未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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其ノ二十一

「くぅー……ゔぁー……」

 

 欠伸を噛み殺し、壁へ寄りかかる。

 退屈で、そして居心地が悪い。庶民の暮らしに安心を覚えるカイトには馴染めそうにない空気感が満たすこの空間は、育ちの良い人々やらが集っているからこそ醸し出されているのだろう。ぶっちゃけ、めっちゃ、いづらい。

 着慣れないスーツは新品故か、節々がパリッとし過ぎていて動かしづらい。可動域が狭められてしまうのはストレスを直産品で寄越してくれる。これを選んで買わせた奴には、正直ふざけんなって感じです。

 ただまあ、スーツを選んでいた時の嬉々とした顔を思えば、なんだかなぁといった感じである。ハットに合うかどうか、体格のイメージを見越してどうかなど、いたく楽しそうだったのは、まあ、見れて悪いものじゃなかった。二重の意味で、選んでくれたアルダンには感謝したい。

 

「着やすさってのは値段で決まるもんじゃないんだな」

「意外」

 

 本当に意外そうな、素っ頓狂な声を上げて近づいて来る娘が一人。

 注目の視線がグッと集まったのを感じた。

 

「愚弟ながら似合うのね、カイト」

「誰が愚弟だ誰が。てかこっちくんな、あっちいけ」

「つれない事を言うものではないわ」

 

 面白そうな口調で言うものだ。全然どっかへ行ってくれそうにはない。コノヤロー。

 

「俺じゃなくても相手なんて引く手数多だろ、そこら辺のと踊って来いよ」

「舞踏会じゃないのよ」

「誇れ、お前がそこにいるだけでいい。それだけで辺り一面は舞踏会と化すかもしれない」

「そうかしら……なら、一緒に踊ってみる?」

 

 手を差し出してくる、ドレス姿のラモーヌ。

 至極、あるいは珠玉の艶顔。なめらかな指先は、細すぎて手を取れば折れてしまいそうな華奢さ。声の色は荘厳と称するべきか。加えて社交場というアダルティな場所。この提案へ首を横に振る男がいるのだろうか。

 いやむしろ、か。

 あまりの眩しさを目の前にすれば、尻込みしてしまうかもしれない。

 尻込みこそしないが、カイトとて大勢の例外に漏れず、断るという選択肢へ走るのだ。

 

「手ェ引っ込めろアホ」

「……もしかして、貴方……機嫌でも悪いの?」

 

『あっっっっっったりまえだバァーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッッッカ。こちとら負けが込み尽くして腹の居所も置き所も見当たらないんだよ。爆裂の加速に負けっぱなしなんだよ。何だあの人は。前に一緒に走った時とはまるで別人じゃねぇか可愛い後輩だぞ少しは加減しろ。つーか何度もトレーニングだっつってんのに考え無しでエグい踏み込みの跡でターフを穴だらけにしすぎだろうが。次の日に謎にターフが荒れていると怪談になりつつあるの知ってんのかな知らないんだろうな、知ってた。要するにスーパーカーのスーパーはスーパーバカの意味合いがドンピシャオケィ!?』とかとか、などなど、色々と愚痴りたかった。

 ただでさえこんな堅っ苦しい場はどうしてもカイトの水に合わず、背中だって痒くなってくる。挙句に『帰りてぇ』などと口走り掛けそうになるが、寸前で頑張って堪えたエイヴィヒカイトをどうぞお褒め称えてくださってよくってよ。

 

「全然。悪くないけど。むしろお呼ばれしてとっても嬉しいんですけれども」

「だったらもっと嬉しそうになさい。マックイーンたっての願いなのでしょう?」

「うるへー」

 

『お兄様、どうでしょうか……』

『お堅い感じのパーティーは俺に向いていないと思うの。場違いマックスだと思うの』

『いいえっ! お兄様のオーラなら、誰にも引けを取りません!』

『えぇ……でもなぁ……』

『…………だめ、でしょうか?』

『――――いいよ』

 

 キラキラと期待だけが満ちた目で乞われてしまえば、誰だってホイホイとイエスを出すのはさもありなん。

 後先考えずに物事を決めてしまう悪癖はどうしても治る気配が見えない。一生涯の付き合いになるとしても、そろそろ巧い付き合い方を考えなくては、友人たちに呆れられてばかりのこれからになってしまう。

 結果として、こうやって退屈にまみれて後悔し始めるのも、さもありなん。

 

「……ああ、くそ、やっぱこういうのは向いてねぇな、俺」

 

 ちょこちょこと感じる視線に悪意は感じないが、興味深そうな、奇異の視線は感じられる。

 これまで生きてきた中で見世物にされる事は多々あれど、経験と照らし合わせても、周りを気にせずに居られた殆どは、自分が何かに集中していたからこそだ。こうして何もせず、心ばかりのフードとドリンクに舌鼓を打っている姿をジロジロと眺められては、おちおち食事もとれない程度の精神強度が今の自分だから。

 魔王の仮面も、痛みに関してならともかく、こういった日常の営みの中で定着しきるにはもう少し時間が必要なようだ。

 

「話に聞いた以前ならともかく、()()()()には体裁を保つのなんて一番苦手なように見えるけれど」

「妙に説教臭いこと言いやがって……どこから目線で言ってんだ」

「とにかくこれに懲りたのなら、安請け合いはもうやめなさい」

 

 それはもう言われずとも、だ。

 いい加減、仮にその相手がマックイーンという溺愛すべき対象だとしても、たまには断るという選択肢を己の人生訓に加えておきたいものだが。

 ――でもちょっと想像してみて欲しい、マックイーンが、あのメジロマックイーンが、上目遣いで、目を潤ませて、期待に満ちた笑顔で、甘ったれた猫撫声で――

 

「ふへへぇっ……どうせ次も、あの顔をされれば断れないんだろうさ」

「甘すぎよ」

「年上はぞんざいに、同い年は少しぞんざいに、年下には可能なだけ優しく――マックイーンには全身全霊で甘やかす。これが俺のマイルールだから」

「そう」

 

 知っているとでも言いたげに、手に持っていたグラスの中身をあおる。

 飲み物を片手に壁へもたれかかる姿。興味も無さげに遠くを見る横顔。腕を組んで、物憂げかつ退屈そうに天井へと視線を向けて。

 それをボケっと横合いから眺めれば、なるほど確かに、悔しくはあるが、この女は周囲にもてはやされるだけの魅力は相応に持ち合わせていると感じた。別段情欲も湧かない間柄だ。胸が高まりもしないし、初心な表情を晒して顔を帆手させるような醜態も、今のカイトでは持ち合わせが無い。

 ただ、メジロラモーヌには、芸術品みたく俗世から一歩引いた、壮絶な美しさがある。その事実がこうした社交場では、一際目立つというだけ。

 腹立たしくは在るが、それは事実だ。

 

「……」

「……」

 

 少しだけ見惚れるくらいには、事実だった。

 

「ふふっ――――ダメよ、貴方は」

「は?」

「貴方には、あの娘がいるでしょう」

「? え、お前って実はドアホの類なのか」

「――……今、何て?」

 

 ドアホ、そんな風な言葉を、きっと目の前の娘は一度だって投げかけられた経験皆無に違いない。美貌良しで尚且つ聡明、秀外恵中を欲しいままにしてきたであろう彼女に、そんな乱暴な言葉を投げつける者など、光栄ながらエイヴィヒカイトが唯一無二であると自負している。妹は勿論の事、両親にだって言われた覚えはないだろう。再会してから続くこの距離間は、きっと維持し続けるのがパーフェクトコミュニケーションであるとカイトは信じている。

 故にこそ、既にアルダンに苦言を呈されているとしても、目の前の人物へ生意気な物言いをやめる気は無いのだ。

 

「よくわからん高級な壺を見て、『へー、よくわからんけどきれいなのかもなぁ』ってなる時があるだろ?」

「……」

「つまりだな……なんて言えば……――――そう、お前の魅力は壺だ、お高めのよく分からん壺がお前なんだ、よく分からん壺娘」

「あんなに屈託無く笑って純粋だった子が……今ではこんな、人を小馬鹿にすることに長けてしまって」

「は? 小馬鹿? ……?」

「無自覚。より悲惨ね」

 

 そう上品に吐き捨てて、グラスに残った最後の一口を呷った。

 再会してから、まるでカイトの姉を気取るような発言が散見されるこの娘。口を酸っぱく何度でも言う――あるいは何度口にしても不足しがちなまであるが、メジロラモーヌとはやはり麗しさの極致に在る。それは残念ながら、否定するべき部分が見当たらない事実の塊であって。

 さて、目の前の輩の妹であればどうなのか――――もちろん一千億ドルの夜景すら霞み、息を呑むどころか心臓を止めにきている淑やかさ。心臓を捧げても惜しくはない。望むのなら、世界すら傾かせてやる決意も容易な魅力にあふれた、水晶のように神秘的な娘に違いない。

 兄姉より優れた弟妹は存在しないと主張したがる者も居るが、ことこの姉妹においては、圧倒的個人主観による価値観で、軍配は圧倒的なクリノクロアただ一択。優しさ、愛らしさ、器の大きさ、可愛さ、愛おしさ、愛くるしさ、美しさ、美しさ、美しさ、優しさなどなど、どれを取っても妹に完敗している悲しい姉だった。

 

「で、だ」

 

 ねめつけるようにして聞けば、泣きほくろを携えた流し目がカイトを射抜く。

 これには思わず大歓喜する者が多数なのだろうが、お生憎とカイトは、そういった挑戦的な姿勢には真っ向から立ち向かうと決めているが故に、より鋭く睨みつけるのみ。

 

「いつまでここにいるつもりだよ」

「あら、不都合があるかしら」

「ない。でもどうせならアルダンも引っ張って来やがれ、俺が喜ぶだろうが」

「私ではそこまで喜べない?」

「さっきから要領を得ねぇ」

 

 警戒するのも止む無しな遠回し加減。発言の徹頭徹尾を訝しむのも致し方ないだろう。

 その思惑を見通してやろうと、ジロリと再び睨んでみた。しかし彼女にとって、そんなものはプレッシャーにもならないようで。

 

「ハァ……いつになったら私の事を義姉(あね)と呼んでくれるかしら」

「いつまで目論んでんだよ」

 

 今までは気恥ずかしさもあったが、今決めた、今決まった、これは確定事項だ。

 今生の悉く、一切合切、一度たりとも呼んでやらない。

 そんな些細な意地悪を決意した日だった。

 

「ところで、ラモーヌって口、硬いのか?」

「さあ、考えたことも無いわ」

「ついでに聞くけど、ラモーヌって走ると速いんだっけ」

「……それは、何か、挑発のつもり?」

「あっ、そういやあれか、トリプルティアラを取ってたっけ。そりゃ速いよな」

 

 その称号は自分とて獲得した冠。その尊さは得た当人達こそが理解できる勲章そのものだ。

 それはそれとして。

 

「まあ俺はトリプルティアラを無敗で獲ったんだけどね」

「…………そうらしいわね」

「それでさ、()()()()速いラモーヌの実力を見込んでお願いがあるんだけど」

「……――――聞くだけ、聞こうかしら」

 

 不思議な重圧をとっても感じてしまう。はて、この熱量はスぺやグラス達から向けられていたような、そんなメラメラとしたモノが、この会場のどこかしらからか送られている。いったいこれは、果たして何者からの敵意なのやら。

 それはそれとして、不意に降りてきた天啓に従って口はよどみなく動く。

 

「このお願いはお前にしか頼めない。頼める人は極めて限られる、それくらい俺にとって、とても大切なモノなんだ」

「そう」

「他の奴じゃ実力も欠けてたり、信じ切るには欠けてたりして……身内で他にってなると、お前(とかマルさんとか会長とかくらい)しか相手がいなくって」

「……そう」

「情けない話だよ。助けて欲しいんだ。……その、ラモーヌ(を含めた先輩達)だけが頼りでさ」

「…………そう」

 

 ただでさえ、マルゼンスキーというレジェンド級のトレーニング相手だ。そこへメジロラモーヌが加わってくれるのなら、暗雲が立ち込めていた復帰の道も、切り開ける可能性の目途が立つこと間違いなしだ。マルゼンスキーともクラスメイトらしい、なんてことだ、コミュニケーションの摩擦も起こりようがないだろう。何て完璧な発案なのだろうか。

 

「ラモーヌの愛が見たい。それもとびっきりのやつを、俺に見せてくれたなら……えっと、かなり嬉しい、かもです……」

「………………いつもこうなの?」

「? いつも……?」

 

 そんなこんななスカウト劇の二日後――物の見事に約束を取り付けた証を、並走することで示してくれる義姉がいたのでした。

 そういえばラモーヌの力を借りるその以前から、マルゼンが協力してくれている旨を伝えていなかったなぁと思い至ったが大した問題にはなるまい。この時のカイトは、そんな安心安全な未来を信じ切っていた。

 とある夜のターフの外で、不思議な怒りを見せるメジロの至宝が顕現するまで、本気でそう信じていたのだった。

 

 

 それはアオハル杯にて、見事に全戦全勝を果たしてみせたその三日後。

 チーム・ソルの部室にて、大きな室内とは言い切れない部屋を埋めるのは、おなじみ同期5名の姿に加えて、スピカとリギルのメンツも混合したごちゃごちゃ具合。時代の5つくらいなら簡単に取れそうな面々が、この狭い場所へ集まってきた理由など一つしかなく。

 祝い事とはやはり派手に、喧しく、それでいてハチャメチャにうるさいほど楽しいものなのだ。

 

『……それではっ、えー、こまごまとした挨拶などぶん投げておきまして――――アオハル杯優勝おめでとう!!』

 

 1メートルほどのクラッカーを、ゴールドシップと共に鳴らして怒られてから、10分後。

 火薬の破裂音も掻き消える程、その祝いの席は姦しさで充満していた。

 

「しかし……本当に全勝を果たすとは」

「そりゃもう! コイツ等はその辺の雑魚とはモノが違うのでねぇ~」

『――へぇ』

 

 室内のそこらから、チラホラと吐息のような声がハーモニクス。これはあれか、感嘆の声か、そうだろう、それ以外にありえまい。

 一聞すれば底冷えしかねない声色も、しかし機嫌が有頂天のカイトからすれば誉め言葉にしか聞こえないのであって。

 

「誰も勝てなかったってことは、やっぱりコイツ等が一番強いって話ですよね!!」

「……でも、レースに絶対は無いってよく言うもの、次がどうなるかは分か――「え? でもスズカパイセン、キングに負けて……」

「っっぐっ……――――次は、負けない……ッ!!」

 

 そう言って可愛らしく、されど強者に類される威を放って睨みつけた先はカイト――ではなくキングだった。可哀想に。

 

「!? ちょっとカイト! よく分からない経路で煽らないで頂戴!!」

「妬み嫉みは勝者の義務だ、受け取っとけ」

「発端!!」

「次は……必ず……!!」

 

 ――そんな一コマもありつつ、自然と同期組で集まっていれば、スカイがふと、口を開いた。

 

「それで、全戦全勝のご褒美は~?」

「は?」

「言ってたでしょ、カイト」

 

 いつぞやにそんなことを言っていたような、そうでもなかったような。

 定着率の薄い自分のクソ雑魚記憶海馬を探っていれば、畳み掛けるように彼女らは口々に言う。

 

「自分で言っておいて用意していないだなんて……まさか、ねぇ~?」

「そうでなくても奢りの一つや二つくらいは欲しいわね」

「――――そうデスね! 期待しちゃいますよね!!」

「どんなお店で御馳走してくれるのかしら。ねぇ、スぺちゃん」

「……へ?」

 

 スぺのレスポンスが一際弱く、次いでエルの反応も些か鈍かったような気がした。

 エルはともかく、スぺが心此処に在らずな様子の理由には、心当たりが一つくらいある。

 

「ぁっ……そうだねっ! 今からお腹減ってきちゃうかも」

「……期待が膨らみますね~」

 

 その様子を見逃すような鈍感はこの場にはいない。しかし、わざわざこのような場で指摘する冷血漢もまた、この場にはいない。元気よく振舞おうとする心が在るのなら、その心意気を優先させてあげようとする者が殆どだった。

 当のスぺ本人が、思いっきりカイトへ物ありげな視線を寄こしているのも、込み合った事情を察させるには十二分な要素だったのかもしれない。

 

「ふっふっふっ……ご褒美? ――そらもうご用意してますとも!」

 

 正直、スカイの言った云々の記憶は完全に忘れているが、それはそれ、これはこれ。それが誰にとってのご褒美となるのかは、それこそ各々の受け取り方次第だ。

 けれど、きっと、喜んでくれると信じたい。

 

「それも、お前らだけに向けたとっておきだ!」

 

 勝利を欲した日々。敗北を受け止めた日々。悔しさを噛み締めた日々。口惜しさを握り潰した日々。負けん気を振り翳した日々。膝を付く屈辱を味わった日々。嘆くことすらままならない恥辱に震える日々。満足の勝利を得られなかった日々。満足の敗北を得られなかった日々。

 全てを清算できる、そんな日になればいいとカイトは祈る。

 らしくもなく、三女神にでも祈りたくなる。

 

「――――URAファイナルズの最終日に、とっておきを御馳走してやるよ」

「え? そんな先になるの~?」

「用意やら準備やらに時間が掛かるんだ、しょうがないだろ」

「……そんなに意気込むほどなら、さぞかし満足できそうデスね!」

「うーん……さあ?」

「さあ、って……そんな調子で期待できるの?」

 

 キングはさほど期待もしていなさそうな目で、呆れたと言わんばかり。

 その表情を、カイトは引っ繰り返すことが出来るだろうか。

 

「お前らが満足できるかは、ぶっちゃけ怪しいかも。……でも、気に入ってはくれると思う」

「ふーん……へーえ……」

「んだよエル、さっきからお前、やたらと思わせぶりな態度しやがって」

「いえいえ、別に、何もありませんから」

「……とにかく! なるべくお前らが満足して終われるように、俺も心血注いで準備してるから!」

 

 心血を注ぐ、未来を捧げる、その二つにどんな差が有るだろうか。己のこれまで築いた全てを注ぐのだ。己がこれまで抱いた全てを捧げるのだ。薪にして、全てを焚べて、全盛の全てと言わずとも――全盛の如き威迫の一端程度を手にしなければ、彼女らと並ぶことすら許されないだろう。

 身を焦がし、焼き尽くし、灰燼となって走り抜ける覚悟を。

 

「そっか……」

 

 その先で、彼女らを纏めて敗北の側へ追いやる未来へ、この脚を必ずや届かせて見せる。

 

「……――じゃあ、期待、してるね」

「ああ、そうしてくれ」

 

 期待の色が介在しない視線へ、燃ゆる紅の両眼を、しっかりと向ける。その紫焔を、燻らせるだけには留まらせないために、エイヴィヒカイトは――――魔王は、その価値を示すのだ。

 友の敵へ、必ずや返り咲くと決めているから。

 

 

 前に走る影へ、一息吐くごとに追いついて、一息吸うごとに近づいていく。その実感を、ようやくこの時点になって得始めて――いいや、違う、これは取り戻しているのだろう。初見の感覚ではない、既知の感覚だ。後ろから前へ追い越すこの感覚、隣へ風を感じるコレは、久しく忘れていた――――

 

「――――ぁ」

「ッ!」

 

 ――――そして踏み入れるのは()()()()()

 感覚が削がれていく。音が剥がれ落ちる。風が触れなくなる。匂いが薄れていく。味が消えていく。視界は狭まって、されど実態とその影程度の差は分かるくらいに、位置関係を把握できる程度の視力を残して。

 五感などという贅沢を、可能な限り自分から引き千切るこの感覚。光の色彩に溢れた世界が、遠くへ吹き飛んでいく喪失感。限りなく大切な要素が、気が付けば手の届かせられる位置には存在しなくなってしまっている恐怖。久しい世界で、見覚えのある世界。魔王なら居心地が良く、魔王でなければ居心地の悪い世界。生者が長く滞在してはならない領域。

 決して、才能と努力が絡み合った先に辿り着く『領域(ゾーン)』ではない。

 才能を使い潰し、努力を無駄な効率で用いた先で手を振って待っている、地獄とよく似た領域。

 自分は、そんな懐かしくも悍ましい世界へ、再び足を踏み入れたのだ。

 

「――――」

 

 何かを呟いたような気がした。でも、それすら、自分の独り言すら聞こえない。胸中に広がる思案は一つもない。頭で繰り広げる道行きの一切を講じない。右へ左へ? バカバカしい話だ。前へ、ただ隣よりも前へ進み続ければいいだけだ。それをレース中に、何度も行っていけばいい。それをゴールするまでに繰り返し尽くせば自分の勝ちなのだから。

 五感の互換性を、極限まで削ぎ落した黒白の世界。何も感じず、何も考えず、そんな世界へ唯一外部から取り入れていた警報があったようで。

 脚から、冷たさにも似た響きが伝わる。痛い訳じゃない。今の世界では痛みなどに甘えていられない。だからコレは、痛みの代わりに伝わる最後の線引き。

 それを見過ごし見落とし見捨てる、それは、目指す場所へ届く事は無く全てが終わるのと同義で。

 機械的な自分が、それだけをNGとして黒白の世界を引き裂いた。

 

「――――ぶはっ」

 

 色彩が急速に戻っても視界域は狭いままだった。耳鳴りが最初からのように貫いて痛い。胃液が逆流しかけて刺すような苦みを感じて不快だった。鼻の奥から鉄の香りが漂い始めて気持ちが悪い。脚が、これ以上はダメだと言うように、痛みを超えた痺れを纏わせる。

 減速へと思考の舵を切った。命の終わりだけは勘弁だと全身は総意を示し、歪なフォームで懸命に、走りながらの減速をしていく。

 転んでも擦り傷で済む速度帯へ落ち着いた瞬間、全身が硬直した。

 

「うぎゃっ」

「カイトくん!!?」

「カイト!!」

 

 耳鳴りが敷き詰められた耳孔だったが、辛うじて空いている隙間へ、マルゼンとトレーナーの悲鳴が届けられる。

 大丈夫、問題ない、鼻血だけで済みました、深刻でも鼻の骨くらいが関の山でしょう、決して大騒ぎするような怪我はしていないので、絶対に、絶対絶対絶対にアルダンへ連絡するのはおやめくださいね、眼鏡は割れてないですかい? これ割と大事な物なので壊したくないのよね――――一つとて言葉に出来なかった。これは黒白の世界を取り戻したことに感無量、とかではない。単に舌が動かないのだ。発声の為に動かす必要性のある全てが麻痺して、しゃんとした会話を交わせなくなってしまっているのだ。

 パクパクと開閉も出来ずに、オノマトペで表せばあうあう。それしか動かせない口だが、ターフの芝を咀嚼することも出来ない。

 

「しっかりしてカイトくん!!」

「――っ――――ぇ、ぅ――――(生きてるから無問題っす)」

「意識は……ある。息も、辛うじて出来てる……! ゆっくり息をしろ、話さなくていい、呼吸だけに集中しろ。……全身の痙攣……やっぱり最後の異常な追い上げが負担になって……!!」

「――――ぁ――――っっ――――(無理は前提なんだからこれくらいしゃあないだろ)」

「無茶ばっかりして! 息もしないで走ればこうなるに決まってるでしょ!?」

「ぁっ――――(あっ、ちょっとそれをこの場で言われるのは困ります)」

「はぁ!? おいバカあれだけその走り方はするなって言っただろうが――――!!」

 

 酸素ボンベを押し付けられながらの説教も聞こえない。こうなってしまえば、案外耳鳴りも悪くはないのかもしれない。こんなことを考えていると知られれば、きっともっと怒られるんだろうなと思案しながら、ぼやけの引かない夜の星空を眺めていた。

 収穫はあった。黒白の世界を手に入れた。正確には、黒白の世界へ踏み入れる為の権利を手にしたということ。今しがたカイトの進んできたターフを振り返れば、緑を抉り、掘削した土が遥か後方へと吹き飛んでいる事だろう。それだけの実感を感じていられる時間が、あの世界には満ちていた。

 それは、URAファイナルズ最終日まで、残り一ヶ月を切った頃。

 再臨の鳴動が人知れず、夜のターフで雄叫びを上げていた。

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