ちなみに柿の種が一番ちゅきなのは両方です(禁じ手
生きるのは辛い。
幸せはいつでも手を伸ばせば届く距離に在って、実は何処にでもありふれていて、認識しようとすれば誰でも感じられる。けれど幸せはいつだって、一瞬で消え去ることも自分は知っている。霞が空気に溶けて消えるみたいに、雪が指先に降りれば溶けるように、触れれば散っていく幸せを受け取れている現在が、途方に暮れる奇跡なのも分かりきった話。
そんな恐れを抱いたままに、今日もまた懲りずに目が覚める。
「…………」
いつ自分に突き刺さるのかも不明瞭な苦痛を抱えて、いつソレを取り零すのかを恐れて、終わりが知れない明日に身構える。
春なのに寒い。夏なのに寒い。秋だから寒い。冬なら強く寒い。記憶と共に五感へ染み付いたのなら、それを取り外すのには時間が掛かる戒めだ。十年と二年、その間に想い焦がれて、描き続けることをやめなかった夢の灯は、火傷となって自意識に潜み、この痛みは癒すのに時間を要する。
カーテンから覗く強い光は、けれど微睡みから掬い上げてくれる柔らかな日差し。鳥の囀りなんてのが聞こえてくれば、まるでドラマや小説の世界に迷い込んだような、そんな優しい朝。
結局のところ、慣れないのだ。
呑気な毎日。疲労感が当たり前でなくなった、穏やかな日々。感じるものが新鮮で、戸惑いすら生まれている。
「……頭が、いたい」
二日酔いーーかどうかはとあるトレーナーの名誉の為に伏せるとして、ともかく寝起きに響く頭痛でさえ、生の実感を受け取らせる。そんな笑い話に繋がる痛みとは縁がなかったから、新鮮さが極まっている。
痛いこと、辛いことは、自らへ課した義務。復讐とも言い切るには果てしなく幼稚な願いの為に、利用し行使し潰し尽くすのがカイトの痛みの意味。苦しいのなら尚善しであり、泣く事も赦されないのを幸福だと勘違いした、今思えばバカで傍迷惑な考え方。
「きったねぇ……」
呆れたように吐き捨てながらも、微笑ましくなるような笑みを作った。宴会の域を逸脱した、どんちゃん騒ぎの末路は此処に在り。
引っ繰り返った皿が複数枚、罅を入れてくれたのも散見される。横倒しに中身のこぼれたコップは全部。ジェンガのように積まれた箸の塔。食べ掛けと残された料理は存在しなく、悉くは皆の腹に収まっているのだろう。主にスペの膨らんだ腹と見た。……視界端には熟語がデカデカと印刷された、芋やら麦やらの飲料が入っていた大瓶。これは見なかったことにしよう。
部室で見るようなメンツが、カイトの家に集まるのは珍しい。というか初だ。部室よりも狭いこの場所で待ち構える必要はあったのかと問いたくなったが、サプライズ性を重視するなら委細仕方無し、だろう。
確かに嬉しかった。落として上げられるのは、予想外が後押しして、嬉色はより濃くなった。密やかに期待していた自分を嘲って、そんな自分を笑い飛ばしてくれるような時間だった。
「……もう食べたいですぅ…………」
「定番とは一味違うな」
夢だろうと現実だろうと、無限の胃袋に変わりなし。ひとつまみの戦慄を覚える。
一番の早起きはカイトだったらしいが、もう一眠りするのも悪くない。だって眠いもん。なので睡眠するのは自然な流れ。決して後片付けから逃げおおせようとしている訳じゃない。眠いので寝る。これ、生物の基本。
「こんな、楽しくて……いいのか――――」
――――とかなんとか、考えるだけくっだらね。
今日もカイトは、少しずつの幸せに浸っている。それで充分ではないか。
幸いにも、エイヴィヒカイトが不幸になる事を許してくれない存在が、傍に寄り添ってくれていることのなんと得難きことだろうか。今日は要らぬ気を回して居ないが、きっと学園で会える。自惚れを継続させていいのなら、多分、夕方からは一緒にいれる。
それを思えばこそ不足などあるわけない。先の見えない不安など取るに足らない。
自分は今、確かに幸せの道中を進めている。
最近はもっぱら暖かいのがその証拠。
資格は得た。それも誰しもが認めるほどの、最高峰な代物を。
しかしそれだけを所持しても意味が無い。言ってしまえばこれは、ペーパー免許でしかないのだ。実技を受けて、その手腕をある程度認められて、そうして初めて中央と冠された真の資格保持者となる。
即ち、行くぜっ、研修合宿の章! なのである。
「てな訳でさ、しばらく地方行ってくる」
「どのくらい?」
「半年くらい」
「……半年?」
「半年。」
寮にぶち込まれての実地研修である。本当ならトレーナーの元でまったりと学んでいたかったが、コネがあろうとなかろうと、ペーぺーの新人は規則の二文字に抗えません。そんなこんなで暫くグッバイ都会なのであります。徒歩二分でコンビニなこの住まいが、今からですら恋しくなりそうだ。
それを聞いて何を思ったか、考え込んだかと思いきや、唐突になんかよくわからん事を抜かした。
「半年も休めるかしら……」
「うん?」
「半年間も学園を休むのは、流石におばあ様に怒られてしまいそうで……」
「…………アルダンは行かないよ?」
「? ……?? どうして???」
「なんだコイツ」
着いて来るのが当然みたいな顔をやめよう。同伴含んだ地方研修とか、中々にファンキーがぶっ飛んでいる。ましてやウマ娘同伴とか、こちとら曲がりなりにも教育者の立場を目指しているわけで、教えの対象を連れて行くとか、何をどう差し引いて見てもどうかしている。多方面へ喧嘩も売ってる。示しが付かないとか、そういった次元では無い気がする。
「連れて行って、くれないの……?」
「当然だと思う」
「私は旦那様が地方へ転勤したら、絶対に着いていきたいのに……?」
「そろそろ白状しよう、いつ頃から変なモノ食った」
それとこれとは、な概念が極致。
ここ数年で、あんなにも賢く聡明だったアルダンが、知能指数低下の一途を辿っている気がする。誰のせいだそうか婆っさまか許さん。
「愕然とされても困る。そういう規則……すら無い」
「! なら……」
「ならじゃない、規則にするまでもないってこと。常識は何処へ落としてきたんだお嬢」
「むぅ……」
膨らんだのを見逃さず、指で突いてへこませる。
プシュッと空気の漏れる音がした後、再び膨らむ柔頬。
そんな不機嫌へとサムズアップ。
「留守番頼む」
「むむぅ〜……」
「唸って睨むな。んなことしても可愛いだけだぞ」
「……ご、誤魔化されないんですから」
なら目を泳がすのは何故でしょうか。ちゃんとこっち向きなさいよ。
「なるべく一緒に居るようにするよ」
「本当に????」
「ハテナマーク多いなぁ?」
「スペシャルウィークさんのトレーニングに付き添うのでしょう」
痛いところその一。
容赦なく突いてくるが、実際申し開きも無いので流す。
「それ以外の間は一緒にいよう」
「グラスワンダーさんのトレーニングにも付き添うのでしょう」
「……ずっとじゃないし」
「ほら」
痛いところそのニ。
この流れのままでは、劣勢を突き進むのみ。しかして覆せる材料を持ち合わせないのなら、居心地悪く縮こまるのもやむなし。
「いや、ほら、アイツらには色々世話になったし、アイツらの厚意は、無碍にするのもアレかなと思ったり思わなかったり……」
「私よりも、同級生……?」
幽鬼、立ち昇るが如し。ユラリとしてゴゴゴとか、そんな果てなきオノマトペを背負った彼女は強い。具体的には平謝りの選択肢以外を潰されるくらいに強い。相対的に、やっぱりカイトは弱すぎる可能性も持ち上がってきた。
取れる手は限られて、腹を差し出しての降伏しか有用なカードは無いのだ。けれどもそのカードを切るのは中々どうして危険だったりもする。もうにっちもさっちもいかないね。
「……ど、どうすれば許してくれますかな?」
「――なんでもする?」
「なんっ、……でも、します……ハイ」
「でもその権利は前にも貰ったし……」
「え、なによそれはいつの話なのよ!」
悪魔の契約めいた取り決めが為されていた。一体いつの間にそんな恐ろしい権利を明け渡すバカが現れた。そこになおれぶっ飛ばしてやる。
「本家へ久しく訪れた日、おばあ様に褒められたでしょう?」
「? ……そう、だったっけ、……か?」
「ハッキリと」
「…………うん、褒められたな。んでそれが………………ぁっ」
「――――」
ぶっ飛ばされるのはカイトだった。
にこやかに笑う美人から目を逸らし、天を仰げば尊し天井。晴れた空は見当たらず、どうしようもない行き止まりだけがカイトの眼前に立ち塞がっている。これ以上なく現在の心境を表している。
『……無敗トリプルティアラ達成を労うため、などとは考えないのですか?』
『ありえんありえん絶対ありえん。賭けてもいいね。もし労われたらアルダンになんだってしてやるよ』
『――――乗りました』
『は?』
乗られてました。なので全然問題有りだったりする。
現役ドンピシャに走り回ってた頃。そう、あれは確か、母親の背中を追い切った頃にメジロ家からせっつかれて、そんな感じの話題の中で、そんな感じを確約された気がする。てかされてた。
なんであんな約束してしまったのでしょうかと、後悔の念に襲われてしまっております。
「待てよ……? あの時ならいざ知らず今なら何をされてもむしろ褒美にしかならんつまりあの約束は実質的な無効となるんじゃないかな、かなぁ?」
「――――ふふ」
「なりませんね。なんだって従いますね。好きにしちゃってくださいね」
「あら、じゃあここにサインを……」
しずしずと差し出される赤っぽい書類。住所や本籍などは既に書き込まれていて、右側の証人の欄にはカイトの母親とアルダンの両親の名前。勘違いを許さないように、同居を始めた日やらまで書き込まれている。
それを人は、婚姻届と呼んだり呼ばなかったり。初見すぎて左上にデカデカと刻まれた三文字が無ければ、それこそが噂に聞く、幸せ運ぶ公的書類なのだとは気づかなかった。
「それ書くにはまだ早いよ!? つーか罰ゲームみたく書きたくねぇ!!」
「でも……これくらいしないと不安で……」
「そんなに信用ないか。俺はそんなに女遊びとかしそうか」
「ええ」
「即答ぅ……」
浮気の定義はそれぞれだが、カイトは広義的な意味でも浮気なんてしていないと誓える。ベルちゃんの件はそれはそれ。あれはほら、親戚と遊んでただけだし。姉と遊びに行くことすらデートと言われるのなら、それはそうですねとしか言えないのです。
今も昔も、いつだってカイトの心の置き所は決まっているのだから、心配などよしてほしいのだ。
「グラスワンダーさんとは?」
「……と、ともだちと、あそんでただけだしぃ……」
「友達。あんなにもくっついて、友達……へぇ……――――?」
確かに最近のグラスは様子がおかしい。しかし揶揄うの度を越した揶揄いは、彼氏がいない嫉みの発露なのではないかと思えてくる。絶対そうだ。そうじゃないとカイトがマズイ。
「そういえばスペシャルウィークさんが本家にいらした時……一緒に泊まろうと……」
「それこそ違う! あの時は精神緩衝材兼精神防護壁を兼ねた贄が欲しかっただけで、他意は無いよ!!」
「でも最近は妙に距離が近づいて……そういえば、こないだの外食から帰ってくるのがやけに遅かったけれど、誰と一緒だったの?」
「え? スペ」
「夜に、二人っきりで……やっぱり……!!」
「あいつの食うスピードが早くて遅かっただけです!!」
ここぞとばかりに喰らい尽くしやがった彼女ですが、店に着いて開口一番伝説の、『メニューの端から端まで』をやらかすなどと誰が思うか。しかも中華とかそういうのでなく、三つ星輝く御店である。お店でなく御店である。通帳の桁が一段階引き下げられたのには、流石に青褪めて口角がひくひくした。
「これを書かせれば色々と縛れますし…………余計な
「それはそのうち書くよ! でも今は書きたくない!! こっちにも色々準備させてくれよ!?」
「――責任を取ってくれるの……?」
「その言い方は好きじゃないから、もっとポジティブな言い回しで、……とにかくあれだ、他のことにしてくれ」
そう言いながらさり気なく書類を回収しようとすれば、少しばかり残念そうで、それ以上に嬉し気に書類をしまうアルダン。ちくしょう奪えなかった。
「それなら毎日電話してくれることと、戻ってきたらやって欲しいことがあるのだけど……」
「いいよ。言った手前だ、何でもやるよ」
「本当に!?」
勢いよく身を乗り出して、机の上で目を見開く。
「……ナニをさせる気かは聞きたいな」
「帰ってきてからの楽しみです。……ああ、今から待ち遠しい」
恍惚と未来へ思考がトんでいる。こうなればいくら聞いても答えてくれないだろう。空恐ろしくはあるが聞けないなら仕方ない。
「早く戻ってきたいな」
「半年を越えたらその時点で、約束を破るも同然よね?」
「……マジで早く戻ってこないと」
それが終われば晴れてカイトは――――
「ふんふんっ、ふふんふーん」
「……喜んでいるのは分かったよ。多少なりとも手を貸した身として、私も喜ばしい話だ。だが」
相も変わらずまっずいコーヒーをお出しになられる先輩だが、吐き出しそうになる苦みも今は受け入れよう。もとよりコーヒーが苦手って話だし、そんな事情を知ったことかと作らせているのは自分なのだから、これくらいは呑み込んで然るべき。なんて珍しく殊勝なことを考えるくらいの上機嫌。
「何故ここに来るのかが分からない」
「一応の報告ってやつ。俺だってこんな、一杯十円にも満たないコーヒー飲みに来るほど暇じゃないんです。……あ、暇じゃなくなるんです」
「……」
うっとおしいの意志が表情に張り付く。薄ら笑いを見せることに定評のある彼女にしては、それなりに珍しいモノを見れた気分。
「だったら自分で淹れればいい。なんだって私がこんな……」
「なんかね、確かに先輩のコーヒーの味はクソ不味いんすけど、そりゃもう、もはや飲み物じゃないんですけど」
「…………」
おおう、いつになくイラついた表情。効率的な息抜きだとか後付けの理由を張り付けては、人体実験のサンプルとされていた勉学期間。その鬱憤がいくらか晴れた。
「ただコーヒー飲むならここかなって」
「ビーカーで飲むのが趣味かい? 随分と特殊な嗜好だね」
割とあり得る理由だった。今更カップで渡されても、持ち手がある方が違和感を感じるまである。
それにここへ来れば、少なくとも豆は上質なものがある。カフェがいれば味も上質の代物にありつける。
「だからか、他じゃ飲む気になれないんですよね」
「君のガールフレンドにでも淹れてもらえばいいじゃないか。彼女なら喜んで淹れるだろう」
「がっ、…………だってアイツ、紅茶派閥だし」
「ほほう奇遇だな、私も
とかなんとか言って、なんだかんだで淹れてくれるから嫌いじゃない。
ビーカーコーヒーに慣れてから、既に一度だけアルダンに淹れてもらったが、あまり芳しい結果にはならなかった。逆に美味しいコーヒーを飲めば、首をつい傾げてしまう体にいつの間にか改造されていたカイトには、お嬢様の淹れる美味しいコーヒーが体質と微妙に噛み合わないのだ。それ以降は頼んでも淹れてくれません。膨れっ面で拗ねるだけになってしまいます。
それはそれで良きものなので、たまに頼んで拗ねさせたりもする。
「いいじゃないですか。……あ、そうだ、今度本家からお高い茶葉でも土産に持ってきましょうか?」
「ほう」
「あの家の住人は不思議の国かってくらいにお茶会信者ですから、いいもん揃ってますよ、多分」
「広義で言うなら、今現在もお茶会に含まれていると思うよ」
「マジか」
信者の一員だった事への衝撃。染められたのか、元々その素養はあったのか。後者はあんまりご遠慮願いたいが、結果的には変わらなさそうだなと。
「……ところで、カフェ先輩はいないんすか」
「さあね」
「そりゃ残念」
彼女の一杯は、それはもう気に入っているのだが、不在なら仕方無し。
あまり長居しても邪魔かも分からん。ちゃちゃっと用事を済ませて終わろう。
「なら帰ろっかな」
「本気で飲みに来ただけか。そんなに暇なら新作の栄養サプリでも飲んでかないかい?」
「よーしっ、ぼかぁかえろっかなさよなら」
グビビと珈琲にあるまじき飲みっぷりを披露すれば、即座に椅子から立ち上がって帰り支度を整える。彼女に対しては凄まじい恩が有る訳だが、だとしても身体や精神がどうこうされるような実験はお断りだ。身長が伸び縮みしたり、マジモンのウマ娘になったり、一時的な抱き着き癖を植え付けられたり、短期間の異性恐怖症を植え付けられたり、もうこれ以上振り回されるのはご遠慮願いたい。
逃げるが勝ちは明白の理だが、理科室から飛び出す前に一言。
「先輩からの嫌がらせ、今じゃ感謝してます」
「もっと素直な言葉を聞きたいね」
「……ありがとうございましたぁ!!!」
返答なんか聞けるか恥ずかしい。
脱兎を超越した逃げ足。魔王と呼ばれていた片鱗をここぞとばかりに注ぎ込んで、とにかくこの場から超速で離れるのだ。
「そうだ俺、ちょろっと研修で地方飛んできますね」
「立ち去るのか会話を続けるかどっちかにしたまえ」
『ではお渡しします』
『いよっ、待ってました』
『……これが持つ意味、これを付ける意味は、付ける人それぞれです。けれど誰もが等しく、決して小さくは無い思いを込めています』
『でもこれ、現役時代と変わんないですよ。俺も一匙の覚悟で、あの夢を追いかけたわけじゃない』
『……』
『何事もその辺は変わらないんじゃないんですかね。……今の動機がたいそれた事かどうかは正直知らんです。けれど、生半な努力で勝ち取れるモノじゃないのは確かで……それが、証明にはなりませんかね』
『以前のようにはなりませんよね……?』
『ナイナイ。これでも少しづつ自分を大事に出来るようになってきたんですよ』
『…………その言葉を、信じます』
――――手渡される小さな黒い箱。
――――手の平に喰い込む小柄の重みは、実際以上に遥かな過剰さを感じさせる。
『指輪とか入ってたりしてそうな高級感……実際高そう』
『絶対に売らないでくださいよ』
『んー、食うもんに困ったとき以外は辞めときます』
『……………………ちなみに』
『はひ?』
――――腕を組んだ姿を見れば、張りつめた空気は弛緩を始める。
――――一周回って目に優しくなってきた緑のお人が、先程とは打って変わって穏やかに聞いてきた。
『目指した切っ掛けは?』
『食い扶持にちょうどいいなって』
――――呆れ混じりで、ちょっとだけ小言を言われた授与式だった。
門出の春。出会いの春。季語として扱うなら、春とは中々に縁起が良さそうな趣がある。
けれど何度目かになるのだろう。目の前に広がる景色を見れば、何度でも思い浮かぶのは『始まりの春』、だ。
美しく門出を祝福する、満開三昧な桜花の舞。校内へ踏み出しても無いのに、淡い桃色吹雪は若人達の全身をあちこち叩く。
ふと、鼻頭へ一枚の花弁が羽を休めて、指ではじけば風に流されて、どこかへ飛んでいく。
そんな様子を観察する視線が、ひとつふたつみっつ、それ以上にどんどん膨れ上がる。門前で男が立ち往生していればそれも当然か。ましてやここは、実質的な女子高であったことを久しく思い出す。
紆余曲折と数々の出来事があれども、この場所は想像よりも暖かく自分という異物を受け入れてくれた。今では張り付いたレッテルの存在も、たまに忘れてしまったりもする。善なる存在が多すぎるのだここには。
根が以前よりも図太くなった青年は、そんな飽き飽きとした視線をものともせずに跳ねのけて、一人静かに感慨へ耽る。
「……ふっ」
一人静かに、不敵な笑みを浮かべる。
「遅刻した!!」
突如として走り出した青年に、周りは何事かと目を向ける。蛍光色なお姉さんは、慣れたことのように溜め息をついていると思う。
そんな呆れ目を尻目に、右足を踏み抜き春の轟音を響かせる。
桃色の吹雪を切り裂いて、生地の滑らかな黒ハットを弾ませて、新入生の波をすり抜けていく。
周囲に居るのは蛍光色を覗けば、殆どが新顔で埋め尽くされている。そんな彼女らは、青年の走りに一瞬目を奪われた。
青年が何者なのかを思い出した者。やたらと速く走れる人間だと感心する者。
その程度にとどまらない影響を与えること。それが青年にとっての第二の夢。
けれど少年の時とは違う。夢を潰すためでなく、夢を生かすため。
「ごめんね二人ともー!!」
この先に出会うのかも分からない、そんな不明瞭な果てを見届けるために――――とりあえず今は、名優と帝王に怒られに行くとしよう。
「――――だから言ったじゃない、大事な日の前は早く寝なさいって!」
「だってだって、緊張して中々眠れなくって――――」
誰かが走れば風が吹き、伝播した風は、先の世代へとつながる。
たなびく桜の吹雪は、絵に描いたような春模様。そして春とは、言わずと知れた出会いの季節。
その出会いは、きっと近い。
あたらしい かぜ の よかん …… !