未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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このご時世ではただの風邪っ引きでもコロナを疑わざるを得ない恐ろしい時期


そのにじゅうご

 落ちることのなかった脚力。喪失の気配がないスタミナ。衰えて然るべき五体には、むしろ以前以上に上昇した実感と手応えが与えられ、スペへと敗北を押し付けた先の一戦。

 すかわち本格化の波がやってきた。なら乗るしかない、このスーパー・ハイパー・ウルトラ・ミラクル・ロマンティク・ビッグウェーブに。そんな千載一遇を煮詰めたようなサムシング。

 先日の天皇賞で予感をうっすら受け取れば、すぐさまその手の話に詳しい先輩に相談してみた。

 

「なんとなしに話したもしもが実現するとは……本当に君は、退屈とは無縁の被験体だ」

 

 トレーナーだけでなく、こうして先輩からのお墨も付けられた。もう少し詳しく調べるつもりでもあるが、ほとんど確定と受け取っても問題無いだろう。

 気分は棚からぼた餅と高級羊羹が降り注いだ気分。

 本格化なんて分かりやすい成長傾向は、得られるだけ得だ。しかし、ただ得しただけとはいかない結果にもなったり。

 

「やっぱり俺ってば、伸び代を手に入れちまった訳ですね」

「そうだ。だから君との契約もここまでだ」

「あ、そっか……」

 

 元々の話では無才の成長頭打ちを、どうにか改造して突破する計画だ。その根幹が、実はまだまだ頭打ちには早かったですとくれば、前提からして話が違ってくる。

 望んでいた素材(平凡)だと思えば、中身は別物(有才)でした。これでは契約がおじゃんになるのも、当然の話ですらある。

 

「そこなんですが、なんとかなりませんかね」

「ならないね。才の芽が出た君にはもう興味は湧かないよ。ああ、それとも、無償のサンプルとしてなら大歓迎だが?」

「遠慮しときます今までありがとうございましたー!!」

 

 喰い下がらんとしようとする自分を全力で止める。長居は命に関わりかねん。勢いよく頭を下げて、エイヴィヒカイトは脇目を振らずに走り出した。

 

「君の健闘を祈るよ」

「あざまーす!!」

 

 荒めに謝意を叫びながら、廊下を走っていく。

 あの眼はアカンとピンと来た。エイヴィヒカイトの身体を、解剖用のカエルと何ら変わらない目線で見ていた。下手すればメスとか持ち出しかねない気配もあった気がする。

 理由も無しに再び開かれるのはまっぴらごめんなので、えんやこらとその場を立ち去る。

 あんまりにも呆気ない契約切れ。二度と会うことは無いかもしれない。プライベートで親しかったわけでもなく、校内で雑談を交わす仲でもない。軽い会釈や廊下ですれ違うなどはともかく、少なくとも、もう二度と会話を交わすことも無いのだろう。

 

「サッパリしてんなー、あの先輩」

 

 外野から見ればお互い様な感想を抱きながら、エイヴィヒカイトは理科室から離れていった。

 

 

 最近は、良く眠れない。

 

「――――」

 

 圧倒的な勝利を飾ったカイトさん。

 無期限の出走停止なんて前代未聞の障害を跳ね除けて、すぐ後の復帰戦で苛烈なる勝利を手にしたカイトさん。

 誇りあり、栄誉ある道を堂々と進むカイトさん。

 春の天皇賞にて、圧倒的で輝ける勝利がまた一つ。でもその足元には、それ以上の敗北が夥しく積み重なっている。まるで屍のように。カイトさんはその上に立って、また上を見上げて進む。

 それが勝負事。レースの残酷。敗者は勝者の踏み台となり、勝者は敗者を踏み越えなければならない。

 憧れていただけでは分からなかった、輝かしさの裏側。

 唇を噛み千切るような、荒れ狂う悔しさをただ一人以外にばら撒く。そんな残酷が横行する世界。

 

「――――」

 

 いつもより少し早めに起きて、何をすると決めるまでもなく、寝巻きからジャージへ着替え始める私。

 外へ出る支度ができれば、寝ていたハズのスズカさんが小さく欠伸をする。

 

「……ごめんなさい、起こしちゃいました」

「ううん……気にしなくていいのよ……走りに行くの?」

「はい。行ってきますスズカさん」

「いってらっしゃい……気をつけてね」

 

 眠たげなスズカさんへそう伝えて、返事も聞こえず私は部屋を出た。

 廊下を進めば――――とある背中が見えて――――無人の廊下を進む。

 玄関口から出れば――――真っ白な外套が待ち受けて――――藍色混ざりの空が出迎える。

 ジョギングを始めれば――――影も踏めない残映が、私の悔しさを刺激する。

 

「――――ッ」

 

 悔しい。悔しい。悔しくて堪らない。

 負けたくなかったのに負けた、それ自体は初めての経験では無い。負けないと、勝つんだと奮起すれば勝てるほど、レースは甘い世界などでは無い。それを知れるくらいには、私もターフを走っている。けれど。

 

「――――〜〜ッッ」

 

 あの日の決意は質が違った。闘志の色が違った。今までとは深みが違った。それだけ私はあの場所で、カイトさんに勝ちたいのだと渇望していた、けど。

 それだけの気概を注ぎ込んだのに、あの瞬間刹那に注ぎ込める全てを尽くしても、その隔たりは埋まることがなかった。私が持ちうる全てを使い尽くして、それ以上の底を突き破ろうとした。そして微かに壁を突き抜けた()()があっても、私の中の想定内想定外を兼ね合わせてそれでも、遂にカイトさんには届かなかった。

 口惜しいと、感じるのは当然だろう。

 

「〜〜〜〜いッ!」

 

 その鮮烈な姿は、大小問わず人々の目に刻まれる。本人は気づいていないようだが、彼が宝塚や有などで票数を獲得できたのには、れっきとした理由がある。カイトさんが思いこんでいるように彼を支持する者が少ないなら、グランプリなんかに出られる訳がないのだ。

 そして、そんな鮮烈が刻まれているのは、私も同じ――――否。むしろ眼前で目した以上、その鮮明な傷跡は強烈に刻まれた。

 だってほら、今もこうして――――カイトさんは私の前を走っている。追い越そうとしても、そもそも追いつけない。足を緩めれば傷跡の中のカイトさんは、誰にも止められることなく走り去る。

 記憶が作り出した虚像でさえ、今の私には勝てない。ウソの存在にさえ負けたと感じれば、再びその虚像は姿を表す。

 まるで私に認めさせるように、スペシャルウィークではエイヴィヒカイトには絶対に勝てないのだと、刻まれた傷跡がそう反魂する。

 その後ろ姿には、私を置いて行ったその背中には、確かな絶対が垣間見える。以前よりもより強靭な印象の増した走りには、以前まで存在していた、ある種の不安定さが取り除かれていた。

 

「まけないッ! ……違う!!」

 

 そんなネガティブは、元気良く言っても意味が無い。

 カイトさんの走りは、完全へ近づいた。それはきっと、今私が幻を追いかけている瞬間でさえも、より高い地点へ向けて進んでいるのだろう。

 本当に勝てるのだろうか、なんて、そんな不安は考えるだけノイズでしかない。私が考えるべきは、どうすれば勝てるのかでなく、勝つためにどんな努力を成すべきか。どれだけの執念と欲望で差を乗り越えられるか。

 負けたくないでなく、勝ちたいのだと叫べ。

 

「勝ちたい!」

 

 敗北に怯えるのでなく、勝利を求めて手を伸ばせ。

 

「勝ちたい!!」

 

 時間帯にそぐわぬ大音声。でも構うものか。

 この猛りを叫ばないなんて、それこそあり得ない。

 

「私は、勝ちたい!!!!」

 

 込み上げる感情は、雫となって目尻から静かにつたう。

 溢れんばかりの情動に従って、足に力を込めた。

 気づけば空には太陽が大きく主張して、朝の本格的な始まりを告知する。

 黒白の幻影は、目の前から消えていた。

 その日が待ち遠しくて、子供みたいな情緒で湧き立つ自分を自覚する。

 だから最近は、良く眠れない。

 

 

 目覚めが快適とは程遠い。微睡の中で漂流しているような、フワフワとした浮遊感に居る。現実なのに夢のような感覚なのは、浮足立っていると捉えて良いのだろうか。

 夢のようだと感じるのは、ああ、確かに認めよう。夢心地の舞台が私を待っている。

 以前のように、梯子が外される結末にはなるまい。彼も今度こそはと、そう約束してくれた。

 

『宝塚たのむわ』

 

 彼らしくもある、気軽さ満載のその短いメッセージ。それを受け取ってからどうしても胸は弾む。心が躍るとはまさにこれこの通りで、心が騒がしくなれば、身体だって踊りだしそうな気分だ。らしくもなく小躍りするのも悪くはない。そんな気分が止まらない。

 まるで恋する乙女のようで、それとは明確に違った熱。

 不眠であるのは心が滾るから。

 滾りは吐き出さねば冷めやらぬ。

 けれど吐き出すには、彼でないと役が不足している。

 

「ヘロヘロネ~」

「いえっ……っは、まだ、です」

 

 走るほどに、不満足だけを得る。強者と共に走れる私は恵まれていて、ただそれが、満足のいく結果に終わるかは別の話。

 

「次のっ、方、お願いっ、します」

「ヒィッ!? グラス怖いデース!」

「元気いっぱいね……それじゃあ今度は私とどう?」

「はい、お願い、します……!」

 

 額に張り付く地毛ごと、汗を振り払う。

 強者の背を何度見ても、あの背とは重ならない。

 追い越そうとするその背中には、生死の切迫した鬼神が如き裂帛は感じられない。本人でないのだから当たり前だ。あの脅迫概念にも似た気迫は、本人以外に持ち合わせないのだろう。

 だからこそなおさらに、私は乞い焦がれるのだ。

 

「私で勤まるかはまた別として、ね?」

 

 こうして見透かされるほどに、私は分かりやすく焦がれている。

 

「……いえ、ありがたいことです」

「そう? ……あの時の彼は、私を簡単に追い越していったわ」

「……!」

「モチロン私も本気じゃなかったけど、それでもすんなりと飛び越えていった」

 

 その姿も覚えている。彼の走りは何度も何回も目にした。

 怪我をしていたせいで彼とは走れなかったが、今では怪我のお陰と言い換えられる。その甲斐あって私も彼も、そしてもう一人も、それに相応しき舞台で雌雄を決することが出来る。

 

「あの時なんかよりも、もっと強くて速くなってるでしょうね」

「分かってます……」

「一筋縄じゃいかないわよ?」

「……だからこそ、私が勝ちます」

 

 勝ちたいと望めど、共に走りたいと求めど、その機会は一向にやってこない。

 タイミングが悪い。星の巡りが悪い。ジンクスがどうこうでなく、ただ間が悪かった。私たちにはどうにもできない間の悪さが、私たちの邂逅を阻んだ。

 そうして時が経つにつれて、私の求心はますます肥大化を遂げた。

 

「私が勝って、私が彼に敗北を与えます」

 

 その瞬間の顔が見たい。

 絶望してくれるのか、悲観してくれるのか、諦観を覚えてくれるのか、嘆いてくれるのか。

 いずれにしても私がその表情を作り出したい。他の誰でもなく私が、他の誰でもなく私こそが、彼のその顔を作り出してあげたい。

 決定的な敗北を受け取らせて、膝を折ってやろうとただ望む。そのためにこそ。

 

「必ずや、この手に勝利を」

「アツアツな青春ね、お姉さん羨ましいわ~」

「そんなことは……私は、彼を這い蹲らせたいだけですから」

 

 別に這い蹲った姿が見たいとか、そんなのではない。這い蹲らせて、その結果的に負かしたいだけなのだ。

 

「……倒錯しているように聞こえるのだけど」

「? そうでしょうか……」

「最近の子って進んでるのね」

 

 引き攣ったような笑みを浮かべる先輩は気にせず、私は足に力を籠める。

 彼の下した相手なら、私も打倒しなくては嘘だろう。先輩もその時と同じ速力を出してくれる。

 そうして強者との並走トレーニングが再開された。

 待ち遠しいその日まで、不眠の日々は続くだろう。

 けれど構わない。空腹は最高のスパイスとも聞く。満たされるこの心持ちは、まさしく飢餓と何ら変わりない。

 私の満たされる時間は、あともうすぐやってくる。

 

 

 満たされない時間がずっと続いている。

 

『おはよーマックイーン、カイト』

『おはようございますテイオー』

『うぃっす』

 

 いつも通りに過ごす彼が、そんな彼に寄り添う彼女が、不意を打つように胸を刺す。

 寮からでなく、校外から歩いてくる二つの人影。

 私の居場所が、私の物ではなくなっている。

 

『朝からごくろー様。毎朝大変じゃないの?』

『そうだそうだ、もっと言ってやれ』

『放っておけば偏食を続けるお兄様が悪いのですよ』

『カップラーメンはど真ん中ストレートでしょ』

『意味が分かりませんわ』

 

 目を離せばすぐに偏った食事情になるのは、今も相変わらずらしい。

 そんな彼に苦言を呈する日々も、どことなく楽しく感じていた。

 もう過去形でしかない。

 

『十割カイトが悪いじゃん』

『え、じゅっ、十割? そんな大罪なのか俺』

『アスリートたるもの、不摂生は許されざることですわ』

『好きなもんくらい好きに食わせてくれよ……』

 

 また、別の場所では。

 

『……スズカから聞いたんだけど、カイトって勉強できないの?』

『べっ!? べっつに、できないなんてっ、訳じゃないけど??』

『ここ最近のテスト前はいつも泣きついてるって……』

『……しゃーないでしょ! 追試は極力避けないとトレーニングの時間削れるでしょーが! その結果先輩に迷惑かけてもコラテラルダメージだ!』

『まず追試を受けないようになろうよ……?』

 

 蟠りの溶けた彼女は、学園内でも気にすることなく彼に話しかけてくる。彼もそれを心なしか喜んでいるように、童心を出して接している。

 学園内でそんな顔が見れるだなんて、珍しい光景のようで、今の彼女からすればいつも通りの光景。

 きっと彼女が望んだ時間が、ここには存在している。

 

『今月も泣きつかなきゃなぁー……』

『…………その……アタシが、教えてあげよっか?』

『マジで? そりゃ助かるけど……いいの?』

『いいのっ! そうと決まれば放課後は開けといてね!』

『リョーカイしましたベル先生』

 

 ――――やめて

 

『なんなら呼び捨てでもいいのに……』

『そいつぁちょいと、ね? キツい要望でございますね』

 

 見せつけられて、そうして私は、一体どうすればいい。

 寄りどころになりたくて、いつの間にか庇護する対象を寄りどころにしていた私は、どうすればいい。

 そんな寄りどころを失くした私は、どうすればいい。

 

『おっ、カイトじゃん!』

『……話しかけてくるなんて珍しいな、パーマー』

『うぐっ、いやほらそれはさー……ってかカイトの責任でもあるでしょ』

『ええはい、その節は誠に申し開きもございませぬ』

『おおぅ、美麗極まる最敬礼……』

 

 目を塞ぐのは無理だ。彼の姿は目に焼き付けたい。見放したくない。追いかけ続けたい。

 近づかないのは無理だ。彼のそばにいたい。隣にいたい。その手に触れていたい。

 でも、伸ばした手を跳ね除けられるのが、何よりも怖くて恐ろしい。

 

『いやー、しっかしカイトのあの『話しかけてくれるな』オーラってばパナかったよねー』

『……やめてくれ……今考えると自分の行動逐一が恥ずかしい……っ』

『あの頃のカイトはマジメンディー』

『そうか…………んん? 曜日関係あんのか?』

『へ?』

『は?』

 

 どんなに痛くても、彼の、カイトの一番近くに在りたい。誰よりも心を占めて、誰よりも心を縛る軛で在れれば、それ以上に望むことは無いのに。

 誰しもの一番ではなく、たった一人だけの心を独占できれば、それだけでどれほど満足できるのだろう。

 だから拒絶されることが恐ろしくて、再度の接触を図らないでいる。

 

『ライアンと、ブライト……?』

『やっ、こんにちわ』

『どした』

『あらあら、奇遇ですわね〜』

『お昼一緒にいいかな?』

『答える前に座ってる奴がいるけどな』

『ぽわぁ〜、カイトくんはカレーですのね〜』

『あ、あはは……』

 

 彼は私の意向に沿うようにしてくれている。前からそうだ。私が押しかけた時も、泊まることを恒常化しようとした時も、彼はそうなるように取り計らってくれる。私に合わせて、自らの日常を組み替えてくれる。

 近づく事に対する恐れが先行したあの瞬間に私から距離を取って、それがどれだけ後悔を生むのか、先も見据えないままその恐れに身を任せて、今の距離がある。

 

『この前くれたプロテイン、結構飲みやすかったよ』

『本当に!? そう言ってくれると嬉しいな!』

『価値観変わった気分だ、余裕があるならもうちょい欲しいかも…………おい、何してんの』

『サクサクジュワリとして、とっても美味しいですわ〜』

『よりにもよってカツカレーのカツを……っ!?』

『あれ、食べ掛け……』

『コラ! おまえコラ! すっとぼけ一等賞かコラ! 一番美味しい部分だけ食ってんじゃねぇ!! せめてトレードが普通だろうが!!』

『それならわたくしも……はい、どうぞカイトくん』

 

 そうさせた発端は私。そんな私がまた彼を求めるなど、片腹痛い。

 でも、もうこれ以上は我慢ができない。

 

『……いやいや、箸で掴む必要無いから』

『? こうしないと、食べさせてあげられませんのよ?』

『食べさせる前提……だと……? ……自分で取るから、それいらん』

『カイトくんはむかしからハンバーグが好きですものね〜』

『おまえは昔から聞く耳持たないよなぁ……!? 助けてライアン!』

『ふふっ……その感じ、懐かしいなぁ……』

『ノスタルジア!? そして迫り来る肉汁! なんて名前の地獄だこれはあばばばばば!!』

『デミグラスだけでなくおろし醤油も味わってくださいね〜』

『ぶべぼぶばぼのばが!??』

 

 渇望。望心。求心。心底から欲する。

 もう一度、あの温もりを求めている。

 いつだったか、彼は『今更だ』と言ってくれた。

 私が彼にかける迷惑なんて、ずっと以前から続くものでしかない。彼はそれで被る被害など、気に掛けていないと言ってくれた。

 その言葉が今もまだ続くのなら、続いていると信じていいなら。

 そんな都合の良い話を、未だに信じてしまったのなら。

 ――――それ以前に、もう抑えが利かない。

 自分が考えている以上に、私は我慢の出来ない娘だったらしい。

 

 

「……熱視線がむず痒い!!」

「ライバル関係ってのは貴重だ、ありがたく受け取っとけ」

「でも俺、スペにあんなギラついた顔でいて欲しくねぇよ!」

「…………」

 

 無言の同意を受け取れば、野郎二名の視線はスペの方へ向く。

 地を踏み砕く勢いで走り抜けるスペ。歯を食いしばったその表情には、裂帛を感じずにはいられない。さながら本番のレースのような勢いだが、今はトレーニングの時間でしかないのだ。

 あれだけ気にかけていたサイレンススズカも置いて、修羅を纏った背中をスピカへ見せつける。

 

「みんな引いちゃってんじゃん……サイレンススズカ先輩へ気にも掛けず一心不乱って相当だぞ?」

「良かったな。ほら、なんとかして来いよ」

「はぁ!?」

「どう考えてもお前のせいだろう?」

 

 それにはちょっと、ぐうの音しか出ない。意識的でないとしても、刺激したのはエイヴィヒカイトらしい。あんなのはグラスだけでもお腹いっぱいなのに、あまつさえ追加されようなどと何故思う。

 トレーナーに背中を物理的に押されて、クールダウンに入ったスペへ近づかされる。

 索敵範囲内に入ったのか、灼熱を伴った視線が、エイヴィヒカイトへ突き刺さる。今にも喉笛噛みちぎりかねないと、そんな表現は些か失礼か。

 扱いが猛獣気味だが、それだけの迫力があるのだと理解して欲しい。

 

「……スペ――」

「っ、フーッ、ハーッ、……――――カイト、さん?」

「――さん、どうされましたかな……?」

 

 腰がみるみる低くなる。なんなら口調だって卑屈になる。

 もしかしなくても、エイヴィヒカイトが声を掛けるのは逆効果な気がしないでもない。

 

「どうしたって何が、ですか?」

「いやー、随分と張り切っておられるようで…………おいやっぱ俺が言うべきアレコレじゃないだろこれ」

 

 押し出した下手人へ首を回す。

 自意識過剰などでなく、意識されているのはエイヴィヒカイト本人なのだ。闘争心を滾らせた発端は、他ならぬエイヴィヒカイト自身。

 そんな当の本人が、『何かあったか』なんて論外甚だしい。

 普段鈍感を笠に着ることはあれど、ここまで意識の矢印を向けられれば、鈍いだけでは罷り通らない。

 

「気合十分だな、スペ」

「……カイトさんは、トレーニング、しないんですか?」

「俺は()()()()()()()怪我しててな、宝塚前週までトレーニングはしばらくお預けにされてるんだ」

「二ヶ月も走れないくらいの怪我をして、宝塚に出るんですか……?」

「出るよ。出走票見たろ? グラスとの約束もあるし、ブランクがあろうとなかろうと出るよ」

 

 いつぞやのような会話。既視感とは違う部分は、今度は最初から、スペはエイヴィヒカイトに向き合ってくれている。それが少しだけ嬉しく思う。

 そんな真っ直ぐさに、答えられるかは話が別。

 

「真っ向勝負か、手練手管巡らせて勝負か、なんにせよスペの期待するようなレース内容になるかは分かんないけどな」

「……きっと私も、グラスちゃんも、そんなことはどうでもいいんです」

「と言うと?」

 

 夏の気配差し込む風が、青芝を優しくなぞる。

 軽やかに前髪を跳ねさせても、真っすぐな視線はブレない。

 爽快な渦に囲まれて、その中心でスペは宣言する。

 

「私はカイトさんに勝ちたい。……勝って、その先はどうしたいのか分からないです……でも! それでも私は、あなたに勝ちたいです!!」

「……そっか。なら、俺も負けないようにに頑張るね」

 

 紫焔に燃ゆる輝きから目を逸らすことなく、真っ向から受け止める。

 

「…………――――おもたいね」

「え?」

「ううん、なんでもない」

 

 もう自分には、その思いに取り合えるだけの余裕が無い。

 目的へ向かう以外に、レースにおける感情を使える余地が無い。

 それを知ってもなお、彼女らは向き合ってくれるのだろうか。

 

「楽しみだな、スペ」

 

 目を細めた笑顔で、そんな言葉を吐いた。

 

 

 使われることの少なくなった鐘が鳴る。

 身内へ鍵が行き渡った今となっては、半年ほど聴いた覚えがないかもしれない。てか配ったの誰だ。エイヴィヒカイトの人権様は何処へ旅立った。

 そんな閑話休題をよそに、催促するように再び鐘が鳴る。

 

「……こんな時間に来客ぅー?」

 

 ペンを動かす指を一度止めて、玄関へ向かった。

 夕方と呼ぶには深まったこの時間。来客の当たりも付かないが、大した用でもないだろう。精々が回覧板と思っていた。

 親戚の線はすぐに外れる。彼奴らなら勝手に入ってくるし、事前の連絡だってしてくる。しかしそんな連絡など無い。

 空き巣なんて存在が、わざわざインターホンを押すような殊勝な輩なハズもあるまい。であれば扉の向こうにいるのは、シンプルな来客なのである。

 そんな何となしのQ.E.D.を終えて、エイヴィヒカイトは鍵を開いた。

 薄く開いた隙間からは、ガラスのような芦毛が覗いて――――

 

 

「――――!!」

「んっ!? は、ぁ? る、だん?」

 

 驚く声を上げさせ切る前に、彼の懐へ飛び込んだ。

 

「、――カイト」

「……え、どう……なんっ……」

「やっと……っ!」

 

 果てしない幸福。乾いていた部分が、急速で潤いを得る。

 胸板の先から轟く鼓動。引き締まった二の腕。疎遠になっていた半年間で、少し伸びた背丈。カイトのシャツへ押し付けた頬には、じんわりとカイトの熱が感じられる。

 欠けていた不満足は、最高峰の満足で埋められていく。

 カイトから開けてもらった。扉を開けて、受け入れてくれた、拒絶されることなく、受けて止めてくれた。その羅列された事実に酔いしれる。そう仕向けたことなど構うことなく、ただこの身に触れる温度を甘受する。

 暖かくて、甘い感触。暖かくて、確とした存在。暖かくて、暖かい私の大切。

 痩せたその身体には、まだ命の熱が宿っているのだと感じていられる。

 

「……とりあえず、中入るぞ」

「……動けない」

「は?」

 

 ある意味で当然の現象。自分の中でも、カイトがこんなに大きな存在だったとは思わなかったが。

 

「ご、ごめんなさい……腰が、抜けてしまって……」

「…………」

 

 あまりの衝撃。半年を超えて久方ぶりの接触は、私の前後を不覚にさせるのに充分すぎた。

 呆れの感情を向けられているのを自覚するが、それではきっと駄目だ。反省を促すには、もっと違った方法でないとダメ。だってカイトから感情を向けられただけで、どうしようもなく頬が緩み切っていく。

 勝手に押し入った私は、暴走する感情に任せて恥知らずにも懇願する。

 

「連れてって、ください……カイトの、手で……」

「…………」

「ダメ、かしら……?」

「…………ああもうっ!」

 

 他の誰でもないただ一人にされることが、念願でもあったお姫様抱っこ。

 昔は持ち上げるのは私の役目だったのに、今の姿はまるで逆。リビングまでの短い距離が、私には至福と変わらない時間だった。

 この家で、この人と共に。私の欲しかった時間は、此処にあることを再確認する。

 抱きつける短い間、それまであった全てを忘れて、その温もりに没頭した。

 

 

 ――――宝塚記念、当日。

 

「ああクソ、頭が纏まらない……」

 

 とんでもないカミングアウトが、未だに脳内を支配している。

 どうかしている。前々からオカシナ女だと思ってはいたが、今回の件はそれにますます拍車を掛ける。そうそう消えない罪悪感を植え付けた張本人へ、どうして()()なるのだ。

 そんな事を明けられれば、エイヴィヒカイトも求めそうになる。

 

「でもそれはちょっとねー……そこんとこどう思う?」

「知るか早くゲートに行けバカ!!」

 

 バカって言われた。足フェチに――――細分化するのであれば、足筋フェチのバカに――――バカって言われた。納得いかないし釈然としない。

 煮え切らない思いは、拳から解き放つのが王道なのでは?

 

「やってる時間無いわよ先輩!!」

『エイヴィヒカイトは一体何をやっているのでしょうか!?』

『大きな舞台、真面目にやって欲しいですね』

「ほら先輩怒られてますってば!!」

「えー……しゃーなし、行くか」

 

 走る姿を見られている、ではなくて、見られていると感じている。意識して感じないようにしていた視線、今ではその視線を感じる。

 断ち斬り絶ったと思い込んでいた未練が、したり顔で再浮上をかます。要らないと断じた要素が、こうまでエイヴィヒカイトを揺らす。

 なんて大胆不敵な宣言なのだろう。嫌でも意識せざるを得ない今を思えば、なるほど妙手だった。それくらい衝撃的な夜であった。あんなことを言われれば、こっちは朝昼晩不眠に陥るのだがその辺りどう思っているのだろうか。

 ふと、観客席へと目を向ければ、千を超えて万を超した群衆の中からそう時間はかからず――――なんで探しているのだ自分は。

 そんなことを考えていれば、夏の暑さを局所的に感じる。主に頬肉の辺りで体温上昇中。

 

「カイトくん……?」

「どうかされました?」

「ん、二人してなにさ」

 

 二人が待ち望んでいたらしい瞬間を前にして、一体全体どんなことに気を取られているのだこの二人は。

 

「お顔、真っ赤ですけれど……熱でもあるのですか?」

「気のせいです」

「……機嫌も良い?」

「気のせいです」

 

 気のせいです。気のせいですから触れないで。

 何とも締まらない空気感の中、係員に注意されてようやくゲートへ収まるエイヴィヒカイト。

 情緒をぐちゃぐちゃに搔き乱されたまま、エイヴィヒカイト二回目の宝塚記念が始まった。




シンウルトラおもろそう

バッドエンドIFいるかいらんか

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