日時の回ったちょうど0時、玄関先で出迎えられた際に見えた顔は心配の一念で満ちていた。視界に入る
朝にこの家を出る時との差異に気づき、戦慄の表情をするひと。
そんな優しくもいとしいひとへ向けて、包帯の巻かれた手をプラプラと揺らしながら、バカはいとも簡単にこう言った。
「折っちゃった」
「たはは~」なんて余計な要素を付けて、笑いながら伝えてみれば、急転直下の怒髪冠を衝いた形相を見せつけられる。いや分かるのだ、大切に思えばこそ、その存在が無茶な真似をしでかせば、思わず叱りつけたくなる気持ちも分かる。加えてソイツには、過去にはもっと酷いコトをしでかそうとしていた前科も在るのだ、へらへら笑って言い放つ男へ、怒りの限りを抱くのも道理なのだ。
でもちょっと待って欲しい。世の中に通ずる常識の一つとして、病人怪我人には優しくして上げるのが人情である。そういった慈悲を、是非とも期待したいエイヴィヒカイトなのだが。
「やっちまったぜてへぺろ★」
「 いつ ? 」
「――はい、今日です」
慈愛に溢れた慈悲など用意がございませんと言わんばかりに、声色は所謂
おちゃらけた態度もあら不思議、敬いの語句へ大変身。毎度毎度だ。こういった騒動の後々になれば、毎度のようにカイトは疑問というか首を捻るのだが、どうしてエイヴィヒカイトはこうも怒りを煽ることが得意なのだろうか。初めから殊勝な態度であれば、被害も1割2割程度なら減らせただろうに。それも彼女の不安を一番最悪をよぎらせる形で、彼女の心を揺さぶるものだから、我ながらタチが悪いなとは思っていた。
直そう直そうとは考えるが、ただまあ、直し方が分からないので、うん、そうゆうことで。
「……何をしたら、そんな……怪我を」
「つったかたった~と、かけっこしていましたら、こう、すってんころり~ん、ってなっちまいまして……てへっ★」
「 は ? 」
「――走ってる途中で転んで折りました」
今日、それも数秒前に畏怖として刻まれた経験すら、3歩と歩かずとも記憶から飛んでいくのは我ながら頭を抱えてしまう。遠い記憶の出来事でもあるまいに。厭なことは記憶に残したがらないエイヴィヒカイトではあるが、今回ばかりは深刻になっておいた方がよさそうな気がした。尚、あくまでも
とはいえカイトも、おちおち怒られてばかりではいられないのである。威圧に負けず! 圧政に屈さず! 覇気へ真っ向から立ち向かうのだ!! ――そのような決意も毎度のように抱いては、こうして1分と保たずに霧散する。情けないったらありゃしない。
今日の怒り方は、普段とは少し違っていた。案じるような、見通すような空気感だ。色で表すのなら、普段は赤やら黒やらの根源的悍ましさを醸し出す雰囲気だったが、どこか暖かみすら感じられた透明感のある怒りを見せつける。
ただし、エイヴィヒカイトの感じる恐怖は据え置きである。つまり、どっちにしろ恐いことに変わりなし。
「……連絡をくれなかったのは、どうして?」
「あれ、『先に寝てろ』って送ってなかったっけか」
「 私は 何故 どうして 怪我の 連絡を くれなかったのか 聞きたいの 」
「――そうですよね、聞きたいですよね、ごもっともでございますね」
水の彩りの灯った透明な水晶、その瞳の透度はやはりいつ見ても幸せに感じられる。しかしだ、突き抜けた透明とはそれ即ち虚無ではないのかねと思っちゃうのです。色彩が灯らないということは、空白すらも存在する余地の許されない無窮なる空無なのかなと、悟っちゃったりもしますのね。
早急に、性急に、一刻も疾く速く、その恐ろしいばかりの瞳を、元の暖かみのある色に戻さねばカイトの心がマズイ。今後の生活に関わる問題へ発展しかねない。そんな問題が良く引き起ってるような気がしてならない。
ここでエイヴィヒカイトの人生経験がキラリと、血涙のように鈍く光った。天啓の光ではないと悲しくも確信できるのは、これまた人生経験が無言で語っている。
隠し事をし続けて痛かったり、苦しかったりの思いを味わってきたのだ。こういった詰められている場面では、小石一つ分ほどの隠し事も無く、己の腹も、起こり得た出来事も、一切合切を悉く語り尽くすのが一番良い。嘘という選択肢もあり得ない。
正直に、誠実に、潔白に、己を吐き出そうとしていたのは評価点であると自負しよう。それ以外は落第にも程があると、後年には苦言が止まらないこと間違いなしだ。
「折ったって言えば面倒(をアルダンに掛ける)と思ったから」
「……また、自分を軽んじるような事を言って……―――― やっぱり壊して 手元に 置いておけば 」
「その計画は未だに息をしていた……!?」
言うべき言葉、述べるべき陳述、聞かせるべき文言。そういった、問題の核となる部分を言葉にする煩わしさから、勝手に判断して端折ってしてまうのは良くない。ホント己に関わるので、そこを疎かにするような七面倒は飲み込むべきだという教訓である。
今後は一から百まで、小数点の単位で事細かく語ろうと決意したのだった。――そうすれば、自分などには、そんな暖かな心配など無用ということを理解してくれる。
魔王など、貴女の愛する者を殺す存在など、憂い想ったところで、心の熱の無駄でしかありません。貴女の一生に於いて、無為でしかありません。貴女の今世に於いて、慮る価値もございません。貴女の生きる道に於いて、汚点にしかなり得ません。貴女の近くへ置いておけば、いずれは貴方を厄病の神様が殺しに参ります。そんな存在ですから、どうか永劫と名の着いた生き物など、捨て置いて欲しいのです。己で己を否定して、誰よりも受け入れて欲しかった者からも否定を頂戴出来たのなら、その時こそ、エイヴィヒカイトという魔王は再臨するのでしょうから。
忌むべき自分を、忘れるべき自分を、廃棄すべき自分を、一から十まで全てを取り戻すと決めた。それをアルダンが知れば、はたしてどんな顔をするのだろうか。
「……それでっ、怪我の具合は!? 後遺症は残るの!? 傷跡は無くせるの!? 全治何日で……っ!」
怒りを一度収めた彼女が、矢継ぎ早に問い掛けてくる。
叱ろうとしても叱りきれず、心配が押し留められないその様子が愛おしく感じた。想われるが故の、ゆるやかな暖かさを感じずにはいられなくて。それが、あまりにも、一つの決意を揺るがないモノとしたがる自分には、受け止め切れるか疑問視する熱量だったから。
「さあ?」
こんな一言が、ついつい口から吹き出してしまうものだから。
「だからっ、どうして……っっ、カイトはっ……カイトはいっっっつも!! ――――いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも」
「え、ぁ、ひぇ」
「いつになれば自分を大切にするの? どうすれば自分を大切に思えるの? その悪癖はどうすれば治るの? それとも、もう治らないの? カイトの力じゃ治せないの? どうすれば治せるの?」
「俺にもさっぱりなんでさぁ!!」
とびっきりのお冠になられるのは必然であった。
「ままま、まあ、まあまあ、いつもの事って考えれば安いものだろ」
「……そういう癖は、改善するんじゃなかったの?」
「そういうイキモノだから、しゃーなし。直せてたらとっくに直ってるだろ」
手を掲げ、文字通りお手を挙げてあっけらかんと言う。
諦めも同然な宣言には、一切の卑下を込めていない。無意識下でも含有された卑屈さはどこにも無かった。それはアルダンになら――カイトを見守り続けてくれたアルダンだからこそ、よく感じ取っているだろう。本心から、本音で、本当の意志として、カイトはカイトをどうしようもないと思っているのだ。反省をしきれない。身を顧みても未来に活かさない。何度言われても自分を軽んじ続ける。何て事だ、どこを切り取ってもどうしようもないではないか。
唾棄すべきだった自分を大切に思えるように努力して、嫌いだった自分を好ましく思えるような気もしていて、どうでもよかった周囲へ目を向けられるようになりつつあって、それでもその全てに意味が無い。どこまでも懸命に日々を過ごして、暖かな日常へ慣れるように努力をして、透明な優しさへ応えられる自分に成りたかったのに。
地道でも、微々たる進みでも、確かに積み上げていた努力などさしたるものじゃない。過去と対面するだけで、何もかもが全てオシャカになるほど自分は弱いから。
孤独の痛み、寒さの痛み、痛くて苦しい痛み、それらを再び受け入れてでも、強い自分を過去から掘り起こそうと躍起になる大バカが自分だから。
「……その顔を見たい人は、誰もいないのよ」
「知ってる」
「……苦しいなら、くるしいって言ってもいいのよ」
「それも、知ってる」
「……辛いことからは、逃げて欲しいの」
「そう想ってくれてるのも、知ってる」
一番の救いが傍に居てくれても、どうしても、その救いの全てを手放しには受け取れないのだ。
「…………私は、カイトを
「でも、俺は走りたい」
彼女はもう気が付いている。全盛期の走力だけには留まらず、過去の全てを焼き増して、自らを殺すあの日々を繰り返そうとしていることを、アルダンはもう感じ取っている。いつの間にか、懇願の形へと透明な瞳は変わっているのにカイトは気が付いた。
言葉で止まれる気質の持ち合わせは無いが、でも、アルダンからの言葉なら止まれる気がする。
彼女がたった一言だけ「もうやめて」と強く言えば、エイヴィヒカイトはすとんと、糸の切れた人形のように邁進を辞める事だろう。そうして無気力に過ごして、見据えた夢を果たせなかったという歯痒さに蝕まれて、ただ呼吸をするだけのナマモノに成り果てるのが『エイヴィヒカイトの果て』になるのだろう。
アルダンはそれを知っているから――彼女の言葉が、カイトの未来をいかに影響させるのかを知っているから、決定的なワードには触れずにいてくれているのだ。
「負けたくない。勝ちたい。勝ちたい……勝ちてぇ、勝ちたい、もう負けたくない! あんな目をさせてたまるか……! 失望だけで終わらせたくないッ!! ……アイツらに、勝ちたい」
繕おうとする発想もなかった。色気のある言い回しが浮かぶ余地も無い。他には何もいらない。栄誉など捨て置け。名誉など貰っても困る。名声など勝手に湧かせておけばいい。世論なら好き勝手に言うモノだ。将来へ繋がる成果など興味ない。評判を変える背景など必要じゃない。欲しいのはただ一つ。
純粋で、単純で、明快で、分かりやすいたった一つが欲しかった。
勝ちたい。
ただ、勝ちたい。ただ、勝ちたくてたまらない。スペシャルウィークに勝ちたい。グラスワンダーに勝ちたい。エルコンドルパサーに勝ちたい。セイウンスカイに勝ちたい。キングヘイローに勝ちたい。5人に勝ちたい。5人だけには勝ちたい。彼女らにだけは負けたくない。彼女らにだけは失望されたくない。彼女らにだけは見損なわれたくない。彼女らにだけは勝ちたい。
もう絶対の無敗を追いかける必要のない自分は、他の誰かに負けたっていい。それでも、その一つだけは。
――ウマ娘には当然のように備わる競争心。それがカイトにもあったのだ。
『お前らにだけは勝ちたい』と胸の裡が叫ぶたびに、全身が焦げ付くような灼熱に襲われる。
『お前らだけには負けたくない』と怯えが浮かぶたびに、全身が身の毛もよだつ震えに襲われる。
自分の中には、拍車をかける自分しかいない。聞き分けの悪い自分しかいないから。だから、もう、自分自身で止まるのは無理なのだ。
自分が走る機会は、名実共に最後だろうから。
運命の存在を、自分は信じる。異分子たる自分でも、辿り着ける運命は在るのだと信じている。異端の極みたる自分でも、命を燃やせる運命が在るのだと信じられる。
だから――――
「せめて……怪我は……これから怪我は、もう、一回もしないで」
「……」
「この怪我を最後にして」
言って欲しいと望むアルダンを目の前にして、けれどカイトは。
カイトが抱いた仄暗い決意を聞かせることが、どうしてもできなかった。
「怪我したら閉じ込めますからね」
「え」
「いい加減に私も我慢の限界――――きっと外界と接触するから、カイトの身にならない事が起こるのでしょうし……ええ、そうね、それが一番。これまでは短時間だったけれど、もう、二度と、太陽を拝めるとは思わないでね?」
「ぁっ……あっ……あ、ははー……ごご御冗談を……何だかんだ、長くても一ヶ月くらいでしょ……?」
「……(『冗談だと思いたければ思っておけばいい』みたいな笑顔)……うふふっ」
「…………あい、けが、しません」
「――――ええ、それをおすすめします」
一応言っておきましょう、エイヴィヒカイトは、お店でのオススメ品ならついつい頼んでしまうタイプだ。
勧めるからには相応の理由がある。であるので、カイトがこの日に刻んだ新たな決意は、きっとエイヴィヒカイトの未来のためになるのでしょうから。
床にマットを敷いて座るカイトが、パイプ椅子を軋ませながら座るトレーナーへ言葉を投げかける。目線は床へ置かれた資料へと向かれながら、そこへ書かれた概要を、カイトは口で諳んじてみた。
「蹄鉄部分で踏み込んで、蹄鉄部分で跳躍……」
「一番イメージしやすいと思うが、どうだ」
包帯に包まれた右手を顎に添えながら、少し考え、カチリと嵌る音が鳴った気がした。
「うんうん……うん、しっくりきた。……今の俺は、まだ脚の裏の全体で土を踏んでいるから、もっと爪先の方で飛び出す意識を強めてみる」
「そうしろ。イメージトレーニングも四六時中しろ。無駄なトレーニングを出来ない今のお前にとって、イメトレも十分に有用なトレーニングだ」
接地面積が少ないほど、起こる摩擦係数もまた少なくなるのなら、踵を付けないように走るのは前提ですらあるだろう。そんな基礎すらままならないのが今の自分だ。より高い結果ではなく、より揺らぐことの無い安定性を求めて、脚の裏全体で走るようにする悪癖が定着してしまったのは、限界へ近づいていく毎に肥大化していく痛みのせいだ。脚の痛みは依然として、今の時点で走ればどころですらなく、歩くだけで悲鳴を上げるのがここ最近だ。
だが今なら――反吐にも劣る今の自分なら、痛みなんて贅沢を受け取る資格がない。
壊れるまで走り続けるのが、魔王。壊れる前提の踏破点へ至るのが、エイヴィヒカイト。
壊れたがる意志一つで、燃え盛る勝利への渇望の果てへと――――今の自分にとっての
「お前が持っていた強みは三つ……最初から最後までをトップギアで走り抜ける莫大なスタミナと、『魔王の鳴動』とまで呼ばれる踏み込み」
「おお、どっちも俺の試行錯誤が綺麗な形になったやつじゃん」
ストレッチで脚を伸ばし、ほぐしながら、かつての自分の走っていた姿を思い返す。
息つく暇なくを文字通り行いつつ、爆発的な急加速。加速した速度をそのままに、後ろから前までの一団全てを追い越していく。タイミング、差し引き、駆け引き、様子見、日和見、牽制、抜け駆け、その他一切の頭脳戦略全てを無に帰す走法。いや、走法などと偉そうに語らうのもバカらしい、つーか我ながらアホでバカの一言に尽きる。昔を思い出せば思い出すほど、トレーナー資格を得た今の自分からすれば、バカまっしぐらな走り方そのものだった。
「そしてもう一つ……どんなバ場でもポテンシャルをフルで発揮できる適性の広さだ」
「……?」
「お前は意識してなかっただろうけどな、砂だろうと芝だろうと、それこそ一つ前のレースで荒れ切ったバ場でも、雨が降った後でも、まったくもって意に介さず実力を出し切れるってのが異常なのは……今のお前なら分かるよな」
「そりゃ分かるけど……自覚はしてなかったな、走るなら何でも勝つのが前提な時代だったし」
「不調って言えるタイムも冬の期間くらいだが。……まあ、こればっかりはな」
「魔王は冬がお嫌い、ですのでね」
冬という季節だけがどうにも好きにはなれない。レースを走る上での、唯一の適正外というべきか。
「ずば抜けた適性の広さは未だに健在。スタミナに関しては……半分は諦める、完璧に取り戻せる見込みも、取り戻すのに費やす時間もない」
「実際問題として、肺活力がクソ雑魚になっちまえばなぁ……
息を止めて、走る。息継ぎという生理現象をハナから捨てて、最初から最後までをクライマックスとする走法。走法と呼ぶのも烏滸がましい自殺紛いだが、その速度は既に自分が証明している。レースという形で走った初めての日――この学園へやってきて間もない頃、リギル入部テストのレースだ。素人同然の時でもぶっちぎりのゴール寸前だったのだ。有用ではないかと考えるのは当然と言えば当然で。
「死ぬ気かやめろバカ。……今回は、その気はないって聞いたんだが?」
「…………分かった、分かったよ、トレーナーに従う」
「そうしろ。レースの配分を覚えて、頭で走るレースをするんだ」
とはいえ付け焼刃で勝てる世界でないことは重々承知している。本番で使うことになるのは間違いないだろう。付随してくる危険も多々あるだろうが、それこそ
土壇場を乗り越える際に
「お前の気質には向いてないのは百も承知だが――勝ちたいんだろ、お前」
「……おーけー、了解」
「そうだ、勝ちたいならやれ」
それはそれとして、そういった感覚を馴染ませるのも悪いことではない。有利へ持って行きやすくなりこそすれ、不利へ繋がる事は無いだろう。
「最後に……『魔王の鳴動』は……」
「そこは無理する」
「……今の時点で、もう……限界なんだってな」
「そうだよ、
痛みを忌避して踏み込みが浅くなっている。昔なら起こり得ず、可能性としても上がらなかった。しかし痛みに耐えられなくなっていた自分なら、脚に響く痛みを恐れるだろう。これ以上の苦痛は御免だと叫ぶ自分が、魔王の進んだ足跡を作ろうとしなかったのだ。
今ならどうか――――魔王としての過去を思い返している、今なら。
「今の俺は何も痛くねぇ。『魔王の鳴動』とやらもド派手に掻き鳴らしてやる」
「……」
「トレーナーには悪いけど、脚は多分壊れる」
開脚前転の姿勢で、胸をべたりと床へ着けて、寝そべったかのような格好のまま言い放つ。
冷たいストレッチマットが、ひんやりとしているのをよく感じる。しかし闘志は、燻りへ格を落とすこともなく、胸の裡で燃え揺らめいているのもよく感じとれる。伸ばされた健が、じんわりと、体の芯から熱みを帯びてもいる。
「トレーナーの指導の下で確実にぶっ壊すから、トレーナーに汚名を背負わせることになる。……本当に、ごめんなさい」
「……――――勝ちたいか?」
「え? うん、そりゃもちろん」
咄嗟の問いにも、濁ることなく言葉はするりと紡がれる。
カイトの謝罪へ言葉を返すことなく、トレーナーは唐突な、今更な問い掛けを繰り返した。
「なんで勝ちたい」
「……俺が勝ちたいって思ったから」
「その動機はなんだ」
「……もう、二度と、アイツ等には負けたくないって思ったから」
勝ちたい
勝ちたい、勝ちたい。
勝ちたい勝ちたい、勝ちたい。
勝ちたい勝ちたい勝ちたい、勝ちたい。
なんべん言葉にしても飽き足らない。なんかい声にしても言い足らない。なんどでも叫んだって喉を嗄らすことに懲りることを覚えない。
しつこいくらい、自分はそう思う。
白にせよ黒にせよ、最後の結果が出るまで、自分はその想いでいっぱいになる事だろう。
死んだってかまわない。
「ところで――今のお前、昔に戻ってるんだっけか?」
「ん――――……ああ、みんなが良く知ってる、ターフの上の魔王サマでおります」
「……魔王にも変化があるようで良かったよ」
命を使い切ってもかまわない。走り抜ければ、それでかまわない。
自分を殺して、エイヴィヒカイトの命を潰し切って、そうして勝利を掴めるのならかまわない。
泥臭くとも、情けなくとも、必死さに狂っても。
――俺が死んでもかまわない――
「というと?」
「昔のお前なら「勝つのが前提の夢だから」だとか、いかにも義務感で走ってますって面構えだったろうな」
「はぁ? ……はぁ? …………?」
「無自覚でも、そういう変わり方なら…………――――――よし、そろそろ行くか」
よく分からない話を勝手に独り言ちながら、トレーナーは部室から出ていこうとする。
それを慌てて追いかけるように、ストレッチマットもそのまま置いて、その背中を追って部室を後にした。
「三ヶ月後のURAファイナルズまでもうすぐだ、気を引き締めていくぞ。……もちろん、その手が治るまでは落ち着き気味でな」
「ういっす。……おっ、マルさんももうそろそろ来るってさ」
「並走相手はマルゼンスキー以外にも増やせないのか? お前が良ければコッチで探すが……」
「……先輩連中に声掛けるぅ?」
「嫌そうだな」
「嫌って訳じゃ……まあ、我儘言ってる場合じゃないか……オッケー、何人か頼んでみる」
噂とは、戸口となる人の数だけ伝染しやすいものだ。先輩方を信じていない訳でも無いが、ふとした拍子でポロっと無意識になんてことも考えられなくはないだろうし、態度などで推し量られる場合もあるのだ。とはいえ、この瀬戸際になってからも『自分だけで秘密の特訓』なんて、カッコつける余裕も無いのも確かだ。諦めるにはちょうどいい。
口が堅く、表情にも出にくくて、レースにおいても強者の部類。何人か親戚の顔が浮かんだり、会長なども浮かんだが、さてどうするか。
されどそれはそれ。
心機一転、気持ちを新たに、ゴール地点までの短い期間となる三ヶ月後まで――これまでを思い返せば、なんて短いのだろうか――運命を共にしてくれる師へ、最低限の礼儀を。
「三ヶ月後まで――――最後のトレーニングを、よろしくお願いしますトレーナー」
「え、気持ち悪っ」
「てめぇ」
珍しく畏まればこれだ、ラストスパートの幕開けとしてはあんまりではないだろうか。
早く……早く、走らせたい……!!