秋を知らせる涼しい風が生温く感じるほど沸き立つ東京競馬場。後ろを振り向けば見渡す限りの人の波。あの中に入ったらと考えただけでゾッとする。この空間は相変わらずぼっちには天敵すぎる。
遂にやってきた秋の天皇賞。スズカにとってアメリカ行きの前哨戦であり、次のジャパンカップにも繋がる大事なレース。俺達スピカは勿論のこと、多くの人の期待が一番人気という結果に表れている。
「あっ、スズカさーん!!」
今か今かという観衆の期待に応えるように、一番最後にその姿をターフに見せるスズカ。彼女を呼ぶスペの声に気づいたのか、小走りで最前列の俺達に近寄ってくる。
「スズカさん!これどうぞ!」
「えっ、これって.........日本ダービーの.........」
スペがスズカに差し出したのは、日本ダービーの時スペが持っていた四葉のクローバーがラミネートされたお守り。所謂ゲン担ぎってやつか。
「皆のおかげでダービーも勝てました。だからスズカさんも!」
「.........ええ、ありがとう。必ず勝ってくるわ」
「スズカ」
スペからお守りを受け取ったスズカは、大事そうにそれをしまい込む。お礼を言うスズカに先輩が片手を差し出す。差し出された手のひらをスズカが自らの手のひらで軽く叩き、パンという小気味いい音が鳴る。
「ほれ、八幡も」
「........嫌ですよ、柄じゃない」
「何言ってんのよ。いいからやりなさい」
スカーレットの一声で結局俺もやる羽目に。最近俺の扱いが先輩に似てきてる気がする。そのうち完全に尻に敷かれてしまいそうだ。何それ怖い。
「.........頑張れよ」
「..........はい、楽しんできます」
精一杯絞り出した激励の言葉に笑顔を返したスズカは、最後にそう言い残してゲートへと去っていく。その顔に大舞台に立つ緊張は感じられない。ただ純粋に、目の前のレースを楽しんでいるように見える。それこそが今のスズカの強さなのかもしれない。
続々とゲートインするウマ娘達。最後の一人がゲートに入り、一瞬遅れてゲートが開き、全員が一斉にスタートする。
スタートは文句なし。持ち前の逃げ足でズンズン前へと躍り出て、あっという間にレースの主導権を握る。二番手にはエルコンドルパサーが付いている。どうやらスズカについて行くつもりらしい。が.........
「はっや..........」
スズカの圧倒的な速さは他の追随を許さない。追い縋るエルコンドルパサーは差を詰めれず、それどころか差は開くばかり。あっという間に1000メートル地点を通過する。
『1000メートルの通過タイムは57秒4!!』
「57秒4!?」
「マジかよ.........」
アナウンスから聞こえる信じ難いタイムに先輩同様驚きを露わにする。まさに異次元の逃げ足。風のようにターフを駆けるスズカは、更にそのスピードを上げる。
このままスズカが先頭をキープして勝利。ここに居る誰もがそう確信していた、その時だったーーーーー
「っ!?」
大欅を抜けたスズカの走りが突然崩れる。フラフラと今にも倒れそうな格好になり、目に見えてそのスピードが落ちる。二番手を走っていたエルコンドルパサーを初め、次々と後続が彼女を抜き去っていく。
最悪の思考が頭の中を埋め尽くす。それが早いか否か、気づけば俺はターフ内に飛び込み、スズカに向かってコースを逆走していた。
「八幡!?」
後ろから聞こえる先輩の声がまるで水の中に居るように遠い。耳朶を打つ心音が煩わしい。足が鉛のように重い。ちっとも縮まらないスズカとの距離に、焦りを通り越して怒りすら沸いてくる。
必死に足を動かす俺の横を、ものすごい勢いで何かが通り過ぎる。見れば血相を変えたスペがスズカに向かって全力疾走で近づいていた。段々と遠くなる背中に、この時ばかりはウマ娘の脚を羨ましく思った。
「左だ!左脚を地面につけるな!」
走り去るスペの背中にそう叫ぶ。見た感じ故障したのは左脚。この状態で患部に衝撃を与えれば、それこそ本当に取り返しのつかないことになる。
まるで夢遊病のようにフラフラと歩くスズカ。そのまま左側に倒れ込みそうになる彼女を、間一髪で追いついたスペが支える。
「..........スズカさん、大丈夫です。八幡さんも居ます。トレーナーさんも居ます。だからっ..........!」
「スズカ!しっかりしろ、スズカ!」
スペと途中から追いついた先輩が、必死にスズカに呼びかける。そんな中、俺はただ他人事のようにその様子を呆然と眺めるしかなかった。
サイレンススズカが次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。
「骨折..........」
「........ああ」
ベッドの傍らに座る沖野から告げられた診察結果を噛み締めるように繰り返す。自らの左脚を包む仰々しいギプスに一度目を向けた彼女は、縋るように不安そうな瞳を沖野に向ける。
「.........骨折ということは治りますよね?」
「ああ、治りはする」
「また、走れますよね?」
「ああ」
「レースに出て、全力で走れるようになりますか.........?」
サイレンススズカの最後の質問に、苦い顔をして押し黙る沖野。
「..........そのことだが、今までのように100パーセントで走れるかどうか..........」
「走れますっ!!」
重々しい事実を告げようとした沖野の言葉を、突然隣に居たスペシャルウィークの叫び声が遮る。
「スズカさんは絶対レースに出て、全力で走れるようになります。だってスズカさん、約束してくれたじゃないですか」
「スズカさんがレースで100パーセント..........いや、120パーセントの力で走れるように、私これから精一杯協力します!」
そう言い切ったスペシャルウィークの瞳には、強い決意と覚悟が宿っていた。
「.........ありがとう、スペちゃん」
そこからは隠れて聞いていたスピカのメンバーも合わさっていつもの大騒ぎ。普段と変わらない様子に笑みを零したサイレンススズカは、ふとここに居るべき人が一人いないことに気づく。
「あの、トレーナーさん。八幡さんはどうされたんですか?」
その質問に再び苦い顔をした沖野は、一度溜息を吐いてから言葉を切り出す。
「........八幡は、今回のお前の故障は自分のせいだと思っているらしい」
「えっ.........」
「ここにあいつが居ないのは、『そんな自分が顔を合わせる資格なんてない』からだそうだ」
「どうして.........八幡さんは何も悪くなんて..........」
「お前も知ってるだろ。あいつが抱え込む必要もないもんを抱え込んじまう奴だってこと。何せあんなことがあれば、なあ..........」
「八幡さん..........」
サイレンススズカの寂しそうな呟きは、騒ぐスピカメンバーの声にかき消され、質素な病室内へと溶けるように消えていった。