未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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其ノ十五

 乾いた空気が唇をパサつかせて、言葉を重ねるたびに口内からも水気を吐き出される。指は悴むし、腱は固まりやすくなるしで、やはり冬は好かない理由が多かった。

 ただ、暗塗りの希望に苛まれていた頃とは、五感で感じる苦痛には不快感が薄いのは確かだ。

 

「誓うってほどじゃないけど、新しく見つけたんだ」

 

 痛いくらいに寒いのは日本の外であるならしかたない。でも、その冷たさに付随していた鉛のような悪性感情は、今ではすっかり縁遠い。

 感じられて肌寒いが関の山なのは、悪い傾向ではない。

 その証明をしてくれるひとたちが、大勢傍に居てくれるから。

 

「前のは、その、ちょっとだけ褒められないものじゃなかったけど……」

 

『ちょっとだけ?』とか、いつもならアルダン辺りにでも言われそうなものだが、この場にはカイトともう一人しかいない。一緒に居れば良いものを、要らぬ世話を焼くのが好きな人種が多いのだ、カイトの人間関係には。

 

「……でもっ、今度のはそう悪いものじゃないんだ。少なくとも、前みたく自分を損なう事のない、かなり前向きなやつでさ」

 

 言いながら思い浮かぶのは、切磋琢磨を重ねた同世代の顔。燻り始めたのは、夜の学園で走ったあの日。

 否定、困惑、憤慨、絶望、失望。各々がそれらを綯交ぜにした混沌の色を心に貼り付けて、不完全燃焼の諦めを飲み込んでいた。納得しきれず、理解も及ばず、彼女らにとっては待望だった瞬間を、カイトは割り切れない感情を残すだけに終わらせた。

 そんな彼女らを――――許せないと、勝手にも思ってしまった。

 

「これはたぶん、悔しいんだ」

 

 走る動機は、今の今までが()()だっただけに、そんな誰しもが抱くような理由は自分でも意外過ぎて。

 まるで健全なトレセン学園生のようで、いっそ笑いすらこみ上げる。

 

「本当なら……怪我さえなければ、あんなものじゃない。もっと速く走れるしもっと力強くターフを蹴れたし、誰にも負けないし誰にも勝ちを譲らない。地に膝なんか付かないし、無様に冷や汗を流したりもしない。負けたくない勝ちたい絶対に勝って終わりたい、アイツ等だけには勝ちたい……っ! ……っ……ってさ、色々、思っちゃった」

 

 とはいえ、こうして少しだけ言葉を捲し立てただけで呼吸が途切れ途切れになる体たらく。走り出せば脚に痛みは突き刺さり、骨が軋む音は全身に響いていく。

 体力に関しては落ちたなんて次元ではない。全盛期と比べたなら、上限が素人が判断しても目減りしているようなものか。

 他を圧倒する絶対の走りは、もう二度と際限は出来ないだろう。

 心を挫いて踏み砕いていた踏み込みは、もう二度と同じ音を奏でない。

 白の外套を吹き荒ばせ、白と黒の領域を突き抜ける――――そんな永劫の魔王は、もういない。

 だというのに、だ。

 

「……次が最後だなんて、分かってるんだけどな」

 

 アルダンを始めとして、メジロ家の主治医。顔見知りの医者。たづなさん。事情を知っている人たちは、もう走らない方がいいと口酸っぱく言ってくる。トレーナーですら、トレーニング中にもすかさず口を挟んでくる。

 事情を知って止めなかったのは母親くらいなものか。痛ましい顔をしつつ、推進もしなかったが、それはそれ。

 

「最悪に転じても歩けないだけだろ、って思えちまう。諦めるかどうかってなったら、俺はこっちを選んじゃうらしい」

 

 危険性を軽んじてなどいない。むしろ自らの生へ、過去に類を見ないほど価値を見出しているからこそ、これ以上の怪我などはまっぴらごめんだ。

 色んな人に怒られて、色んな人を悲しませた自負があるからこそ、もう二度と自らを損なわないと決めて。

 

「だから父さん、来年だ。今度こそ見ててよ」

 

 ただまあ、エイヴィヒカイトという生き物はいつだってそうだったから。

 自身への損害を忌避する感情よりも、身に渦を巻く我欲を優先したがるオカシナ生き物。 

 もしも、新種として生まれたバグ要素が自分にあるとすれば、破滅を厭わない前傾の心がそれなのだろう。

 

「俺の、最後の……!」

 

 瞼を穏やかに開き、柔らかく口角を上げて、されど眼光は強く煌めいて。

 墓石の前で光に溢れる表情を晒し、カイトは天へと向けて約束を投げかけた。

 

 

「……なーんて、カッコつけちゃった宣言も三カ月前と」

「カイトくん……?」

 

 ターフを囲う手摺へ寄りかかりながら、若き芽達の拙くも瑞々しい走りをボケっと眺めていれば、スズカに呟きを聞き留められた。

 

「独り言」

「もう、私たちの後輩になるんだからちゃんと見てあげないと」

「そっすね」

 

 軽く流して走るスぺを、キラキラとした憧れの瞳で追いかけるのは、弊トレセン学園へ来訪した新入生たち。

 自称他称問わず強豪と言えるスピカの体験会には、夢いっぱい希望に満ちた若人がわらわらと来ている。スぺもそうだし、マックイーンやテイオー、スカーレットやウオッカまでもが忙しなく、珍しくゴルシすらもが真剣な表情でレースの基本を教えたりしている。

 のんびりとした空気を感じているのは、タイムを計っているスズカとその手伝いのフリをしてサボっているカイトくらいだ。

 

「……腹減った」

「まだお昼には早いけれど」

「退屈だと食欲が増すんです」

 

 正直な話、帰りたい。スぺはもちろんのこと、リギルでもグラスとエルは忙しそうだ。キングとスカイが他に属しているチームは無いが、今日の学園内でトレーニングに使える場所には生憎空きが無い。かといって人数を欠いた状態で外へ走りに行くのもどうか。

 別段他者の走りに対して興味の無いカイトとしては、必然としてサボるしかないのである。

 

「リギルのリーダー格って誰かな」

「……リーダー?」

「ってよりかは一番目立つっていうか。会長、マルさん、ブライアン先輩、タイキ先輩、オペラオー、一番話題が沸く奴の御首級(みしるし)はどれかなと」

「……誰でもすごい事だと思うけれど」

 

 こんなこと抜かしているが、きっとこの先輩はいざ自分が走るとなれば、先頭にその身を置き続ける気満々なのだろうな。後塵を拝する気などサラサラ皆無なのだろうな。ナチュラル強者だ。

 

「世紀末覇王もいるし、七冠の皇帝も魅力的な首だ」

「えっと……いち、にい、さん……カイトくんは無敗の九か「それはさておき」

 

 亀裂の入った栄光などどうでもいいのだ、捨て置け。

 キングによる、『異次元の逃亡者』の打倒。スカイによる、奇跡の復活を果たした『名優』の踏破。話題性を狙い打つべく組んだ対戦カードは、カイトの目的として、ある程度完遂の目を見始めている。

 予想よりも早く、世間から聞く評判は均一へと引き上げられている。外聞の意識を見誤っていたのは、案外カイト自身だったのかもしれない。

 他に必要なのは。

 

「認識の補強はもう必要なかったりするのかな。でも無敗のままがいいし、どの道ぶつける相手は選ぶか……」

「作戦を立てるの? カイトくんが?」

「らしくなく頭でも使おうかなとか、思っちゃったり」

 

 ポケッとした芯の入らないフォームで、新入生たちをぶっちぎっていくスぺ。適度に距離を開けつつも、絶望的な開きは見せないよう心掛ける、デモンストレーションとしての力の抜き加減としては最適だった。

 やる気なさげ100%のカイトを見つけて、苦笑いを向けてくるスぺ。

 

「うん、決めた」

 

 何となしに、今までと変わらないのが良いのだと思った。考えるのが面倒だったとかでは無い。決して、やっぱり戦略を練るのが億劫になったとか、そんなのでは無いのだ。

 

「クジ引きって世界で一番平等だよな」

「……、……そうね」

「呆れ過ぎでは?」

 

 

「げっ」

「……あら」

 

 見たくない顔を見たような、もはや見ざるを得ない未来が今だったという運命なような。

 この学園へと転入し、数年と過ごして来た訳だ。そして様々な隔たりや蟠りもあり、様々な人達に助けられて最良へ導かれたりした訳で。

 特にメジロ家とはもう懇意にしていると言ってもいい。本家の当主なんかは遠慮なく物を言える相手だし、御家の娘達も良好な友好関係を築けている。軽い挨拶にのみならず、同じ釜の飯も共にしたりと平和そのものだったり。

 距離を離していた相手は例外なく、今では遠慮無しに語らえる仲であると――――

 

「ごきげんよう、カイト」

 

 ――――いや、アレだ、例外がいたんだなこれが。

 

「うわっ……ぁ、やべっ」

「なるほど……無視し続けた相手にその態度、それが貴方の常識なのね」

「……ひ、久しぶり、です、センパイ」

 

 辟易とした声へ過敏に反応するメジロの娘。この時点で踵を返して走り出したい欲に駆られてしまう。

 白のメッシュが威圧的に揺れる。垂れた目尻を、蠱惑的な黒子が魅力的に映す。造形が整い過ぎた顔のパーツは、ゾッとするほど――いっそ人形にでも見えそうな均整さで。

 加えて本人の持ち得る浮世離れした雰囲気と価値観。

 自分の知る限りは、自分がトレセン学園に入る前から変わらず()()だとは、アルダンからも聞き齧っていた。そんな話を聞く度、ぶっちゃけ面倒の塊だよなとはつくづく思っていたのだ。

 間違ってもお近づきにはなりたくなかったが。

 

「誰にも言わず、何も報せず、十と数年」

「……」

 

 腕を組み、いい意味で似合っていない制服に皺が作られる。

 薄く笑っているような、実はこれは笑っておらずに威嚇しているだけのような、全部気のせいであって欲しいような。

 

「ようやく顔を見せたかと思えば知り合いを避け、知己ではないような振る舞いをし」

「……」

 

 目を細めてとかではない。目が、線になっている。ニッコリと、おそらくは学園でも見たものが少ない眩い笑顔だった。

 

「私の妹を振り回して、果てに本家との和解を成したかと思いきや、何故か、どうしてか、私の前には現れることはついになかった」

「……」

「今日のような偶然でなければ、きっとこれからも……こうして顔を見合わせて喋ることはなかったでしょう――――ね」

 

 図星がドスドスって、音を立てて胸に突き刺さっていく。気まずさが限界を超えていくこの状況は、アルダンに怒られる際とは違う。ベルちゃんやマックイーンと会話するのが苦しかった時期と似ていた。

 それはそれとして、エイヴィヒカイトはこういった人種が苦手なのだろうな。

 

「アルダンとは懇意にしているのでしょう。だったら挨拶の一つは当然だと、思っていたのだけど」

「ひゃっ、っ……は、はい、そっすね」

 

 こめかみがピクピクって震えている。もう駄目だ限界だ、全力で走って逃げ出したい。

 

「……は?」

「っ、はい?」

「――何か、申し開きは?」

 

 ここだ! 此の瞬間こそを、活路を此処と見つけたり!

 ここから一字一句とて間違えるのは自殺行為にも近い。しかし生憎と、遭遇する可能性からも逃げていた弊害か、手札を一つだって用意できていない、なんて事だ大バカ者か自分は。これだから先輩には、たわけと一括されることが多いのだ。こんなことなら会話テンプレートでも作っておけばよかった。

 故にアドリブの限りを尽くすのである。

 

「えっと、ですね」

「……」

「あの、ですね」

 

 品定めをするような視線がいたたまれない。

 苦手だから避けてました、これは一番良くないなんてことはカイトでも分かる。必要だから避けていました、この回答は及第点ではあるがそれに足る理由が思いつかないので却下。理由も無いけどなんとなく避けていました、これが一番やってはならない悪手の限りである。

 じゃあどうするの? どうすりゃカイトは何事も無く平和に暮らせるの?

 思いつく選択肢がこの三つしかない辺り、まさかと思うが、エイヴィヒカイトって生き物はもしや、どうしようもない生き物なのか。何度この自問をすればこの世界は平和になるのだ。

 

「……」

「うぐ、ぐ……ぬぬぬぬ……」

「……」

「うぬぅ……」

 

 人通りの少ない廊下の真ん中で、静かなる詰問が停滞する。

 このまま唸り続けてなあなあには出来ないだろうか無理なんだろうな。目の前の人物はそういった中途半端を赦してはくれないだろう。一度でも再会してしまったのだ、この後は家まで追及をしに来るに違いない。経験談で知っていた。

 苦しむ最中に多方面へ救いを求めた。それこそ宇宙人が唐突に地球へ攻めてこないかしらとすら期待しまくった救済は、思わぬ人物から。

 

「くっ、ぐおぉ……どっ、どう、すればぁ……!」

「ふふ……」

「……何を、しているのでしょうか」

「おん? ……うわっ、代理」

 

 苦虫を嚙み潰しながら怨敵を見つけた声を上げてしまう。実際、不倶戴天であることには変わりないのである。

 

「なんすか、親戚と話すだけでも許可が必要なんですか」

「そうは言って……いえ、いいでしょう」

 

 理事代理は、慣れたように嘆息を見せる。険悪な雰囲気を隠さないカイトの態度には、もはや飽きているのだろう。

 

「ところで、貴方のチームは順調そうですね」

「――あー? ……まあ、あいつ等なら当然の結果ですけど」

 

 とか、何ともないですよと言いたげな表情ながら、内心はドヤ顔で埋まっている。誇らしさが爆上がりである。もっと褒めて称えてくれもいいのだ。もっとカイトの友人を囃し立てても良いのだ。

 

「そっちは…………えっと……な、なんてチームでしたっけ」

「……」

 

『本気か?』と言いたげな、いいや言っている。信じられない者を見る理事代理の瞳は、言葉も要らずにそう如実に語っていた。

 

「貴方ね、流石にそれは……」

「……しょうがないじゃん、興味湧かないし」

 

 理事代理だけに収まらず、この場にいるもう一人――――()()()()からすら呆れを貰ってしまう。カイトと交わした『賭け』は、学園内でもかなり有名だ。彼女が知っていても不思議ではない。

 そんな相手を研究してませんと抜かしたのも同然だ。そりゃカイトだって呆れる。コイツバカなのか。

 カイトのこの態度とて難しい話ではない。他のチームなど、知り合いでもいなければどうでもいい。人生などそんなものだ。

 

「勝つのはあいつ等。この絶対は崩れない」

「言いますね……しかし、レースに絶対は――」

「――あるよ。絶対は存在する」

 

 断言は速く、あまりの迷いの無さに理事代理は瞠目した。

 自信、ですらない。確信、とも違った。

 結論を述べているように淡々として、当たり前の常識を語るように、非常識を言ってのけた。

 

「俺という例外が言ってんだから、説得力あるだろ」

「その結果が……壊れても?」

「自分の理想を追いかける過程で壊れるのなら自己責任だ。許容の見極めも出来ないようなら自己責任だ。レッドカーペットだろうがイバラの獣道だろうが、歩く決意をするのは本人だからな」

「貴方は、強く……厳しいのですね」

 

 視線を落とし、足元を見て、表情が曇るが知った事か。

 

「アンタの事情なんて知らないし、俺に何を重ねてんのかも知らないけどさ、その同情もうざ――――とにかくさ、もういいだろ」

「……」

「当たり前のようにあいつ等は勝つ。アンタは自分の正しさの表明のために勝つ。お互い、それだけでいいだろ」

 

 事情なんて知らいでか。仮に知ったところで、どんな事情があろうとも抑圧を押し付ける理屈にするなら、納得には足りないのだから。

 その表情に垣間見えるのは、後悔だろうか。

 理事代理はそれ以上何も述べることなく、背中を見せて立ち去って行った。どうせならラモーヌも連れていってほしかった。

 

「……カイト、貴女、とても面白い育ち方をしたわね」

「は? ……そ、そうでしょうか、センパイ」

「その他人行儀は嫌い。昔のように呼びなさい」

 

 このイベントは恒例なのか。もう金輪際お断りしたいのだが。

 

「メジロラモーヌセンパイ」

「余計な部分が多すぎるようね」

「何だってどいつもこいつも言わせたがる……!」

 

 呼び方くらい自分に決めさせてもらえるような自由が欲しい、そんな日々でした。

 拒否の果てに家までついてこられても非常に困る。観念するしかない。諦めも肝心、自分には付いて回る星を思えば、どうしようもない現実なのだ。

 

「貴方のふためく姿が面白いからでしょう」

「いい趣味してんな」

「それくらい可愛いのよ、貴方のことが」

「……分かった、もう分かったから、呼ぶから」

 

 一つ、息を整える。

 

「……」

「あら、呼んではくれないの?」

「それはそうと、昼飯は食ったのか」

「まだだけど……話の逸らし方が絶望的に下手」

 

 そういった機微は不得意中の不得意なのだ。克服する気にもならないほどに苦手なのだ。ほっといてくれ。

 

「アルダンも苦労する訳ね」

「大きなお世話だ。…………よし、一緒に食うか、ラモーヌ」

 

 積もる話も――積もらせた話もあることだ。

 これを最後に過去の清算は終わるだろうし、我慢の時は今に違いない。どうにも自分はこのお歳上様に頭があげられず、話していれば首根っこが掴まれっぱなしな感覚が拭えない。一言で表せばタジタジなのだ。

 アルダンがいないのは好都合。みっともない姿を晒す心配も無いのはありがたい話だ。

 

「……やっぱり違う」

「は?」

 

 口をへの字に曲げて、些かばかりではあるが、子供みたく不機嫌な意味が不明だった。

 

「私は貴方の義姉に当たると思うのだけど」

「……く」

「く?」

「くだらねぇ……!」

 

 なるほど、やかましい義姉(おねえさま)だった訳か。

 

 

 その光景は、ただでさえ珍しいモノだった。

 トレーニングを熟す姿は、確かに見たことがある。あるいは、殆どの時間を費やさんとばかりに己を高める。室内もしくは室外だろうと、その脚を常に高みへと昇らせんと、出来る限りの努力を尽くす。

 ただ、その人が息を切らせる姿は、余りにも珍しかった。

 

 ――ッ……ッッ! 

 

 トレーニング中もトレーニング後も、レースの最中も例外なく毅然と振舞い、強者に相応しい余裕を見せている。

 レースの後は例外だ。ただ、その例外の姿を、自分は日々の中で見たことが無い。

 

 ――……ハッ、ハッ……フゥー…………。

 

 いや、一度だけ。

 たった一度だけ、アタシは、アタシ達は見たことがある。

 

 ――……スゥー……ハァー…………よし、ちゃんと痛ぇやコレ。

 ――痛くなきゃそっちの方が怖えよ。……今日はここまでにしとくか。

 

 今夜のような晴れた月の天蓋。

 吹き抜ける風は暑くなく、寒くもなく、春の麗らかな風が優しく頬をなぞった日。

 

 ――いや、もう少しっ、だけ……頑張らせろ……。

 ――掴めるものが無いなら限界を無駄に削るだけだ。……本番前に尽きる気か?

 ――知ってる、けど、さ……!

 

 観客は彼が心から信頼するたった二人。あと一人くらいはその場にいても良かっただろうけど、きっと彼はその人にその結末を見せたくは無かったのだ。

 誰しも好きな人には、自分の一番格好良い姿で覚えていて欲しいから。

 

 ――全盛の時に出せてた、踏み込みの感覚……もう少しで、取り戻せそうなんだ。見てても、分かる、だろ……?

 ――……魔王の鳴動、か。

 ――ああ、多分それ…………いや待て、何その必殺技みたいの。

 

 その刻も、てっきり、いつものように後方からその地響きを打ち鳴らして近づくのだと。

 意気揚々と一番前を行く、晴天の背中。

 少し離れて二番手を進む、自分の身体。

 横に置いて三番手を走る、紫焔の横顔。 

 後方に潜み四番手を跳ぶ、蒼焔の気配。

 団から離れ五番手を奔る、翠王の存在。

 大きく距離を保ち、鳴動を骨の髄まで響かせてくる、黒白の絶対。

 

 ――お前の踏み込みに付いた名前。

 ――いつも思うけど誰がそんな珍妙を!?

 ――知らねーよ。お前のファンとか?

 ――仮に俺のファンが居るとしてだ! 俺が嫌がってんだからアンチ行為だろうが!!

 

 グングンと、駆け抜ける鼓動に肌が粟立つ。

 ターフを穿つ音が聞こえてきて、それが近づいていると実感できた頃にはもう補足されて、追い抜かされるまでそう時間はかからないことを、実際に横からその黒白(灰色)が通り過ぎてから知れる。

 抗することはあまりに無謀。対するに相応しいかなど考えない。己が敵として在れるかなど、彼にとっては関係ない。彼が走るのは自分の為。夢、願い。彼が真の意味で戦うのは、いつだって自分自身だった。

 数年前の自分を超えて、数カ月前の自分を踏み越えて、数週間前の自分など目に入らなくて、数日前の自分を凌駕して、数時間前の自分を駆け抜けて、数分前の自分を通過して、数秒前の自分を過去にして、数フレーム以前の自分すら古臭い時代遅れに変えて見せる。

 そんな走りを見て、魅せられて、一瞥の憧れはあった。

 

 ――あまり遅くまで走れないんだ。このまま時間を潰してれば誰かに見つかるぞ。

 ――ああもうクソがっ。……いつか絶対に犯人を蹴飛ばす。

 

 けれど憧れでは終わらせたくなくて、目標に掲げるだけでは満足いかない自分がいる。

 だけど、上昇指向が形となったような彼が見せる結果は――――これ以上なく苛烈で、鮮烈そのものだった。

 敗北はどうしても苦く渋い。その味は心に強く絡みついて、この苦汁を拭うなら、上書きのための甘味が不可欠だ。それを圧倒的な存在である彼に刻まれ、髄まで染み付いてしまう。世界へ羽ばたいたところで満足はいかなかった。

 だって、誰も彼もが永劫の走りには遠い。代替となるレースは見つからず、満たされることも無く、胸にぽっかりと開かれた不足へは、誰も満たすモノを注げない。

 だというのに、彼が現役の間は、終ぞ一度として叶わなかった勝利。

 

 ――まあ、なんだ……安心したよ。

 ――は?

 ――お前にも、一角の競争心ってのがあったんだな。

 

 永遠に喪われたのだと思っていたのに、降って湧いた好機と聞いて。

 砥がれた爪を唸らせるには、絶好の理由だった。

 

 ――ウマらしい、って言ったら怒るか?

 ――ハッ……………………いや、全然、怒ってないけど。

 ――その笑い方してるじゃねえか……。

 

 アタシを――エルの横を吹き抜けて。

 キングは一番に追いつかれ、グラスは競りながらも剥がされて、スぺちゃんは肩を並べることへ尽力を注ぎ、セイちゃんは火を付けられたように速力を全開に。

 これは、また負けた。敗北感が爽快に胸を突き抜けた。

 月光を飲み込む白の外套。夜を吸い込む黒の軍服。

 一迅となってターフの上を駆け抜けるそれは、二色が交わる灰色の弾丸のようだった。

 星の光を跳ねさせる紅の双眸が、前へ、前へ、大気を引き裂き空気を弾き、物理の法則へ抗う彼は横ベクトルへと墜落し、滑空していく。

 勝てない。どうしても、その走りには負けのイメージが強すぎたから。

 己の敗北した瞬間と瓜二つの姿がそこにはあったから、尚更に自分には、その背を乗り越えることが途方もない困難にしか思えなくて。

 

 ――……白状すれば、気に食わない。

 ――わ、悪かったよ。

 ――トレーナーじゃねぇ。……今更、走ろうって自分に吐き気がする。

 

 だから失速した瞬間は、自分の目が曇っている事を信じた。

 失速というよりは急な停止だ。最高速の途中で意識を失ったような、そんな、酷く歪な止まり方。

 

 ――みんなに迷惑かけるのも分かってるんだ。走らない方がいい、それが一番だってのも、知ってるんだけど、なのに……どうしても、俺は。

 

 それで『ほら貴女達の勝ちです良かったね』と言われて、納得できる訳がない。

 乞い焦がれた勝利の形はもっと別にある。事故のように転がり込まれても困るだけだから。

 

 ――…………この口惜しさを、晴らしたくてしかたない。

 

 同じ想いだ。どうしようもなく、六人共に同じ想いをつのらせている。

 惜しまずにはいられない。

 

 ――俺は、勝ちたい。

 

 アタシ達は勝ちたい。

 

 ――スぺに、グラスに、エルに、スカイに、キングに…………勝ちたい。

 

 アタシ達も勝ちたい。

 

 ――勝てなきゃ頭が狂う。

 

 彼からの敗北は、まだ誰一人も受け取っていない。誰も認めてなんかいない。あんなものを勝ちだと諸手を振る者は、あの場にはだれ一人もいなかった。あんなものが彼の敗北だとは、誰一人信じていない。

 だからアタシ達は、まだカイトには勝てていない。

 カイトから得た最初の勝利は、誰の手にも渡っていない。

 黄金の初勝利を、アタシ達は未だに欲している。

 

 ――お前ってホント、一度でも前のめりになったら重症だな。

 ――ほっとけ。

 

 言い切って走り出すカイト。アタシはそれ以上覗くのは不粋だと、寮へ走る。

 そんな収斂の瞬間を、彼の真意を、ひょんな夜に見つけてしまったのだった。

 

 

「最近エルがおかしい」

「えぇー……今度はエルちゃん?」

「今度はってなんだ」

 

 友と見込んで相談すればこれだ。そんなにもカイトがどうしようもないってか。正直分かる。

 ここ最近は目が合えば逸らされる。話しかければ端的に会話は終わる。昼食の席は絶対に隣に座らず、同様に向かいにも必ず座ろうとしない。二人きりの空間では、あの騒がしいが代名詞のエルがピタリと喋らなくなる。意味が分からなかった。

 更に意味が不明なのは、避けていると思わせて視線等は寄越す点だ。チラチラと覗き見られる。会話の中でどんな言葉に反応したのか、不自然に凝視してくる。それに視線を合わせればすぐさま逸らされて、カイトはその度にショックを受けていた。

 何かやらかしたのかしらと頭を抱えども、スペの言う()()に覚えは無い、と、本当に断言できるのだろうか。

 

「……ま、まあ待て、流石の俺も学んでる。どうせ俺が俺の預かり知らぬところで何かしらをしでかしたんだろ」

「聞いてこようか?」

「それだ、話が早くなる」

 

 モヤモヤとした現状を渡るべく、友の差し出した船に急いで乗り込む。

 そうしてホームルームは終わり、授業の時間も過ぎていき、昼にはちょうど良い塩梅となった腹加減をさすっていれば。

 

「分からないや」

「お前もか」

「カイトくんは関係してるのは間違いなさそうだけど、ドーベル先輩やグラスちゃんとは毛色が違うっていうのかな」

 

 ますます訳が分からなかった。主にスペの例え方が下手を極めていたからだ。

 

「グラスとベルちゃんにどんな共通点が」

「あ、そう、じゃあもう手遅れかな」

「冷たいヤツめ」

「巻き込まれたくないし」

 

 巻き込んだ実績なら割と多い。この話題には言及すまい。

 

「お昼だし、食堂に行こうか。グラスちゃん達は先に着いてるって」

「お、おう。おいエル」

 

 どうせ本人へ問い詰めたところでクリアな回答が得られる訳が無い。面倒事を後回しにしているとも取れるが、きっと遠からずの未来に解決策が得られると信じたい。

 席に座り俯いて、悶々とした様子のエルへと声を掛けた。

 

「ケッ!?」

()じゃねー。飯行くぞ」

「……ぅえ、あ、ああ、ご飯、デス、ね」

 

 歯切れが悪いなんて形容しきれない。

 

「エルちゃん、風邪?」

「なんちゃらが風邪をひくわけ無いだろ」

「一番言われたくない人に言われました!」

 

 そんな一幕を終えて、三人で食堂へと並んで向かっていった。

 

「カイト」

「あん?」

 

 顔色を窺うようにして、視線を覗き込んでくるエル。

 期待と憂慮を混ぜた表情を、ここ最近はずっと見せてくる。

 

「なんだよ」

「……い、いえ、何も」

 

 疑問を口にすればこれだ。

 こんな対応が一ヶ月ほど前から続けば、辟易とする頃合いには十二分ではないだろうか。

 こうしてスぺからも「オマエマジで何やったの???」みたく、受け取る視線が強まってしまえば、一つの区切りは着けておきたい。

 

「……ああもう分かった! おいコラエル!」

「はっ、はひ!?」

 

 怯えるような態度はやめろください。まるでカイトが脅かしたようではないか。

 

「俺が何かした訳じゃないんだろ?!」

「あー…………何か、ナニカ……したような、してないような……」

「カイトくん、やっぱりかぁ」

 

 ええい外野は黙っていてくれ。

 

「お前から見て俺に非がある!?」

「……カイトのせいであるかどうかなら……そうかもしれないデス」

「あんのかよォ!!」

 

 結局これか。曖昧な反応をされようとも、エイヴィヒカイトは嘆きを叫ぶ結末に落ち着くのか。

 

「でっ、でも、グラスみたいな()()()()とは違いマース!!」

「ああ、()()()()じゃないんだ」

「その()()()()ってのが気になるけどさ!? ……ええい兎にも角にもだ!」

 

 秘密のアレを目撃された訳でもあるまい。無自覚な言葉のナイフが乙女心をズタズタにしたのとも違うだろう。

仮にアレを見られたとしても、だとしたらやはり、カイトには罪在らずだ。

 

「だったら普通の態度で頼むぜ」

「……そう、デスね、分かりました」

「一件落着かな?」

「――ハイ! カイトもスぺちゃんも、お騒がせしました!! ……それはそれとしてカイト……少しだけ、耳を貸してください」

「あん?」

 

 黒ハットを外して、無抵抗に頭頂部のギザギザした黒耳をエルへと差し出した。怪訝な顔になったスぺは放っておこう。

 

「応援、してるから」

「は――――ぁ?」

()()()達はいつまでも待てます、から」

 

 その言葉が、ナニを指しているのかを知らない。

 その囁きが、どの未来へ向けられたものなのかを知らない、ような気がする。

 

「早く追いついてきてね」

 

 ただ、自分の立場を自覚しただけだ。

 今度は、飲み込み切れない敗を喫した自分は、追いかける立場で在る事。大きな背中を踏み越える、その想像だけで脳髄がぶるりと音を立てて暴れ狂う。

 後ろから追いかけてくる夢、キラキラとした数々を踏み潰した日々は遠い。

 

「えっ、うぇっ? なんっ、は? やっ、ぁのっ?」

「それだけデスよー!」

「……どうしたの、カイトくん?」

「いやぁっ!? なんでもねぇけどどど?」

 

 逆の立場で在るのも、悪い気分ではなかった。




 二日酔いからの風邪とはなんという殺人コンボ
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