そんな自分にキレそう
容体が急変して、終わるかもしれないと連絡があったあの日。
世界中の誰よりも一番、そうあって欲しく無いと願った自負がある。
尊敬する母親へ救済を望みこそすれ、疎ましく思うなどとあってはならない。そんなことは、ここまでの道のりなどとは比べ物にならないほどの裏切りだ。
目覚める見込みが薄かろうと、維持を続けるのはそのために。
『ごめんね』
ウマとして生きなければ、エイヴィヒカイトへの理不尽は巻き起こらない。耳は隠せる尻尾は切れば良い。そうやって生きれば、周りも不幸にならない。だからエイヴィヒカイトは普通の人として生きるのが、一番平穏で平和な道である。そんな穏やかな日々こそ、両親が受け取って欲しいと願った幸福の答え。
だから理不尽を呼び込むウマとして進むと決めた日から、エイヴィヒカイトは決定的な裏切りを続けている。ウマとして在るだけで、走るだけでどうしようもなく裏切っている。
でも、そうでもしなければ、エイヴィヒカイトは自分を保てなかった。
『ごめん、ごめんなさい。やっぱり俺は、あなたたちの子供に相応しくありませんでした』
自分にとっての不吉の象徴を切り離せなかったあの日に、裏切ってでも好き勝手にやろうと決めた。
父親の亡骸を蔑み、眠る母親へ侮蔑の視線を送った奴等へ――――
それだけで満足してはならない。いくら自分が理不尽を呼び起こした根源と言えど、周りへ降り注ぐ悪意だけでなく、その源泉を打ち砕かなければならない。
ましてやこの癇癪は、個人へぶつけて満足できる代物では無い。
世界の意識構造もろともぶち壊して、廃れさせてようやくエイヴィヒカイトの勝ち。
百歩譲って、ある種その革命が日本国内だけに留まったとしても、それでもエイヴィヒカイトの勝ち。
その地点までは、いつしか手が届くほどに近づいていた。
『全部終わった後に、起きてくれたら嬉しいな』
エイヴィヒカイトが歪ませた世界を見せてみたい。
百点満点の答案用紙を自慢するように、自分の成果を誉めてもらいたい。
そんな期待感が日が回るごとに高まって、その度にそんなことにはならないだろうと確信をする
だって優しいから。優しい人達は、みんな止める。
けれど雑多の声など届かない。届くかもしれなかった彼女との縁は、届かせる前に捨てた。だが母親ばかりはどうにもならない。
母親との縁を捨てることは、絶対に出来ない。走り出す決意をさせた発端を、自己の中で消すなんて無理に決まっている。
きっと、母親に言われればすんなり止まる。それも自分で分かっている。
『
これが何よりの裏切り。
どうか起きないでほしいと、一体いつから願っていたのだろう。
眠り続けて、それでも死なないでくれだなんて、生き殺しているのと何も変わらない。エイヴィヒカイトは、実の母親の命を確かに弄んでいる。
でもやっぱり、今起きられるのは困るのだ。
十年来の夢。木端共が三冠へ憧れるように、スペシャルウィークが日本一を追いかけるように、誰もが掲げる等身大で輝かしき道標。
これこそが自分で自分を救う、唯一無二でたった一つだけの冴えた道行。
夢。そう、夢だ。全部夢。夢になる。夢にしてしまえば良い。
父親が自分を庇った事も、そのせいで車にミンチとされた事も、同じく庇った母親が寝たきりになった事も、そんな庇われたガキは無傷で呆けていたことも、全部夢にするために。
死後の世界なんて無い。だから終わってしまえば、そこへ至る全部が無かったことになるのと同義だ。
遺すモノなんて無い。そんな大切は、自分には居ない。そういうことにしておかないとエイヴィヒカイトは動けないから、そういうことに
『多分、もう二度と会わないから、安心してね』
朗らかに柔らかく笑って、そう言った一年前。
トレセン学園へ足を踏み入れて、その二日前の出来事を夢に見る。
今更過去を振り返るのは、暇つぶしかもしくは何かの暗示か。
ふと――――そう言えば、なんで自分は楽しく走りたいなんて望んでいたのだろう。
何故自分は、スペシャルウィークやマルゼンスキーを羨ましく思ったのだろう。あの姿を目の当たりにして、カイトは一体何を望んだのだろう。
そんな経っても答えが出ない自問が、何故か湧き上がる。
微睡みの中で自問を繰り返して、働く思考は目覚めを促した。
「……ふわぁ……、…………いてて」
眠気が全身の感覚を愚鈍化させていた間に、それを忘れていた無意識は背を伸ばさせた。
そんなことをすれば、当然塞がりきっていない背中は刺激されて、裂くような痛みが惚けたような意識を無理矢理に引き締める。
「…………」
朝起きてまずは包帯の交換。そんな習慣が染みつく程度に手慣れた手付きで、背中の包帯とガーゼを剥がしていく。
乾いた血液が張り付いて、剥がすごとにベリベリと糊のような音がした。乾いた赤い粉が少量舞って、布団を赤くまぶしてゆく。なんだかうどんに唐辛子でも振ったような、そんなことを連想して腹が減るかと言えば、食欲はむしろ減る一方です。
「ひえぇ、お肉見えちゃってるよ」
鏡越しに覗ける傷口には、肌とは明確に違う血色。しばらく肉料理は食べづらい。そんな感想を抱く日々であった。
エイヴィヒカイトの持つ治癒力は、常人よりも割と高めならしい。本来の想定よりも速く、腕の傷は跡となり、足の傷もほぼ塞がっている。あとは背中が治りさえすれば完治なのだ。
もっとも、そんな速めの治癒を見越したメジロ家主治医の見立てでは、完治まで最低でも二週間は掛かると言われた。それまでは開いた傷を、絶対に安静にして刺激しないよう言い含められている。強面を更に強張らせて、『絶対』と念押ししていた。ばあやさんもそれに乗っかって、厳しめどころか思いっきり怒った態度で、安静にしろと言ってくれた。
そんなの聞くハズがないのだが。
「背中、開くよなこりゃ。足も多分、開くよなぁ……」
そんな言いつけを堂々と破りにいく姿は、果たしてどんな風に映るのだろう。
痛い思いは嫌なのに、望んでいるのはなんて矛盾。被虐趣味なつもりも無い。しかし折角の怪我を活かさないのは、もっとあり得ない。爪痕が残せるなら、存分に使い尽くすのが吉なのだ。
とは言え死ぬにはちっとばかし早すぎるので、ほどほどがちょうど良い。具体的には膿むくらいで良い塩梅。爛れたような跡などが残れば最高。
ワザと非衛生的にしてまでそうなるつもりもない。あくまでレースでの過程にて作られるのが、一番の肝心要なのだから。
「ばあやさんに止められる前に早く行かないと……」
怯えてなどいない。これは戦略的あーだこーだ。
手早く包帯を変えれば、既に帰る用意は万事万端。退院の手続きは昨夜の内に終わらせて、完成しなかったパズルピースはあらかじめ捨てていて、その他少ない荷物もまとめてある。着替えはそもそも入院着で過ごしていた数ヶ月だ、ここへ来た際の一着しか無い。
のんびりもしていられない。そろそろばあやさんがやってくるのもそうだが、一度帰って勝負服を回収しないと、私服のまま天皇賞を走る羽目になるのだ。
「体操服でさえないのはご勘弁の極み〜」
関係者への挨拶もそこそこに、慣らし程度の駆け足でその病室を後にした。
ばあやさんからの電話が鳴り響くのは、家に着いた頃だった。
それはもう、こっぴどく怒られたとだけ。
ピッタリ四ヶ月の間、その姿を見る事はなかった。
その間にトレーニングの暇は無く、適度な食事と睡眠を繰り返していたと聞いていた。運動することなく、身体を休め続けていたと。
だから身に付けた筋力も、衰えているのだろうと思っていた。思ってはいたが――――
「……なあ、アイツってあんなに痩せてたか?」
「絞ったんじゃないのか? 身体を作り込む時間はあっただろうし」
「それにしてはこう、病的って感じが……」
隣でそう言う、見知らぬ人に心中で同意した。
彼の身に付けた軍服のような黒衣は、袖が余って隙間ができている。腕だけでなく足にも、風の入り込める隙間が作られ揺れている。
襟から覗ける首は、自重で今にも折れそうな印象を受けた。
全体的に頼りないような、そんな脆さを受け取った。
歩き方も不自然だ。片足を庇おうとして、けれど逆足も庇おうとして、結果未熟児のような不出来な歩き方が完成している。
大きく羽織った白の外套が、今日は一段と重そうに見えるのは、顔色が悪そうに見えるからなのだろうか。
「……カイト」
そんな彼が手を振った。
当たり前だが、その先には私ではなく他の人。その方は人混みで伺えないが、きっと彼の知り合いなのだろう。もしかしたらマックイーンか、ドーベルやライアンだったりもあり得る。私では無いことだけが確かな、他の誰かへ笑顔を向ける。
にこやかに手を振って、一度だけ振って、私の方は一度も見ない。視線が此方へ向いても、どうしても目が合わない。彼の瞳を、私には直視させてくれない。
あの綺麗なルビーの瞳は、きっと、もう二度と私を写してくれない。
「……っ、……」
その自覚をした瞬間、息が止まったかと思った。
寒気が立ち込めて、逃避を試みた意識が遠のこうとしている。
胸が内側へ捻れるような、そんな幻痛がひっそりと訪れた。
想い焦がれるとは、確かに字の如く焦がれるらしい。鉛のように綺麗でない鈍色な感情が、熱を帯びて持ち主を焦がしていく。捨てれば解放されるそれを、いつまでも捨てずに待ち続ける。
私は、場違いにも嫉妬している。
彼の瞳が写す存在が羨ましくて、妬ましくて、嫉んでいる。
こんな場で、彼が戻ってきた晴れの舞台で、醜く穢れた嫉妬心が膨らんでいく。
『これが復帰戦との事ですが、あまり良いコンディションでは無さそうですね』
『自らの実力を如何に吐き出せるかにかかっているでしょう』
彼は負ければもう走らない。何故かまでは分からないが、それでもその時点で走ることを辞めてくれる。
そうなれば、私との確執の原因も消えてなくなる。彼が傷つくこともなくなるし、私が彼を止める理由も無くなって、彼が私を拒絶する理由も無くなる。そのハズだ。
そうなってほしい。私を再び見てくれるために彼がこれ以上傷つかないために、どうか負けてほしい。
彼の目指す夢を軽んじた先に、
だから。
「――――て」
なんだってする。
貴方にあげられるものは、なんでもあげる。傷付かせること以外なら、なんだってあげられる。
貴方からもらえるものは、なんだってもらう。貴方からなら、どんな傷でも贈り物。なんだって受け止める。どんな苦痛も、どんな歓喜も、貴方からならすべてが嬉しく愛おしい。
そんな私が、唯一求めるたった一つ。
「お願い――
私だけなんて贅沢は言いません。そんな我が儘は言えません。
だからどうかせめて、貴方の世界に私を置いてください。置き続けてください。
ずっと置いてくれるなら、私はきっと満足しますから。
「よっす、久しぶりスペシャルウィーク」
「カイトさん」
最後に見た時よりも、明らかに痩せ細ったその身体でパドックに立っていたのは、私だけでなくチームのみんなも驚いていたものだ。
此処へ来ることを微塵も疑っては居なかったが、そんな身体で本気で走るつもりなのかは疑問だ。少し開けられた首元には、鎖骨が覗けそうなほどの隙間が出来ている。それだけ体格が薄くなったという証左でもある。
「どったの、なんだか元気無い?」
「……」
「……ま、勝つからよろしく」
どこまで鵜呑みにしていいのか分からないその言葉だが、本気で言っているその真意を聞きたくなった。
「カイトさんは、本気で勝つつもりなんですか?」
「嘘言ってるように見えるか」
「そんなことありません。けど……本気だからこそ……」
「……舐め腐った姿勢に見えるか?」
「そんな、そこまでは…………」
『そんなことはない』と言い切れずに、口は開いたまま言い淀む。
「でも、四ヶ月のブランクで出ようだなんて……」
「常識じゃぁまずあり得んか……でも他のみんなを軽んじてる訳じゃ無いよ?」
納得に足るかは不明。余人には分かり得ない領分なのだろう。それこそ、彼の芯から理解できる者でなくては、その言葉の真意はチンプンカンプンだ。
「俺には二択ってだけ」
快活明瞭な答えが知れるとは思わなかったが、こうまで意味不明だとも思わなかった。少なくとも、少しくらいはこの疑問が解消されると思い込んでいた。
「勝って進むか、負けて終わるか。そんでもって、俺はずっと前に勝つ方を選択した」
「……?」
「抽象的過ぎるか……要はあれだ、」
疑問はさらに深まって、知りたいと求めさせる。
理解させる気も無い説明の仕方。勝てば委細詳細を答えてくれるのだろうか。
「生を賭した夢の道中なんだし、負けることを考えるのはあり得ないだろ…………なんちゅー目をしてんのさ、
「――カイトさん、今日は私、負けたくないです」
そんな思い付きは、私の中に在った、勝利への欲を引きずり出した。
「うむ……怖い。……怖いってば」
ゲート内から横目で
打ち負かす、這い蹲らせる、膝を汚させる――――勝つ。そんな気概が詰め込まれて砥がれている。
静寂が広がり始めて、ようやくスぺは真っすぐな目を前方向へ移して、それでようやくプレッシャーから解放された。
引き攣った顔を隠すように手で覆えば、頬に移る掌の湿り気。今日は汗だくになるほどの気温じゃない。ならばこれは久しきレースへの緊張、はありえない。実際、ターフへ来てもリラックスしきっていた。それがどうにも落ち着かなくなったのは、そういうこと。
――知らん間に貫禄が着いたな。
それもとびっきりに強者の気配。それこそ生徒会長やグラスだって思わずたたらを踏むであろう気迫が、丸ごとそのままにエイヴィヒカイトへぶつけられている。
てっきりふざけた態度でレースへ臨むエイヴィヒカイトへの怒りかと思いきや、そういった悪感情は感じ取れない。だからこれは、対抗心の延長線上に存在する感情。グラスから向けられるモノと酷似した、そういった感情。ぶっちゃけるとやっぱり怖い。
「……ふぃー……――」
ただ、それがエイヴィヒカイトを揺らす要因になり得るか。否。
衰えて抜糸も済んでいない足で、シニアの強豪に常道通りに負けるのか。否。
どうしても負ける気がしないのだから、きっとこの予感は現実になる。
身に満ちる正体不明の充足感が、傷の痛み以上の疼きを全身へ与える。
視界が鮮明なのは、精神的な理由。
三千二百の距離が短く感じるのは、意味不明な感覚。
開いて結んでを繰り返し、その果てに得た結論が他と変わりない構造だという、ある種当然の結論。誰よりも本人が自覚していた通りに、何処にも特異な部分が見当たらない、普遍的ウマの身体構造。
そも現代科学では解明しきれないウマ娘。未だに不可思議と認識されているウマ娘達と同じ身体を持つのであれば、この身が不可思議なバ
であれば、正体不明の活力が湧き出るのにも疑問は挟まれない。
「――行くか」
銀の扉が開け放たれて、脇目を振らずに走り出した。
その一歩目を踏み出した瞬間に、二つの確信を得た。
一つは、このレースに勝つ未来。
もう一つは――――
「(いってえええぇぇぇえ!!!!!)」
――――スタートダッシュの一歩目に、ブチリと糸が千切れた確信。
肌を粘度の高い鉄分がつたって、服が張り付く不快感を覚えた。
まず裂けたのは、糸で辛うじて繋げていただけの背中。素肌にぬめりが広がって、けれどそんな不快が全く気にならない。
痛みなんて些事がどうでも良くなるほどに、景色が爆速で流れていく。
いつも通り、なんてものではない。いつも以上に、この足が前へ動かしやすくなっている。
世界に存在する抵抗を全てすり抜けるように、するりと目の前の空間を掻き分ける両足。淀む気配は無く、傷は開いたまま、軽快に進んでいく。
軽快に進んで、誰も居なくなった。
「――――おろ?」
開始十秒と経たず、目の前に障害がいないのはおかしい。そりゃあ逃げの戦法で走っていれば、そんな景色でレースは始まる訳だが。今回は慣らしの様子見も兼ねての先行策。そう、自分はやや差し気味の先行で走ろうとしていた気がする。
ならこうして前を突き進んだ状態なのは、いったい何故なのか。
痛みはともかく、全身が軽いのは何が発端だ。
考え事をしていれば――――ブチブチと、癒着しかけた肉の裂ける感触。
「(あいたたたたたたたた)――――いたい」
激痛が脛の内で暴動を起こしている。野ざらしになった赤い内側へ、衣服が張り付いて刺激する。指のさかむけを引っ剥がした時と同種の、されど何十倍もの破茶滅茶な痛みがとてつもない。とにかく痛くて、痛いのが痛い。知能指数を投げ捨てた、語彙力不要な痛みが全身を浸す。
だが急速でやってきた痛みも、やがて薄れていく。和らぎはしない。薄れる合間も、引き攣ったような不快感が大量生産を止めはしない。
それら全てを飲み込んでいくのは、視界を染める灰色の感覚。
強制的に捻り出されるアドレナリンが、進め走れと指示をする。
逆らう選択肢は存在しない。走り続ける理由なら此処に有る。
己から湧き出る絶対を胸に、絶対頂点へ征く道を進むのだ。
そのために、後ろからとにかく逃げろ。
「やば、そうっ、かも――――」
ただセーフティーリードと安心するには、ちょびっと足りない。足りないものは持ってくるのが当然である。持ってくるなら労力を払う。
例えばそう、久しぶりに境界線なんかを超えるのも良いかもしれない。
距離は千を超えたと見える。後続とは十のバ身を確認できるが、安堵なんざもってのほか。普段ならともかく、此度は気を抜いたら喰われる相手がいるのだと、エイヴィヒカイトは理解も納得もし尽くしている。
「頑張りすぎだぞスペッ!!」
「――――あとっ、少しッッッッ!!」
中段から伺うのが常だったのに、今日は一体どうしたのだろう。
ラストスパートの如き気迫で、後続の集団とは離れて進んで、二バ身差で二着に付けているスペ。そんなに飛ばせば後が持たないと理解しているのかしてないのか、後先考えない破れかぶれが今はとにかく恐ろしい。
そんな恐ろしい存在が、ジリジリと白衣の影を踏み掛ける。
「何があったんですかねっ!!」
「逃がし――ません! 絶対に! 負けない!!」
「なんだってそんなっ! やる気なんだよオマエ!!」
冗談では無い。あちらは才能の塊で、こちとら無才と言われた身だ。彼我の差を埋めてきた要因が死に物狂いの執念であり、そこからくる決死こそがエイヴィヒカイトの持ち味だった。
だと言うのに、才能を持った可能性の塊が決死で向かってくるなど、そんなのズルい。凡庸の専売特許を奪ってくれるな。伸び代はそっちが圧倒的なのだから、執念くらいはこっちの専用にさせろ。
恐ろしいから、こっちもなりふり構わず境界を超える。
念には念を入れ過ぎとは微塵も思わない。むしろそんな相手だからこそ、エイヴィヒカイトは確実な勝利を欲する。
一度先頭に立ったのなら、順位を下げられた時点で、エイヴィヒカイトからすれば負けも同然だ。エイヴィヒカイトの目指す最強は、結果へ届く過程ですら負けは許されない。常に上に立ち続けるか、下から常に上がり続けるか。そうして初めて、常勝無敗なる最強至高に相応しい姿勢を示せる。
そんなエイヴィヒカイトにとって、一瞬でも前を走られかねない今のスペが酷く恐ろしい怪物に見えてしまう。
ぶつかる向かい風もなんのその。強く目を見開かせて決死の表情のスペが、モノクロの世界で確認できた。
「剥がっれろ――よ! 大将!!」
「――――くっ、! もうっっ、少しなのに!!??」
不足などない。躊躇いもない。此処は超えるべきタイミングだと心得た。それを由縁にして、足元への違和感を残したままにその一線を超えた。
伸ばされた景色は加速して、まともな形を視界に移させない。胸元に詰まるような異物感。空間を認識する機能は削がれる。風の抵抗を受ける白の外套を、今すぐ投げ捨てたくなる。纏まらない思考が、思考が纏まっていないとの意味不明な結論を出す。ああダメだこりゃ。脳細胞がこんがらがる。
足からは決定的な音が
そんな自己に従えば、灰色世界の外側で、怪物のような足音が木霊した。
瞬間爆発したように伸ばされた景色は線となって、異端の存在と並走を続けてくれる。
爆発音が一つ、二つと打ち鳴らされる毎に、強者の気配は後ろへ遠のいて、気づけば――――否、この身は気付かぬうちに残り千の距離を切っていた。
「勝っ、、、――――た?」
最終コーナーを最初に回ったのは、エイヴィヒカイトただ一人。
唯一抜きん出て、並ぶ者はこの場に
影を踏む者はいない。背に追い縋っていると称するには、些かよりも遥かに遠い。鬼気なる気配は消えて、ようやくの安全圏内。減るどころか、以前よりも明らかに増したスタミナが教えてくれる。気を抜ける時間がやってきたと、本能が安堵している。
鎧袖一触など生温い。深く彼方まで広がる格差が、二十を超えた距離で示される。その隔たりを埋めるには、この場に在る者では役不足だと背中で語る。
負けの介在しない差を作った永劫の灰。その差に歯を噛む紫耀の星。そんな二人を外野から見つめる群青の焔。
後の結果は、前言の通りに。
見事な勝利を飾った彼へ伝える言葉を持たないままに、足は勝手にそちらへ向かう。
突き放されて、自分からも距離を取って、何のために此処へ来たのか。自分でも自分がよく分からない、なんて嘘で自らを騙して彼の元へ向かう。口実にもならない理由に、自嘲の笑みだって浮かぶ。
なら来るなと、彼は言うだろうか。思いやられるのが苦手な彼だ、彼を労わりたい私は、そもそもの相性が悪いのかもしれない。
「…………でも、」
痛ましい走り方。何かを耐えるように走って、途中からは鈍感なフリをして気付かないフリをして、そうして叩き出された復帰戦の結果。
終わってからの表情は、これまでに見たことがないほどに焦りを表に出して、死に追われてるような印象だって受け取れた。
あんなに感情を表に出すのは珍しくて、そうさせたのは、途中まで追い縋らんとしていた彼の同期。
私でも引き出せない表情を引き出した彼女が、羨ましく思える。
「……今は、カイトに」
そんな醜い自分は隠して、気づけば彼の控室が目の前にあった。
ライブに出ない彼はこの後すぐに居なくなる。彼の様子は、このタイミングを逃せば近くで確認することが叶わなくなる。そう考え着いた頃には、もう歩き出していた私の行動力。
突発にやってくれば、扉の前でどうするかまで考えていなかったのなんて、ある意味当然。
ここまで来て、結局は耳を澄ませるだけ。本当に、私は何をしに来たのだろう。
『――――!!!!』
「……カイト……?」
閉じた扉を素通りして、その叫び声が耳へ伝う。遮る物など無いかの如く、絶叫に紛れた異常な呼吸音までを、ウマ耳が余す事なく捉える。
声を出していないと気が紛れないから、彼は金を切り裂く声を上げ続ける。声を酷使すれば喉は裂けて、声は徐々に掠れていく。そうやって血が絡んでも、構う事なく彼は叫んだ。
衆人の目や耳があるこんな所で、こんな声を上げるなんて尋常ではない。
いてもたってもいられなくなって、扉を強く掴めば物音が鳴ってしまう。でも気づかれた様子もなく、私はゆっくりと扉を開けようとして――――
「――……うそ、」
気づかれないように隙間を開けて覗けば、すぐにその愚行を後悔しかけた。
包帯は白い、それが常識だ。清潔感を保っていれば、自然と色味は白へ近づく。何かしらの異常が起きた際に分かりやすくするため、薄い配色の景色が医療品には多い。
だから赤色なんて滲めば、おかしなことが起きているのは一目瞭然で。
ズグリとこめかみが痛む。きっと目で見た光景を否定しようとしているから、そのギャップで頭痛が起こる。だってこんなのはおかしい。彼が怪我をしたなんて聞いたことがない。服を剥げば包帯だらけになるような姿だなんて、聞かされていない。私が聞いていたのは検査入院とだけだ。
あんな、全身に巻かれた包帯がドス黒くなるような事に、どうすればなりうるのか
座った椅子を鉄の香りでぬめらせて、手が触れた部分は掠れた絵の具が塗られて、当然全部が真っ赤に染みている。
「――――」
暴れた手足は虚空を蹴り付けて、室内の赤い密度は更に増す。
『痛い痛い痛い痛いっっっっっ、っ!!!!!!』
『我慢してくださいっ! 私では縫えませんから、包帯で抑えるしかないって分かっているでしょう!?』
『もちっと優しくしてくれよフラッシュさん!!』
『素人に無茶を言わないでください!! ……そもそもこんな傷で走るなんて、おバカなんですか!!?』
背中の包帯は背骨に沿うようにして、赤く一直線に滲んでいる。一際色合いが濃いのはそこだ。そこから開かれて、鉄の香りが絶え間なく部屋中に広がっている。
あんな怪我を負ったような出来事は無かった。それはつまり、アレを抱えたまま走ったことを意味していて、それで、あんなに血が滲むような怪我をしていて、どうしてあんな走りができてしまう。――――そもそもその娘は誰なのか、なんでそんなにも気安く話せる間柄なのか、私が知らない間になんでそんな、私ならもっと丁寧にしてあげられるのに――――それはともかく、今は彼の怪我について。
『……フゥーッ、フゥーッ、!! …………いっつつ……いったぁ…………』
『拙いとは思いますが、消毒も済ませました。感染症などの可能性は低いとは思いますが……念は押すべきです』
『ん……それじゃあ病院行くか仕方ねーなー……』
『あたりまえですなんで渋々なんですか!?』
血の量が尋常ではまず見ない。ガーゼの上から包帯に浸るほどの出血は、布に抑えられた見た目よりも遥かに多量のハズだ。あれがレースの最中に引き起っていたのなら、何かに耐えながら走っていた理由も納得できる。酸素も足りずに意識だって混濁していただろうに、それでもあそこまで走り切った。
でも、なんのために。
本心から痛くて、心底から苦しくて。レースが終わった後に、こうして激痛から逃げたくてもがいていた。
それなのに。
「なん、で」
『〜〜っ!! あー、くそ、めちゃくちゃいたいしあついし、とにかく、いたい……いっや、はや、マジいてぇ』
「笑えるの……?」
彼の笑顔なのに、彼が心の底から笑っているのに、とても見ていられない表情をしている。
苦痛にあえぎながら嬉しそうに笑う姿が、ずっと焼き付いている。彼の一番嬉しそうな顔は、いつまでもいつまでも私の息を詰まらせる。
結局彼は、未だに過去の希望に囚われたまま。私はその呪縛を取り外したかったのに、私には出来なかった。
彼に邪魔だと思われるのが怖くて、踏み込み切れないから、その笑顔を取り上げることが出来なかった。
『……その顔』
『なにっ、? いっっ、でででで』
気安い距離感で、彼の頬を抓む娘。
きっと彼女にも、その笑顔を取り上げることは出来ない。
『あまりいい気分になれませんね。他の人の前でその顔はしない方がいいですよ』
『はっ、あ? あっづ、っっいったい!!?』
『分かったのなら返事は?』
『あい、善処します』
それが出来る唯一は、今も眠りに付いて――――
誤字脱字はゆるしてねん
投稿するタイミングに限って何故か毎回眠いんじゃ
バッドエンドIFいるかいらんか
-
いらん
-
いる