アルダンが振るうフライパンの音をBGMに、天井の染みを数える。
響いてくる音からして、若干斜めったご機嫌なのは気にしない。気にしないようにするため、せっせと染みを数えているのだから気にしない。料理中になんで肩で息をするんです? なんて愚かな問いは投げない。怒れば霊長は、呼吸を多発させる。つまりそーゆーこと。
なんでおこなのかは、永遠に闇の中としておく。
「なんかもう、全部面倒になってきた……」
「カイトくんは何かでお悩みなのかしら〜?」
「マジかよお前」
今のは本気で案じている声色だった。引き金を引いたのは、紛うことなく目の前で紅茶を啜る鹿毛なのだが、自覚も何も存在してないなんて嘘だと言ってくれ。嘘じゃ無いなら、カイトが感じるこの戦慄も幻では無いらしい。
自前の茶葉とか持参しやがりましたぽわ嬢。メチャクチャいい香りが広がるが、銘柄なんざ分かるわけない。もしかしてこの家にはロクな飲み物が無いって、事前に知ってましたかこのヒト。
「……茶の味なんて分かんねー」
「昔飲んでいたのと同じなのだけれど」
「俺の舌は超貧乏になってな、カルキたっぷりの水道水で淹れた麦茶しか合わないんだ。それか甘ったるいジュース」
「まあまあ、そうだったのね〜。そう言わずに味わってくださいね〜」
「聞けよ」
カイトは安物のお茶を好む。味とかで無く単純にコスパの問題だ。数百円で数百杯分の麦茶、しかもポットに水と茶葉ぶち込むだけで良いやつとか最高。そんなスタイルをアルダンも良しとして、受け入れてくれていた。内心は知らないが、この城ではそれがルールなまである。
そんなお家ルールもぶち壊す、ブライトのぽわぽわオーラ。
最近は機能しなくなってきた安住の地。それでも一番休まるエリアな此処へ、リーサルウェポン(エイヴィヒカイト専用)たる存在がやってきたのは、病院での邂逅より半日後。
それから週二回のペースで来るのは、先達者を思えばマシな方なのか。なんといってもアルダンは、初っ端から週五というハイペースだ。今考えてもやっぱ来すぎだろ。
「もう晩飯なんだし、菓子はいらんて」
「あら? でもカイトくんはスコーンお好きでしょう? 沢山持ってきましたから、遠慮せずいただいてくださいな〜」
「スコーン…………まぁ、ちょっとだけな」
「ええ、ええ、沢山どうぞ〜」
今でもたまに食べるスコーン。好きなのは中がしっとりしているタイプで、ブライトが差し出す皿の中にはその手の代物が鎮座している。どうでも良いが、再会する面々に食の好みを把握されているのは、中々に解せない思いがある。そんなに分かりやすい態度で示していたかしら。
もそもそと齧るスコーンは、外はサクッとして、中はジュワッとした食感。口にすれば何処にでもあるような感じだが、カイトが普段食べるのとは、明らかに味のグレードが違っている。
舌触りから香りまでが、懐古の情と共に味覚を刺激して――――自分によく似た顔立ちをした、自分より背丈の大きな女性と、共に過ごした憩いを思い出した。
「どうでしょう?」
「……やっぱ美味いな、これ」
美食家でもなければ、ソムリエのような繊細な舌を持っている訳でもない。味覚のアレコレに誇りもないのだから、鬱憤晴らしも兼ねて、不味いと言ってやればよかった。そんな意地悪をすれば、あっちから離れてくれるかもしれない。やらない理由は、あまり無い。
ただまあ、思い出に嘘をつくのは、どうしても抵抗がある訳で。
それがカイトの中で最高級に大切なモノなら、尚更嘘は吐かない。嘘にできない思い出の味なら、正直な感想を述べるしか出来なかった。
「どこで買ってきたの? 店知りたいんだけど」
ケース単位で買おうと、今誓った。
「これはメジロ家のシェフ様が作ってくださったのよ〜」
「なら俺は食えないじゃん」
イラッと来たのは不可抗力。上げて落とされた気分になれば、そりゃ苛立ちも出てくる。ブライトだから仕方ないが、これがゴールドシップだったりしたら、確信犯と断じて即座に肉体的執行を行う所存だ。
仕方ないから今ある分をゆっくり味わおう。残すようなら、明日にでも食べる。意地汚く見えようが知ったことでは無い。エイヴィヒカイトは、目の前の欲望に忠実でありたい。
「ほえ?」
「疑問符を付ける必要あったか」
「カイトくんは食べたいのでしょう? わたくしが持ってくるのだから、今後もカイトくんは食べられますわよ〜?」
「悪魔の取引かよ」
なんとなしに言ったつもりだろうが、カイトにとっては大きな意味を持つ発言だ。
ブライトを許容しなければ、この懐かしのスコーンはもう食べれない。もう二度と食べられない味だと諦めていた分、不意のこの味は悪魔的に染み渡った。こんな不意打ちを喰らえば、二度目なんて当然求める。
本人の意図しない交渉とはこれ如何に。ブライトは全く気にせず、今後もウチに入り浸るつもり満々なのが酷く恐ろしい。この娘、わりかし欲張りすぎでは?
「……しゃーない。背に腹はなんとやら、か」
「?」
「ウチ来る時は、毎回コレ持ってきてくれよ」
渋々ブライトを、スコーン配給係に就任させた。オーマイゴッドな展開と化してきた。
これで三人目。いつぞやアルダンが言っていたように、三ヶ月ごとにメジロ比率が増している。このジンクスのようなものを破らない限り、家の大きさが足りないなんて話も、笑い話に留まらなくなってくる。実際テーブルだってサイズが足りていないのだ。この調子なら買い替えるのも吝かではない。
「頼むから打開策寄越せよ本家ぇ……」
「どうかしました?」
「お前ら一族は面倒って話」
「そうですか。ご飯がもうすぐ出来上がりますから、お菓子はほどほどにしてくださいね」
「あいあい」
いつもよりぞんざいなアルダンの言を聞き流しながら、届くか不明な願いを投げる。
後からマックイーンも合流するらしく、あわれ今夜の晩御飯もメジロに囲まれるらしいです。
存在した筈の外堀が消えていくサマは、なんとも青ざめるモノなのです。そんなことを、改めて実感した夜でした。
――――平穏を一変させる、不穏の報が届くまで、なんだかんだと楽しんでいた日常の風景だ。
けれどもう二度と、楽しむ余裕など許されない。
十一月二十九日。ジャパンカップ当日。
普段よりも一層色味の落ちた景色を、うつらうつらと歩いていく。顔色が悪いやらなにやら、パドックでも散々言われた気もするが、以前にも似たような事言われていた気がした。
雑念を振り払うように、急くようにターフへと歩いていく。悪いことを今は、なるだけ考えたくない。他のことに気をやりたい。
そんな折に話し相手が出来たのは、割と行幸だったのかもしれない。
「……副会長……?」
「来たか……」
口調からして、カイトの事を待っていたようだ。出待ちのファンな訳もあるまいが、すわ説教かと身構えることも、今のエイヴィヒカイトには出来ない。
覇気の欠けたカイトに気づかず、副会長は問いを投げた。
「……なんでしょうか改まって」
「貴様、私の名を言ってみろ」
昔そんな漫画があった気がする。
やたらと世紀末なセリフを投げられたが、これはどう答えるのが正解だ。このヒト弟とかいたかしら。放置してたら胸元開けたりとかしでかさないか、ちょっと心配になって来る。
「……レアプルーム先輩、でしょ?」
「……やはり、か」
「……? どうかしたんですか」
勝手に納得するのはやめてくれ。ものすごく気になるではないか。
「いや構わない。宝塚での雪辱もある、無理にでも記憶に刻ませてやる」
「……よく分かりませんが。どうせ俺が勝ちます。先輩はまあ、頑張ってください?」
「フッ……言ってくれる」
そう言って、やっぱり一人納得して一足早くターフへ向かう。相変わらず謎な先輩だ。説明のせの字くらいしてってはくれないのは、もしかしてエイヴィヒカイトは嫌われている説。割とあります。
「カイト!!」
副会長の背中に首を傾げていれば、カイトの背中に届く知り合いの声。
いいぞ、もっと声を掛けてくれ。気が散るのは良い事だ。
「……シェルフォンコルサワー」
「エルコンドルパサー、デース!!」
そんな名前だった気もする。いつもながら見事に間違えた。
「……何か用か?」
「宣戦布告に来ました!!」
大胆不敵に堂々とした姿勢。いっそ眩しいほど誇らしげなそれは、カイトに強く突き刺さる。
その意気込みに応えられるモノを、エイヴィヒカイトは持ち合わせていないのだから。自分が待たない物は、なんだって輝いて見えるのだ。
「……で?」
「エイヴィヒカイト、アナタが世代最強と呼ばれていることは知っていますね」
「えっ、……全然知っていませんでしたね」
もうちょとエゴサとかやっておこうと思いました。ちょっと自分に疎すぎるかも分からんね。
「アナタに勝つことで、アタシは本当の意味で世界に羽ばたきます!!」
「…………。……お前が負けたサイレンススズカ先輩に、俺は勝っていた訳だけど?」
「関係ありません! それで、スズカ先輩も超えたことになるのなら……ッ! 願っても無い話デス!!」
先輩の代わりも含めた標的に狙われている。先のサイレンススズカのような、挑まれる立場になってしまった。
ただそれでもエイヴィヒカイトの走りは変わりなく、叩き出す結果も変わりない。そこに求めるのは何の感慨も浮かばない、無機質な勝利のみ。
戦意を滾らせて好戦的に笑う彼女は、やはりエイヴィヒカイトには痛いほど眩い。
「お前……随分と楽しそうだな」
「? 強い人と走るのは楽しいでしょう?」
「…………そうなのかもな」
グラスもスペシャルウィークも、その他の同期達も同じようなことを答えるのだろうか。
あるいはそれが、ウマ娘としてのがあるべき本能なのかもしれない。
「それでは! 決着はターフの上で!!」
「ああ、後で」
自信を五体に充足させて、ウォームがてらの駆け足で走り去っていく。毎日王冠での敗北が彼女の何かを変えたのか、自らの力を過信し過ぎず、十分に把握して挑戦者の面持ちでいる。そんな強い表情で、真っ向から宣言しに来たのだ。
「活き活きとして…………羨ましいな」
そんな感情を、自分はこれから得ることが出来るのだろうか。
そんな時間が、自分にはあるのだろうか。
「……スペシャルウィークか」
「! カイトさん! 今日はよろしくお願いします!」
よっぽど集中していたのだろう、進行上にいたカイトに声を掛けられるまで気付かなかったスペシャルウィーク。表情は硬く、その身に秘める決意もきっと硬い。
「……気合十分だな、お前も」
「ハイ! 胸をお借りするつもりで行きます!!」
副会長と言い先の同期と言い、本日のラスボスはエイヴィヒカイトなようです。挑戦者でないのはむず痒くあるが、これも夢への経過が順調な証。甘んじて受けるべきこそばゆさだ。
「……元気いっぱいなとこ悪いけど、今日は泣く準備しとけよ」
「えっ!? い、いえっ! そんなことにはなりません!!」
「……そうかな?」
二人並んで、青空の下へと歩いていく。
同じチームと言えど、負けてやるつもりは毛頭ない。それはスペシャルウィークも同じく、眼差しは敗北を微塵も見据えていない。
強い視線は、ターフへ向かって先を見据えている。ターフを超えて向かう先は、異次元へ向かう白緑の背中。憧れを目指して、今日ここに立っている。サイレンススズカの負傷は、彼女への重荷でなく、活を入れる契機となった。
ふと、隣から観察の視線を感じる。下手人は言うまでも無く、紫がかった衣装の娘。
「……? ……カイトさん、何かあったんですか?」
「……なにが」
「いえ……カイトさん、ちょっと落ち込んでるような……?」
その指摘に驚く元気もなければ、上手く取り繕う気も起きない。
座学赤点常連なスペシャルウィークだが、こういった心の機微には敏い。性根に在る優しさからくる観察眼なのだろうか。その優しさは、是が非でもサイレンススズカにでも向けて欲しい。エイヴィヒカイトには向けないで欲しい。
柔らかな気遣いは、今は酷く痛くて辛い。
「……いや…………いや、俺もさ、今日はやたらとやる気なんだ」
好戦的な笑みを装って、そんな嘘で誤魔化した。
「だから、負ける覚悟しとけよ」
「……! スズカさんと走るハズだった舞台なんです! だから今日は、絶対に……!!」
そうしてゲートへ到着する。外国のウマ娘が多いからか、好奇の視線が突き刺さる。久しぶりに感じる、未知との遭遇に慄く雰囲気。プレッシャーを与えてしまったのなら悪く思うが、恨むならこの厄病神とレースを走る、自らの不幸を恨め。
雲が散らされて、晴れ晴れとした青空。瑞々しく生えそろった、碧い芝。細かな傷から使い込まれた年季を感じる、鉛色のゲート。冷たく肌に刺さる、冬の寒気。
変わりない世界。デビュー戦以来見栄えを感じられない、単純作業の場。
他の者には、世界へと己を見せつけるこれ以上ない舞台。それはカイトも変わりないが、意気込みだけはどうにも高まることはない。
あまりに退屈なこの世界が、
「なんかもう、いろいろと、」
昔馴染みを遠ざけようとする努力。学園へ通い続ける気怠さ。どうあっても絡みつく
根っこに面倒臭がりが存在するエイヴィヒカイトだ、よくもまあここまで保てたというべきですらある。
自らを揺らす、その全てを考えることが途方も無く面倒に思えてくる。それがあと一年も続くと思えば、湧き出る苦痛だって増してくる。
エイヴィヒカイトが試みる、夢への挑戦のリミットは不明。元々が有耶無耶だったが、先日の一報でより暗闇は増した。
明日か明後日か。一週間後かはたまた来月か。ともすれば、こうしている今この瞬間に、その刻限が終わりを告げているのかも。
そんな焦燥に追われる日々が、これから続いていく。
「つかれたな」
どうせ退屈な道のりなら、エイヴィヒカイトを揺らすことなく進ませてくれ。辛い思いはもう十分。もうこれ以上、夢への邪魔をしないでくれ。
無駄だと知りながらも、この世界には救済の神様なんていないと知っていながら、エイヴィヒカイトは天を仰ぐ。
たとえ男でも、ウマ娘である自分が祈るなら、やはり三女神しかいないのだろうか。
肝心な時に肝心な救いを寄越さない、役立たずの女神。そんな居ないのと同じな存在でも、祈らないよりはマシなのだろうか。
レース開始は淀みなく、世界の強豪相手にエイヴィヒカイトのクラスメイトや副会長は、良好な位置をキープできている。
激しいポジション争いに負けることなく、レース状況を俯瞰して見ていれる冷静さを保っている。らしい。
あくまでも、実況のお姉さん曰くだが。おまけにエイヴィヒカイトはそれを聞いてすらいない。
いつも通りに、自己に没頭すれば雑音は遠のいていく。
いつも通りに、自己へ沈澱すれば勝利から近づいてくる。
『エイヴィヒカイトは最後方からの――――』
後ろから行ったのは、単純な出遅れ。中盤ほどから前を狙おうと計画していたハズが、そんな仕込みは何処へやら。共犯者の入れ知恵をフイにして悪く思う。
プランのことは頭から失せていて、模倣のことなど忘れ切った走り。以前のような、型に合わない無理な走りへ退行していることを自覚した。この自壊走法が一番馴染み深いのは、確かに彼女の言う通りどうかしてい――――今は、それを忘れることにした。
「もう、そろそろ――――」
二百メートルを過ぎた頃、自らの進むルートを再確認した。
大きく外を突いた余剰分を含めて、ゴールまでざっと二千五百を超える距離になる。それだけのスタミナは、しかとある。これまで編み続けた後付けの体力は、これまでのように容易く走破が可能だ。以前以上のスタミナを保持する今なら、それ以上の全霊を注ぎ込む余地がある。
「さて――――行くか」
芦毛の怪物を彷彿とさせた強烈な踏み出しの轟音。漆黒のブーツが、緑のターフを耕して土色に汚す。
辺りの色彩は曇り尽くして、エイヴィヒカイトは不快な灰世界へと誘われていく。
それは音も無く、色も無く、意味を成して存在する物が無い、エイヴィヒカイトだけの世界。
轟音を合図に、前方からの注意を独り占めにする。そんな驚愕を見るには、これまた久しぶりな気もした。
ステイヤーの用いるロングスパートの流れで、距離に見合わないラストスパートが叩き出されていくのは、それなりに奇特な注目を寄せる。レースの常識を知る者なら、それはより顕著に影響されるのだ。
「――――」
「っっっ!! !!!??」
知り合いと目が合った気がして、それも一瞬。
この場には、サイレンススズカのような化け物は存在しない。身がズレてまで進む必要性も無い。こんなのはボーナスゲームでしか無い。
誰が勝者になるなんて、エイヴィヒカイトからすれば言うまでもないのだから。
――わざわざこの日本まで負けに来て、ご苦労な事だ。
スペシャルウィークとの初対決。同級生との初対決。副会長との再戦。海外勢との対決。これらにも思うことは、特に無い。勝利の感慨も浮かべれない。走り切った跡の爽快感も、何処にも無い。
彼女と走る事に対する、ほんの少しの期待感も、もうどうでもいい。
ナイナイ尽くしに代わる感想は、つまらない、退屈、不快、嫌悪、などなど。どうしてもネガティブキャンパーンが大盤振る舞いしてしまう。
つくづく想う。やっぱりエイヴィヒカイトは、走ることが
今更ながらの再認識と共に、エイヴィヒカイトはゴール板を振り切った。
「……ああ、疲れた…………」
酸素と共に戻ってきた彩りある空を見上げて、達成感皆無の疲労を受け止めていれば、膝から崩れ落ちる少女が目に入った。
結果を無機に示す電光掲示板には、彼女にとっては無念な結果が現れている。
可哀想だな、とは思った。なんとかしてあげたいな、と思えるほどの余裕は無かった。
子供のように泣き崩れるスペシャルウィークの姿を、路傍を見る目で無感情に眺めている。
「ゲホッ、…………」
そんな自分への嫌悪も抱かず、無機な作業は終わった。
寒風に煽られて、足元ギリギリを純白の外套が撫でる。体制を低くしても不思議と地に付かない外套は、荘厳な印象を与えるには打ってつけなのだろう。歩く度に腕に当たって、逐一邪魔ではあるが。
次からはいっそのこと外して走ろうかと、そんな自分本位を考えている。
「……次は……有馬、出ないと」
止まってはならない。進まねばならない。
リミットが追いついてくる前に、夢に届かねばならない。
そうでなくては、一体何のためにこの夢を掲げているのだ。
十一月二十八日。
それはスピカ部室にて、アルダンとの昼食中のこと。
「海外からも色々と来るんだっけ」
「はい。そこが目玉のレースでもありますから」
「へぇ……」
己を知らしめるには、これまた打って付けな舞台な訳だ。願っても無い機会に、いわゆるやる気というやつが滾ってきた。
そんなエイヴィヒカイトの様子を、不安な面持ちを隠さず見つめるアルダン。
「スペシャルウィークも出るし、やる気出てきたなぁ……」
「……カイトが、ですか?」
「なんだその意外そうな顔」
「そんなことは……ちょっとだけ」
失礼度が高めな自覚のあるエイヴィヒカイトではあるが、此奴も相当なものだ。仲の良い同級生と真剣勝負となれば、込める意気もあるってものだ。
それに、スペシャルウィークは最初の頃からどうにも気になる。羨ましく思うのもそうだが、その他にも何か、どこかカイトの気を向けさせる。
「カイトがそこまで気にかけるだなんて、珍しいことですね」
「つっても正直よく分からん。気にはなるけどさ、どう気になるのかは明確な答えが出てこないんよ」
アルダンの仰る通り、確かに珍しい。
エイヴィヒカイトは前提として、面倒くさがりだ。ガサツと言い換えても丁度いいかもしれない。細々とした思考や作業も、出来ないことはないが長く続けるのは苦痛に繋がる。
対人関係なんてそれが一番顕著に現れていて、従姉曰く、名前をよく間違えるのはそれ以上の関係性を忌避しているからだそう。人となりを知れば知るほどに、無関係でなくなる。無関係でないのなら、何かしらの事が起こった際に、動かざるを得なくなる。その防衛策の一つが、名前を敢えて覚えない、だそうです。
では全部無視すれば良いと言う者もいるだろうが、それが出来ていればアルダンと昼食なんて共にしない。無視は良くない事だと、幼い頃にこれでもかと実体験で知っているのだ。他者へそれを実行できるほど、エイヴィヒカイトは心無き者ではないのだ。これも従姉の受け売り。
「サイレンススズカ先輩と出るハズだったからさ、トレーニング中でもメラメラに燃えてたんだ」
「そうですか」
「精神が高まれば、結果も伸びやすくなるだろ? 今のスペシャルウィークは相当な走りをすると思うんだ」
「…………ずるい、です」
「はあ?」
ともあれ、そんなエイヴィヒカイトが何故か気になって、視界内にいれば自然と目で追ってしまう。そこに含まれる意図は不明瞭で、自分の不可解な部分がスペシャルウィークの背中を求めている。レースで負けようと、必ず立ち上がる事を勝手ながらも確信している。
もしやこれが――――
「……なあ、もしかして俺ってば恋「いいえ、違います」――してるの、って言おうとしたんですけど、否定早くねーです?」
「絶対に違います。カイトがそんな…………っ、いえ、ありえません。ありえないでください」
「お、おう?」
念押しが怒涛の連打。エイヴィヒカイト は たじろいだ !!
その勢いたるや、日本語がちょっと右往左往していることにも気付かせない。
「サイレンススズカ先輩がいないのは残念でもあるけど、助かったのも半分あるかなー……不謹慎だけどさ、正直あの先頭民族とは、もう二度と走りたくない」
「本当に不謹慎ですよ」
「いやいや、一緒に走りたくないだけで、先輩には走れるようになってほしいよ? ただ再戦はできる限り遠慮したいだけで」
次に走れば負ける。少なくとも、今のエイヴィヒカイトでは負けてしまう。
意識せず、豊かな好調に乗っていれば、その才に身体の方が持たなかった。そんなふざけた才能持ちだ。怪我をしたとは言え、例の天皇賞で超えた壁もあるだろう。そんな怪物と走っても、エイヴィヒカイトが得られるものは無い。少なくとも公式戦では、二度と走りたく無い。
「怪物と言えば……そういやアルダンって、芦毛の怪物と同期だったよな」
「オグリさん? ええ、クラスメイトですけど……場を繋ぎましょうか?」
「無い無い。アルダンの紹介で会うとかありえんでしょ」
隠すことが面倒になってきたカイトを知ってか知らずか、アルダン自身も周りを気にする事が少なくなってきたように思える。カイトのトレーナーに相談していたこともそうだし、部室でワザワザ昼食を共にするなんて、以前なら考えられない。
「走り方参考にしたから、ちょっと気になってさ」
「……そう、ですか」
そんな彼女は、口を強く結んで目を伏せている。
「そんな心配?」
「ええ、とっても」
「それよか応援してくれよ」
「……私だって、できるなら……そうしたいのに……」
カイトは気にしないようにしているが、間違ってもこれから大舞台へ臨む者へ掛ける言葉では無い。
分かるような嘘を吐く性格じゃ無い。本心の吐露だ。アルダンは心の底から、エイヴィヒカイトを応援できないらしい。
それはなんとも、どうにも、言葉にし難い感情がある。
「本当は、もう二度と走ってほしくないです」
「二度とって……んー、……アルダンの頼みでもそれはちょっとな」
「……分かってます。だから私は、これからはカイトが――」
あまり聞きたく無いかもしれない言葉が出てくる前に、机の上で携帯が震える。
「あー、へいへい。説教の前に電話出るわよー」
「……もうっ!」
膨れっ面を流すには、ちょうど良さげな口実。
しかし掛かってくる心当たりなど、そうそういない。というか一番掛けてくる存在が目の前にいるのだから、着信相手はそれなりに絞られる。
真っ先に思い浮かぶのはスピカの面々。昼の誘い辺りが妥当な予想ラインと見た。もしくはフラッシュもなきにしもあらずだが、彼女から掛かってくるのは相当なレアケースだ。どちらから連絡されるにせよ、珍しいことに変わりはない。
そうして画面を覗き見れば、映し出される番号には嫌なくらい記憶に残っている着信相手の名前。
少しだけ、電話を取るのに躊躇した。
「…………」
「カイト……?」
「……いや、出るよ」
正確には名前ではなく、設備の固有名詞。人名等ではなく、もっと無機質な文字列。
そこから掛かってくる覚えは、二つくらいある。でも頻繁に連絡を取っていた訳でも無い。此処の施設との電話なんてそれこそ数年振りで、そこからくる予感は、途方もなく嫌な予感を強制させた。
そして、恐る恐るその通話を繋いだ。
「……はい、エイヴィヒカイトです」
「――――」
身体が震えるのは、大きく分けて二つの理由。一つは暖房の電源を入れて間もないこの部屋が寒いから。
もう一つは、足元が崩れるような幻覚を見ているから。
ひどく落ち着いたその声は、パニックを誘わないような配慮なのだと理性は考えてくれた。彼方もプロだ。そんな現場なんて幾度も目にしている。状況に慣れているからこそ、冷静で的確な行動ができる。だからこそ、カイトを刺激しないように話せる。
「――んでっ……そん、な…………っ?」
でも、そんな気遣いをただの冷血だと思い込んだ、そんな醜い自分を自覚する。
――――他人行儀でよくもぬけぬけと。お前の人生には関わりがないから、そこまで冷静でいられるのだろう。これがお前の身内だったらと考えたことはあるのか。そんな事柄を事務的に伝えられて、どんな心境になるのかなんて想像もできないのか。
そんな、罵声の限りを尽くしたくなる衝動。抑え込めたのは、ひとえにそんな姿を見せたくないヒトがいたから。そうでなかったら、なりふり構わず理不尽な言葉を浴びせていた。
それくらい混乱していたのだと思う。
「……わかり、ま、……た……」
切り際の声は遠く、目に映る映像も遠のいている。現実から逃げようとした心が、カイトを世界から遠ざけている。そうして、心を守ろうとしている。
正直言われたことの七割も理解していたとは思えない。耳に入って来たワードも、ただ一つを打ち止めに理解を拒んでいるのだを
認めたくない。なのに心の何処かで受け止めようとしていた自分を。いつの間にか覚悟を終わらせていた、そんな殊勝な自分が途方もなく――――殺したくなる。
「どうかしたの?」
「…………あ、……あ……る、だん」
「……一体何が?」
情けないほど震えた声。縋れるものを探している、迷子のような有様。
電話越しの担当医曰く。
「母さん、が、……っか、母さん、容体が……」
今まで寝ているだけだったのは、ある種の奇跡。外付けの機器要らずで保てていたのは、気づくことのなかった綱渡り。
無自覚で渡っていた綱が、今までよりも不安定になってしまったと。
「叔母さまが……!?」
「い、、息が、止まって、もう、じ、じ自分じゃ、呼吸も、で、きないっ……て」
息が詰まっているのは、果たして誰だ。
病室に置かれた物々しい機器は、心電図モニターだけだった。それが人工呼吸器も追加され、今まで以上に重篤患者らしくなっている、らしい。
低下していたバイタルも持ち直してくれたが、依然として一刻を争い、余談なんて許されない。ここまでがカイトの噛み砕けた情報で――――嗚呼クソ、説明の時間も惜しい。
「い、かなきゃ――ッ!!」
「カイト!?」
何処へ、なんて当然の事。
この足が向かうは病院。母親の眠る病室へと、なりふり構わず全霊を持って走り出した。
息を継ぐ事なく辿り着いた、カイトにとって安寧とは遠い象徴。
病室の前で担当医から説明を受けて、茫然自失としている姿を、通りすがる者達は皆、一様に気の毒そうな顔で一瞥していく。
いっそ勘違いとも言い切れない憐憫が、酷く癪に障る。
「…………」
扉の向こうでは、確かに生きている。息をして、心臓も動いている。
しかし生き物とは、永遠に寝たきりなんて状態を続けられる設計図にはなっていない。
動かなければ、筋肉は落ちる。筋肉が落ちれば、内臓各部も動かしづらくなる。骨密度だって下がる。もちろん衰えを防ぐための療法処置もほどこされているが、その成果は低下を緩やかにしか留められない。ましてやトレセン学園に入ってからは、カイトはそういった理学療法を行えていない。
そもそも脳への傷がたたって寝たきりになったのだ、意識が喪失し続けた先にある影響も計り知れない。
つまり、今の彼女は徐々に死んでいる。
管を繋ぎ、針を刺し、酸素マスクに覆われて、必要であれば除細動器で身体を跳ねさせる。そこまでして、ようやく生存の側へ踏み込めている。そんな状況。
生きているではなく、生かされている。相応しい言葉はきっとこれだ。
エイヴィヒカイトの我儘はその命を縛り付けて、向こう側へ行かせず縛り付けている。癒す手立てを知らず、救済の奇跡は齎せない。
数えるのも億劫な負い目があるからこそ、この先へ踏み込むことの無かった半年強。
「…………! ……、…………」
なのにそんな自分が、一体ここで何をしているのだろう。
病室の扉に手を掛けたまま、開く事なく声を届ける訳でも無い。
エイヴィヒカイトは、何のためにここに来た。
会えないと決めた筈なのに、ドアを掴んだその手は何だ。
まさかと思うが――――ここを開けるつもりなのか、エイヴィヒカイトは。
「……っ! カイトくん!!」
「…………ぁ……ふらっしゅ、さん」
様子を見れる人物が現れてくれて安心する。これで自分は、会わずに済む。それが心底
「母さんを、お願い。医者から聞いた話は、後で、するから……」
「……分かってます!」
無駄な問答を省いて、室内へ飛び込んでくれたフラッシュ。
慌てた様子がよく分かる、普段なら考えられない乱雑な扉の開け方。
力任せの感情任せに開けられた隙間からは、数ヶ月振りの、母親の姿を垣間見てしまう。
穏やかに見えていた、およそ七ヶ月前の姿。そんな姿とは打って変わった、母親の眠る姿。
繋がれ貼られ、刺されて咥えさせられて。最新鋭の機器に囲まれたその姿は、明らかな非常時を予感させる。
時間は無いと、刻限が近いと、噴き出し吐き出される絶望が、エイヴィヒカイトに囁いた。
「……その、前に…………」
母親が目を覚ます可能性とは、真実カイトの希望でもある。そんな母親の、無惨とも言える姿を見て折れるはずの心。
でもとっくに心なんて折れていた。
父親が子の目の前で柘榴と
自己を形成される途中で、散々に自らを否定されて。拙い過去の自分でも、『ああたしかに、じぶんは
それで壊れない子供が何処にいる。
「必ず……果たす」
ブレーキも、良心も、思いやりも、ここから先には全部が要らない。
果たす。果てる。最速の道筋で、最高峰の結果を成し遂げる。そのために荷物は捨てていけ。
そこに至るまで、それ以外は求めてはならない。求める心も捨てていけ。だから、アルダンの懸念を踏み抜いていけ。
「――――必ずだ……ッ!!」
怪物を越えた王者として、全てを薙ぎ払う。数多の強者を踏みつける。
理想を砕いて、夢を凌辱しろ。常識を侵食して、非常識を従えろ。意志を壊して、善意を払いのけて、悪意を飲み下して。
誰もが到達するハズの無い――――未踏の領域にて、願いと共に果てるがいい。
車で飛ばすよりも走った方が速いって、あの世界やっぱやべーですわ