未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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いつもより長ったらしぃ……


其ノ九

「来てくれてありがとうフラッシュさん」

「いえそんな、私にはこれくらいしか……」

 

 身を縮こまらせて、手を小さく横に振るフラッシュさん。あらやだ可愛い。クールな子がいたいけな動作をすると、ギャップのボンバーがスパークしてジ・オーガする。ファイナライズして、レッドでガイアでイレイザーな威力でなのである。

 つまりはこんな子が従姉だなんて、本当にカイトは恵まれているってことだ。

 

「フラッシュさんのおかげで道に迷わずに済んでる。助かってるよ」

「わたしとカイトだけだと確実に迷子になるものね〜」

「……ネットで検索すれば和訳の地図もありますからね?」

 

 地図の文字を読めたとて、やはり地理と照らし合わせられるかどうかは神の味噌汁なのです。

 墓地までちょっといってきますと。日本ならまだしも、表札すらも読めない日本人二名では、野垂れ死まで秒読みだっただろう。メキメキと語学力を身につけ始めたカイトも、まだまだバイリンガルの称号を胸に飾るには尚早だ。

 迷子を極めた末に食べ歩くのも、それはそれで楽しそうだが今日ばかりは遠慮しておきたい。

 

「日本もドイツも、お墓って大して変わりないのね」

「人の発想ってのは、どこまで遠方に離れても同じだって事だろ」

 

 効率の様式美を重視しようとすれば、きっとこうなるのだ。

 死後、寂しさを埋められるようにと願いを込めて、大勢と共に眠らせる。

 静かなる優しさを込めた、祈りと眠りの場。

 

「……初めて来た」

 

 フラッシュの先導で連れられたのは、母親とカイトの最愛が眠る地。

 母親の夫であり、フラッシュの叔父であり、エイヴィヒカイトの――父親。

 

「はい、着きましたよ。……カイトくん?」

「――……っ、んっ、どうかした?」

 

 どくん、どくん。

 

「……ほら、行きましょう?」

「……うん」

 

 落ち込む時ほど、跳ねっ返るように快活に振る舞えるカイトだ。

 辛ければ、落ち込んだ時ほど笑い飛ばす。実践してきて、間違えた用法を用いて、正しい意味を知って、そうやって遠回りして、周りへと元気を与えようと頑張ってきたカイト。

 心意の教えを授かった相手に会うとなれば、此度は例外なのかもしれない。

 

「あちらです」

「うん…………」

 

 どくっ、どくんっ、どくどくっ、ドクドクドクドクドク。

 

 心底から湧き出た笑顔を維持できている自信は薄い。色素の落ちた愛想笑いをしている自信なら硬い。先程から唇が乾いて仕方ない。瞳が潤いを欲して、痒みの発症にしばたく回数は増える。

 ふと、無性に泣きたくなって、けど――――笑顔のペルソナは出てこない。同じ場所で何度目かになる再確認を終えて、心底から安堵した。

 

「…………よかった」

 

 ちゃんと哀愁を得られている。エイヴィヒカイトは、まったくもって正常なのだ。墓参りへ向ける感情も、真っ当な心で相対できる安心感。

 けれどそうやって確認を取ろうとするのは、果たして普通なのだろうか。本当に普通なら、きっとそんなことは思わない。故障していない奴は、自分が壊れているかどうかなんて考えは、微々たりとて浮かばないのだ。

 本当に俺は、父さんの――で良かったのかな。

 

 ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ。

 

 良くない考えが、カサブタをこじ開け這い出てくる。

 嫌な汗が、背骨を流れ落ちていく。顎の筋繊維に力が入って、不快な強張りを自覚させる。

 ――――心臓は、早鐘を加速させた。

 

「ねね、カイトカイトっ、手を繋いでもいい?」

 

 年甲斐を忘れさせる、明るい声が隣から届く。

 

「……この歳で?」

「中々機会が無かったから、虎視眈々と狙っていたのよ〜」

 

 恥ずかしがる理由は多々ある。人の目は無いも等しいが、フラッシュに見られるのは痒くなってくる。高等部だってそろそろ卒業しても良い頃合いに、母親と手を繋いで歩くなどと、甘ったれた餓鬼でもあるまいに。

 ならばと断る理由を探してみれば、困ったことにどこにも見つからなかった。マザコンなのかと悩むべき自己判断だが、喪った時間を思えば子離れも親離れも不完全で然るべきなのかもしれない。

 そんな言い訳の反魂を中身で響かせて、差し出された手に縋りついた。

 

「ん」

「ありがとうね」

 

 真に感謝するべきはどっちなのか。

 指先は震えていた。カイトの寒がりか、母親が悴んでいるのか。どっちの震えか分からなかったけど、この場においては共有すべき弱さなのだと思える。

 指摘は、どちらからともしなかった。

 

「どう? 歳食ったけどまだまだ体温高いでしょう?」

「別に。恥ずいからぶっちゃけ離したいけど」

「とか言って自分からは離さないくせにぃ〜、このこの〜」

「……うっざ」

「ふふっ……良かったですね叔母様」

 

 歳を食ったと自称する割には、二十のサバ読みでも通用してしまう。老け顔の方々に謝れ。言うと調子のに乗られるので禁句だが。

 会話は自然と止んで――気が付けば三人とも静かに芝生を歩んでいた。ターフのような整備の尽くされたもので無く、もっと自然な出来合いの踏み心地。土の匂いは悪くない。木々から振り落とされた枯葉がシューズの紐を叩き、カサリと小気味の良い音が鳴った。

 何とも関係しない材料が、思わぬ刺激で想い出を引き摺り出す。

 

「……っ」

 

 小さく、幼く、何もかもの幸福を疑わなかった昔に、手を引いてくれた体験を思い出した。

 歩幅を子供に合わせて、ヨタヨタと遅々とした歩みで一緒に並んで屋敷を歩く。本家の広い廊下でも、三人並べばそれなりに幅を取れて、三人みんなで手を伸ばせば壁から壁まで手は届いて、そんなことが、何故か無性に嬉しかったこと。

 二人の手を取って、自分は身を任せてキラキラと期待して、二人はそんな期待に応えようと、手を繋いだままブランコのように揺らしてくれて。

 二人のやることなすこと、感じられた全てを尊敬できていた。「すごいすごい!!」と穢れなき光ではしゃいだのは小さな子供。飛び跳ねる子供へ、無償の慈しみを与えてくれた優しい人たちだったのだ。

 それがどれほどの奇跡と幸福で満たされた時間だったのかを知らずに、一寸先の未来は輝いて仕方ないのだと。無根拠の祝福を信じて疑わず、降り掛かる不幸を跳ね除け、逡巡などミリも持たずに進んで行けるのだと。子供の戯言でしかない希望が、世界の全てなのだと掲げた日々。

 過去形なのはもうしょうがない。起きたことは変えられない。過去には戻れない。過去を捻じ曲げることもできない。ありのままを受け止める。

 自分よりも遥かに大きな手は、もう二度と繋げない事実を胸に食い込ませる。

 けど、耐え切れぬ思い出の残滓を、一滴だけ取り落としてしまう。

 決壊の瞬間は近いと悟れば、自覚は揺さぶりをより強めて、零れ落ちるのは一雫だけでは済まない。

 こわばらせた線を、情の波とはいとも簡単に超えてくるのだから。

 

「…………」

 

 フラッシュは何も言わない。彼女の洞察力なら気づいても不思議じゃないのに。気づいた上で、何も言わない優しさを受け止めた。

 

「〜♪ 〜〜♪♪」

 

 場にそぐわない、軽快な声。

 暁の下で走り回る憧憬。月夜の下で共に眠りへ明かされた宝物。

 父の故郷の唄。母の好んだ唄。自分の安心する、心の故郷。

 

「……懐かしいな……っ、くっ、、……ぅ」

 

 全部吐き出してしまえと言わんばかりの、暖かい唄が胸に入り込んでくる。

 柔らかな愛で見守ってくれた両親の姿。幼少期の眠る間際に聞いた音と、聞こえてくる調べは重なって、大好きだった二人を思い出す。

 フラッシュは景色へ目を向けて、母親は素知らぬ顔をして歌謡を口ずさむ。風と鼻唄のへ隠せるように祈り、軽く鼻を啜る。

 痛んだ心臓は、穏やかな鼓動を奏でていた。

 

 

 石碑へ膝を着いて、縋り付くように手で触れる。でも手は触りきらず、恐れるように指先が伝うだけ。触れてはならないと本能が拒むように、けれど離れたくないとも求める本能が叫んでいるような。

 背中は、贖いを求める罪人のようだった。片手は土をやるせなく握り、爪に入り込む汚れを気にせず、ただ刻まれた名を紅眼へと映しこむ。

 声は発することなく肩を震わせ、嗚咽の粒を土へと吸い込ませていく。

 

「……二人にしてあげませんか?」

「……そうね」

 

 伝えたいのに伝えられなかった想い。吐き出したくても矛先を見失った感情。気持ちの整理を付けずに、敢えて引きずろうとしていた後悔。十年以上降り積り、混ぜっ返された咎の心。

 十年――正確にはそう、十三年だ。幼児も少年になり、青年への一歩目を踏み出す頃合いだ。常日頃からの苦悩に、知らぬ間に底へ沈澱していた内なる本音や、抱え続けるには心への害が多かった想いの数々。

 言葉にするにも時間が掛かるだろう。そうすることをずっと避けてきたのだ、混乱もして当然。

 誰にも邪魔されることなく、整理を付ける瞬間は今なのだろう。

 

「……叔母様、少しだけ」

「ん?」

 

 カイトくんから数歩離れてから、首に巻いていたマフラーを外しかけて、少し思い直す。

 マフラーなんて渡してどうするのだ。真冬にマフラーを一枚付けて、心胆から凍える寒さを癒せる訳がない。だからマフラーは改めて自分に巻き直した。

 膝を汚す背中へ歩いて、着ていたコートを肩から被らせる。

 

「さ、行きましょう」

「……ありがとうね、フラッシュさん」

「いえ、ああいう時は、体も寒くなりますから」

 

 そうして二人を残して、叔母と共に体を温めるがてら、周りを少し歩く。

 自販機でもあればいいのだが、ここは日本ではない。あんな便利な代物は、治安の良い日本でしか設置できないのだから。

 

「ほら、これ着てちょうだいな」

 

 差し出されたコートを、丁重に押し返す。それを更に押し付けんと差し出す。

 貸して貸して貸しての連鎖が始まりそうで、不毛の予感がヒシヒシとした。

 

「いいですよ、寒いのは苦手ではないので」

「だーめよっ。それで風邪でも引いてみなさい、一番怒るのはカイトなんだからっ」

「……ああ」

 

 優しい彼が怒る時は、大抵が自分以外の事柄。非常にその姿が想像しやすく、ほぼ確実に怒ってくれるのがちょっと嬉しかった。

 

「でも看病してくれるのなら、それはそれで……」

 

 熱っぽいと言えば何でもやってくれるに違いない。小手調べに汗を拭いてもらって、偶然、そう、熱で前後不覚な体は偶然にものしかかってしまうに違いない。押しに弱いし、弱みを握ればイケイケで最後までゴールできるかもしれない。

 

「残念でした〜、もしそんなことになったら看病するのはわたしでした〜」

「……まあ、叔母様が看病してくれるのも嬉しいですからね」

「ナイスなガッカリ顔ね。ほらほら観念してねフラッシュさん」

 

 若干の揉み合いが発生しながらも、着させ合いを制したのは元怪物女王。するるとガードをすり抜け、腕を掴めば逆に力で捻られる始末。無敗のトリプルティアラを勝ち取った手腕が、余計な場面で遺憾なく発揮されていた気がするフラッシュだった。

 手頃なベンチを見つけて、軽く暴れて暖まった体を休めようと意見は一致した。

 

「……どっこいしょ〜ぅ……ふぅ〜」

「お疲れですか?」

「やーねー、オバサンってだけよ〜。……歳を取るとね、ワンアクションごとにため息出ちゃうのよ〜」

「あ、あはは……」

 

 コメントに困る話だが、事故の後遺症などでなくて良かったと密やかに息を吐く。

 そんな動作を、バッチリ見られていたのはなんと申せばいいのだろうか。

 

「優しい若者は見てるだけでリフレッシュ効果を感じられるわ〜……カイトの周りはみんな優しい友達ばかりだけど、フラッシュさんは一際良く見ようとしているのね」

「そんなこと……肝心なことを見落としてばかりです」

「そうかしら? さっきだってやさしい娘なんだぁ〜って、わたし見習っちゃったもの」

 

 やめて欲しい。本当に自分は何も出来ていないのだ。カイトと叔母に対して、何が出来たかと探しても、驚くくらいに何にもなかったのだから。

 ――あの時止めていればと、ずっとずっと今更の後悔が張り付いている無力な娘なのだ。

 

「二人って言ってくれたじゃない?」

「へ?」

「カイトと……お父さんのことを指していたのでしょう?」

 

 なんだ、それは。

 だって、彼があの場で縋り付いていたのはただ一人で、私と叔母がその場から離れるなら、自然とその場にはカイトと叔父しか残らないだろう。普通に考えれば二人と数えるのが当然だ。叔母だって同じ数え方をするだろう。

 

「ありがとうね、フラッシュさん」

「…………違いますよ。私は、本当は……そんな……」

「自然に言えるのはとってもすごいこと。……カイトだけじゃなく、しっかりとあの人のことも覚えてくれていた証」

 

 忘れるものか。

 叔父としての優しさを幼い過去に受け取ったのなら、いつまでも覚えて留めていられる。

 カイトと自分を繋げてくれた架け橋の絆であり、共通の大切。

 

「それだけじゃないのよ。わたしの誕生日に、毎年日本まで来てくれていたでしょう? 一番キツかった頃のカイトを、わたしと結び付けてくれていた……うん、感謝しか渡せるものが無いわね〜」

 

 違う違うとかぶりを振ろうとすれば、頬を両手で挟まれる。お陰で首を少し痛めてしまったが、眼前にあるカイトと同じ瞳はあまりにも笑顔で。

 少年と似通わせた満面に、つい見惚れて否定の言葉を忘れ去ってしまった。

 

「可愛いぃ……持ち帰る……? お義兄さん達にどう言い訳すれば、…………っ! カイトと一旦入れ替える……? いやでもカイトが拗ねるだろうし……うーむ、むむむ〜ん……どうしよっか?」

「え」

 

 惚けた顔が、暴走を助長させた。私に聞いてどうするつもりなのだろう。

 

「ああんもうっ、なんでそんなにちゃんと可愛いのよフラッシュさんってば〜! ……ウチの子になっちゃう? どうする??」

「それ、は……違う形でなれたのなら、とても幸福では、ありますけど」

 

 彼女の義理の娘になるなら、すなわち欲した愛を手にしたことと同義だ。

 少し口籠もった私を、髪型が崩れてしまうくらいに撫で回す。

 わしゃわしゃと犬猫を撫でるような容赦の無さ。感極まった時のガサツさは、たしかに親子だった。

 

「カイトの支えになってくれて、ありがとう」

「……ぇ」

「あの子は……皮肉な話だけど、例のふざけた夢が無ければ、本当に生きてはいけなかったから」

 

 ――テキトーに身投げでもしてたかなぁー。

 確かにそう本人が、よりにもよってヘラヘラと笑いながら言っていた。

 夢への活力が無ければ母親の維持を止めにして一緒に、と。

 

「でっ、でもっっ、」

 

 彼がソレを思いついたその瞬間に居合わせた自分には、とても受け取れない苦しみの謝意。

 日本語がまだ不自由だったなんて言い訳。子供だから仕方ないとは、無力だった事実を有耶無耶にしてしまう言葉。

 無責任に、無覚悟に、無知蒙昧にも、押してはならない背中を押した。想像するのが怖いというだけで、彼の内側の地獄を想像することをやめて、ただぼんやりと彼は強い人なのだと勘違いをしていた。

 どうあっても、彼が棘だらけの道を歩む夢を、静止するには絶好の時だった。止めるべきだったのだ。縋り付いて何かが変わるとも思えずとも、「行かないでください」と、手を掴めばキッカケくらいは作れたのかもしれない。

 結局私は彼の事情を最後まで知らなかったまま。

 道行の末を見守る事も不完全な私が、彼女の優しさを受け取るには、なんて不適格を身に付けた従姉であるのか。

 

「私では、ダメなんです……私は、支えなんかにはなれない」

 

 思えば無駄な意地を張った。彼の一番は、これ以上存在し得ないたった一人は、彼女以外にあり得ないだろうに。

 本当は分かりきっていた。

 

「そお?」

「真の支えは、先輩のような人。突き放されても、お構いなしに押しかける彼女が……そんな人が……」

 

 傷みを放置しようとする者へ養生しろと言っても聞く耳なんて無い。その者は往々にして、進行して受け取る痛みこそが苦痛(しあわせ)なのだと勘違いをしているから。

 そんな頭の悪い頑固者を本当の意味で救えるのは、言葉でなく行動を発揮して止める者。

 無理矢理にでも止めようとする姿勢こそが、顧慮を伝える何よりの手段。

 だとすれば、自分はどうであったのか。誰かを気に掛けて、それだけ。なら薄氷の言葉を投げ掛けるのと何がどう違える。上辺だけの心配など、彼への施しには至らない。

 

「寄り添えなかった私には……」

「の割にはアプローチ仕掛けてるって噂は?」

「……あんなのは、下らない小競り合いの域を出ません」

 

 彼への仕込みの数々、アレらは単に嫌がらせなのだろう。

 心を貰えないのなら、価値観の幾らかは頂いていくと。

 彼の帰る家は実家と現在の家と、それだけには独占させやしないと。

 思い返すほど矮小な己ばかりで、笑いすら出てこない。

 

「そうかなぁ……あの子がそう易々と『ただいま』だなんて言わないと思うのだけれど……」

「……はい、言ってくれた時は、とても……それはもう、嬉しかった」

 

 ――――た、ただ、いまー?

 ――――……訝しむ理由はありませんよ。

 ――――…………そっか、うん……だよね……っ。

 

『たっだいまーー!!』

 

 翳りはあった。けれど遠慮がちだろうが、『ただいま』と。家族を欲して安寧を求めた彼が、確かにそう言ったのだ。其処は心を置ける安らぎの場で在るのだと、無意識下で示してくれた贈り物。

 他ならぬ彼が自分の帰る場所と認識してくれたのが、泣きたくなるくらいに嬉しかった。

 

「フラッシュさんが在るが儘に行動してたから、それに伴った結果に行き着いたのよ」

「……」

「……ところであの子、重たいでしょ?」

「…………」

 

 あっけらかんと、叔母はそう言った。

 口に詰まったのは唐突に問われたからで、頷ける部分があるからなどではない、ハズです。目なんて泳ぐ余地なし。多分。

 

「そうさせたのはわたし達夫婦の責任か、元々の気質だったのかは分からないけれど……そんなカイトにとって、わたしの誕生日はやっぱり苦しい通過点だったと思うの」

「……」

 

 焼き付いて離れない光景。

 昼下がり。夕暮れ。大体はこの二択が窓から覗ける背景。

 目覚めの見込みの薄い寝顔を、直視することから避けるように俯いて、場違いのような振る舞いでこうべを垂れる背中。毎年無言のその背を見るたび、謝っているように見えてしまう。実際彼が秘めた心の内側では、謝罪の言霊が荒れ狂ってのたうっていたのだ。

 張り詰めた視線の強さ。喰いしばった唇は裂けて、手のひらには指先の痣が付くくらいに握りしめて。

 自己を刺しては傷つける嫌悪の様子を、ただ見ていることしかできなかった。

 

「声も届かせられないなら……っ、見守ることにどんな意味が生まれるのでしょう」

「そんな哀しい事を言わないで。誰かが見ていてくれるのなら、孤独とは明確に違うのよ」

「……」

「孤独からカイトを守ってくれてありがとう、フラッシュさん」

「……違う」

 

 その言葉を貰うべきなのは、どう運命が違っても自分ではない。あらぬ方へ幸運が転がったとして、やはり自分が受け取っても良い言じゃない。

 夥しい剣山の集う路へと背中を押した自分では、決してないのだ。

 

「……ほら、あの子ってバカでしょう?」

「えっ」

 

 言の葉が渋滞を引き起こした。本人がいれば『ウソでしょ……』と、先輩を真似た態度でおどけて、少しほどのショックを受けながらもケロッとしているのだろう。

 

「子供みたいに物事を見ていて、でも、だからこそ、人を見る目はとっても澄んでいる」

 

 善人を見つける力が肥えているからこそ、彼の周りには善い人で溢れている。

 

「そんなカイトにとって一際距離が近い人にフラッシュさんが居るのなら、やっぱり理由はフラッシュさんに在るのよ」

「……でも私には、カイトくんが……叔母様が思うほど暖かい心はありません。……誠に優しく在れるのなら、先輩から奪ってしまおうなどと、考えたりはできませんもの」

「恋愛沙汰で略奪合戦なんて、幾らでも有って然ると思うのだけど」

 

 普通なら、そうなのかもしれない。けど。

 深淵のような谷底を乗り越え、天を衝く山峰を乗り越えて、そんな激動の過程を経た二人の結果だ。息をするたびに痛みを堪えて、前へ進むたびに心臓は締め付けられて。

 

「……わたしの息子は、性善説を唱える聖人なんかじゃない」

 

 前置きの言葉だと、声色ですぐさま分かった。

 

「けれど大切だと括った人達なら、どれほど醜い部分も許容できてしまえるすごい子なのよ」

「……」

 

 自分の勝手に従って、『それもアリアリ』などとあっけらかんとして、砕けた微笑みを溢す姿がすぐにでも脳裏によぎる。私の懊悩を知ったとて、指先ひとつまみくらいの些事なのだと鼻で笑うのだろう。其れも是れも何でも善しと、身内だけへ向けた大らかさで、無条件の是を続けるのだ。

 懐や器が大きいとは違い、ただ優しいとも言い切るには外側へ冷たく。

 線引きの内側をこなよく愛するだけの、どこまでも独善的で、皮肉なくらいに人間的な姿勢。

 

「だから、ね? フラッシュさんがいくら自分を責めても、あの子の態度は絶対に変わらないわ」

 

 誇りを込めて。愛を込めて。贔屓なんて当然、他に比べるべくもないくらいに過剰にふんだんに。

 万感の情を詰め込んで、彼女は人間的な彼を褒め称える。

 好きなモノは好きで、嫌いなモノは嫌いなのだと忌憚なく言い切れる強さ。それが所以となって、時として意固地を必要以上に発揮したりもする厄介さ。

 認識に相違は無い。一度信じると決めたのなら、ドン底へ突き進んででも信じ抜ける迷いの無さ。時に盲目とも蔑まれるほどの無軌道な愚直で無邪気な在り様を、こう言い換えたりもする。

 

「バカなのよ」

「えぇ……?」

「カイトって考えなしのバカだもの」

「……肯定し辛いですが、まあ、はい」

 

 そこが可愛いのは共通認識。可愛いと本人へ伝えれば、少し不貞腐れたようにそっぽを向いて、それでいて隠しきれぬ喜色が咲いてしまうのも可愛い。

 

「あ〜あ〜、どこかに無計画で脳筋行き当たりばったりな不肖の息子を導いてくれる、計画性に富んでキッチリとした人生設計を組めるヒトはいないかしら〜」

「……っ」

 

 勢い良く挙手をしたい気分真っ盛り。シリアスを無理して保とうとしてこないのは、調子を崩されて困ったりする。

 人の動揺を誘うのが上手な辺りは、やはり水よりも濃いのだった。

 

「…………」

 

 いいのかな――――違う、この逡巡が意味のないこと。

 いくら悩んでも、いくつ唸っても、彼なら全てを受け入れてくれる。

 抑えきれない――抑える気のない――横恋慕だって、きっと。

 

「さささっ、ほらほらカイトを迎えに行ってきてくれる? あのままにさせても自分を責めるだけで終わってしまうわ」

 

 思い浮かばせるには難くない。誰かしらが声を掛けなければ、一日二日と石碑の前で膝をついたままになってしまう。

 しかし、だ。

 それほどに父親との対話へ没頭する最中で、私が声を掛けても良いのか。二人の間に横槍を入れても良いのだろうか。

 そんな大役は、私ではなく彼女や例の先輩などの方が――――

 

「落ち込んだ時に優しく声を掛けられるとかなり好感度上がるわよね」

「いってまいります……っ!」

「いってらっしゃ〜い」

 

 まあ、あれだ、どれほど理性で律しようとも、所詮我々は霊長類と冠されただけに過ぎない動物の一種である。

 欲望は無限の原動力。これに尽きる。

 いとおしい彼のように、大好きなモノを欲しがるべく、この身は最高効率で走り出した。

 過ぎ去る風に舞い踊る木枯らしは、まるで吹っ切れた誰かさんを描いたようで。

 

 

「…………冷たい言い方になるけれど、本当はね、誰でも良いの」

 

 独白とは、誰にも聞かせない為の呟き。

 内へと言い聞かせる。己を携える。自らへ問いかける。はたまた、誓いとも聞いて取れる。

 独白とは、自分のためのもの。

 

「突き詰めれば、全く別の、それこそ関わりの一切無い他人でも構わない」

 

 そりゃ閃光の姪っ子は好きだし、ガラス水晶な親戚の子も好きだ。

 ただ、それはそれ、これはこれ。

 決してあの二人じゃないと駄目な理由は、生憎彼女には見当たらないのだ。

 

「……あの子が幸せになるのなら」

 

 祈るのはただ一人の幸せ、ではない。

 祈るのは、ただ一人が望んだ幸せの形。

 永劫が求める幸福の図解を、自分も求めるだけ。

 最後に鞘へ収まるのがどちらかでなくても、彼女にとっては問題などどこにもない。

 

「誰でもいいから、カイトを幸せな人生で満たしてあげて」

 

 願いは、一つ。

 

 

「もしかして二人は仲悪いの?」

「こういうところは鈍感ではないのね」

「……ありがとう?」

「褒めてないんですよカイトくん」

「ナ、ナンダッテー、ソウダッタノカーッ」

 

 睨み合ったり、軽いささやかでお淑やかな口論を繰り広げたり、そんで睨み合ったり。晩飯時は特にひどかったし、たまさかの睨み合い。キッチンが戦場とはそこそこな頻度で聞きますが、あの熱気を思えば頷かざるを得ない話だった。

 だと言うのに特定の人物を口撃する際には一致団結ときた。気が合うのかソリが合っていないのか、一体どっちなんだい。

 

「……無理はしないこと、いいですね?」

「や、無理しないと克服って出来ないんじゃないの?」

「…………顔色悪くなって帰ってきてみなさい、私、泣きますから」

「ウェッ?」

「カイトくんに抱きついて大声で泣きますからね」

 

 ニュースタイルにしてニューエイジな脅し方。最近はこういうのが流行りか。疎くてごめんね。

 

「私が傍にずっっっと付いてますから、大丈夫ですよフラッシュさん」

 

 語に含まれた威が、どうしてかしら強力な覇を放っている。けれどもトラブルの予感を知覚した超直感を信じたのなら、取る対応はただ一つ、気づかないフリ、これが一番有効的。フラッシュ家へお世話になって早二日目だが、鈍感なフリにまでお世話になりそうです。

 

「やっぱり私も……」

「今日は私です。もう決まった事でしょう?」

「…………くっ」

 

 そういえば昨夜、キッチンという主婦のテリトリーから、トボトボと追い出されたアルダンに勝ち誇った表情のフラッシュが印象深い夕飯後。白熱とした滞在一日目を終える間際に、やたら魂を捩じ込まんと気合の入ったジャンケンをしていたなと。ちなみにこの家に泊まる間、アルダンの手料理はしばしお預けらしい。残念ではあるが、叔母とフラッシュのつくるご飯も美味なので、それはそれでオーケーです。

 カイトには見られないようにコソコソとしていた記憶もある。一切の詳細不明なのが、気を惹くには十二分なポイント。

 

「ナニナニ、なんの話よ?」

「カイトが気にする事じゃないの」

「何でもありませんから」

「……二人して内緒話ってか。いいもんいいもん、男子は一人で拗ねちゃうもんね」

 

 ブー垂れながら母親の元へ向かうその前に。

 出所不明瞭な嫉妬心半分、もう半分を不安と心慮で満たした顔色。そんな顔をさせたまま、ハイそうですかと見送られる訳にはいかない。

 帰郷も同然なのだから、もっと明るい顔でいて欲しいのは勝手が過ぎるだろうか。

 

「シュネーバルが美味しかった店、どこだっけ」

「……?」

「や、この辺の道は大体分かるんだけどさ、去年フラッシュさんが連れてってくれたところはまだまだうろ覚えで」

「……ええ、明日は同じお店へ行きましょう。……だから」

「いやいや大袈裟! ……明日を楽しめないほど無理をするつもりはないよ」

 

 おおう、流石はエイヴィヒカイト。親戚の顔色はみるみるうちに明るく、拭いきれなかった不安はものの見事に払拭されただろう。面白くないようなオーラを発する背後は無視だ無視。従姉を慰めるだけでちょい辛めの嫉妬を向けられたとて、ぼかぁ一体どうすりゃいいのです。

 ともあれなんであれ、キッカケとなる瞬間は掴み取った。後は畳み掛けるが大吉。しかしそこで調子に乗ってしまう辺り、頭の構造は間違いなく大凶。

 

「なんてったって明日は、久しぶりに二人きりのデートだもん!!」

「――――」

「……やだもう、カイトくんったら」

 

 照れの熱と絶対零度によるサンドイッチ。

 けれども気づくのはいつだって疾走する祭りの後なのが、新種エイヴィヒカイトである。突っ走ったら中々に止まらない、そんな代名詞を欲しいままにするカイトは、従姉の元気が出てきたことにしか意識が向かわず、これでもかと地雷原を走って廻る――――!!

 

「フランクフルトはまだまだ回り足りないんだよね。だからいろんなところを食べ歩いてさ、歩き疲れたら……こないだ行ったホテルのラウンジとか? あそこの雰囲気気に入ったし、また行きたいかも」

「…………――――ホテ ル  ?」

 

 都心の街並みを一望できるテラスラウンジは、ひと時の休憩だけで使うには中々に贅沢ではあったが、値段に見合った時間を得られたのは確かだ。

 妙な熱っぽさを感じる空間でもあったが、不思議な雰囲気も含めて存分に楽しめたのは間違いない。

 

「あそこのレストランはディナーが美味しいんですよ」

「いいね、晩飯は決まりかな」

 

 洒落た場で洒落たディナータイムだなんて、場違いで柄じゃないかもしれないが、そんな非日常を楽しめるくらいの余裕を会得し始めた今日この頃。

 どんな料理が出てくるのだろうかと、食べ物で埋め尽くされた思考は子供そのものであった。

 

「………………行きましょうカイト、お義母様を待たせています」

「ありゃ?」

 

 つんのめりそうになるくらいの勢い加減。可愛らしくつままれた袖を、微塵も可愛くないくらいに強く引っ張られていく。

 かくして、出発の時来れりだ。

 

「いってらしゃいカイトくん。お夕飯は期待しててくださいね」

「うーい、腹空かしてきまーす」

 

 にこやかに送り出された姿は、なんだか旦那を送り出す奥様みたいな風情。可愛いよりも美しいと類せる、それほどフラッシュには実年齢以上の艶を感じられた。綺麗だ美人だ、とは常々思ってはいたが、淑やかな麗しさが増したのはいつ頃からだろう。

 不思議と嬉しそうな背中が家中へ引っ込むのを目尻に、道路へ停められた車へと視線は移る。運転席のミラーには、母親が暇そうにハンドルへのしかかる瞬間が描かれていた。

 

「ごめん母さん、待たせた」

「バチバチしてるのが見えたし全然問題ないわよ〜」

「は? わたぱちがなんだって?」

「刺激的な景色を見れて若返ったってこと」

 

 よく分からん。分からんが、分からん事に時間を使うのはもったいない。

 故に家用車へ意を決して乗り込むその前に、今一度装備を確認しよう。

 アイマスク、よーし。そこそこな値段をしたこちらの一品、光の一筋も感じ取れない完全シャットアウトを可能としております。

 高級耳栓、よーし。耳孔へ捻じ込み、上からハットを被せれば二重蓋の出来上がり。マジで何も聞こえない。骨伝導によって体内で鳴る音以外、まったくの静寂が訪れる。

 一寸先への暗闇ゲット。湖畔を凌駕する静けさもゲット。あとは勇気だけだ。

 

「レッツチャァァレンジィッ、ァレッツエェンジョォーイ。先導よろしくアルダン」

「……歩いてもいいのに」

「あに言ってんのか聞こえないけどニュアンスはまあまあ伝わったわ」

 

 以心伝心の無駄遣いかもしれない。

 

 

 ウマである身体なら、そこそこな距離の目的地まで体力は余裕で保てるだろう。しかし観光に行くわけでもない。街へ繰り出すのは明日の予定。墓地へ向かうだけなのだから、そうも時間など使っていられないとはカイトの言い分。往復すれば夜になってしまうからと、無理を押してまで強烈な記憶へ、強制される訳でもなく自分から触れようとしている。

 寒空の過去を克服しようとしているのなら、ある程度のラインまで、アルダンはカイトを見守るだけだ。

 見守り隣へ寄り添う。いつ頼られても良いように、その瞬間を見逃さないように。助けを求めて伸ばしかけて、すぐさま引っ込めるのが得意な彼の手を、決して逃すことなく捕まえられるように。

 なんてことない話、彼から頼られるのは嬉しいのだから。けど。

 

「……お? っっとと」

「落ち着いてカイト。……聞こえないのでしょうけど」

 

 足を持ち上げて乗り上げて、乗り込む際の位置も促すように微調整。

 ラジコンのように、アルダンの手で全身を右往左往させるのは、まるで介護しているみたい。全幅の信頼を得ている彼女の思う通りに、カイトは四肢を動かしていく。

 滅多に乗らないとは言え、こうして介助が必須なら煩わしさだって生まれることもあるのかもしれない。けれど。

 

「ちょっとだけ……いやかなり、いいかも」

「あだぁっ!?」

 

 金属と肉体が激突する際の鈍い音。

 額は小さく赤くなっていた。

 

「あっ、ご、ごめんなさいカイト! 気を取られて……」

「いてて……む、車の、匂い……っ」

 

 新鮮さはある。この手で動作の全てを掌握できる背徳も、勿論ながら存在している。

 真昼間に思案するには不健全かもしれないお嬢様だった。

 

「おろ? 座った? 俺今座ってる? 座ってたら手の甲突いてくれ」

「……」

 

 トトッ。

 

「おっ、そうかそうか、りょーかい」

「……」

 

 とんとん、つんつん、ぐりぐり。

 指の付け根をかいて、まばらに見える産毛をかんじて、爪の先を緩やかにくるくるとくすぐる。

 互いの指先同士が触れるたび、あたたかなこもれびが胸に飛来する。感覚の集中した部分が、フワフワとした存在の彼を知覚すれば、幸せの色をした弛緩剤が、表情筋をだらしくなく歯抜けへと変貌させてしまう。

 

「……おーい? もう突かなくていいぞー? へいへーい?」

「……ふふっ」

 

 恥ずような顔を見られなくてよかったと思う半分。あなたのおかげでこんなにも幸せなんですと彼には知って欲しくて、残念がる自分が半分。きっとやや優勢な自分は残念がる自分。自覚を認めれば、はしたないかなと思い、けれど決して悪い気にはならない。

 つうーっ、と。ぷくりと皮下を通る健康的な血管をなぞり、性差のあるゴツゴツとした手のつつき心地を堪能するのに忙しいのだ。

 

「……oh…………」

「あの……そんな穴が空くほど観察されるのは……」

「わたしは空気なのよ〜、エアーな姑なのよ〜?」

 

 困った。何が困ったかと言えば、『視線が気になる? ならやめましょうか』とはならない自分に困った。

 気を取り直す事すら無く、役得の堪能は続く。

 絡まる指の次は手のひらを重ねようかと、手首を掴めば露わになるのは、肌色に強く浮き出た――――――――――――白い切開の跡は、いつもなら服に隠れて手首から先は見通せない。それでも隠しきれない跡が見る者へ不自然さを受け取らせる。

 けれどなんてことないように、その部分を強めにさすった。

 手を離せば消えているなんてことはない。この傷は、負う必要のなかった自責の後遺は、この先も癒えることなく残り続けてしまう。

 

「くすぐったいですよー? 聞こえてるか〜い?」

「……かわいい……」

 

 肩と肩を詰め寄らせて、重心をお互いに持たれ合う。自分とは違う硬い筋肉質な感触を支えて、自分の肌をこれでもかと支えてもらって、この時間はとても好きだ。

 少しだけ絡まるお互いの髪からは、同じシャンプーとリンスの香りが漂ってクラクラする。そろそろ本格的に結えるくらいには伸びてきた黒髪を見て、どんなヘアスタイルが一番カッコいいのかと夢想して、想像上の彼を思えば勝手に顔がポカポカと血行は促進されている。

 フラッシュさんへの対抗心は、いつなんどきであれ甘えたいし甘やかしたい気分へと、天秤を傾かせていたようだ。人の目と言えば義母が居たが、スルーしても良いノーカウントな存在と自分でも言っていた。ミラー越しに輝く双眸を一旦無視して、鎖骨へ少しだけ潜り込むように顔を向ければ――――胸元の中心を走る、幾筋の白い痕。

 

「       っ 」

 

 夢心地に差し込まれた、これ以上ない不機嫌への切符。

 喉の根本から始まって、心臓を越えて臍へと届くその線が心底から邪魔で、煩わしくて、許せないと見るたびよぎる。共有さえも出来ないくらい深くて不快な傷跡が、独占欲ともう一つの真っ黒い感情を逆撫でて仕方ない。

 起きたことはしょうがないとカイトは言う。自業の致した結果なのだと笑いながら彼は言うけれど、激情を堪えて納得するには限度がある。

 いつ見てもコレは、度が過ぎる事柄だ。

 

「むむっ、肩が重……くは無いけど重力を感じる」

「……おバカ」

「気を遣おうとして結局ノンデリカシー……お父さんに似てきたわねぇ〜」

 

 治せるのならしてあげたい。移せるのならそうしたい。あげられるのなら何だって施してあげたい。私の全てを使って、どこまでも癒しを与えたい。

 けど消えないのだ。少なくとも私では至らない。詳しく調べたが、皮膚とは臓器などとは勝手が違い、ドナーを必要とできない部位なのだと聞いた。本人の皮膚でなければ、カイトの傷跡は残ったままでしかないと。適切な施術を行えば、目立たなくすることも出来るが、決して消えない。定着した痕は、いつまでもそこに残り続ける。

 勝手な無力感に苛まれることの、なんて無意味なこと。けど愛する人のために出来ることがないと分かれば、落胆の数なんて百や二百じゃ足りないくらいだ。

 

「こっ、言葉も無しでイチャイチャしてるって、なんてっことなの……はぁん……」

「……は、はぁ……そう、ですか」

 

 勝手に感極まって、勝手に目眩を起こしていた義母に愛想笑い。

 尊敬の念を抱く存在だが、アルダンの顔が引き攣るくらいにクネクネと身悶える。一世を風靡し、怪物女王として君臨した栄光は、恋愛脳に侵され立派に翳っていた。

 息子が目撃しなかったのはせめてもの救いだろうか。

 

「あ〜ん、なんて眼福なのかしら……ッッッ!! …………ふぅ」

「……大丈夫ですか?」

「供給過多がちょっとだけ……ええ、安全運転を心掛けなくっちゃね」

 

 逸る心でハンドルは握ってほしくない。落ち着くまで待ったほうが断然良いとの提案を、素直に飲んでくれたのは嬉しく思う。

 バックミラーには、深々とした興味心がキラキラと映る。気恥ずかしいが悪い気分には遠い表情で、澄まし顔を心がけるアルダン。

 もっと楽しげに緩めた顔をしてもバチは当たるまい。しかし勝手に擦り寄って勝手に表情が弛緩するのも、なんだか負けた気分にさせられてしまう。

 惚れた弱みとは、果たしてどちらに適されるのか。二人の間ではまだまだ結論に遠い。

 

「…………さむ……」

「……カイト?」

 

 思わず出てきた言葉。言った自覚を持っているかも定かではないくらい、小さくてか細い空気の震え。

 寒気に晒された車中は、鉄製の特徴通りに凍え切っていた。しかし着込んだコートは防寒に適していて、加えてカイトの母親が暖房を入れた今、空気はみるみるうちに暖まりを広げている。けれどカイトの呟きは、きっと別の話。

 心が、無情な冬の熱を思い出そうとしている。

 冷たくて痛い記憶と向き合おうと、唇を噛み締めて震えを抑えつけている。

 真っ青な顔色。荒い呼吸。耳をすませば細かく歯の鳴る微音。額の脂汗をハンカチで拭ってあげれば、等の本人は汗をかいていた事実に初めて気づいた様子。

 音を塞いで目を隠せば大丈夫だとは本人の言だが、『大丈夫』の定義に納まり切らない範疇だ。『大丈夫』とは痩せ我慢へ続く合言葉でないことを、彼はまだまだ学んでいないらしい。

 

「さて……どしようかしらね〜……」

「……やっぱり歩いて行きましょう。カイトは夜だなんて大袈裟に言ってましたけど、戻ってくるのは遅くて夕方くらいの筈です」

「そうよね〜、アルダンさんの体のことも考えてだと思うけれど……」

 

 それが原因となってカイトの調子が悪天候となるのなら、翻って逆効果でしかない。心傷をより深く抉る結果にでもなれば、アルダンは自分をより強く責めるだろう。と、言うか、今となっては自分の方が体が弱っているのだろうに、他の人を慮る余裕があるのだろうか。

 自己肯定に乏しい時期の名残は未だに健在なのだと。結局はこの結論に帰結するのだろう。

 

「…………ただでさえ心の準備が必要な場へ出向くのに、余計な苦痛を抱える必要なんか」

「ふーん?」

 

 精神の震撼は、四肢の末端を麻痺へ誘い強張ってしまった手のひら。自然体のように振る舞おうとの努力は虚しく、悴んだように指先は痙攣を始めている。中身が混濁しているが故の貧血は、血中の酸素濃度を加速度的に落としていき、そこから来る酸欠が支配権を本人から剥がれ落としていくのだ。

 いつも暖かい彼が凍えているのは嫌だ。カイトが苦しむ様子など、もう一度とて見るのも嫌だし、想像するだに怖気が奔る。

 せめて私の熱量を注ぎ尽くして、少しでも冬の記憶を雪解けへと導けたのなら、どれほどまでに幸福なことか。

 

「ふーむ……カイトは克服したいって思っているのよね……その辺、アルダンさんはどう思う?」

 

 決まっている。幸でいて欲しい。幸福だけで良い。

 幸や不幸は義務感で得るモノではない、そんなのは知っているが、でも嫌だ。

 例えば他の人が不幸で、誰しもが不幸で、世界中の誰彼もが不幸だとして、幸福の席はただ一人にしか配られないのだとすれば、その席にはカイトが座るべきだ。義務だ。不要な苦痛を強いられた人生を歩んでいたのなら、誰よりも幸せにならなきゃ嘘だ。仮に他の誰かを貶めたとしても、それでもカイトは幸せになるのが絶対的で例外的な義務。

 じゃなきゃ釣り合いが取れていない。天秤が壊れていないなら、ここから先は幸福だけでいいのだから。

 

「辛いならやめさせましょう」

「そうかしら? 本人が望んだことだし、強行突破もアリかと思ったのだけど」

 

 意外な返答、とは思わない。

 カイトの選んだことなら応援する。明らかに間違った方向でなければ口出しはせず、背中を見守るのが義母の方針。もう小さな子供では無いからと、それでいて母親としての愛情はただ一人に振り撒く。

 一見無責任な姿勢に、思わないところが無い、と断言したなら嘘になる。

 しかしカイトを深く愛しているのは当然知っている。でも。

 

「変に無理を強いさせても心に毒なだけです」

「……思っていたのだけど、アルダンさんはカイトに相当甘いわよね〜」

 

 そんな事はない。むしろ適量だと声は高らかに宣言できよう。

 

「……甘やかされて、この先ずっと誰かに甘えて生きていく。……せめて私はずっと傍で、彼の為に在りたい。それぐらいで丁度いいと思っています」

「ダメ男製造機?」

「…………まぁ、私を頼ってくれるなら、それも……ええ、悪くはないかと……はい」

 

 養う準備は数年前から万端で、当の本人が無償の施しを善しとしないだけ。本来なら住居だって、今よりもよっぽど好条件な立地を選べる立場にあるのに、住みやすいからと現在の場で満足しているから、仕方なくアパート自体に手を加えざるを得ないだけ。

 ゆくゆくは都会から離れた一軒家で、本格的な二人暮らしをしたいが、さて。ドーベル達はどうすべきか悩みどころ。

 

 ――――閑話休題。

 

「成長したがっているようにも見えるけれど」

「自らをいたずらに痛めつけるのと、困難へ立ち向かうのは全くの別物です。カイトはそれを今でも混同している。……私、が、止められなかった、から」

「……」

 

 一番側に居続けないとダメだった時期を見逃した分際。後悔は大きく――――無論、苦辛の状況へ陥れた者達への悔恨もたらふく残っている。

 もっと理解に容易く明言化とするなら、憎い。

 のうのうと暮らしているのなら、憎しみはより濃く粘り強く、らしくない感情の色が募る。たった一人が受けた精神的肉体的苦痛を、そっくりそのまま返してやりたい。私の最愛へ刃を差し入れた者達も、必ずや素性を一人一人突き止めて、永劫に後悔の渦へと突き落とすと決めている。必ずそうするのだと、お婆様とも話は付いている。

 私の宝物を暗い泥で汚した者達を、私は一生許さないだろう。何を差し出されようと、絶望と後悔を吐露するだけの惨めしかできない人生を歩ませる。歩みを放棄もさせず、どうしても生き地獄を馳走させたい。

 当然な話として、許せないのは――――己自身も例外ではなく。

 

「……いまはこうして、手を掴めてるんです」

「…………」

「ぬっ? どったのよアルダン?」

 

 戯けた口調は普段通り。そうやって嘯く時ほど、追い詰められている時であることを知っている。

 繋いだ手は生温く、お世辞にも良好とは言い難い状態を手に取れる。いつもなら言わずとも繋ぎ合ってくれる手は、力無く草臥れていた。細かに震えは刻まれて、怯えと焦燥を伝えてくれる。

 つまり、ここまでだ。

 カイトでなく、他ならぬ私はこれ以上を許容出来ない。

 

「……――――しがらみも無く触れ合える。言葉を交わせられる。奇跡のような時間が、ありふれた今の瞬間なんです」

「……ふーん?」

「何一つ特別じゃない幸福も、カイトにとっては奇跡としか呼べないのは、とっても不幸なこと。……当たり前の幸福を、未知として新鮮に受け取ってしまう姿を見るのは……っ!」

 

『ある、だん……じゃま』

 ――もう、沢山。

『どいて、じゃま、しないで』

 ――あんな笑顔は、二度と見たくあるものか。

 

「…………ねぇ、それって」

 

 核心を突く言葉は、乱暴に突き刺さる。

 

「アルダンさんが嫌なだけでしょう?」

「――――」

 

 内側の我が儘を呆気ないくらいに視え透かされて。

 仮に、否定するだけの材料があったとする。

 でも否を突き出す結果にはならないだろう。

 

「カイトは関係無いわよね」

「…………そうです、私の我儘です」

 

 凛として言い切れる。己の我を通したがるのは、ひとえにただ一人へ向けた慈しみが為。

 ひとつまみでも苦しむなら、努力なんて捨ててしまえばいいのにと、いつなんどきであれ想い、願っている。

 これまで充分頑張った。贖罪のために頑張って、夢のために頑張って、母親の今後を変えるために頑張って、世界を変えようと頑張って、身体が軋んでも頑張って、脚が折れても頑張って、頑張って、頑張って頑張って、頑張って頑張って頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って、頑張った。

 もういい。もう、頑張らなくていい。一生分の苦労を知った。人生数回分の悪意を呑み込んだ。絶望の努力を充分に溜め込んでしまった人生なのだから、これからは自堕落な希望を謳歌して居ればいいのに。

 そのための準備は済ませてあるのに、その気になれば今からでも傷つかない生活を過ごせるのに、彼は一向にそうなろうとは言わない。

 心底から歯痒い、からこそ。

 

「……我儘では、いけませんか?」

「……」

 

 彼が私を選んでくれたのは免罪符としての意味合いも大きい。それでも傍にいれば心穏やかで居られると感じて、信じ、想ってくれたからこそ。

 罪悪感を抉られるであろう私に、それでもと隣にいる事を許してくれた。

 私の我儘をいくつも聞いてもらったのだ。今更一つや二つの我儘が増えたって、カイトはきっと許してくれる。否、そも許すも何も、と言ったところだろう。

 それこそ今更なのだと、軽く流すのだから。

 

「独り善がりでも大いに結構です。私はカイトの苦しむ顔を見ずに生きられるなら、彼が幸せだけを得て生きられるなら、私は何だって――――

 

 

 

 不意打ちの一言に、私はどれほどの幸福を貰えたことだろう。

 

 ――――でもあれだ

 ――――?

 ――――俺、アルダンのことを、やっぱり愛してるんだ

 

 他ならぬ私が幸せにしたい。独善的な欲が生まれるのも、当然の話。

 

 

 

 ――――ええ、何だってします」

「…………そう」

 

 目線は、合わない。

 どこを見ているのか分からない義母の表情が、ミラー越しにカイトへ向く。

 

「とりあえず!」

 

 パチンと手を叩く音。

 静寂へと嵌りかけた車内に響く、吃驚の音響。

 

「……一向に走り出す気配が無くて困惑してるし」

「あっ」

「すんませ〜ん、出発っていつになるんすかー?」

「その子、一旦外に放り投げましょうか」

 

 車内からペイっと、無情にも母親から投げ飛ばされた息子であった。




・バカ
 幼少期:こいつがとうさんのいってた、いとこ……いとこってナニ?
 少年期:可愛いと美人の良いとこ取りだよまったく自慢の従姉デスネ!
 現在:最近エrっ……ゲフンゲフン……大人の魅力出てきたよね。
 トレーナーとしての仕事をこなすなら、車を運転できた方が良いんじゃないかと思い付く。吐き気と寒気と頭痛と腹痛と動悸と貧血と過呼吸と耳鳴りに耐えようと頑張ったのはそのため。頑張り虚しく車内から投げ飛ばされた。解せぬ。
 目指すぜ、ゴールド免許。

・ドイツ
 バカからの好感度はバカ高い。相手がいないなら、『付き合いませんか?』→『おーけー、そんじゃとりあえず指輪買って同じ墓にでも入るかー』とかとか、そんなノリでグングン進むくらい。問題はバカがそんなクソデカ感情を、家族へ向ける物と同一視してる件。

・ガラス
 二つのプランを並行して進行中。
 一つ目はバカをヒモ化させる計画。しかし良い格好を付けたいバカであるので、あんまり進展は芳しくない。完全なダメ男になった姿も見たい、そんな欲望もチビっとだけあります。ちょっとだけ(当社比)ね。一応、念の為、とりあえず、介護ベッドと点滴類はいつでも出番を待ち侘びている。手錠等のチャリチャリ音の鳴るアクセサリーは、箪笥の肥やしになっているかと思いきや、実は耐久値が少しづつ減り続けている。
 二つ目は復讐。別にお嬢様が何かされたって訳じゃ無い。無いけど、自分の所有物へ投げ掛けた悪意のオトシマエはキッチリ受け取らせるつもり満々。割と危険な時期に追い詰めてた連中には激おこであってくれ。

・叔母
 母国の言葉を話せるようになってて、とっても喜んだ。
 ただでさえ可愛い甥っ子が、自主的にこっちの言葉を覚えてくれた! ドイツ気に入ってくれたのね! もしかしてこっちに住みたかったりするの!? もうっ、大歓迎!!
 催眠学習による成果とは知らない。

・叔父
 何か菓子作りのことに興味ありそうだなぁ……根掘り葉掘り聞いてくるなぁ……メモまで熱心に取ってるなぁ……真剣な横顔は弟ソックリだぁ……………………うーむ……教えたいなぁ……娘がそういうことなのは複雑だけど、跡継ぎも出来るしなぁ……………………よし、仕込むか。
 そんな結論に至り、深く頷く背中を満足そうに微笑む閃光の影。
 策略は廻る。

・息子が幸せならそれでオッケー系マザー
 あ〜……嫁姑ゴッコやりてぇ〜……はやく厨房に並んで立って、重箱の隅を突く指摘をぶつけてみたい……ありえないくらい冷たくして、ドッキリ大成功の札を掲げたい……とかなんとか、最近面倒で厄介な興味を抱き始めた。
 趣味はダル絡み。

・お婆ちゃん当主
 とりあえず数年前からバカと関わりのある、とある者たちの親達の会社、その主要株主。アルダンに勧められた。他意はない。ほんとほんと。
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