったのか?先輩とかスピカのメンバーとの方が良かったんじゃねえの?」
「もうっ、しつこいなあ。ボクは八幡と行きたかったの!だからこれでいいの!」
そんな会話をしている間に、菊花賞に出走するウマ娘達が続々とゲート前で待機を始める。その様子を最前列で見つめるテイオー。その横顔にはやはりというか曇りが見えた。
「........なんか小腹が空いたな。適当に買ってくるが、テイオーは何かいるか?せっかくだし奢ってやるぞ」
「いいの?それならーーーー」
そんな彼女を見てられなくて、誤魔化すように理由をつけてその場を離れる。我ながら本当に逃げるのは上手いもんだ。まったく嫌になる。
本来ならあの中にテイオーの姿があったはずだった。テイオーの菊花賞への出走断念は、彼女の三冠を期待していた人からすれば残念なことだろう。もちろん俺や先輩、スピカメンバーも..........中でも一番悔しいのはテイオー自身だろう。彼女が一番、無敗の三冠ウマ娘という目標のために努力していたのだから。
「.........なんも変わってねえな」
自分の無力さに己を虐げる。結局俺は“あの時”と変わらない、一人のウマ娘の夢の手助けすらできないちっぽけな人間。そんなことはずっと昔からわかっていた。所詮は俺なんてただの目の腐ったぼっちなのだから。
そんなことを考えながら、いつの間にか買っていたテイオーに頼まれたものを持って彼女のもとへ戻る。後ろから見た彼女の肩は小刻みに震えていた。きらりと彼女から落ちる雫。持っていた飲み物の容器が少しだけへこむのを感じた。
「.........悪い、テイオー。遅くなった」
「........遅いよ八幡。もうレース終わっちゃったよ」
それでも、声をかけられて振り返ったテイオーは笑っていた。目の端に僅かに光るものを残して。その顔が、俺の胸を余計に締めつける。
「........帰ろっか」
「.........ああ」
笑顔で告げるテイオーに、俺はただそう答えるしかできなかった。
***
東京へと帰る新幹線内。隣に座るテイオーとの間に会話はない。ここで気の利いたことの一つや二つ言えれば良いのだが、どれだけ自分の人生を振り返ってもそんなことできるほどの経験がない。
「.......ねえ、八幡」
「な、なんだ?」
「皆、凄かったね」
いきなり話しかけられたせいで盛大に噛んだことなど眼中に無いというように、何かを噛み締めるようにそう零すテイオー。
「........そりゃあそうだろ。今日走った奴らは皆、お前を倒すために努力していたようなもんだ。あいつらの中には、間違いなくお前の姿があった。自分は負けてないっていう強い思いと一緒にな」
これは決して大袈裟でも過大評価でもない。仮にテイオーが走っていれば、見ていた誰もが“テイオーが勝つ”と思っていただろう。それほどまでに、テイオーの走りというものは見る者魅了する走りなのだ。
だからこそ、今日走っていたウマ娘全員が思ったことだろう。“テイオーだけの舞台じゃない”、“テイオーが走っていればなんて言わせない”と。その強い思いが、ターフの外で見ていたテイオーに何かを伝えたのだ。
「........ボクね、気づいたんだ。確かに無敗の三冠ウマ娘にはなれなかった。それはもちろん悔しい。........だけどね、負けてないんだ、ボク。無敗のウマ娘にはまだなれるんだ」
“でしょ?”と言ってこちらを向く彼女のその目に迷いや悔いなんて微塵もなかった。無敗の三冠ウマ娘という夢が閉ざされたにもかかわらず、また新たな夢を真っ直ぐに見据えている。ほんと、強い奴だよ。
「.........なんにせよ、まずは怪我を治して復帰しないとな」
「もっちろん!八幡もちゃんと協力してよね!」
「へいへい」
すっかり眩しさを取り戻したテイオーに面倒くさそうに返しながら、不意に自分の頬が緩むのを感じる。どいつもこいつも夢に向かって真っ直ぐすぎるから、うっかり頑張ろうなんて思っちまうだろうが。俺は楽したいってのに。
「よぉし.........絶対無敗のウマ娘になるぞー!おー!」
そう高らかに宣言するテイオー。それはいいけど、一応ここ新幹線の中だからね?他の乗客の目も気にしようね?