まるで溢れんばかりの人で埋め尽くされているのは東京競馬場。楽しみ故か既に揺れんばかりの歓声が轟いている。それもそのはず、誰もが待ちわびていたであろう日本ダービーがもう間もなく始まるというのだから。
そんな盛り上がる観客席とは反対に静寂が支配する地下通路。その静寂を破るカツカツという靴音が一つ。
「おっ、来た来た」
地下通路の途中にいるのはスピカのメンバーにメジロマックイーンを加えた六人。彼女達の視線の先にいるのは何処かぎこちなく歩みを進めるスペシャルウィーク。
「どっ、どうも.......」
「緊張してるみたいね」
「限界を超えた力が出せるか心配で.......」
少し震える声のスペシャルウィークに微笑みかけるサイレンススズカ。練習の時のような力が出せるのか、そんな心配を口にするスペシャルウィークの頬を、両手で挟むような格好になるサイレンススズカ。
「ス、スズカさん?」
「あんなに坂の練習したんだもの。あとは楽しんで、ね?」
「は、はいっ!」
「ほらよ」
優しく微笑みながらエールを送ってくれるサイレンススズカに元気よく返事をするスペシャルウィーク。そんな彼女に何かが投げ渡される。
「これ、四つ葉のクローバー.......?」
慌ててそれをキャッチした彼女の手には、栞のようなものに綴じられた四つ葉のクローバー。ただの栞ではなく、首にかけるための紐のようなものが付いている。
「はい!皆で探したんですよ?」
「ダービーは幸運なウマ娘が勝つんですよね?」
「なかなか見つからなくて結局........」
「マックイーンが見つけたんだよな」
「お、思わず目に止まったものですから.......」
「すっかりチームに貢献してるよねー」
「ど、努力は報われるべきですわ」
全員の視線に照れるように視線を逸らすメジロマックイーン。
「皆.......それにメジロマックイーンさんも、本当にありがとうございます!」
「あとあと、それを作ってくれたのは実は八幡なんだよ〜」
「比企谷さんが?」
トウカイテイオーの口から出た今ここにはいないアシスタントトレーナーの名前を聞き、思わず聞き返してしまうスペシャルウィーク。
「『普通に持つだけじゃ走る時邪魔だろうし、首にかけられるようにしとけばいくらかマシだろ』とか言って作ってくれたんだー」
「自分で渡せばいいのに、変に遠慮してたんだよな。あいつ」
「というか、案外器用なのがそもそも意外だったわね」
「これで運もスペちゃんの味方ね」
「はい!いってきまーす!」
そう言って元気よく走り去っていくスペシャルウィーク。その足どりには、先程までのぎこちなさは微塵もなかった。
***
「ん、戻ってきたか」
人でごった返す東京競馬場の観客席。その最前列で先輩の隣に立つ俺は、先程スペシャルウィークの様子を見に行ったスピカのメンバーウィズメジロマックイーンの姿を確認してそう呟く。
「どうだった?スペシャルウィークの様子」
「やっぱり緊張してました。でも、もう大丈夫です」
「そりゃなにより」
彼女にとってこの日本ダービーは経験したことのないであろう大舞台。緊張しない方がおかしいというもの。事前にこいつらを寄越して正解だったな。
「それにしても、八幡も来なくてよかったの?あのお守り作ったの八幡なのにさー」
「そもそも四つ葉のクローバー見つけたのはメジロマックイーンだしな。それに最近スピカに来た得体の知れない俺よりがいるより、お前らだけの方があいつも安心するだろ」
「相変わらず捻くれてますね」
「.......ほら、出てきたぞ」
クスッと笑うスズカを無視してターフに視線を向ければ、地下通路から出てきたスペシャルウィークが観客席の目の前に立つ。一瞬驚くような顔を見せた彼女は、すぐに笑顔になって観客に手を振って答える。
「なんだかんだダイエットも成功したしいけそうね」
その次に出てくるのはセイウンスカイ。そして少し遅れて出てきたウマ娘に観客は一番の盛り上がりを見せる。今レースの一番人気、エルコンドルパサーの登場だ。
これで役者は全て揃った。果たして勝つのは誰なのか。もちろんスペシャルウィークには勝って欲しいが、レースに絶対はないからな。
「スペが遠い.......」
そんな中、隣に立つ先輩がそうぼやく。釣られるように隣を見て、思わず溜息が飛び出る。
「先輩.......双眼鏡逆ですよ」
「うおっ!?マジだ!?」
「いや、先輩が緊張してどうするんですか.......」
俺の指摘に慌てて双眼鏡を持ち替える先輩。スピカのメンバーも呆れたような視線を向けている。なんで走らないあんたがそんなに緊張してんだよ.......
「き、緊張なんてしてねえし!それに八幡、お前だって普段飲まないブラックコーヒー飲んでんじゃねえか」
「.......そういう気分だったんで」
これはあれだ、偶々無性にブラックコーヒーが飲みたくなっただけであって、断じて緊張しているわけではない。........誰に言い訳してんだよ。
(.......頑張れよ)
一人心の中でエールを送る。それに続くようにファンファーレが鳴り響き、ウマ娘達が次々とゲートに入っていく。全員がゲートに入り終え、一呼吸おいてガタンという音と共にゲートが開き、一斉にスタートする。
まず飛び出したのはキングヘイローとセイウンスカイ。そのまま第二コーナーに入り、先頭に立ったのはキングヘイロー。セイウンスカイは二番手で脚を溜めているようだ。
(キングヘイローのあの走り........ありゃ途中でバテるな)
どうやらなるべく前に出て後ろとの距離を稼ぐつもりらしいが、如何せん距離が離れない。セイウンスカイがバッチリ後ろについてる。あれじゃあ後半の脚は残っていないだろう。
先頭から目を離した俺は、続いて中段辺りを見る。スペシャルウィークが位置しているのはこの辺りだ。
(スリップストリーム.......ちゃんと練習の成果が出てるな)
タイキとの模擬レースで掴んだスリップストリームを惜しみなく使う。あれなら後半まで疲れを少なくできるだろう。
エルコンドルパサーはスペシャルウィークの少し後ろか。あれは最後に差しにいく作戦だな。
レースは第四コーナーに突入。その時、レースに大きな動きがあった。動いたのは二番手のセイウンスカイだ。前にいたキングヘイローを抜き去り、一気にトップに躍り出る。
(っ!.......やっぱり来たね、スペちゃん!)
それとほぼ同時に、スペシャルウィークも一気に仕掛ける。前を走るウマ娘達をごぼう抜きした彼女は、あっという間に二番手の位置まで上がってくる。
ラスト400メートル。レースはいよいよ最後の坂へと勝負の場を移す。
(スペちゃんは坂が苦手なはず.......っ!?)
どうやらセイウンスカイは前回と同じくこの坂でスペシャルウィークを突き放す作戦らしい。確かに皐月賞までのスペシャルウィークならここで一気にペースダウンしていただろう。だが、今の彼女は違う。
「坂だ!」
「出た、ピッチ走法!」
タイキとの模擬レース、そしてここ数日の階段トレーニングでものにしたピッチ走法。それを使って一気に坂を駆け上がる。
「(脚はまだ残ってる......!坂は.......)根性!!」
更に加速するスペシャルウィーク。やがてセイウンスカイの隣に並ぶーーーーーことなくそのまま追い越して先頭に躍り出る。
「よしっ!っ.......!?」
(このまま勝たせてくれるわけないよな.......)
喜んだのも束の間、猛烈な勢いで差してくる一つの影。ターフを舞う怪鳥、エルコンドルパサーがここで勝負を仕掛けてくる。
「やっぱり来たか.......」
「めちゃくちゃ速い〜!」
言葉の如くターフを舞うような圧倒的な走り。その勢いのまま残り200メートル程でスペシャルウィークを抜き去り、先頭を奪うエルコンドルパサー。
(ここまでか........?いや.........)
おそらくこれがスペシャルウィークの限界の走り。ならばここから勝つにはまさに『限界を超える』必要がある。そして、スペシャルウィークなら........
「スペちゃーん!!」
その時、スペシャルウィークの目がこちらを見た気がした。それと同時に、スズカが大声で彼女の名前を叫ぶ。あの寡黙なスズカがここまで大きな声を出すとは........
(行けっ......!スペシャルウィーク.......!)
スズカに続いて他のメンバーも声援を送る中、俺も気づけば心の中で彼女にエールを送っていた。
まるでスピカの声援に押されるように、スペシャルウィークの速度が上がる。ぐんぐん前方のエルコンドルパサーとの距離を縮めていき、やがてその横に並び立つ。
ゴールまでは残り僅か。並び走るは二つの風。果たして先にゴールを走り抜けるのはどちらか。誰もが手に汗を握る中、二つの影がゴールに近づきーーーーー同時に駆け抜けた。
「うわっ!?」
ゴールを通り過ぎた瞬間つんのめって倒れ込むスペシャルウィーク。エルコンドルパサーも満身創痍という様子で両手と両膝を地につけて肩で息をしている。
観客の目には二人が完全に同時にゴールしたようにしか見えない。正確な結果を確認しようと、誰もが電光掲示板に映し出される着順を息を呑んで見守る。そこに映し出された結果はーーーーー
『写真判定』
どうやら本当に僅差だったらしく、勝者の判断は写真による判定に持ち越された。
「スペちゃん!」
観客席の柵を飛び越えてターフ内へと入り、スペシャルウィークの下へ駆け寄るスズカ。死力を尽くしたせいか、倒れそうになるスペシャルウィークをスズカが抱き留める。
「スズカさん........私、限界超えられました.........」
「.........ええ」
「私にとってのにんじんは、スピカの皆さんでした........」
互いに笑みを浮かべ合うスズカとスペシャルウィーク。それに釣られるように頬を綻ばせていると、一際大きな歓声が包み込む。促されるように電光掲示板に向けた目に映ったのは、『同着』という二文字。
「「同着!?」」
「マジかよ.........」
勝者は二人。今年のダービーを制したのはスペシャルウィークとエルコンドルパサー、その両名。なんとも稀有な結果だが、あの死闘を見ればやけに納得してしまう。
途端に東京競馬場を包み込む本日一番の大歓声。勝者を称える賛辞の雨が、ターフに立つ両者に降り注ぐ。
同着とはいえ、スペシャルウィークがダービーで勝利を飾ったのは事実。これで彼女の夢である、日本一のウマ娘にまた一歩近づくことができただろう。
「やるわね、スペシャルウィーク」
いつの間にか握りしめていた拳を安堵と共に解いた俺の背後から聞こえる声。振り返ればそこには勝ち気な笑みを浮かべた東条先輩の姿。
「.........次はぶっちぎりで勝つわよ」
「.........望むところだ」
向き合うようにして熱く火花を散らす先輩方。完全に空気になってしまった俺は、それを誤魔化すようにターフ上でエルコンドルパサーと抱き合うスペシャルウィークを見つめ、心の中で拍手を送るのだった。
「ーーーーーそれじゃあいくよ?スペちゃんのダービー勝利を祝って.........」
『カンパーイ!!』
ダービーが終わって学園に帰ってきたかと思えば、その後すぐに部室で行われる祝勝会。にんじんジュース片手に音頭をとる彼女達を見て、元気だなあなんておっさん臭い感想を浮かべてしまう。
「さあ、今日の主役はスペだ!好きなもん食べてくれていいぞ!」
「それは嬉しいんですけど.........」
「ちょっとトレーナー!せっかくダイエットも成功したのにそんなことしたらリバウンドまっしぐらじゃないの!!」
部室の机の上に並んでいるのは多くの料理。それを見て遠慮がちになるスペシャルウィークと、先輩に文句を言うダイワスカーレット。前々から感じてたけど、先輩トレーナーとしての威厳無さすぎない?
「ああ、それは心配ないぞ。この料理は全部八幡が作ってくれたヘルシーメニューばっかだからな」
「「「「「「.........作った..........?」」」」」」
先輩がそう言った途端、全員の視線がこちらに向く。先輩もわざわざ言わんで良いのに。
「じ、じゃあこのにんじんハンバーグも.........」
「それは豆腐で作ったなんちゃってにんじんハンバーグだな。カロリーはだいぶ抑えてあるぞ」
キラキラとした目でなんちゃってにんじんハンバーグを凝視するスペシャルウィーク。いや、涎拭け。滝みたいになってんぞ。
「あの.........ちなみにスイーツなんかは作れませんの?」
俺の耳元で深刻そうな声音でそう呟くのはメジロマックイーン。というか、しれっと参加してるよね君。
祝勝会は滞りなく進み、テーブルの上にあった料理もそのほとんどが平らげられている。半分以上はスペシャルウィークが食べてたけどね。幾らヘルシー志向とはいえ、食べすぎて良いってわけではないからね?
「比企谷さん!本当に色々ありがとうございました!これからもご指導よろしくお願いします!」
「.........今日勝てたのはスペシャルウィーク自身の力だ。俺は何もしてねえよ」
自力で言えば間違いなくエルコンドルパサーの方が上だった。文字通り彼女自身が自らの限界を超えたおかげで勝てたレースだったのだから、俺がお礼を言われるのはお門違いってもんだ。指導らしい指導もしてないしな。
そんなことを考えていると、何か言いたそうにモジモジしているスペシャルウィークに気づく。言っとくけどおかわりはないからな?
「あの、比企谷さん。私のことは“スペ”と呼んでくれませんか?」
「は?なんで?」
「親しい方には皆そう呼ばれているので、比企谷さんにもそう呼んで欲しいんです!」
鼻息を荒くして尻尾をブンブン振り回しながら理由を話すスペシャルウィーク。しかし、その理論だと俺は当てはまらないのでは?俺と君そこまで親しくないよね?
「良い提案だな。せっかくだし、チームメンバーは全員略称で呼んだらどうだ?八幡もスピカの一員なんだしよ」
「いいねそれ!賛成賛成!」
そんなスペシャルウィークに便乗してそんな提案をしてくる先輩。確かにフルネームで呼ぶのは長くて面倒くさいからな。でもなあ.........
「いや、それはぼっちには些かハードルが高いというか.........」
「えー、いいじゃん別に。スズカのことは“スズカ”って呼んでるんだしさ」
「スズカは昔からの知り合いだから呼べるんだよ」
会ったばかりの時は普通に“サイレンススズカ”って呼んでたしな。というか、なんでスズカさんはそんな誇らしげというか、嬉しそうな顔してるわけ?
「ダメですか.........?」
「うぐっ..........」
涙目で上目遣いしながら懇願してくるスペシャルウィーク。歳下美少女の上目遣いは俺の兄心と良心にクリティカルヒット。更に無数に刺さる視線が非常にいたたまれない。
「はぁ..........わかったよ。改めてよろしくな、“スペ”」
「っ!はいっ!よろしくお願いします、“八幡”さん!」
俺に名前を呼ばれたスペシャルウィークーーーーー改めスペは、まるでレースに勝った時のような眩しい笑みを浮かべる。ちなみに、この後押し切られて全員略称で呼ぶことになったとさ。