響く警報は、暫くして静まった。
しかしダニーさんの顔は相変わらず真っ青なまま、その表情からしてとんでもないことが起こっているのは確かだろう。
「何でオーケストラが……。細心の注意をしていたはず。」
ダニーさんがブツブツと何かを言っている。青い顔を見ているとこちらも不安になって。
私は思わず彼の肩を強く掴んだ。「あの!」と、少し強く彼に問いかける。
「あの!一体何が起こってるんですか!!」
「申し訳ありません。少し待ってください。管理人!すみません、今タブレットが手元にないので音声での指示をお願いします!!」
私の声を無視して、ダニーさんは耳に付けた通信機で誰かと話しはじめる。管理人?誰?私のこと放置?
えっ、ねぇ私帰っていい?
帰りたい。帰っていいよね?
こういう時って普通、来客の安全を一番に考えるものじゃない?なら私帰っていいよね?ねぇ?
振り返って、来た道を見る。このまま真っ直ぐ行って、エレベーターに乗って上に行けば地上だ。
よし、帰ろう。と決意したはいいものの。
「…………。」
怖い。とてつもなく怖い。
あんな警報が鳴って、しかも状況も知らされてなくて。そんな中一人で帰るなんて怖くて私には出来ない。
〝脱走〟。先程のアナウンスで確かにそう言っていた。他にも先程の鳥のような生物がいて、逃げ出したということだろうか。つまり今この間にも襲われる危険があると。
考え出すと止まらない恐怖。不安を煽るそれに私の体は動かなくなり、大人しくダニーさんが動くのを待つことにする。
「はい。はい。……え、急に?私達が部屋の前を通った途端に?でも特にオーケストラを刺激することは何も……。」
────早く来てください。
「……ん?」
「大人しい?あいつが?……はい。成程……?洗脳状態にはあるが、いつもよりも弱い?確かに……、俺もなんで無事なんだ……?」
────私は貴女を、待っている。
「何……?」
「リナリアが、こっちに?……はい。正常状態ではないんですね。わかりました。鎮圧を試みます。」
さっきからなにか聞こえる。いや、これは聞こえているというか。
脳に直接、というセリフは漫画やアニメで聞いたことがある。それは正しくこういうことを言うのではないだろうか。
私の考えている所に、別の思考が、誰かの言葉が入ってくるような。確かに声をかけられているのに、それは音になっていないのだ。
──ステージは用意しました。
──奏者も揃っている。
「あの、ダニーさん……。」
「すみません、少し取り込み中なので待ってください。とりあえず今は俺の後ろに、」
「いや、何か……。」
コツン、コツン。と廊下に音が響く。私達のではない、足音。
それを聞いて私達は振り返る。そこにはスーツ姿の、ブロンドの女性が立っていた。
けれどその人は様子がおかしい。目は虚ろで、足取りもフラフラと不安定。ダニーさんはちっ、と舌打ちをする。
「リナリア、」
「お知り合いですか……?」
女性の名前であろう言葉をダニーさんは言うが、相手からの反応はない。そこまで小さな声ではなかったけれど、今の彼女には届いていないようだった。
女性は何も言わず、ただ私達の前で足を止める。しかし身体は小さく揺れていて、しっかりと立てていないようだった。
女性の腕が、ゆっくりとした動作で上げられる。何だ。何かは分からないが、その腕は私達の方に向かって何かをしようとしている。
「下がってください。」
「ダニーさん何を、」
ダニーさんが腰から金属の棒を取り出す。警棒ってやつだ。本物は初めて見た。刑事ドラマで知っていたそれは、私の知識よりもずっと重そうでしっかりした造りをしている。
ダニーさんは目の前の女性を睨む。狙いを定めて。
えっ、まさか。
「待って!駄目!!」
「離してください。」
ダニーさんの次の行動が読めて、私は慌てて彼の腕を掴んで止める。
ダニーさんは鬱陶しそうに顔をしかめるが、何もされてないのに暴力を振るうなど。しかも相手は女性なのに。そんなの見逃せない。
それに。
「本当に、待ってください!た、多分大丈夫ですから!」
そう、それに。多分大丈夫だと思うのだ。
根拠の無い言葉にダニーさんは眉間のシワを深くする。その圧が怖くて少し怯んでしまうが、引く訳にはいかない。
私は女性に向き直る。この人がどういう状況かはわからない。けれど何となく、彼女が何をしたいのかわかる気がする。
「……ついて行けば、いいんですよね?」
私の問いに女性は頷いた。動きが不自然すぎて首を動かしただけに見えるけれど、確かに頷いたのだと思った。
やっぱりだ。予想は当たった。ダニーさんの私を見る目が、驚きに変わっている。
「多分……迎えに来たんだと思います。」
「迎えって……、」
「ダニーさん、行きましょう。」
彼女は迎えに来たのだ。私を。だからここに来た。
私たちに向けられ、上げた彼女の腕。それは私の手を掴む。
しかしそれでは歩きにくい。「ついて行くから、」とう言えばあっさりと手は離された。
女性は背中を向けて歩き出す。ついて行こうと踏み出すが、今度はダニーさんに腕を捕まれ止められた。
「待ってください。このまま動くのは危険です。今上に指示を仰ぎます。」
そう言ってダニーさんはまた通信機で話し始める。
動かない私達に気がついた女性もまた、足を止めた。光のない瞳で見つめられるのはなかなか気まずく、私としてはさっさとついて行きたい。
それは私の希望と言うよりも、駄目だと言われてもついて行くしかないと思っているからだ。
本能か、直感か。わからないけれど私の中の何かが、〝そうしなければいけない〟と警告している。
まず、会わないと。頭に話しかける誰かと、話さないと。
そうしないと。何かとんでもないことが起こるような気がして。
────なんで来てくれないのですか?
「っ、ちょ、ちょっと待って。」
まずい、と思った。頭に流れてくる悲しみの感情。
それと比例して、施設の空気が揺れる。その揺れは予兆で。次の瞬間とんでもない高音が廊下中に響いた。
────,#=189@!#*[#!!
「っ、ぁッ……!!やめっ……、」
「うっ……ぐっ……!?」
形になっていない、言葉が溢れてきて。
耳を劈くこの音は、誰かの悲鳴のような。
痛い、痛い……っ!!頭が割れる……っ!!
ああ、悲しんでいる。私を呼んでいる誰かが。
絶えず溢れる誰かの悲しみは、私の頭を埋めつくして。
痛みの中で感じる苦しみ。息が上手くできなくて、咳き込んでしまう。辛い。悲しい。寂しい。助けて。痛い。
「ごめん……っ、ごめんなさい。」
────/3j.or!?
────@bk (;8#=[9(28;!!
「すぐに行くから、だから、待ってて。信じて……。」
────……本当に?
「うん……。本当。悲しませて、ごめんね。すぐに行く……。」
────待ってますから、私は、待ってる。
ふっ、と。
音がなり止む。そして頭の声も途切れる。
しかし残る余韻に目眩がして。倒れそうになるもなんとかバランスを保った。
「っ……どうなってるんだ……。」
ダニーさんは信じられないような顔をしている。困惑しているようだった。
当たり前か。私も戸惑っている。一体何が起きているのか。
「……ダニーさん。私行きます。」
「行くって……」
それでも。私は早く行かなければならない。
「わからないけど。あの女性について行けばいいんだと思います。……呼ばれてるんです。誰かに。」
「呼ばれてる……!?と、とりあえず指示を待ちましょう。今動くのは危険です!!」
「だけど、早く行かないと。」
「行かないと、なにか大変なことが起きる気がするんです。」
「……っ、」
私の言葉にダニーさんは何も言えないみたいだった。
ダニーさんは私よりも状況を把握している。彼が黙ったということは、私の言ってることはあながち的外れでもないのだろう。
頭の声。誰だかはわからないけれど。恐らく今の状況を作り出している原因なのだと思う。
だから私は行かなければならない。行かないと、きっと帰ることも出来ないのだと思う。
……帰してもらえないだろう。声の主にも、この会社にも。
けれど不思議と恐怖は引いていた。何故か大丈夫だと、よく分からない安心感があった。
私を呼ぶ誰かの言葉が、とても優しかったからかもしれない。
ピピッ、ピピッ、カチッ、カチッ。
施設を映す大画面モニターの光が、男と女の顔を照らしている。
「管理人、あの女性気になります。少し様子を見てみませんか?」
「馬鹿言え!!このまま静かなオーケストラを放置出来るわけないだろ!?」
カチカチッ、ピピッ、ピピッ、ブゥンッ、
「まぁ……確かに、そうですね。相手が悪すぎます。直ちに対処を。」
「だから今やってる……っ!!くっそ、正常な職員は他に居ないのか!!」
「正しくは正常で強く、他アブノーマリティの管理を現在していない職員ですね?……はい、いません。」
「だぁぁぁぁぁっ!!」
「管理人、早くしないと脳みそ飛んで全員死にますが?」
「わかってるってんだよ!!」
カチカチカチカチッ、ピピッ、
女性の後ろをダニーさんと着いて歩く。コツン、コツン。響く三人分の靴音。
流れる沈黙は重い。頭に響いていた声も今は聞こえなくて、本当に静かだった。
「あの、ひとつ伺ってもいいですか。」
「なんですか?」
それを破ったのは隣を歩くダニーさん。彼は歩きながら私の方を見て話しかけてきた。
「どうしてリナリア……前を歩く女性が私達に害を与えないと思ったのですか。それに、呼ばれたって。」
一体誰に。と、聞かれても。私にもよく分かっていない。それこそわかるために今ついて行っているのだが。
しかしそう聞かれた事でわかったことがある。やはりあの声、私にしか聞こえていないようだ。ダニーさんの様子を見てれば予想がついたけれど。
「頭に声が聞こえて。」
「声……、」
「なんか、脳に直接話しかけられたみたいな……。私を待ってるって。早く来て欲しいって。敵意はなさそうだったし、なんとなく大丈夫かなって……。」
「話しかけられた……。アブノーマリティからの交信……?」
アブノーマリティ。
さっきの警報時も聞こえた単語。
「……ダニーさんは、今何が起こってるかわかってるんですか?」
「……いえ、わからないですよ。」
「……。」
嘘だ。少なくとも私よりもわかっていることはあるだろう。
「その声ってどんな感じでしたか?」
「……わかりません。言葉が頭に入ってくる感じだから。」
「では、何を言われたんですか。」
「だから待ってるって。それだけだけです。」
「他に何も言ってませんでしたか?例えば……音楽、とか、ステージ、とか。」
〝 ────ステージは用意しました。〟
それは確かに、聞こえた。
「……やっぱり、ダニーさんはわかってるんですね。誰が私を呼んでるのか。」
「え。……いや、知りませんよ。」
その返しに思わず笑ってしまった。ここまで言われても知らないと嘘をつくなんて。私の事、どれだけ馬鹿だと思ってるのか。
「酷いですね。ここまできても嘘ですか。」
「嘘なんかじゃ、」
「脅すみたいに私を連れてきて、巻き込んでおいて。私は聞かれた事、ちゃんと答えてます。でも貴方は知ってるのに何も答えない。随分自分勝手ですね。」
「それは……。…………申し訳、ありません。」
やっと認めた。やはり彼はわかっているのだ。私を呼んでいる者の正体が。
それなのに、教えてくれない。さっきから私には聞いてくるのに、ダニーさんは何も言ってくれない。
企業秘密というのがあるとして。そちらの勝手で無理矢理巻き込んだ私に状況説明もしないなんて流石に酷い。
イライラして強く言うと、ダニーさんは目を逸らした。そして誤魔化すようにまた耳につけた通信機で誰かと話しはじめる。何その態度。
「……最低、」
────怒っているのですか?
「え、」
────何かされたのですか?可哀想に。
「えっ、えっ?」
────その隣の人間ですか。
────許さない。
「……殺す。」
そう声を出したのは、前を歩く女性だった。
ガンッ!!
「ひっ?!」
「っ、くそっ、なんだっ……!?」
一瞬だった。
前を歩いていたはずの女性が、一瞬で目の前に来ていた。
そして彼女も持っていたらしい警棒を、思い切りダニーさんに振り下ろす。
鈍い音。ダニーさんの声。咄嗟のことで反応が遅れた彼は、頭を庇ったことで右腕を殴られてしまった。
「下がっててください!!ちっ、リナリア、許せよ!!」
「ダニーさんっ……!」
ダニーさんに体を押されて、私は後ろに尻もちをついてしまった。
ガチンッ、と金属のぶつかる音。見上げればダニーさんが女性と交戦している。
女性の顔は先程と違い険しく歪んでいた。その瞳に光がないのは相変わらずだけれど、確かな殺意をそこに感じて。
女性はダニーさんを、殺そうとしている。
ちがう。多分女性じゃなくて、私を呼んでいる誰かが彼女を操っているんだ。
目の前の暴力に、私の心臓は一気に冷えて。
ガチン、ガチンとぶつかる音に耐えられず、思わず叫んでしまった。
「やめて!!!」
そんなこと言っても、止まるわけが無い。
でも戦う術を持たない私はそんなことしか言えない。
だから必死に叫ぶ。もう一度「やめて!!」と。どうかやめてほしい。お願いだから。お願いだから……っ!
「ぇ……っ、」
すると私の叫びが届いたように、女性の動きが本当に止まった。
そのすきを付いてダニーさんは女性を床に組み敷く。背中に体重をかけて押さえつけて、動けないようにがっちりホールド。
痛そうなのに、女性は表情ひとつ変えていなくて。その異常さにより恐怖を感じた。
────どうして止めるのですか?
「ど、どうしてって……、」
────その男に怒っているのでしょう?殺してしまいましょう。
そう言葉が頭に流れてきて、ひゅっと息を呑んだ。
敵意を感じないから大丈夫だと思っていた。しかしそれは私に対してだけだったのだ。
頭に話しかける誰かは、平気でダニーさんを殺そうとしている。女性の体を使って。下手したら女性だって傷つくのに。
そしてそうした理由は、〝私がダニーさんに怒ったから〟。
「……っ、」
頬を冷や汗が垂れる。私の感情で、ダニーさんは怪我をした。そして今、私がなんて答えるかで状況が変わる。
何を言えばいいのだろう。どうすれば止めてくれるのだろう。誰かを傷つけてなんて欲しくない。
「……暴力は、恐い、から。」
震える声でやっと紡いだ言葉はそんな頼りないものだった。
────あぁ、怖がらせてしまいましたか。
────申し訳ございません。なら別の方法で。
「!ゆ、許したから!もう怒ってない!!」
返ってきた言葉に慌てて否定する。方法を変えれば、なんて捉え方をされては止めた意味が無い。
これ以上何もしないでほしい。確かに怒ってはいたけど、だから殺していいなんて考えをするなんてとんでもない事だ。
私の言葉に相手は黙り、何かを考えているような間ができる。
その間にも私は耐えられなくて、続けて口を開いた。
「……もういいから、早く貴方に会いたい。」
───!
ロマンティックな言い方になってしまったが、事実だ。
さっさと会って話がしたかった。そしてどうか今起こっている何かを止めて欲しかった。
────嬉しいです。私も早くお会いしたい。
相手は私の言葉をいい風に受け取ったらしく、少し嬉しそうな声で返事が返ってくる。
私の頭に声はかけられても、何を考えているかまではわからないようだ。
それは好都合。いい様に勘違いしてくれるならそれでいい。まぁわかるのだとしたら、そもそもダニーさんを襲わなかったかもしれないけれど。
────貴方はお優しいのですね。
────わかりました。その人間を許しましょう。
「あ、ありがとう。」
────さぁ、早くこちらに。待っていますから。
頭に流れる声は、先程よりも浮かれてるような感覚があって。
どうやら落ち着いてくれたらしい相手に、私はほっと息をついたのだった。
※※※
そして、ひたすらに廊下を歩いて。
もうダニーさんと私の間に会話は一切なかった。お互いに気まずいのだろう。黙ったまま。
「ぁ、」
多分、ついた。
ここだ。この先にいる。
そう思ったのは、大きな扉の前。先程の鳥の部屋の扉も重く頑丈そうだったが、これはそれよりもずっと大きい扉だった。
女性が扉に着いている赤いボタンを押すと、ピピッと音がして開く。どうやらボタンで開く自動ドアのようだ。
どくん、どくん。心臓が煩い。
一体、何が私を呼んでいたのか。
口の中に溜まった唾液を、ごくんと飲み込む。私は勇気をだして先に進む。
扉の先は、とても広いフロアだった。学校の体育館を思わせる広さだ。もちろん見た目は全然違うけれど。
その中心に、何かがいた。それは大きくとても目立つ存在。
その何かを、人が囲っている。崇めるように、讃えるように。うっとりと目を蕩けさせて何かを見上げている。
その、何かの正体は。
「マネ、キン……?」