※流血表現あり
大好きな人と手を繋いでいたはずだった。
突然、強い力で引っ張られて離れていくその姿に。確かに手を伸ばしたはずなのに呆気なく引き離されてしまった。
嫌だ!と叫ぼうとしたのに声は出なくて、涙が溢れてくる。
暗くて、冷たい場所に引き戻される感覚があった。苦しいことだらけの何一つ上手くいかないあの場所に連れ戻されるのだ。
向こう側で誰かがないている。さめざめと、慈悲深くこの不幸を嘆いてくれている。
それは美しい鳥の姿をした神様だった。澄み切った青空のようなその目には、自分の体を掴み好き勝手にこの夢から引き戻す悪魔の姿が映っている。
あぁ知っている。知っている。この女は見たことがある。
手を、伸ばして。
その首に巻き付けて。あぁ、あぁ。
死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!
このくそ女が!!死ね!死ね!死ね!!
「死なないで…………。」
目眩がする。ダニーは吐きそうになる。不安定なコーヒーカップ・アトラクションに無理矢理乗せられているような感覚。体が支えられない。辛い。
座った体制を保っていたが、ダニーはやはり頭を床に伏せてしまう。倒れたはずなのに、床に顔がついているのに、視界は揺れるのだからおかしなものだ。
ダニーの腕をスグルが掴んで、動かないように足でおさえつける。そのまま注射器を取り出して、ダニーの血管に針を刺した。
「ぅ、」
何かが入ってくる感覚。どくどくと鼓動が早くなる。早く、早く効け、とダニーはスグルの注射器を睨む。早く、早くと。蹲る。苦しい、息ができない。頭が痛い。早く効け、早く効け……!
「ぅ……っ、あ……ぁぁ……、」
すぅ……と、引いていく痛みに、ゆっくりと痛みから開放される体。
ダニーは数度の瞬きをした。ぱち、ぱちん。よし。焦点がやっと合って、揺れる感覚も無くなる。耳だけはこもって良く聞こえないけれど、これが目的なのだから仕方がない。
ダニーの顔を心配そうに覗くスグルに、「大丈夫だ、」とダニーは言ったつもりだ。自分の声も上手く聞こえないので、ちゃんと言えてるかよくわからない。
スグルはトントン、と自分の耳を叩く。そしてダニーに今度は注射器と、色のついた薬のアンプルを渡す。
ダニーは頷いて、注射器に薬をセットする。その間にスグルは同じように、自分の鼓膜を自ら破った。倒れるスグルをみて、今度はダニーがスグルに注射を打つ。針の入っていく体。無くなっていく薬。青なのか、緑なのか。なんとも言えない鮮やかな色は人工的につけていないのならなんの色なのだろうか。
この薬は、〝エンケファリン〟と言うらしい。
らしい、と言うのは。実際ここで働いている誰もがその状態をよく分かっていないからである。当たり前に調べても出てこない。もしも何か知っている人がいるのならば金を払うから教えて欲しいくらいだ。
この薬は、アブノーマリティが脱走した際、もしくはそれと同じくらいに危険と判断された場合、使用を許可される薬品である。
各チームの本部にストックされており、申請をすれば持ち出しも可能。しかしほとんど申請の許可はおりない。
ただ、緊急時には誰しもが好きなだけ持って行けるようになる。
この〝エンケファリン〟は、一言で言うと〝やべー薬〟。いや、ダニーとスグルが勝手に言っているだけだが、認識は恐らく皆同じだ。
この薬を打つと、何故か体も頭も軽くなる。
痛みは無くなるのに感覚はある。麻酔をしたが、痛みだけ引いて動かせる、と言えばわかるだろうか。いやわからないか。ダニーもわからない。
こんな職場だ。パニック状態になる者は多いのだが、この薬を投与すると途端に冷静になる。更には怪我をしている者に投与すると、普段以上の力を出したりもする。
片腕なくなってもアブノーマリティに突っ込んでいく勇気が出ると言ったら、誰だって認識は〝やべー薬〟だ。
その薬を打つと、スグルも何事も無かったかのように立ち上がる。うーんと腕を天井に伸ばして体を伸ばした。二人は顔を見合わせて、しっかりと頷く。
〝逃げよう。〟と。
鞄の中のタブレットが震えているのは二人ともわかっていたが、全く静かなオーケストラと戦うつもりはなかった。誰がなんと言おうと、それは〝懸命〟な判断である。
二人は走り出す。目指すは上、地上。外。今どこにオーケストラがいるかダニーはわからないが、とりあえず外に出れば命は助かると思っていた。
ドタドタと走るのは二人だけではない。途中で同じように地上に向かって走るエージェントに合流する。鼓膜が破れてるかは知らないが、皆考えることは同じなのだ。
〝逃げよう。〟
〝逃げないと死ぬ。〟
〝静かなオーケストラに殺される〟
ただただ真っ直ぐとみんな地上に向かう。……はず、だったのだが。途中でドンッと、ダニーは誰かにぶつかった。
相手は吹っ飛び、ダニーも走る勢いがなくなる。ダニーは邪魔だと顔を顰めながらも文句は言わず、そのまま走る予定だった。
ぶつかったその相手が、逆方向に向かう様子を見るまでは。
「馬鹿野郎!!」
ダニーはチッ、と舌打ちをして、仕方がなくその相手の腕を掴み振り返らせると、ばしんっ!!と思いっきりその頬を叩く。相手の顔が仰け反るのを見て、念の為もう一度、ばしんっ!!と叩いてやった。
「〜〜〜〜っ!」
「正気に戻れ!!」
何やら騒ぐ相手にダニーは怒鳴ってやる。敗れた鼓膜だと上手く聞こえない。
スグルはダニーの行動に足を止めるが、他のエージェント達はまるっきり無視してそのまま走り去っていく。ダニーも早くそちらに行きたかったのに、何故か相手は地下へと進もうとする。静かなオーケストラに呼ばれているかのように。
ダニーは顔を顰める。頭がイカれてしまったのだろうと思ったのだ。だから叩いて正気に戻してやろうと思ったのに。
もう一度殴ろうとしたが、その前にスグルがダニーの腕を掴んだ。そちらを見ると、スグルは首を振る。……諦めろということか。
スグルのジェスチャーに、ダニーは男を掴む手を離してしまう。男はそれを見計らったように、早足で反対方向に去ってしまう。
「あ、」
ダニーはその背中を見て思わず手を伸ばすが、直ぐにその手を止める。
「行こう、スグル。」
スグルと一緒にまた走り出す。
走る。走る。
ダニーは、
ダニーの手には武器がある。
「…………静かな、オーケストラは。」
ダニーの手には、空のバケツがある。
静かなオーケストラは、施設内で最も凶悪とされるアブノーマリティの一体である。
正直ダニーは、言葉でしかオーケストラの恐ろしさを知らない。しかし以前脱走した時、施設はとんでもないことになったのを知っている。
ダニーはオーケストラと対峙したことはなくとも、そのせいで出来た死体の掃除はしたことがあるのだ。
休み明けで出勤した日、今日はアブノーマリティの世話はしないと言われて代わりにとモップとバケツを渡された日があった。
そしてそのバケツは数分後に、ダニーのゲロでまみれることになる。
おはようございます、と口を開けたら、誰しもが吐いた。いや、あまりのことに理解せず、固まる職員もいた。
いつも出勤しているチーム本部に、頭から何か出している人がいくつも倒れているのである。
ダニーは知らなかった、頭って、割れてもフィクション程には血が出ないのだ。一生知りたくなかった事実である。
いや、よく考えてみれば、それは、正確な、情報ではない
のかもしれない。という、のも、その割れた頭にはは、何、やら、よく、わ、からない、ぶよぶよしたし、ししししししたものがつつ詰まってつつつま詰まってた、から。それはそれはそれは脳脳脳、
ぶつり。
その時無理やり打たれたエンケファリンが、ダニーにとって初めての薬物だった。
エンケファリンは凄い。気持ち悪いし、見たくもないのに、何故か妙に頭が冷静になるのだ。一気に意識の戻るこの感覚はなんて表現していいか分からない。
ダニーは覚えている。割れた頭を栓するように詰まっていたのは、肥大した脳みそだ。死体の頭は割れているものもあれば、ボコっと膨らんでいるものもある。脳みそだけ膨れ上がったのか。いくら医療の知識が素人とはいえこれはただ事ではないとダニーもわかった。
「……ぐっちゃぐちゃ。」
それ以外になんて表現すればいいのだろうか。わからない。わからないのだ。
死体を持って、回収班に回っている他の職員に渡す。それを淡々と繰り返す。床が見えてくれば、ゲロのバケツを1度綺麗にして、水を入れて、モップで拭いていく。床の汚れと血が混ざって、水は直ぐに茶黒くなっていく。プカプカと浮いているホコリと塵と髪の毛と。
こんな状況なのに、誰も何も言わなかった。そのせいでこの空間はずっと静かだった。恐らく皆何も言えなかったのだ。冷静な頭だからこそわかったから。「自分もこうなるかもしれない」なんてことが、他人事のように、しかしはっきりとした知識としてインプットされていく。
ダニーは壁を見る。飛び散った血は花火のような模様を描いている。誰かが生きて、怪我をして、死んだ証だ。
静かなオーケストラは、何をしたのだろう。ただ音楽が聞こえたら逃げないと行けないことしか、ダニーは知らない。知っている人はみんな死んでしまうから、誰も知らない。
どうしてこんな風に、30人近くの人間が。
その頭だけが破裂しているのか。
それなのに皆、笑顔で死んでいるのか。
あの音楽を聞きに行かないとわからないのだ。
「逃げ、ないと。」
ガラン、とバケツが床に落ちる。
逃げないといけない。そうだ、逃げないといけないのだ。ダニーの目の前にあった、脳みそが肥大した死体は無くなっている。あれ?いま、何してるんだ俺。あれ。掃除じゃなくて、走って、俺は、俺はさ。
「大丈夫だ、ダニー。俺がいる。」
スグルは俺の肩を支える。俺を真っ直ぐみる。
あぁ、そうそう。俺、こいつのこの目、苦手だったんだよなぁって、こんな状況で思い出す。
妙に真っ直ぐみてくるし、目力強いし。つやつやした黒い目で、俺の事見て。
「ま、俺たちなら行けるだろ。」
スグルは笑う。俺はそれに、ハッ、笑いが出てしまう。
「お前死んだじゃん。」
自分を嘲笑うような、嫌な笑いだと思った。
ザザザ、ザザザ。
砂嵐が吹く。目の前が霞んでいく。
気がつくと俺は自分の部屋の天井を見ながら、倒れていた。
そこは施設ではない。廊下ではない。俺の耳はとっくに痛い。薬は切れている。
ゆっくりと、起き上がる。そろそろ行かなければならない。
走らなければならない。その通りに動けば、きっとたどり着けると何となく思ったのだ。どこに?何に。俺は。
「え…………」
スマホを確認する。その日付に俺は目を見開く。
「あ、あぁ…………、」
声が、震えた。
時間が戻っている。お前が死んだ、あの日に。
※※※
私が目を覚ましたのは、施設の医務室であった。
わけもわからず起き上がる。ぼんやりとした意識の中で、体の妙な重さと重力を感じる。横にはなっていたはずなのに、体がすごく疲れている。
何だか体が痛い。見ると、スーツのまま眠っていたようだ。さすがにジャケットは脱いでいるけれど、これじゃあ寝苦しい訳で。
どうしてこんな所に。そう考えてハッとした。
……起きられたんだ。私。
妙にはっきりと記憶が残っている。夢を見ていた。多分夢……少なくとも現実ではないお。それはきっと、アブノーマリティのせいだったのだと思う。いや、わからない。ただの夢だった可能性もまだある。でもそれにしては、でも、でも。
でもとりあえず。私は夢から、起きられたんだ。
「…………あっ!?」
誰かに状況を確認しようと辺りを見た時、隣のベットが見えた。そこにいる姿に私は慌てて飛び出し、駆け寄る。
「ダニーさん!!」
ダニーさん!?ダニーさんだ…!!
「なんで……!?ダニーさん!!大丈夫ですか!?ダニーさん……!!」
声をかけるけれど、ピッタリと閉じた目は開くことがない。
血の気が引いた。たしかに今日、ダニーさんの様子はおかしかった。急に走り出したり、誰かの名前を呼んだり。一体何があったのかと聞く前に、ダニーさんは収容室に向かって走っていって。
ダニーさんの胸に耳を当てる。どくどくと聞こえる心臓の音はすごく早い音で。確かに彼は生きている。ただ……すごく、すごく手が、冷たい。まるで死んでいるみたいに……。
「ダニーさん……っ。起きてっ……!」
何だか分からないけれど、このまま寝かせてはいけない気がした。すぐにでも起こさないといけないような、すごく嫌な予感がする。
必死にその身体を揺さぶるけれど、ダニーさんはピクリともしない。どうしよう……っ。
起きたばかりの頭はどんどん覚醒していき、嫌な予感は形を成していく。
「…………あの、夢……。」
もしも。
もしも…………ダニーさんも私と同じように夢を見ているとしたら?
そんな予感が、何故かなんの根拠もないのに過ぎって。
あの夢は、きっとすごく良くないものだったのだ。私ですらわかるほどに恐ろしい夢だった。
そうだ、思い出した。そもそも、私よりも先にダニーさんが倒れたんだ。
急に走り出したダニーさんを追いかけて、アブノーマリティの収容室に入って。それから記憶がない……。
そこからは夢の記憶に変わってしまう。頭が働くとそれは妙に鮮明に蘇ってきて。今思い出しても恐ろしくて仕方がない。鳥が……人を、食べている夢なんて。
「……あれ?」
そこで、更に思い出してしまう。
その夢、ダニーさんもいなかったっけ。いた気がする。どこに?あれ、えっと。
………………え?
ダラっと冷たい汗が流れた。私はダニーさんの胸にもう一度耳を当てる。心音は確かに聞こえるけれど、寝ているにしては早すぎる心音。
あの夢の中。私は人の乗ったお皿を抱えて走って。その中に確かダニーさんも。
「え……?あ、うそ……?」
私……私。ちゃんと、持ってたっけ。
お皿を奪ったのは覚えているけど、私、ダニーさんのこと取り返したっけ。
も、持ってきてない、気がする。
「い、いや、いやいや。まさか……そんな。」
いや。いやいや。
あんなのただの夢。関係ないよ。
関係ないよね?
今ダニーさんが起きないのは、夢とは関係ないよね……?
「……あ、あ。そ、そうだ。しゅうようしつ、いこう。」
そうだ。あのアブノーマリティのところに行けば、何かわかるかもしれない……!
「あー、まってそれはだめね。」
「えっ、」
外に出ようとした時だった。私の腕が誰かに掴まれる。
振り返ると男性がいた。いつの間に。まさか、ベットの影に隠れていたのか。
「何しても起きないのわかるでしょ?」
「あ……え……。」
「俺君の監視任されてるからさ。とりあえずここにいてくれない?ちょっと俺と、お話してよう?」
「監視?」
男性はにこりと笑って、私の腕を強い力で引く。ベットに無理やり座らされて困惑した。
よく見ると、この人見たことある。確か、アネッサさんの知り合いだ。
「えっと。名前、なんでしたっけ。」
「あれ、あったことあったけ?ごめん俺も忘れてるわ。俺はユージーンだよ。よろしくね。」
「多分、あったことあります。」
赤い靴の事件のとき。エレベーターで、アネッサさんを迎えに来た人。この会社の、古株って言ってた人だと思う。
「ユージーンさん。私、収容室に行きたくて。」
「だからダメだって。その中層の男の子さ、何やっても起きないからとりあえずここで待っててよ。」
「……何やっても、起きないんですか……?」
「そうだよ。でも、起きた職員がいるから調査中なんだよね。それで起きた職員がさ、君のこと話してたから目覚めるの待ってたわけ。」
「私の事……?起きた職員……?」
嫌な予感がした。
ユージーンさんの話は、私からしたら何が何だかわからないはずなのに。
起きた職員。私のことを言っている。それだけで、凄く嫌な予想が組み立てられていく。
「…………お皿に、乗ってたのは。」
確か、そう。エージェントの服を着ていた人達だと思う。見たことな人も、見たことある人もいた。たくさんおさらにのっていた。
「皿?」
「お皿、お皿が、夢に出てきたんです。みんながいた。お皿。私、それを持って逃げた、逃げたよね?ちゃんと逃げたよね?」
「えっ、待って落ち着いて。」
「全員!全員持ってなかった……!!落としちゃったんだ、落としてた……!!やだ、うそ、やだ、なんで拾わなかったの、嘘、嘘、嘘、嘘……!!」
「落ち着けって!」
パァン!!
「っ、」
「えっ!?は!?」
痛い。え?叩かれた、?
顔を上げる。ジンジンと頬が熱い。
混乱していた頭が、一気に思考を取り戻す。
目の前に酷く起こった様子の女性がいる。ユージーンさんは直ぐにその人を羽交い締めにして止めてくれた。
「おわー!?急に入ってきてなにやってんの!!わかってる!?この子アブノーマリティに好かれてる子だよ!?」
「離してよ!!こいつのせいなのよ全部!!」
「私の、せい。」
「あんたが私を夢から起こしたんだ!」
「え、あ。」
私はその言葉に絶望しその場に崩れ落ちた。その上から更に降ってくる声。酷い言葉がいくつも投げかけられる。死ねとすら言われた。
けれどそんなこと、今はどうでもよかった。
「あ、あぁ……っ、」
「泣けば済むと思ってんの!?私たちは起きたくなんてなかったの!!それをあんたが!!」
「ごめ、ごめんなさい……っ。」
「謝るならさっさと私を寝かしてよ!!」
「落とし、ちゃった。私、落としちゃった……っ。置いて、きちゃった……っ。」
あの夢の中。皆の乗った皿を持って私は走ったけど。
落として、しまった。何人かの人を。そして、ダニーさんのことを、あの怪物から逃げる時に置いてきてしまったのだ。
目の前の人が、何か言っている。罵声も暴言もどこか遠くに思える。
ダニーさんは今も尚、あの夢の中で鳥に食べられているのか。
「死なないで……っ、死なないで、死なないで!お願い……っ。お願い起きてダニーさん!!死なないで……!!」
「死ねよ!このクソ女!」
夢の中にダニーさんを置いてきたのは、私だ。
ダニーさんは、目覚めない。