昼過ぎになり太陽がゆっくりと西へ傾き始めた夏の空気は、湿気を含んで蒸し暑く、蝉の声が耳に嫌というほど響き、夏の暑さを倍増させる。
さんさんと照りつける太陽の光に目を細めて、大きな門をしり目に裏口から外にでると、先が見えないほどの草原が一杯に広がっているのが見えた。
ビルが一見も建っていない見晴らしの良い景色、それが一望出来る丘に立つと小鳥のさえずりや、吹き抜ける風が私を包み込みとても穏やかな気分にしてくれる。
都会ではめったに見かけることのない色鮮やかな蝶が、何匹も野に咲く花の間を楽しそうに羽ばたいていた。
少し進んだ先に、穏やかな流れの小川を見つけて顔を近づけてみれば、コンクリートで固められた工業廃水や生活排水が流れ込む都会の川では見ることの出来ない、薄緑色の魚が群をなして泳いでいる。
僕はいつの間にか、その豊かな自然に魅了されていた、まるでファンタジーの世界に来たようだったのだ。テレビの中でしか、漫画の向こう側でしか見たことがなかったのだ。
こんなに沢山の木が、草が、川が、土が、生き生きとしている光景を。
未知の世界、僕にとって未だ体験したことがない田舎は、そう感じられたのだ。
もっと近くで見ようと顔を覗き込めば、魚達はあっというまに何処かへ消えてしまったが、代わりに尾ひれが作り出した波紋が水底に眠るカエルを呼び起こす。
水の底に砂とともに隠れていたカエルは、自分の姿が予期せず現れてしまったことに対して驚き、興味が魚からカエルに移った僕の目をしっかりと見た。
「うわっ」
水の中から勢いよく飛び上がった都会のアマガエルの何倍かはある大きな茶色いカエルは、水飛沫を星屑のように飛び散らせ、近くに生える草の間に入って行ってしまった。 頬についた水の滴を拭い、草の間を見るともうどこがカエルが入った所なのか判別できなくなってしまった。
「ふふふっ」 自分でも、わかる。自然と顔が笑顔になってしまっているのが。
見るものが、知るものが、聞くものが、全てベッドの上で本を読むだけの生活を送っていた都会とは異なっている、こんな世界があったのかと、僕は感激に打ち振るえた…
カエルに水飛沫をかけられた、水が体にあたって冷たい。そんな些細な出来事でさえ、僕には嬉しかったのだ。
雨の日には、僕は外出することはもっての外だった。
水といえば飲み水かお風呂の水だったし、こういう自然にあるありふれた水というモノに触れたのは生まれて初めての経験だった。
体験する事のすべてが、新しくそして楽しく感じられた。
カエルは諦めて再びカエルがいた水底に目を向けると、そこにはまだ何か無数に動くものがいた。
それは小エビだったり小さな水中昆虫だったが、僕は逃げられることも承知で水の中に手を突き入れたのだった。
捕まえることが目的ではない、逃げられてもよかった、ただこれらの生物たちと触れ合いたかっただけだったのだ。
「いぎ、あああいだああああああああああああああああっ」
水に手を入れた瞬間だった、バチといつも感じていた電撃の痣ができる音、それも今までで最高の音が耳元で聞こえたと思った瞬間、この世の者とは思えない鋭い痛みが前進を貫いたのだ。
はしゃぎ過ぎたのがいけなかったのか、僕の身体は急な運動をしたショックからなのか、胸の辺りから激痛が走り、動けなくなってしまったのだ。
目から火花がでると思った、口もろくに動かすことが出来ないまま、僕は地面に崩れ落ちてしまう。
身体が焼け焦げたような、煙の匂いが辺りに立ちこめる。
固い都会のアスファルトとは違い、草は優しく折り重なり、さながらベッドのように僕を受け止めてくれたがそれでも死は免れないだろう。
なんせ、受け身を取ることも出来ず、頭から倒れてしまったのだから。
川の近くの草は湿り毛を帯びていて、僕の崩れ落ちた体をあっさりとさらさらと流れる澄んだ水へと導いたのだ。
助けを呼ぼうにも、口には大量の水が入り泡しか出てこなった。
身体は呼吸が出来なくなった事と先ほどの衝撃からか、薄れていく意識と共に、一ミリも動いてはくれない。
それに祖母の家から、随分と離れた場所にやってきたので、さっきの大きな僕の悲鳴もたぶん聞こえてはいないだろう。
そもそも満足に悲鳴など出せるはずもない程、私の身体は弱り切っていた。
身体の痛みは、麻痺し始めたのか徐々に引いていき、思考力が低下していく。
僕は死ぬのか、今まで何度も辛い闘病生活を送ってきた僕だったが、ベッドや手術台の上で死ぬことを覚悟していた。
それがどう間違ってか、草のベッドに抱かれ最後に川の中で魚に囲まれてて生き耐えようとしていたのだ、余りにも呆気ない最後に、自分の事とはいえ笑えてくる。
お父さん、お母さん、せっかく僕のために稼いでくれたお金…病気の手術代、病院の入院代、毎日の食事代、台無しにしてごめんなさい。
奇跡だって言ってくれたのに、こんなにいい場所に連れてきてくれたのに、簡単に死んでしまう事を許してください。
お婆ちゃん、難しい話を僕のために話してくれて、僕達を家に暮らさせてくれてありがとう、そしてごめんなさい。
なんて謝ると、母はまた顔を真っ赤にして僕を叱ってくれるのだろうか。父はまた僕の頬をぶって僕が間違っていることを教えてくれるのだろうか。
祖母…お婆ちゃんは、なんといだろう。 多分、怒ってくれるのだろう。
母や父と同じように僕を叱ってくれるのか… ああ、死にたくないな。
こういう状況になってさえ、自分という人間はまだ生きたいと思っているのかと驚愕する。
人間だれしも生き残りたいと思い、死を嫌う本能がある。
人間は自身の死は勿論のこと、他人の死でさえ、それが大切な人のものであったなら涙を流す生き物だ。
それほどまでに業が深く生への執着心が強い人間も、流石に溺死する真っ最中に、意識が掻き消える寸前までこんな潔くないことを思っていて良いものなのだろうか。
だが、そういう思考をしようとも自身に眠る本能は必至で心臓を動かし続け、生きたい、生きたいと叫ぶのだ…
そうか、僕は自分の身体をも裏切り、殺すことになってしまったのか。
気がついてももう遅いとしか言いようがない、出来ることなら死にたくはないがそれも無理だろう、なら最後に言っておかなければならない言葉がある。
親より先立つ不幸をお許しください。
「あら、こんな所に人間なんて珍しいわね」
消える意識の狭間で、緑色の髪の女性が笑っていた気がした。