メチャクチャに荒れた、この道の過程。
もっと孤独に寂しく、冷たく暗い道を歩くつもりだったのに。元々はその予定だったのに。そうさせてはくれないのは、周りの世界が優しすぎたから。
天涯孤独を保とうとしても、家族の枠組みへ踏み込もうとする者。もっとビジネスライクな関係を望んでいたけど、いつの間にやら友人となっていた大人。意図した無愛想はさぞかし気取った態度を受け取らせただろうに、気にする素振りもなく接してくる学友。ワザと外敵を作る姿勢だって演じれていたつもりが、肝心な部分では上手く行っていない事は最近知った。
歯牙に掛けない姿勢を見せても、追い越そうとしてくれる友だち。夢を壊すための走りを見て、奮い立ってくれた友だち。
そんな恵まれている只中にいれば、孤独なんて遠のいていく。寂しさだって、過去の残骸になる。今更でしかないけど、けれどそんな日々は、何よりも恵まれていた。
でもきっと、そんな優しく恵まれた世界でも、冷たい暗闇を溶かすには至らない。カイトの世界が祝福で満ちたとしても、胸の中心を埋めるには届かない。
そんな唯一の不足も、なんだか明後日の方向へ吹っ切れた彼女が補ってくる。
『――ご飯、ちゃんと食べれてる?』
慮る感情だけを乗せて、カイトが傷だらけにしたガラスがやってきたあの日。
決して、他者へ気を向けてよい顔つきじゃなかった。誰かを思いやる前に、まず自分を優先させないと自死しかねないんじゃないかと、そう思える顔つきで彼女はそう言った。
あれは確か、自分の一部を切り落としてすぐの出来事。自分に傷を刻んで、傍に居たヒトにも傷を付けて、逃げるようにメジロ家を出て、一週は経った頃。
『また来ても、いいかしら?』
『――――、――』
そんな顔にさせた自覚を飲み下して、今よりもぶっきらぼうだった自分は何と答えたのだっけ。
ダメだと突っぱねることは出来た。来るなと拒絶するのも容易だった。顔を見せるなと叫んで、ずっと泣きそうだった顔を、更に深まらせることだって出来た。
そんな選択肢ばかりが簡単に浮かぶあの時期に、自分は何と答えたのだろう。
それとも今と案外変わらなくて、あの時の自分にも存外居心地が良く感じれて、ひょっとしたら『すきにすれば?』、なんて言ってしまったのかもしれない。
冷たくならないし、暗くもならない。そんな柔らかな熱を受け取って、また来て欲しいと心の何処かで望んでいたのかもしれない。
どちらにせよ、十年と続く縁になるとは思わなかったのは確かだ。
つまり彼女のせいで、カイトの夢へ積み立てた計画は破綻している。
理想的な夢への歩みの道程が、孤独で寂しく、冷たく暗い道のりなのだとすれば、押し寄せる優しさがある限りは、理想通りには進まない。
そんな結論が出たのは半年振りの久しい夜。暑さが支配し始める夜とは打って変わって、まだ肌寒さが残るような夜に、これからずっと覚悟しておけと指を向けられて、思わず諦観の溜め息が漏れ出てきた。
でもその横顔は、負けたように笑っていた。
そんな自覚が一つある。
始まりは彼のデビュー戦のような、大きな出遅れで始まっていた。ゲートが開いても、走り出す体制でなかったカイトくんの姿が焼き付いている。
けれども油断なんてしていない。彼は、エイヴィヒカイトはその程度はハンデとして受け取ってくれない。
「(気は抜けませんね)」
「(カイトさんは、いつ仕掛けて――ッ!!)」
スぺちゃんとも通じ合うのは、彼が昇ってくるという共通の認識。カイトくんを知る者だけでなく、この場における絶対の共通認識が、強者が迫りくるその時に身構える。
始まりから数百メートルも経たない内に、最後尾から――――星を抉らんとする轟音。
身構えて、その足音を聞いて、諦めがよぎらなかったのはいったい何人だろうか。肌が粟立つようなこのプレッシャーを、いったい何人が揺れずに受け止められたのだろう。
先行の位置を差し押さえていたスぺちゃんと、視線がかち合い、即座に双方の意識は前へ向く。
言葉はなくとも視線で語らう暇などない。そんな無駄を行っていれば、勝利など私の手から遥か遠のく。
ただ、何度か共に走ったスぺちゃんとは違って、私はこれが初めての機会。間近でその顔を見たくなっても、責められる者などいない。
「ぁあ――――」
「――――」
呼吸を無駄と断じた独自の走法は、息の音を徹底的に排して、カイトくんの意識は静かに前だけを見据えている。
真後ろまで迫っていた彼の、痺れる横顔が見える位置にある。それが示す事実に、殊更好戦的な痺れは強くなる。
背筋には氷の芯が差し込んで、彼の気配を受け止めた首筋は産毛を逆立てる。私の瞳は追い越されていく彼の背中を巌と捉えて、口角は鋭く三日月に歪んでいく。
念願だったこの瞬間に、待ちわびたこの刻に、夢の心地の延長へ、私の手が遂に届く。
「カイト、くん――――」
とくん、と。内から私が高鳴った。
貴方はいつだってそうだった! 始まる瞬間は誰よりも速く、終わりを過ぎ去る瞬間も誰より速い!
そんな貴方について行ける者は、今迄に現れなかった。存在しなかった。以前までのわたしだって例外ではない。
そんな貴方へ付いて行くため? いいや、それだけでは足りない。そんな貴方を追い越すために、今日の私があるのだから。
だから。
ここから私たちの勝負が、ようやく始まるのだと歓喜が迸る。
二分も掛からない刹那のために仕上げた身体と、今日まで天井知らずに滾り続けた熱が、混ぜ合わさってスパークした。血液の代わりに溶岩が流れたような、脳内を落雷が通り抜けたような。視界だって鮮明に広がり続ける。なのに冷静な思考が、怖いくらい静かに現況を数え続けてる。荒れ狂って冷静に、猛る鬨を上げて世界を俯瞰する。相反する理性と本能が、不自然なくらいの調和を私の芯で響かせた。
碧くて蒼い、際限の存在しない焔は私の全身に絡みつき、そのために必要な条件は整った。
両の脚に、天井破りの力が灯った。
練習などでは見受けもしない、木っ端とのレースでは知覚も出来ない領域が、彼と走ればこうも簡単に姿を見せる。
その線引きを、嬉々として私は踏み越えた。抗う理由なんてない。諸手を振って歓迎しよう。
「――――参ります」
私も同じ領域へ昇りつめた。もう二度と、カイトくんだけの独壇場を踊れるなどと思ってくれるな。
引き剥がせるなら、引き剥がして見せろ。
エイヴィヒカイトの速度自体は、実際のところ常識を外れるほど速いわけではない。
瞬間最高速度値を競うのなら、まだまだ上が存在するとトレーナーは述べていた。スプリンターの世界を覗けば、実はあれぐらいの速度でまあまあ程度らしい。
ならなんであんなにも圧倒的なのかと聞き返せば、答えは体力に存在していると。
もっと具体的にするのなら、最高速を序盤から終盤まで常に維持を可能とする、常識の破綻した異常な体力。スズカさんとも違って、一息付く暇も捨て去った走法には、小休止が存在していない。ペース配分を投げ捨てた、無茶苦茶で自滅的な走法。
言ってみれば、それは走る者として一つの理想。休まずにずっと走っていられるなんて、そんなの強すぎる。実現が容易いかは別の話として。
それが難しいから、私たちは走るペースを考えて、どこに全力を込めるのかを考えて、そんな探り合いをしながらのレースは、体感では実際よりも時の経過が遅く感じる。
「――――ッッ!!」
私たちにとって永劫に思えるその刹那を、カイトさんはハナから全力のままに過ぎ去っていく。
特筆すべき特徴が無いと自嘲していた彼が、無知の中で模索して会得した、彼だけしか持ち得ない才覚。
勝利への最適解を、暴論で積み上げた結果のような走り方だ。有識者達が積み重ねた歴史や、知識などを無視し切った、パワフルさ満点の走法だ。でも結局、その走り方が一番速いのは間違えようもない。
十の力を十の距離で分配しながら使うよりも、十の力で十の距離を走り続けた方がそりゃ速い。後者の方向性へ向かうのが最短なのだろう。そんな机上論を実現させられる存在が、果たしてどれほどいるのか。
そんな存在が、確かに目の前を走っている。そんな存在へ追従する蒼の怪物も、私の横を通り過ぎて行く。
最初のスタートに意味などない。始まりの咆哮は、彼の一匙次第で決まるのだから。
その始まりに備えていても、グラスちゃんほどには追いすがれていない。
「――――たい」
置いて行かせてなるものか。
勝ちたい。負けたくない。それ以上に勝ちたい。心はそれだけを望んでいる。そのために必要な要素を欲している。
望むほどに食い縛った歯は悲鳴を上げて、このままでは砕けるまで時間の問題だ。
そんな危惧がどこかへ消える程、私は勝ちを望んでいる。
灰と蒼の二重奏よりも、更に前へ進みたいと滾り猛る。
「私だって――――ッ!!」
意識させるだけじゃ満足できない。視界に入るだけでは足りない。
私の背中だけをその目に映させて、完膚なきまでの勝利を手に入れる。
前兆は既に起こっていた。負けたくない勝負に負けたあの瞬間、悔しみをこれでもかと噛み締めて、持ちうる全てを費やして手繰り寄せた、カイトさんへ対する唯一の勝機。グラスちゃんも既に踏み入れている、絶対へ向かう私にとっての未踏領域。
逡巡している間もなく、迷うこともせずに全身をその感覚へ浸からせる。
その刹那に流れる音は、湖畔のように静まり返る。その世界に広がる色彩は、紫焔が支配して余分が気にならなくなる。
この五体が二つの残影を追いかけるために必要な機能を、飛躍的に増幅させる。
熱く逸る鼓動が、胸の内で響いて鳴動する。
「――――勝ちたいッ!!」
流れる星のように、力強く景色が過ぎ去っていく。
離されるだけだった距離は、いつの間にか維持が可能になっていた。
届かなかった背中へ届かせる確信のままに、大きな背中を私は目指す。
休養を強要されて、全ての傷が塞がり切ったこの身体には、頗る最高潮が漲っている。
肌の突っ張る不快は消えて、肉が引き攣る厭な実感も失せた。開く気配が微塵も漂わないくらい、断面はものの見事に閉じた。笑えるほどに今まで通り、それ以上の健康体が、この場には存在している。
なればこそ、負ける道理があるものか。才が満ちるこの身体なら、どんな相手だろうと負ける気がしない。勝てる未来を疑えない。
その予感は本物のハズで、それであるなら追従する者など許されない。影を踏ませることなく、圧倒できなけば嘘である。事実として、木っ端な相手は敵にすらならない。先頭から数えるのも億劫になる距離を、未だに開かせ続けるのがその証拠。
なら約二名の例外が存在しているのは、何かの間違いだろうか。
「(最上の才能持ちはこれだから!!??!!)――――やるね」
挑戦される者としての威厳は保てているだろうか。内心で噴き出す冷や汗に関しては、ちょっと置いておく。彼女らが打倒したがっているのは、飄々としたエイヴィヒカイトだ。余裕を以て望んであげねば嘘だろう。
そんな気遣いも剥がされそうな現状では、無意味かも分からないが。
「うっし、逃げべ」
「させませんッッ!!」
「逃がさない――!!」
追われるまでも無くイージーWINだった今までが、最近では覆りつつある。
そんな死に物狂いで向かってくるな怖い。エイヴィヒカイトに勝ったところで何があるというのか。もしかしてエイヴィヒカイトから獲れる経験値は莫大だったりするのか。だったらこの勢いは納得だ。なるほどエイヴィヒカイトは、メタルチックなスライムの扱いらしい。はぐれてたりキングだったりするくらいの大物だったりするのだろうか。
食い縛る歯の軋む音が聞こえる気がする。
勝手に強くなったこの身体は、走りのパフォーマンスを上げたことは疑いようが無い。そうして出来ることが増えるごとに、周りを見渡す余裕だって付いて来る。
灰色の世界の見栄えは変わらず、しかし音は錆びれず拾えてしまう。それはつまり、背後の二人の気配を、より強く認識できるという事実。
後ろをちょろっと覗くなんておふざけを行えば、荒ぶるもののけ娘たちは、そんな隙を絶好とばかりに喰ら付いて来るだろう。
「(怖いもの見たさ抑制中!!!!)その状態――――どこまで続く?」
全力疾走を二千の距離で維持し続けようなどと、前提からして意味不明な領域にある。その走法のために、そうした身体を練り上げてきたエイヴィヒカイトと違って、スぺとグラスにはその下地が無い。
今更ペースを戻すには遅い。引き返せない領域まで来てしまって、だが二人からはこのまま突き進む気概しか感じられない。取り返しのつかない選択をしたつもりもない二人は、勝ちへの渇望に任せて一心不乱に足を進めている。
「打ち砕くのは私です!!!!」
「負けない負けない負けない――――勝ちたいッッッ!!!!」
「ひ――――(ひえええええええええ!!??!!??)」
大地を掘削する轟音が響いて、それ以上の裂帛が耳孔を刺激する。
喋るだけ無駄な体力を使うのに、自らの意志表明を止めようとしない化け物二名。余裕の表れでもなく、何かしらの策でもない。今ある限りを使い尽くしている最中だからこその、この大咆哮。
「――ッ! スぺちゃん――――ッ!!」
「グラスちゃんにもっ、勝つんだ!!!!」
「譲れないのは私だって!! 前を走るのは――――」
「絶対に勝つ――ッ!! 今日勝つのは――――」
――――私だッ!!!!
「――――(――――)」
委縮していた精神が、静けさを取り戻していく。
白衣の外套を振り回す。腰に釣られたチェーンが擦れる。跳ねっ返りの土は服の裾を汚していく。踏み千切られた芝がブーツへ張り付く。瞬きを放棄した瞼で向かい風を受け止める。
全身余すことなく多動的であるのに、心は凪のように穏やかだ。暗闇で灯を見つめるような、暗示的な冷静が内へと木霊する。
エイヴィヒカイトの負けは、夢への挑戦が終わることと同義だ。それは、それだけは忌むべき結果なのだと規定
過去形の理由は、頑なだった心が揺らいでいるから。どれだけ揺さぶられても、大切を切り捨てようとしてでも、夢だけは求めてきたエイヴィヒカイトなのに。その頑なさをほぐす者が多すぎるのだ。だから最近では、夢への執着自体が摩耗している。耳を塞いで見ないフリをするのに疲れている。
では今負けても構わないかと言えば、こう答えよう。『だったらレースには出ていない』、と。
レースとは、常勝無敗でしかありえない過程。それこそがエイヴィヒカイトの持った、レースへの認識である。勝って当たり前で、負けは論ずるに値しないのだ。
それに執着が薄れたとて、夢を諦めたなんてことは無い。疲弊したからと言って、届きそうになっている夢を諦めたりなんかしない。
夢を諦めない限りは、この道に負けの未来は許容できない。
「――――舐めんなよ」
だからエイヴィヒカイトは、スぺとグラスの勝利を拒絶する。
余力はまだ在る。この身体に詰め込まれたスタミナは、先日増加したばかりだ。二人はまだ、
存分に吐き出す時だ。存分に見せつける時だ。存分に身の程を弁えさせる時だ。
二人の走りは、後先を考えない全霊の全力消費。エイヴィヒカイトの十八番でもある、ハナッからラストまでを駆け抜け続ける死に物狂い。そんな付け焼刃の我武者羅では、届かない領域にエイヴィヒカイトは
蓄積していた
その狼煙として、残していた活力を燃焼させて、手始めに一バ身を突き放す。
「――ッ! でも!!!!」
「いまさら関係あるもんかぁ!!!!」
開かれた差を縮めようと、鬼気が迫って近づこうとする。
勝ちを徹底させるならそんな抵抗など、もう二度と許さない。
「舐めんなって――――!!」
一歩の跳躍で半バ身開き、三歩跳躍で五バ身離れる。力強く地を踏みつけた足の裏は、軽やかに前方へ飛躍していく。
最終コーナーへ届く頃には、完膚無き完全無慈悲なセーフティーリード。諦めの香りが植え付けられた二人は、後先考えずの代償として、走り続けども失速を余儀なくされる。
絶対の象徴を目指そうだなんて、そんなやる気はもう無いけれど、夢を最低限叶える責任感があるのだ。
勝利に焦がれる訳でもないが――――
「まだ負けれないんだよ……ッッッ!!」
「――――クッ!??!?」
「勝ちたい――――ッのに!」
その結果を手にするのは、この場に存在する他の誰でもない。
歓声のように聞こえる騒がしさを背に受けて、ゴール板を走り抜ける灰色の影。
常勝無敗は滞ることなく進行中。
負けた。
徹底的な結果が『大差』と二文字で、あっけないくらい表示されている。
今の私は忙しい。息を回して酸素を取り入れる動作と、倒れ込まないように両手で上身を支える動作。どちらかでも疎かにすれば斃れる。そうなれば一息に意識が途切れる確信がある。グラスちゃんも同じような状態だったらしいが、その時の私には気づける余裕なんてある訳なかった。
「――ッ、――、! ッ、――ッ、!」
ぐるぐると視界は回って、青芝の色も少しづつ褪せていく。視界を確保するだけの体力が足りていない。私を呼ぶ声が聞こえない。痙攣を繰り返す全身は、底知れぬ恐怖を生み出す。
このままどうなってしまうのだろうかと、曖昧に考え始めた時、いつの間にか太陽が目の前にある。これはおかしい。私は地を眺めていたハズで、太陽を拝むには上を向く必要がある。それを行うには、ちょっとだけ身体が動かない。
硬いプラスチックのような物が、鼻と口を覆って塞ぐ。でも不思議なことに息苦しいどころか、言葉に出来なかった苦痛が和らいでいく。
「――、か――、ぃと――、さ、、?」
「喋らず息を吸うことに集中しろ。焦るなよ、落ち着いて深呼吸しろ」
握らされた缶はひんやりとして、火照った身体に冷たくて気持ちが良い。
「……指は動かせるか?」
「……――、…………」
「ならよし。グラスの方にも行ってくるから、これちゃんと吸ってろよ」
そう言って白い外套を枕に置いたカイトさんは、酸素缶をもう一つ持って離れていく。
柵へもたれ掛かるグラスちゃんを抱え起こして、ゆっくりと仰向けにするカイトさん。上着を脱いで枕にして、私と同じように酸素を吸引させた。
真っ青だった顔が、安心するように和らいでいる。私もあんな風な百面相だったんだろうなと、そう思いつくくらいには回復してきた。
担架で運ばれるまで、懸命に処置をしてくれたカイトさんが、目から離れない。
大きくて深い悔しさが、私の中でのたうち回っている。
病院に運ばれるような程でもない。診断結果は単なる酸欠。息つく暇もないくらい走ることに夢中になって、本当に呼吸を忘れていた結果がこれだ。
「カイトくんみたいには、難しいですね」
「……うん。あの背中に追いつくには、私たちにはスタミナが足りてない……」
並んだベッドで、並んで横たわるスぺちゃんと私。
怪我をした訳でもない私たちは、少し休めば大丈夫だろうと言われた。念のため後日に精密な検査を行うが。
「少しは近づけたと思っていましたが……自惚れでした」
「…………」
「なんて……無様を晒して……」
当然ながらウイニングライブは中止だ。上位三名が出ないライブなど、主役を抜いてまで強行する理由も無い。
口惜しさで満たされた今は、そんな不幸に助けられている。今の私は、決して華やかな気分ではいられない。八つ当たりだってしかねない。それくらい己への憤りが昂っている。
「……」
「……」
白く清潔感のある室内で、静寂が痛く私を刺激する。
握り締めた拳は硬く、シーツに強く皺を作る。
「やあ少女達よ」
「……へ?」
「……カイト、くん?」
その顔を今の状態で見てしまったのだから、奥歯に罅が入ったかもしれない。
何をしに来たのだろう。解放してくれたのは彼だが、その嬉しさ以上に、情けない姿を見せる屈辱の方が大きく上回る。
「一体、何をしに此処へ……」
「どうせライブも休むって話だろ? 身体の調子次第だけどさ、二人とも腹減らない?」
「えっと……たしかに、お腹減った、かも?」
「お茶がてら飯食いに行かない?」
思わず顔を見合わせる。こんな時だが、意外な誘いに面を喰らうのが共通認識。
だって彼からの誘いなど、一度として無かった。お昼の誘いも、全部私やスぺちゃんから提示して、やっと同じ席に着くのだ。
まるで避けるように、彼からご飯の誘いなど一度として無かった。
「――ちょっとだけ、お喋りもしたいからさ」
良い感じに壊れかけろと、いっそもう全部ブチ壊れてしまえと願いながら負荷を掛けても、この五体は想像よりもタフ過ぎた。切って開いて削るのは渾身の考えだと思ったが、それも補うように、エイヴィヒカイトの身体は尚も強靭さを増した。
もっとボロボロで、朽ち果てながら進む予定だったのが、今はこの通りピンシャンしてる。
快調ではダメなのだ。健康体では意味が無い。
何故肝心なところで上手く事が運ばない。何故昔に望んだ才が今更になって現れる。何故トレーナーはオーバーワークを止めようとする。何故怪我を放って置かせてくれない。何故周りはエイヴィヒカイトを、壊させてくれない。
「最高峰の舞台で、未踏の領域で、壮絶な結末を……」
「それが……カイトくんの目標、ですか?」
「そう。そんで、その結末を周りへ刻み付けて、未来へ届かせるのが俺の夢」
「……壮大な、夢、だね……?」
「喋ったのは二人が初めてだけど、多分スぺの反応で正しいよ」
ピンとこない表情をしながら、ケーキに手を付けるスぺ。正直に表へ出してくれるスぺに、思わず苦笑が零れる。
ともあれ、それがエイヴィヒカイトの求める行き止まり。
そこから先は要らない。代替案など存在しない。折衷案なら放棄する。
誰よりも速く、誰よりも強く。その極限を両立して、ようやく手に届く夢。
けれど成立させるには、もう一つのファクターが必要だ。
カイトの思い描いた夢。稚拙で幼稚で、どうしようもない皮肉に満ちた最低な夢。
それを叶えるには、その瞬間までにカイトは壊れていなければならない。
「そのレースを最期にして、俺が死ぬ事」
「……………………え?」
「…………ごめんなさいカイトくん、聞き間違いかもしれないけれど……」
「もう一回言おうか? そのレースで
凄惨な色味は、記憶に刻まれる。壮絶な結末は、記録に残される。人々が憶えやすいのは、悲劇と相場が決まっている。悲劇を演出するには、やっぱりエイヴィヒカイトは壊れかけていた方が都合が良い。
華やかな舞台で、誰もが夢掲げて輝ける
方法なんて簡単だ。ただ全力で走って、全力でずっこける。文字にすればバカっぽいか? されど自動車以上の速度で行われるソレは、笑い事で済ませられるか実に見ものだ。飛沫や欠片がどれ程飛ぶのか、賭けでもしてみようか。
無論ながら速度が足りなければ、満足した結果にならずだろう。だからこそ、これまでの日々がその瞬間に活きる。これまで叩き出した結果が、それを容易にさせる裏付けとなっている。
「なに……を、?」
「走る存在として生きようとする、ウマ娘全てが望み求める頂点。誰だって夢に見る景色は、さぞかし綺麗なモノのように見える。だからそこをこれでもかと汚せば、誰も目指さないんじゃないかって思った」
「変な冗談は止してください……!」
昔にふと思った。
ウマ娘が全員走らない存在になれば、レースへ意欲的でなくなれば、世界は一体どうなるのだろうか。
走る存在でなくなれば、レース自体が廃れていく。レースが廃れれば、それ専門の教育機関は消えていくだろう。そうなればトレセン学園などでなく、普通の学園へ通い始めるのだろうか。そうして普通に卒業して。普通に就職して。普通の家庭を持って。普通に暮らしていくのだろうか。
そうなってしまえば、ソレらはただの人間とどう違う。ウマという個性が形骸化して、人間とウマ娘の差異などあってないような世界なのではないか。
もしもそんな世界なら、自分達はもっと生きやすかったのではないかと、切迫していた幼い頃に思いついてしまった。
母は井戸端からハブられる事も無く、父は会社で後ろ指刺される事も無い。カイトは迫害を受ける事も無く、カイト達は平和で幸せに暮らせていた。
既に二人欠けた現実の中心で、そんな可能性を夢に見た。
「……冷静に考えればそうはならんよな。つーか新種なんて個性の極まりが、注目されないはずがない。世の中がそうだったとしても、幼少に何かが変わっていたとも思えない。……でもさ、そんなくだらない思いつきに縋ってないと、俺はここで息をしてないんだ」
「……」
「……」
夢の果てが此処だ。お前らが目指すのは、鉄の臭いと脂の混ざった此処。お前らが目をキラキラと輝かせて、疑う事なく綺麗な努力を続けて、そうしてやっと辿り着くのが此処なのだ。と。
君たちの目指す方角には、望んだ景色など無い。頑張って頑張って、頑張りを極めても
忠告のような毒の象徴として、その輝き達を曇らせたかった。
そんな末路が染み付いて、未来へ永劫と続けば良いと思っていた。
エイヴィヒカイトの――――カイトの生きる活力とは、いつなんどきであれ其処にしか
「……今は、どうなんですか……?」
「……わからん。…………何も知らないガキだって、歳を食えば知る事も増える。理解が増すほどに、この思いつきが夢として実現するにはどんなに困難なのか、毎日のように思い知らされた気分だったな」
「…………」
「でも不思議な事に、学園へやってくるまで、その熱意はどうしたって消えなかった。むしろ日を追うごとに想いは募って、必ず実現させようとする意志が途切れる事は
無かった。そう、
そこまで自己を客観的に見ていれば、どうしたって過去形にならざるを得ない。偽る事のない己は、明確な迷いを所持しているが故に揺れている。
「でも……最近さ、分かんなくなってきたんだ。俺はそうして、何か得るものはあるのか」
「……」
「嫌がらせも含んだこの夢が、成就さえすれば達成感に満ちていただろうよ。でも今は、分からない。それを成す意味がよく分からない。ここまで来て、俺は俺が何をしたかったのか、分かんなくなってきてる」
だって、仮に成し遂げて、その先には何も無い。
生きやすい世の中になっても、其処に求めた団欒は存在しない。カイトにとっての救いは過去にしか無いハズで、今更新しく与えられても遅すぎる。
救いのある世界になっても、謳歌させたかった存在は喪失の彼方へ。
じゃあ本当に意味が無い。ここまで頑張ってきて、頑張りの成果を届けたい人へ届けられないのなら、走り続ける意義も無い。過程に意義も無く、結果に意味が無いのに、苦痛を受け止め続けられるほど、カイトは強くなんかない。
「確かなモノが得られなくても、最初はそれでも良いって、思ってた……」
「……?」
「思ってた、んだけどなぁ…………」
チラリと顔を向ければ、学園で初めての友だちが、首をキョトンと傾げている。
「お前らが優し過ぎるから、感化されちまったのかもね」
「うん……この学園は、優しいところだよ」
「……その筆頭が何言ってんだか」
頑張る事に疲れたのも、確かな一因ではある。
努力して、意思を固めて、苦しいだけのレースを走って、優しくされて、でも掛けられる優しさは押し退けないと夢へ正しく進めなくて。そんな繰り返しは、とってもとっても疲れてしまう。
悩む事に疲れた。精一杯に疲れた。優しさを受け取るのに疲れた。辛い現実と向き合う事に疲れた。痛がる事に疲れた。幼少期から続く歩いてきたこの道は、もうこれ以上歩きたくない要素で一杯だ。
「ああ、そっか。俺はもう、疲れたんだ」
「……」
「せめて、お前らみたいにレースが楽しめれば、まだやる気が残ってたかもな」
「……楽しく、なかったんですか…………?」
「ああそうだ。相手が誰でも、舞台がどこでも――今日のレースだって例外じゃない」
「――――ッ」
「走れば走るだけ、キツくて辛い」
最初にターフを一歩進んだ時、尊厳を踏み躙る音がした。綺麗に輝く尊敬を、穢れた両の足で蹴り抜いた知覚を得た。取り返しのつかない冒涜を、恥知らずに掲げた罪悪感で溺れそうになった。
誰のなんて、説明がいるだろうか。エイヴィヒカイトがウマとして在って、誰への裏切りになるのかなんて、自己分析の余地なく決まっている。
そんな日々は飲み込んで、湧き立つたびに飲み込んで、飲み込んで飲み込んで、飲み込んで飲み込んで飲み込んで飲み込んで飲み込んで飲み込んで飲み込んで――――――――結局は吐き出る。
自己嫌悪が簡単に収まるのなら、ここまでカイトは苦しまない。被害妄想が棘になって、ありもしない敵を心中に作り出すのがその心象風景の在り方。自らを肯定する術を覚えない限り、満足するまで己に鞭を打つ。
そんな日々が、どうしようもなく疲れた。
「レースを楽しんでいるお前らみたいだったらって、思わない日は無かった」
「……カイトくん」
「スぺ、グラス、お前らが羨ましいよ」
走る事に前向きな感情が生まれたら。いやそれ以前に、エイヴィヒカイトが女の子だったら。
前提が一つ違えば、もっと祝福された団欒を生きられたのだ。
そんな
「でも、そんな嫉妬も、もうすぐおしまいだ」
「……本気、なんですね…………っ」
「本気も本気さ。走るのは、今年で最後にする」
ここまで無敗。トリプルティアラに夏のグランプリ連覇。ジャパンカップもついでに一つ。ここまでやればもう充分。これ以上は走りたくない。今すぐにでも学園を飛び出して、人知れず終止符を打って終わりたい。でも、そんな無責任を行うには、周りから助けられすぎた。
せめて区切りを付けてから終わらないと、助力を受けた者達へ申し訳が立たない。
今年以内にケリを付けるとは、前々から決めていたことではあるけれど、他言したのは二人が初めてかもしれない。口を漏らすとしたらアルダンかと思っていただけに、自分への多少の驚きが生まれる。向き合ってくれた二人には、それだけ心を開いているのだろうか。昔語りだって、過去に他の誰かへした覚えも無かった。
せめて責任は果たし切る。走り始めた道を、確とした結末で飾るのだ。どれほど妥協した形で在れど、掲げた夢は果たし切る。
「あとは……天皇賞に続く重賞を獲って、それで、おしまいかな」
「……」
「二人とは、どっかでぶつかるのかな……」
「……」
「そん時はお手柔らかに頼むよ」
何も言わないのは、言葉を整理しようとしているのか。それともあまりに情けない姿に、呆れてモノが言えないのか。自分でも思うが、後者は明らかにありえないだろう。こんな死に体の言葉に揺れてくれる優しさを持っているのに、そんな冷たい情緒なんて持ち合わせているとは思えない。
「……どうして、私たちに話してくれたの?」
「え? ……………………なんでだろ」
困った話だが、直近で産まれた今世紀最大の謎かもしれない。人生史上と言い換えても遜色がない。
本当に、何故だろう。
「……二人は、向き合ってくれたから、かな」
痛ましそうに眺めず、憐れむように遠巻きにならず、悪意なんて欠片も持ち合わせていない。
事情を気にせず、ただ素のまま踏み込んで来てくれたのは、きっと二人が初なのだ。
その事実を反魂すれば、ただただ感謝しか生まれない。
「つまんない話だったろ」
「……」
「付き合ってくれてありがとう。俺は先に帰るから、二人も暗くならない内に帰りなよ」
「……ぁっ」
せめてもの謝意を込めて、伝票をひったくればレジへと向かう。帰路へ向かおうとするその背中へ、何かを投げかけようとする気配は感じられたが、終ぞ言の葉は受け取ることが無かった。
店から出た時には、陽は暮れかけて焼け始めている。
逢魔が時を目の当たりにして、空と今の気分とが嚙み合っているのを感じる。
引き千切れた雲が、散らばりながらも閑散と陽を隠す。
そんな惨状が、これ以上なく己を表していると思った。
パーマー実装しましたね……引こっか
バッドエンドIFいるかいらんか
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いらん
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いる