未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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夢に出てきた地雷原その二


そのに

 事務員さん、もといたづなさんに先導されて、喧騒と隔離された廊下を歩く。

 日本一、その称号を掲げるべくやってきたこの場所。その第一声ともなれば、俄然と緊張は昂っていく。

 何と宣言しようか。そう悩んでいれば、目の前を歩くたづなさんが大きなため息を一つ。

 緊張で鋭敏となった私には、その動作は過剰なまでに突き刺さる。なにぶん都会という世界にも不慣れな私だ、なにか不義理を働いてしまっただろうか。

 恐る恐る声を掛ける。

 

「…………ああ、いえ、スペシャルウィークさんではなくてですね。本当ならもう一人いた筈なんですけど……」

 

 追加の溜め息が一つ。

 私と同じタイミングで、本当だったら私の横で共に教室に向かっていたヒト。

 どんな娘なのだろうかと疑問を持つ余裕もなくて。

 

「お休みとかでしょうか?」

「いえ、多分寝坊でしょうね」

 

 深刻そうと言うより、『またか』みたく問題児に頭を抱えるよう。

 やけに強い断言だった。ひょっとして知り合いだったりするのだろうか。

 

()とは少し縁がありまして……スペシャルウィークさんも驚きますよ」

「? そう、ですか」

 

 きっと聞き間違いだろう。

 一歩進む毎に、手汗が加速する。これまでの人生にない緊張で、耳がどんどん遠くなっているのだ。

 そうして案内された扉の前。たづなさんは既にこの場におらず、この一歩目は自分自身で踏み出すしかない。

 一度深呼吸を置いて、決意を新たに。

 日本一のウマ娘になるために。その最初の挨拶だ。

 

「……っ!!」

 

 ガラリと勢いよく扉を開け放って、私の夢が今始まる。

 

 

 鉄と鉄が打ち鳴らされる音。朝に聞くにはやたらと不快で、されど過去の自分からの贈り物。その無意味な残骸を目の前に、朝っぱらから唖然とする。

 眠気に囚われた自分は、果たして何度目の音で目覚めたのだろう。

 

「……うっし、遅刻だな」

 

 ジタバタしてもしょうがない。人生なんてなるようにしかならないのだ。だから絶賛着信中の携帯も、ガン無視を決め込む。

 短針は十を指し示し、携帯の液晶には等間隔の不在着信跡。メッセージを挟んでいるあたりが、少年の焦燥を煽ってくる。やらかした感が強く感じるが、実際問題やらかしている。

 登校初日に大遅刻するなど、そうとうにファンキーなことをしでかしている。でも不思議と申し訳なさなどの感情は浮かばない。

 だってどうにもならない。時を司る神様でもなし。大人しく説教を喰らってそれでおしまいであります。

 ただしせめてもの抵抗として、その時間帯は自分自身で選ぶものとする。

 

「……昼飯のタイミングで有耶無耶にしてやろう」

 

 顔を洗いながら、そう独り言ちる。

 洗面台に映し出されるのは、父譲りの黒髪。少しばかりの癖っ毛が、ぴょこんと頭頂部から跳び出ている。

 顔の造形は母譲り。些かを過ぎるくらいに白い肌。赤くルビーの如き瞳は大きく、爛漫な印象を与えるらしい。鼻の通りは良く、贔屓目無しで見ても美形と言える。自分のちょっとした自慢。

 空腹感はあまりない。食堂ではたらふく食えるとも聞いている。食に煩い訳ではないが、美味しいモノを食べられるのなら、それはそれとして楽しみだ。

 しかもタダご飯ともなれば、喜びも一塩だろう。その辺りに釣られたのも、入学を決意した理由の一つ。

 

「制服か」

 

 新品の服特有な、多少の着心地の硬さ。

 藍色の繊維の匂い。良く造られた生地の肌触り。女子の物とは違ったブレザー制服には、ちゃんと尻尾を出すための穴が付いている。

 着込んだ姿を鏡で見直せば、どこか大人びた雰囲気を感じる気がする。そう思うのは、自惚れだろうか。

 自分は本当に、昔より大きくなったのだろうか。

 背丈の話ではない。ガタイの大きさではない。

 精神面での成長こそが、ヒトとしての目指すべき目標。

 ずっと変わりなく、幼い頃から同じままな自分は、どこまでも成長できていない。

 変える気も無ければ、変わるとも思えない。

 夢を成せれば、何かが変わるのだろうか。変わった後に見える景色は、一体どんな世界なのだろうか。

 

「……」

 

 ひたむきな若人のように、ただ目を輝かせる。

 その第一歩が大遅刻なのだ、ある意味自分は大物なのかもしれない。

 

 

 ――ぺちゃんライスよそいすぎー!

 

 明るい見知らぬ声が、食堂内を通り抜ける。

 昼食時に気が浮かれるのは何処にも共通するようだ。それがお年頃の集まりであれば、尚の事。(かしま)しき女生徒が集合していれば、殊更尚の事。

 葦毛の生徒がアホみたいな量をプレートへ盛り付けて、その中身は瞬きをすれば瞬間移動していた。口がもごもご動いているのを見て取れば、きっとワープ先は胃の中に違いない。昼食の時間になって間もないハズなのだが、アレは果たして食事を楽しめているのだろうか。

 

「……え? バケモン?」

 

 疑うのは無理もない。量は自分でも食べれなくはないが、速度では敵いそうにない。なんだか勝手に負けた気分になった。

 そんな背景を尻目に、自分も座って昼食を摂り始める。

 すると向かいの席に、先程まで話していた娘が座る。

 

「堂々としているのだな」

「この手の視線には慣れてますから」

 

 いつもと好奇の質が違うのは、目の前の存在が、生徒達の憧れを背負う存在だからだろう。

 シンボ、シンボリル――名前は忘れたが、生徒会長。生徒達、ひいてはウマ娘達の模範にならんとする、URAシリーズに座する者。

 皇帝と言う名を掲げ、七冠抱きし実績を背負う。頂上にて背中を示す、現時点での最強の一角。

 そんな大きな存在が、じきじきに校舎案内をしてくれているのだ。ここへ来るまでに突き刺さる、鋭い視線の数々その多さ。

 じっとりとした嫉妬も含まれていたのは、キマシ・タワーが建設されていると認識してもよろしいのでしょうか。

 

「それで、我がトレセン学園はどうだろうか」

「悪くない雰囲気だと思います。あとはほら、あれです、ご飯が美味しい」

 

 肉へぶっ刺さった人参を皿端へ置いて、デミグラスなハンバーグに舌鼓を打つ。

 スパイシーな刺激がアクセントな、甘辛いソースが美味しい。これが無料で食べれるのは、少ない生活費をやりくりしている苦学生としては、凄まじく助かる。何かしらの詐欺を疑うレベルの待遇だ。

 感謝すべきはやよいちゃん。持つべきものは、大いなるコネである。

 

「あらかたの案内は終わったんでしょ? この後俺はどうするんですか」

「午後からは、君のクラスメイトと共に授業を受けてもらう」

「わかりました」

 

 帽子にソースが跳ねないよう、注意しながら口へ運ぶ。

 口から出るのは必要事項ばかりで、会話は進まない。自分には進める気が無くて、そんな自分に会長は距離を測りかねている。

 色気のある雰囲気は何処にもなく、ただ未知に対して圧されているだけだ。

 向かいに存在する顔色は、視界を半分遮る帽子に隠されている。

 

「優しいんですね」

「そう、見えるかな」

「ええ。大抵は悪意を以て接してくるので」

 

 もしくは自称善意を振りかざす輩だったり。

 そんな対応をさんざん見尽くしたからか、悪意を待たない対応は逆に分かりやすい。

 生徒会長のように距離感を測りかねて、おっかなびっくりと接してくる人達は、大体が優しい。

 

「それに比べればまあ、優しいですよね」

「……」

 

 そうして再びの沈黙。

 周囲も自分たちに釣られて静かになる。

 そんな様子にも気づかないフリをして、食堂の内装を眺める。

 ふと、いくつかの張り紙が目に入る。

 

「チーム……?」

「ああ、一チーム単位での指導を行っている」

「へー」

 

 てっきりマンツーマン指導なのかと思い込んでいた。

 サシで教えている者達もいるそうだが、よく考えればトレーナーの人数にも限りがある。当然の話ではあった。

 

「チームメイト同士での化学反応もある。入って損はないだろう」

「ふーん……そうですか」

「君はどこのチームに……いや、まだ早いか」

 

 それはそうだ。入ってぺーぺーのよちよち歩きも良いところ。そもそもレースのルールだったり、なんだったらもっと初歩的なことさえも知らない可能性がある。無知の無知、ここに極まれり。

 よって興味も現段階では湧かない。色々なことに手を出すのは、一先ずは身辺が落ち着いてからにしたい。

 

「――君がよければ、だが」

「はい?」

 

 周囲を観察しながら食事を進めて、付け合わせの人参を齧れば、白メッシュの入った娘と目が合う。もしかしてこの人参が欲しいのかしら、なんて冗談を思いついていれば、会長は突然に切り出す。

 

「放課後に私のチーム――リギルの入部テストがあるのだが……」

「はあ……」

「君さえよければ――――」

 

 目的のために全力疾走するのは当然の話。

 けれど決して焦る必要はない。夢を目の前にして怪我で挫折、なんてことはたまらなく阿保臭くて、途轍もないくらい馬鹿らしい。

 だがそれは、決して漫然とした歩みを進めるということではない。のんびりとした歩みは、そもそもが性に合わない。

 自らを試せる機会があるのなら、果敢に挑むべきだ。公式戦でないのならなおのこと。

 

 ――受けてはみないか

 

 だから会長の誘いを受けたのは、それが理由。

 

 

 慣れ切ってしまった、この冷え切った空気。これを打破する術を、自分は未だに持ち合わせていない。年を食えば、そういったことも学んでいくのだろうか。ここまでが現実逃避でございます。

 こんなところで困り果てて、自分の夢が叶うとも思えない。ここは我がクソ度胸を見せつける時だ。

 

「どうも、エイヴィヒカイトって言います」

「……」

「………………」

「…………………………」

 

 ――終わり!!?

 

 ああ聞こえる。そんな叫びが彼女らの胸中で木霊している確信がある。

 でも終わりです。こういった場では、簡潔こそが好まれる。シンプルイズベストは世界を変える。

 しかしそう信じてきた十数年間が崩れ去った瞬間でございました。静謐な空気が涼しく感じる。春の陽気を凍えさせた、渾身のフリーズエア。

 

「あの……エイヴィヒカイトさん?」

「なんでしょうか」

「……いえ、席はあそこです」

 

 言外にビシバシと伝わる、もっと喋れという意志表示。しかし残念だったな。ここで発動するはエイヴィヒカイトの天邪鬼。そんな態度を取られては、益々口を閉じていたくなる。喋って欲しくば素直に言いなさいよ。

 図太きメンタルを掲げたカイトは、周りを見渡しながら最後尾の空席へ向かう。

 すると視線の通過点には、食堂でも目が合った白メッシュの娘。些細ではあるが、ちょっとした縁を感じる。

 

「人参欲しがり娘だ」

「ふぇ? えっ、と……?」

「いや、気にしないでください」

 

 一方的な認識なのだ、そんな構えられても困る。

 挨拶はそこそこに、椅子に座り込む。

 自分の自己紹介(スーパー短縮バージョン)は済んだ。無理やりにでも終了の空気感を作り上げたのは、今色々喋るのが面倒だから。細かな紹介は、そのうちにでも行えばいい。

 そうして退屈な授業は始まる。

 教師が指名してこないのなら、腫れ物扱いも悪くはない。ボケっと眺める窓の外の、なんとも退屈なことか。

 背中に感じる異分子の気配で、教室内全体の姿勢が硬い。そんな姿はちょっと面白い。中学時代もそうだったが、やっぱり最後尾の席とは最高だ。

 

「……ん?」

『授業中ですよ』

 

 教科書を盾に携帯を弄っていれば、さっき飛ばしたメッセージの返答が来た。育ちの良い先輩らしく、至極真面目な返信だった。バカ真面目に返信するのが、これまた真面目だ。

 面白味のないやりとりも、暇を持て余した今では何よりも楽しい。

 電子のキーボードを叩きながら、放課後に行われる選抜レースを考えている。それが終わった後に何をしようかとも考えている。

 

「……体力付けるか」

 

 決まった。走り込もう。

 名実共に、トレセン学園の生徒になったのだ。夜は校内にでも忍び込んで走り回ろう。バレたって生徒ならどうせ許される。

 

『この辺の安いスーパー知らない?』

『ですから授業中です。後ほどに』

「……ぷっ……」

 

 これで休み時間の暇つぶしも決まった。

 一日が楽しく思えるのは、どうにも久しい。人生初のレースを前に、柄にもなく自分は滾っているのだ。

 どうせ走るなら、思いっ切り荒らしてやろうと。

 これ以上無い尖りモノだ、催しそのものをぶち壊してやろうと。

 そう思った。

 

 

 つばをなぞりながら、帽子の如何を悩む。

 このまま走れば在らぬ方へと飛んでいくだろう。コレが汚れるのは非常に困る。割と命以上に大切な代物故に、少しの汚れも許容できない。

 であればどこかへ置いてくるのが道理だが、用心深い自分には、その辺に置いてくるのは安心できない。かと言って周りを見渡しても、預けられるほどに信頼できる者は居ない。これはそれなりのブランド物でもあるのだ。

 

「……もすもすひもねすー、先輩? いまはヒマですか」

『――――、――、――――』

「今から俺走るんだけど、帽子預かって欲しいなって」

 

 そんなこんなで着替えた自分は、その待ち人を待っている。そうかからない内にやって来てくれるらしい。

 それまでは空でも眺めて暇を潰そう。

 

「――――トさん」

「…………」

 

 雲は少し紅く色づいて、ちょっと不安感を煽る。逢魔が時と、昔の人はこの空にそう名を付けた。

 逢魔が時。魔と逢う時。世ならざるモノと出会う、そんな時。

 きっと周りからすれば、自分がこの世ならざるモノに見えるのだろう。

 それもまた、いつものこと。

 

「…………ははっ」

「――ィ――――トさんっ、エイヴィヒカイトさんっ!」

「……えっ、はいなんです?」

 

 綿毛のような声が呼んでいたのは、自分だったらしい。

 腰に手をついて、腰まで伸びた栗色が揺れる。

 たしか名前は、そう。グラ、グラ、グラス――なんちゃらさん。彼女の片手には選抜レース参加者の名簿。

 

「参加されるんですよね?」

「……うん、走る走る」

 

 ようは出るなら書けってことだろう。参加の意は十二分に存在する。書き忘れで出られませんでした、では生徒会長の立つ瀬が無い。

 待たせた罪悪感もあってか、いそいそと名前を書き込む。

 すると自分で最後だったらしく、眼鏡の女性トレーナーから集合の命が出された。

 

「次」

「まずはオープン戦――」

「次」

「リギルメンバーとして――」

 

 未来への展望か、もしくは夢を語れと眼鏡の人は告げる。

 それに従って、想い思いの丈を伝える若人達。

 三冠を目指す。天皇賞が夢。ダービーを取りたい。そんな夢の発表会。ありきたりが過半数、珍しいが少数。でも語られる熱意に貴賎はなく、どの夢も輝ける道標だ。

 遠目にこちらを見やる先達へ向けて、自分達を曝け出す。

 そんな中、教室で前の席に座っていた娘が大きな声で宣言した。白メッシュの人参欲しがり娘と自分は覚えた。

 

「私! 日本一のウマ娘になりたいです!!」

 

 一瞬。誰もが呆気に取られたのは、現実味が無いからか。

 なんとも大雑把な宣言だ。何処へ行き着けば日本一なのか、それを説明できる者がどれくらいいるのだろうか。

 でも、きっとその願いは、どこまでも透明な夢。

 途方もなく大きくて、全貌を把握できないくらいの目標。

 それを周りは、失笑していた。

 

「ぁっ……うぅぅ……」

 

 赤く縮こまるその背中は、笑い物としては上出来なのだろう。

 自分にはただ、宣言した時に幻視した大きな背中が、ひたすらに目へ焼き付いている。

 見えたのはゆめまぼろしか、はたまた未来の現実か。

 

「……」

「次。……エイヴィヒカイト」

「へ、あ、はい」

「何か、……目標はあるか」

 

 そりゃもちろん聞かれる。ここもアピールポイントの一つなのだろう。りぎるとやらに入る気があるなら、多分前もって言う事を考えておくモノなのだろう。さながら面接のようで、実際これは面接。

 

「あー……そうですね」

 

 ただ本気で入る気も無い自分としては、どうしても言葉に詰まる。

 何を言い出すのかとおっかなびっくりな視線はともかく、シンプルに自分の発言に注目する会長の姿を、視界端で捉えてちょっとだけ焦る。

 こうなれば適当な宣言は許されないだろう。会長の紹介でこの場にいるのだ、メンツを潰せば彼女のファンが怖い。粘着質なタイプを控えてそう。

 なので自分の夢を端的に言ってみた。

 

「まずは最強になることです」

 

 ちょっと幼稚な言葉回しかもしれない。

 ともすれば先のスペなんたらさんよりも、大雑把且つ巨大な目標。そんな宣言を、強いらしい先輩達の目の前で、さらりと言ってのける。

 

「夢を実現させるために、最強程度の称号くらいは欲しいので」

 

 そんなコトをほざく後輩を、先輩方はどう思って見るのだろう。

 自分は悪意などには敏感だが、善意でも無い感情には滅法疎い。

 ただ敵意はよく感じる。ここに集まっている娘達から向けられる敵意の数々は、自分によく馴染んで覚えがあり過ぎる。

 

『異分子が何を抜かしている』

 

 概ねそんな所だろうか。

 敵愾心大いに結構だ。その顔が驚愕でひっくり返るのは、それなりに楽しい。

 どうせ慣らし程度の全力だ、楽しまなければきっと損。

 

 

 双眼鏡越しに覗けるのは、昨日見つけた原石。どんな走りをするのかお手並みを勝手ながら拝見させてもらう。

 リギルの選抜レースだ、そんなものを観にこないトレーナーは一握りだろう。そうでなくても、今回ばかりは注目度が必然的に高まっている。

 

「……アイツがそうか」

 

 白い女物の帽子に隠された顔を、ズームにして覗き見る。

 トレセン学園始まって以来の。URA開幕以来の。そして、有史以来の稀有な存在。

 尻尾は確かに確認できた。やたらと短く見えるが、あれは生来のものだろうか。耳は帽子が覆い隠しているのだろう。

 身体つきは悪くない。此処へくる前にもそれなりの基礎を積んだ痕跡が見受けられる。筋肉の付き方は独学だろうか。それでもパッと見た限りでは、理想的な鍛え方をされている。

 それでも、何度見ても未だに信じ難い。

 ()のウマ()なんて存在が、本当に在っただなんて。

 

「昔ニュースで取り上げられてたっけな」

 

 すぐに音沙汰無くなったため、一部では都市伝説へ化していたその真偽が、今こうして目前で柔軟体操をしている。

 間違いなく本日のメインは彼だろう。歴史上類を見ない存在が、どんな走りをするのか。噂は学園中に広がって、ギャラリーの盛り上がりは、まるで重賞レースのような熱を生み始める。

 

「こりゃ他の奴らは災難だったな」

 

 嫌でも視線に晒されるのだ、これが初めての形式的なレースの娘も多いだろうに。

 その話題の存在へ、ギャラリーをかき分けて一人の娘が近づいていく。

 彼はその娘へ、帽子を手渡した。

 頭を隠していたものが取っ払われれば、頭頂部は明るみになる。

 首にかからない程度に切られた、漆のような黒髪。ぴょこんとてっぺんで跳ねる癖っ毛。少し過剰に思える白い肌。紅に煌めくルビーの瞳。

 そして、耳たぶがギザギザな、長くて黒い()()耳。

 

「…………」

 

 息を呑む気配が、ギャラリー全体に広がっていく。

 半信半疑だった者たちは、その疑惑を打ち砕かれた。

 その存在を厭う視線で見ていた者たちは、忌避感を強くしていく。

 尻尾を揺らして、耳を振り、ターフの上に堂々と立つその姿は――確かに、ウマ娘と同じだった(明確に違った)

 

 

 柵が開かれ、視界が開かれた瞬間――オレは 自由になる。

 

「――」

 

 軽やかに走る。作られた草原をただ走る。

 どこまでも自由に感じて、どこまで窮屈なこの世界。

 集団に囲まれて、謳歌できるのは限られた自由だけ。

 スタートは好調でも、位置がどうにも悪すぎた。

 ど真ん中で囲まれて、気分はリッチなハーレムブルジョワ。そんなこと言っている暇も無いくらい、ここは狭くて鬱陶しい。

 邪魔なヤツらが一匹二匹、いやそれ以上もわらわらと。

 

「――――」

 

 邪魔だから、足を踏み出す。邪魔だから、目の前の()を躱す。邪魔だから、邪魔なものを全部追い抜いていく。

 邪魔だ邪魔だと感じていれば、いつの間にか目の前には何者も存在しない。隣にも誰もいない。後ろは分からない。

 視界は白く染まる。選択肢は狭窄する。

 今の自分には、ただひたすらに前を走る以外の未来を知らない。過去を容易く置き去りにして、先の方へと走り出す。

 目指す地点へ早く。目指す頂きへ速く。

 最強という通過点を目指して、この程度の過程を過ぎ去らんとする。

 

「――――み、えた」

 

 ゴール板が薄く見えた。あそこを越えればこの場の頂点に立つ。現状で本気を出す必要は無いが、無意味な敗北も気分が悪い。だから勝ってしまえ。余人を置き去りにして、オレはここから走り抜ける。振り返って敗者の面を確認しよう。そうして目算残り十歩の内、二歩目を踏み出して。

 ド、グンと。静止していた肺が、生を求めて強制的に再起動する。

 

「――――ぁ」

 

 ゴール寸前で横に転がれたのは、薄氷な意識の上で辛うじて行えた行幸。

 頭から転がるのを避ける為に、肩から地面へと触れていく。ジャージが破けたな、なんて呑気が頭を支配する。

 ごろりごろりと地へ投げ出され、十メートル先でようやく止まれた。

 右腕が熱くて冷たいのは、痛みの熱を出血で冷ましているから。

 一瞬の静寂はほんとうにすぐ終わって、耳をつんざく誰かの絶叫が、見ていた皆に届く。

 でもちょっと、エイヴィヒカイトには聞こえない。

 

「あ、かひゅっ、……ぁ、る、、、ん?」

 

 喉に詰まった吐息を押し出して、駆け寄って来た先輩の名を呼べない。

 鼻息と口息が絡まって、真っ当な酸素の求め方を忘却してしまう。

 止まっていた呼吸が心臓を痛める。再開した心臓が血管を消耗させる。

 人体で巻き起こる数多の苦痛が、エイヴィヒカイトの精神を磨耗させて、遂には消失を目論んで。

 見知った先輩が駆け寄って来る景色だけが、消失前に見えた、最後の光景。

 エイヴィヒカイト人生初のレースは、見ていた全てに衝撃を植え付けた。

 レースは仕切り直される。彼が望んだように、確かにぶっ壊れた。

 彼が望んだままに、驚愕を押し付けることに成功していた。




添削甘いかもしれんです
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