未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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 あと二か三話で終了


其ノ二十二

 最後の一走へ向けて棍を詰めれば、必然として脚の具合も加速度的に悪化の一途を辿るのは明白だ。負荷を掛けなければ掛けないほど良いと、メジロお抱えの主治医からも名実ともに曰くを付けられている。普段の生活でも、徒歩で健康的に歩くなんて普遍的な行動すら眉を顰められて、兎にも角にも脚を動かして欲しくないとは口を酸っぱく言われている。

 しかしエイヴィヒカイトは、決めた一つの覚悟のために、最後の時を迎えるまではフルスロットルで在り続ける、この在り方は魔王がどうかではなく、エイヴィヒカイトという生き物の性質であり習性でもあるのだ。むしろ、当日までの日々を全開どころか全壊一歩手前、そんな状態を自然と維持せざるを得なくなり、そのままの状態で奮起の毎日を繰り広げなくては、中途半端な仕上がりでその日を迎えてしまうだろう。性根に車嫌いまでが染み付いた面倒な男でもあるのだ、摩耗していく日々を、綱を渡る慎重さで歩きながら暮らしていかなくてはならない。

 その一環として、病院へ足繁く通うようになったのは大きな進歩と言えるだろう。病院に行くだけで進歩などと称するのも大袈裟かもしれないが、己の事になれば面倒くさがりの無頓着が極まりつつある自分としては、己の為に病院通いを習慣つけられている時点でとんだ快挙なのである。

 

「たでーまー」

「お帰りなさい」

 

 玄関を開ければ、アルダンの淑やかな声が出迎えてくれる。些細な話かもしれないが、やはり、ただいまとおかえりを渡し会える存在がいるのは、とても幸せなことなのだろう。いっそ贅沢そのものだ。――不安を抱えさせている身に甘んじている自分が一体何様なのかとは、微塵も考えもしない、考えるのは魔王じゃない、そんな些細で悩むのは永劫の魔王とはかけ離れているから思いもしない、胸に抱くのはただただ後光に溢れた大きな五つの背中へ向かって続く指針だけ。

 ――ふと、靴を脱ぐ際、自分とアルダンの物ではない靴が置いてあることに気が付いた。女性物のデザインが一足と、男性物の黒いローファーが一足。アルダンの知り合いでも来ているのだろうか。少なくとも、誰かがカイトを訪ねてくるような用事は持ち合わせていない筈だ。

 邪魔をするのも何だかなと、そう考えたカイト。自室へと直行しようとしたが、しかしそんな矢先、アルダンに服の袖をつままれて、歩き出そうとするカイトへ待ったを掛けた。

 

「へ?」

「私達にお客様がいらっしゃってるから」

「俺ら?」

「ええ」

 

 はて、さてはトレーナーが今後の相談か何かで来訪したのか、またはベルちゃんやらの親戚か。しかしトレーナーは病院まで付き添ってもらい、先程別れたばかりなのでその線は無い。親戚だとしても、カイトだけの来客として扱うのも違うだろう。フラッシュが来ているのなら確かにそういった表現も合っているだろうが、そうだとしたらアルダンがもっと機嫌を悪くしているのでその線も無し。

 首を傾げながら居間へ向かえば、視界へその姿が入る前に、メジロ家の本家で嫌というほど嗅いだ紅茶の香りが鼻へつく。

 お茶会を開くような知り合いなど、それこそメジロ家方面の親戚ばかりになるが、マックイーンでも来ているのかしらと考えていれば、その人物は想像から斜め上の人物だった。

 

「――――お邪魔しています、カイト」

「……え、なにゆえ?」

 

 マダムだった。まごうことなき完膚なきまで、エイヴィヒカイトのイメージ通りのマダムであった。すなわちメジロ家当主が、やたらと高そうなティーカップをつまんでいた、そんなマダムであった。

 おかまいなく、等の挨拶を発することも忘れて、突然の老婆襲来に間抜けな顔を隠せない。

 

「近くへ寄ったもので。坊ちゃまとアルダンお嬢様がどういった暮らしをしているのか、一度は目にしてみたいと常日頃から望まれておりましたので、つい」

 

 にこやかに、後ろで立ったままのじいやがこの場所へいる経緯を説明してくれる、が。

 そんな「来ちゃった☆」なノリで、メジロ家のラスボスは我が家へ舞い降りていいものなのか。もっとこう、然るべき場で、厳かな後光を纏って対面するような相手ではなかったのか。せめて外食くらい行こうではないか、何で絶賛寛いでいますよみたいな雰囲気を漂わせているのだ。

 唖然とするだけなのも癪だ、とりあえず会話のキャッチボールを発生させねばならない。そんな焦りにも似た心のままに喋くった。

 

「暇なんすか?」

「カイト……流石にそれは」

「ごめんなさい口が勝手に超絶アクロバットを……」

 

 呆れ7割の咎言が、カイトを速やかに謝罪の体制へと移行させる。いくら心のままとはいえどもだ、口を自由にさせ過ぎると、こうも失礼のど真ん中をぶん投げてしまうのはどうなのか。肝が据わっているということにしたくはあるが、実はコレ、何一つも考えていないで発言しただけなんですよね。

 苦言の一つや二つ、されど含有されるプレッシャーはメンタルをどこまでもぶち壊すような小言を、当の本人から喰らうかと身構えたが――しかしどうしたことだ、一向に叱られる気配がない。叱られてばかりが日常であるカイトは、梯子を外された気分どころか、梯子をぶん投げられたような気分だった。

 それどころか、エイヴィヒカイトの鈍いのか鋭いのかあやふやなセンサーは、目の前で茶を啜る老婆から、こう、ポカポカとした暖色の気配を感じているのは気のせいでしょうか。

 

「いいのですよアルダン、カイトも貶めたくて言った訳ではないでしょうし。……それに、他人行儀だった頃に比べればよっぽど嬉しいのです」

「えっと、ぶっちゃけそういう感じの反応をされるのが一番コメントに困るっす」

「もっと喋りやすいようにしても良いのですよ?」

「……やりづらいなぁもうっ」

 

 距離の詰めかたがエグかった。久しぶりに顔を合わせる親戚なのだから、最初の挨拶の段階はひと匙程度の気まずさくらいは合ってもいいと思うのだが。

 しかしジジババからすれば、孫くらいの年齢をした小生意気坊主など、可愛くてしかたないのだろうか。実際カイトも、本家へ出向くたびに、本家に務める老人達には、かなり失礼な態度を取っているが気に入られていく一方だったのを思い出す。年功序列もなんのその、日本の奥ゆかしさを象徴する一つの文化すら知ったことかと言わんばかりの態度を取りまくり、傍から見ていたパーマーが言うには、「同年代の友達かと思った」らしい。仲など良いに越した事はないのだから、自分が自覚しているよりも、自分はあの家を存外気に入っている事実はそう悪いものじゃない。

 昔より過ごし易い雰囲気になっているのも、気に入っている理由の一つだろうが。

 

「……そんで、当主さんは我が家をご覧になって、どんなご感想を?」

「……」

 

 無言で紅茶を口にする老婆。

 一息付いたら返事をしてくれると、カイトは思っていた。カイトのみならず、きっとアルダンもそう考えていたかもしれない。

 

「当主どの?」

「…………」

 

 しかし、カップをソーサーに置いても無言は続行だった。

 

「……あの? 当主さま〜?」

「………………」

 

 いっそ無視でもされてるのかと、そんな可能性はあり得ないとはカイトも思うが、しかし一瞬、ほんの一瞬だけその可能性が頭をよぎり。

 それにイラッときただけなのだ。本当に、些細な悪戯心が芽吹いただけなのですから。可愛らしい悪戯なのですとだけ此処に宣言しておく。

 返事がない――ときたのならね、もうね、後に動く言葉などこの国では一つしかあるまいがよ。

 

「ただの屍のようだ」

「!?!? かっ、カイト! なんて事を言うの……!?」

「……………………――――――――」

「あ、やべ」

 

 何も返事をしないのを良いことに、礼を失するなんて表現も生温い、命知らずな発言をしてしまうバカだった。

 というか何も言わなくなってしまったどころではない。押し黙ったままのメジロ家当主から、息を詰まらせるような圧迫感が発されている。空間をメキメキと軋ませているような幻聴も聞こえる。汗が、首筋やら額やら脇やら、今すぐにでもこの場から逃げ出したくなる脅威的な存在感に、全身からの発汗がとめどない。

 老いても尚なのか、老いたからこそなのかは不明だが、この生きた心地を消散させていくプレッシャーはさすがだった。

 しかしちょっと待って欲しい。こんなフレーズをカイトは今生で何度使ってきたのかを数えるのも嫌になるが、それでもちょっと待って欲しいのだ。理由も所以も不明だが、とにかく不機嫌であるという事実は読み取れる。それくらいの空気なら把握できるのだ。

 故に一つの問いを世界へと投げ掛けたい――――これってカイトが悪いの?

 

「……まず、一つ」

「う、うっす」

「貴方達の子供が大きくなるまで、往生してもしきれないので、そのつもりで」

「……この老人、遠い未来を見過ぎでは?」

「っ!? こ、子供って……! そんな、その、それって…………(バカの方角をチラ見)」

「…………ま、まあ、うん、まったく考えてない訳でも無いというか、少しは考えてるような、そうでもないような……っ、家族が増えるのは、その、ぁ、……暖かそうだなとは、思うし、その相手がアルダンなら…………すこし、いやもっと、たくさん…………――う、ぅれしぃ……け、ど……」

「っっっ…………覚悟しておいてね」

「え、何を???」

 

 至らない点はどーこだ、今日も今日とてカイトには分かりませんでした。曲解の無き事実は一つ、秒も経てば敵が増えていた、これなのである。四面楚歌ばかりな場面が七割なこの今生、そろそろどうにかなってはくれまいか。この当人、そういった方面には、疎い! 無知! 盲目! の最悪な三拍子をコンプリートしているのは周知の事実でありますれば。

 どちらかといえば仲が睦まじいと判じれるやり取りを、じいやがニコニコ顔で、むしろホクホク顔で眺めているのにカイトは気が付いた。しかし言及する余裕はない。一言一句、当主様のお言葉を聞き逃す訳にはいかないお時間であるは違いないのだ。

 

「そして、もう一つ……」

「……」

「……」

 

 ごくりと、アルダンとカイトは生唾を飲み込んだ。もしかしなくても意味が不明なレベルで失礼な態度を取ったバカだ、一つとか言ってるけど、内訳を細分化してみれば一つどころでは収まりようがない説教三昧な時間が、憩いである筈の我が家にて繰り広げられるのかもしれない。

 その際にはアルダンも巻き込もう、折を見てマックイーンやライアンでも呼んで、運命を共にしてもらおうとか、そんな些事を考えていた時だった。

 疑問符は、牧歌より来たる。

 

「――何故、カイトは、私をそういう風に呼ばないのですか」

 

 そういう風って、どういう風?

 

「そういう風って、どういう風?」

「……なるほど」

「一人だけ納得しないで説明しろーい」

 

 合点がいったアルダンが、硬かった表情をほころばせて、カイトへ問いてきた。

 

「カイトは、前におばあさまとお食事に行った時の事を覚えてる?」

「ん……あー、覚えてる、ような」

 

 その時とは、と。記憶を掘り起こしてみれば――これはなるほど、そういった理由だったのだとしたら、確かに自分が悪いのかもしれない。でもね、そのために呼吸動作を放棄させかねない圧力を吐き出す必要性はあったのか、これがカイトには最大の謎なのです。無闇にカイトを怖気させる理由は滅多に見つからないのです。

 呆れつつ、仕方なさそうに、少々ぶっきらぼうに、カイトは口を開いた。

 

「…………お婆ちゃん」

「――――はい、ええ……ええ、それで良いのです、それで」

「えぇ……」

 

 コクコクと、小さく首を縦に動かして、満足げな声を静かに上げる。口端を優しく吊り上げて、目つきは瞬く間に柔らかい感触へ早変わり。後ろから分かったような雰囲気を醸しながら頷くジジイは一旦無視。

 何にせよ、お気に召してくれたのなら何よりだ。

 圧倒的なプレッシャーでメンタルを轢き潰そうとしてくるイメージしか持てなかった過去から一転、今は中々どうして、孫的存在に「お婆ちゃん」と呼んでもらいたいだけの好々婆へとクラスチェンチェンジしつつある、というよりはもうそうなっている。たまに『ババア』と呼んでしまっても、どこか嬉しそうに注意してくるものだから、こう、たまったものではありません。

 良い気がするのか、悪い気がするのかは、もちろん。

 

「……んで、家を見た感想は?」

「少々手狭ですね……望むなら、もう少し増築の手配は必要かしら?」

「いえ、二人で住むのならこれくらいが丁度良いので、お心遣いだけいただきますね」

「――やっぱり気のせいじゃなかった」

 

 謎のエイヴィヒカイト宅増築事件。いつ頃からか、おおよその頃合いは、エイヴィヒカイトが現役を退いた頃だろう。エイヴィヒカイトの住んでいたアパートが、サブリミナル的に、さりげなく、しずしずと、徐々にスペースが広まっていくような気がしてならなかったのだ。

 部屋数も増えて、今ではアルダンとカイトのみならず、マックイーンやベルちゃんの部屋なんかもある。どうだ、事実を述べているだけなのに、どこか意味が不明だろう。そんな事実に気がついた時、カイトは自分の頭がおかしくなってしまったのかと悩んだこともあった。

 そんな犯人を見つけてしまった。単独犯では難しいことは察していたが、裏に存在していたパトロンは想像よりもとんでもなかったような、想像通りでもあったような。

 

「せめてもう一部屋くらいは……確か、一階には、もう一つ空き部屋がありましたよね」

 

 申している意味が分かってしまう自分が悲しい。この空き部屋とは、エイヴィヒカイト宅の空き部屋ではなく、このアパート自体の空室を指しているのだ。

 どうりで、少なくとも此処へ越して来た頃とは敷地内で感じる空気が違っている。まだお隣さんの概念は息をしていたというのに、今ではめっきり目にすることも無かった訳だ。ーーまさか追い出しているとも思えないが、引越し蕎麦を差し入れに行ったあの人は、どこかで元気にしているのだろうか。

 

「メジロ家のサブ拠点にでもするつもりか……!? つーかよくもまぁ部屋をぶち抜いてるのに苦情も出ないよね!」

 

 アパートの一室に納まらないスペース、これはつまり、壁を抜いて広々とした空間を確保しているも同然。というかそうでもなければ、今のこの空間は物理学やらそういった概念に喧嘩を売り過ぎている。

 まともな大家なら無視しないとは思うのだが、そこのらへんは如何に。

 

「心配はいりませんよ」

「何がっ」

「ここのオーナーは私ですから」

「…………そっかぁ」

 

 一旦、一度だけ、カイトは考えるのをやめてみる。そういえば夕飯はまだ口にしていない、お腹が減ったような気がしなくもない、いいや腹が減っている、そう、自分は大変に空腹なのです。

 

「2階も、立ち退きが終わってから手を入れようかと考えています」

「た、立ち退き……元々の住人は!? ……追い出したん?」

「いいえ、丁重にお話をさせていただいて、快く了承をしてくださいました」

「ヘイS⚫︎ri、『丁重』『快く』『立ち退き』『矛盾』で検索」

 

 幾ら包んだのか、聞いて良い話ではなさそうだ、というか聞きたくない。

 カイトの脳みそはもう疲れ果てている。布団に突っ伏せば、二秒と経たずにぐっすりと夢へ包まれそうな疲労感を覚えている。

 しかしここで寝てしまうのはあまりに危険かもしれない。せめて、今後の方針の一つや二つは知っておきたい。自宅なのに、家主だった筈なのに、家のレイアウトに首を傾げるような事態と向き合いたくないのだ、アレは言語化に難しく、どっと疲れるのだ。

 そもそもカイトに何で何も言ってくれなかったのかとか、そういった苦言も、カイトと楽しげに喋る老婆を見ていれば、苦みは薄れていく。

 

「……それから、今日来たのはもう一つ――――贈り物を、持ってきました」

 

 

「チョリーッス」

「おや、懐かしい顔を見た気分だ」

 

 ノックもせず、遠慮のない力加減で、横開きの扉が良い悲鳴を奏でる。交換の刻限が近そうなメロディを奏でていたが、決してたづなさんへ報告はしない。だって怒られるし。

 防塵ゴーグルを装備したタキオンが、珍客を見る目でこちらへ一瞥を寄こし、興味を元の位置へとすぐさま戻す。この部屋へはそれなりの回数を足蹴く通っていたが、確かに最近では珍しい方かもしれない。薬液を混ぜている最中の彼女が、入室するカイトへ意識を一瞬でも移した点からして、よっぽど長いこと此処のコーヒーを飲んでいなかったようだ。

 かくいうこのエイヴィヒカイト、ちょうど理科室の前を通った際に、コーヒーの香りに釣られてやってきた次第なのだった。紅茶派閥のタキオンにしては珍しい心変わりだと思っていれば。

 

「カフェパイセンも、チョリーッス」

「……ちょりっす、です」

 

 その顔を見て、室外の香りもなるほど納得。

 背中をこちらへ向ける形で、絶賛実験中のタキオン。

 その被害を喰らわない距離では、カフェがしずしずと、黒い香りを楽しんでいた。

 

「まあまあ、良い感じのチョリーッス、っすね」

「……? 良い感じちょりっすとは……どんなちょりっすなのですか……?」

「そらぁ、チョリーッスのチョの部分に力を入れて、リーッスは砲丸投げのようにして、チョリーッスなんです。――チョリーッス」

「……ゲシュタルト崩壊、しそうです」

 

 苦々しいカフェの顔をよそに、適当に目へ付いた空のビーカーを手に取り、水道水で丹念に洗い始める。強酸性の薬品を使用後とか、そんな事件はザラなこの部屋だ、丁寧に洗わなければ寿命が少し縮む。

 

「カフェパイセーン、コーヒー淹れてくださーい」

「……はい、是非飲んでいってください。……今日の豆は、ブラジルで採れた……」

「待った待った、うんちくは飲みながら聞きたいっす」

「……それもそうですね」

 

 偶々、偶然、運命のいたずら的な、本当に奇遇なことに、こうしてタキオンと巡り合ったのだ。マッドサイエンティスト、その凶科学の数々には、それはもう振り回されたことだが、彼女から受けた恩は計り知れない。それも現役時代から続く妙な縁でもある、一言くらいの報告はしてやるべきかと、カイトは考える。

 その思考も、カフェがコーヒーメーカーを操作する背中を見て、一瞬留まりかけたが。

 

「――まあいっか、カフェ先輩だし、口硬いでしょ」

「カフェが居ると不都合な話でもしたかったのかい?」

「……席を、外しましょうか……?」

「いいや全然、カフェ先輩なら無問題」

 

 意を決することは無い、そういう間柄だ。

 破滅の未来さえ、軽口の一環として投げつけ合える仲だから、誰よりも、気を置かなかった。

 するりと、水が手のひらから零れるような自然さで、端的に言葉は出てきた。

 

「俺、走る」

「――――いつ」

「再来月くらいかな」

「ほう、URAファイナルの決勝か。……君のその、自滅に近い難題へ挑む悪癖――相変わらずだね」

「そっちこそ、相変わらず理解が速くて助かる」

 

 タキオンは、手に持っていた試験管を溢さないように気を付けながら、ケースへと静かに収納した。

 普段なら、そのまま次の工程へ移行するものだろうが、今日は珍しい、そういう日なのだろう、彼女の手はそのまま動くことが無かった。

 何も言わずかと思いきや、少しして、何も作業を起こさない背中を向けたまま。

 

「バカだね」

 

 こんなことを言ってきた。

 至極、彼女からは散々に言われ慣れた言葉。でも、彼女は――少なくともカイトの前では初めて、溜息を吐きながらそう言った。

 表情は、こちらを向いてくれなければ伺えない。

 

「ヘイコラ、失礼すぎ」

「命が惜しくないならバカ、命を惜しんでいるとしてもバカだ。……ああ、元からだったな」

「言いすぎじゃん」

 

 違和感のある様子に、些か調子が狂いそうだったが、畳み掛けるような罵りを喰らってようやくだ。ようやくカイトは、眼前の天才とのやり取りの手応えを思い出していく。

 

「最後にひとっ走り、気合と根性で頑張ってくる」

「……最後、とは……一体どういう……?」

「次のレースで、金輪際走るという行動が不能となる」

 

 すごい、やっぱり頭がいいひととの会話は、とんでもなく楽ちんだ。一を申せば一万くらいを理解してくれて、説明の手間が省けるのだ。

 口下手の気配が拭えないエイヴィヒカイトであるからして、通訳として常にカイトの傍に居てくれないかなこの人とか、思ってしまったりするくらいには頭が良すぎるのだ。

 

「……は、っ……? 走れなっ……!?」

「おお、正解っす」

「そこのバカの走り方なら間違いなく、かつ、避けようがない結末だ。力を抜いて、加減しながらであればまた違うのだろうけど、このバカにそんな匙加減を期待する方がバカだろう?」

「今日のマッド先輩、いつもより口悪くね? なんか機嫌悪い?」

 

 扉か、扉の開け方が悪かったか。後でたづなっちに頭下げてくるので、機嫌を一つ直してくれやしないか。

 

「ふん――――本当に、君のバカさはどうしようもないのだと、今更ながらに実感してね」

「えー……ほらっ、これ見ろっ、この鈍く輝く勝ち組バッヂを見てみやがれっ!!」

「いかなる難関試験に受かったとて、君の場合は『勉強のできないバカ』から『勉強のできるバカ』へシフトチェンジ(移行)しただけだ」

「横に移すな! 世間的には上へランクアップ(昇格)だろうがよ!!」

 

 冗談じみた感じ、要はまさかそんな訳がとテキトーに言ってみただけだ。まさかガチで機嫌が悪かろうなどと。

 機嫌の悪さの流れそのまま、人体実験フルコースを受けさせられそうな、そんな予感がひた走った気がした。気のせいであれよ。

 

「さあほら、コーヒーを淹れろよバカ後輩」

「はぁッ!? このっ……! 散々ッぱらバカにされて誰が淹れてやるかっ、むしろアンタが淹れろよ!! そもそもっ、俺はアンタのコーヒーを飲みに来たんだから!!」

「――――へぇ、ああ、そう? ふーん。……まあ、君が淹れたなら、考えようかな」

「言ったな!? カフェ先輩、次にコーヒーメーカー貸してくれませんっ?」

 

 売り言葉に買い言葉、しかし一方的にヒートアップしていくのは後輩の方だけ。これが、彼女との関係性だ。カリカリさせられて体力は使う、逐一苦言を差し込むものだから精神も披露する、なのに存外、心底から不快になったりなどは、不思議なことに一度もない。

 結局は彼女のまっずいコーヒーを飲んで、クールダウンさせられるのだ。そういう薬品でも混入している可能性は、ちょっと否めない。

 

「……はいどうぞ、使ってください……。……ふふっ」

「何か、笑える要素でもあったかい?」

「ええ……タキオンさんが、一番分かっていそうですが……」

 

 そんなやり取りが、楽しいと感じている自分は、まあ。

 

「……おいバカ、……バカイト君」

「んだよ」

()()()()()()は?」

「無い」

「――――なら良し」

 

 

「URAファイナルはこう、電光掲示板をお前らの名前で総なめにしてぇー、そんでぇー――――」

「メンツ的に……いいえ、やれる、今の私達なら……!!」

 

 ちょっとしたワールドクラスの連中を蹴散らし、無敗全勝で、見事アオハル杯を勝ち取った実績は大きい。周りからの目が変わるだけでなく、本人達の意識改革にも繋がっているのだ。手放しに、『強くなった』と言える。

 

 ――――俺の名前を一番上に飾ってやるんですけどねぇー、見てろよマジで。

 

 とか、口から出そうになってしまうのはご愛敬。キングの意気込みが想像以上で助けられた形だ、流石はキング、御褒美を進呈しましょう。

 

「これあげる」

「海老天蕎麦からエビを差し出す……!? ……カイト、何か悩みがあるのなら相談に乗りましょうか……?」

「オカンってば大袈裟さね」

 

 まるでメンタルが病んでいるかのような物言いはやめるのだ。カイトは単に、ちょっとした親切心を一時的に宿しただけなのだ。

 

「でもいいのかしら」

「? 何が」

「予選も準決勝も出ていないのに、いきなり決勝へ進んでしまうだなんて……ズルをしたみたいな感じがします」

「シード枠みたいなもん。全勝を張り続けた褒美みたいなもん。後は()()()()()()メンバー調整。これ全部やよいちゃんの曰く付き。だから気にするな」

 

 グラスは真面目だなぁ、とか、そんな話では無いのだろう。近道はせず、真っ向から薙ぎ倒さんと進むのがグラスだ。走れる機会を損失したような気分はどうにも、最後の決勝で出し切って欲しいともやよいちゃんは申していた。

 特にグラスのようなタイプは、溜め込んだ鬱憤を上手く吐き出せるタイプ、と、思いたいが。しかし気合の淹れ過ぎで、案外空回りもしそうでもあるが、さて。

 

「……メンバー調整……ふーん……」

「んだコラその目は」

「……ううん、なんでも無いデス」

 

 エルはずっとこうだ。いつからなのか、アオハル杯の半ばあたりからなのか、思わせぶりな雰囲気を醸し出しては、何も言わずに口を紡ぐことが多い。その態度が気になるのはカイトだけではない。スぺもキングもスカイも、もちろんエルと一番仲の良いグラスとて例外じゃない。

 だというのに、詰問しようと一向に口を割る事は無い。グラスが笑顔で――()()()――詰め寄ろうと、汗をだくだくと滲ませても口を割らないのだから、いっそ面倒なまでだ。

 

「最近のお前……こう、なに? なんなの?」

「えっ、べっ、別に何も無いですけどど……?」

「言いたげな感じがクソウザいんだけど」

「このっ、言うに事欠いてッッ!!」

 

 エルが怒りに任せて手に持った赤い筒、その悍ましい内容物が、和風一直線な味わいな蕎麦の中へ目掛けて照射される。筒のラベルの髑髏が、その無情さを物語りながらせせら笑っている。

 貴様の蕎麦は、唾棄すべき異形へ成り果てたと、死の赤液は物言わず語っていた。

 エイヴィヒカイトの嫌いな『食べ物を粗末に扱う行為』、その冒涜を誅せよ。例外なく、躊躇も慈悲も恩赦も酌量など、とうに遠く――――

 

「――――――やりやがったなエルテメェゴルァ――――――」

「ち、違いますカイト! これは食べ物を粗末にしている訳じゃありません!! 立派なトッピングです!!」

「量が立派ってレベルじゃないよね~……」

「別の料理になっちゃった」

「……あ、ミネストローネ」

 

 キング命名、デスミネストローネ(具:蕎麦、長ネギ少々、七味適量)には、煮え滾る修羅の形相が見えた――ああ、これは自分の顔だった。さて、それでは、この劇物を処理する気は多少存在しているエイヴィヒカイト。しかし食べ尽くす気はとんとない。目の前に在る赤い池とは真反対なくらい、サラサラサッパリだ。

 そんなに辛いのが好きなら、存分に喰えよ――――溺れるように。

 隣へ座るエルの後頭部を、女子に対する扱いとは思えない程しっかりと掴んだ。掴んだなら? ――取るべき行動は一つ。

 押 し 込 む の だ 。

 

「――――――――」

「無言ッッ、デース!!」

「――――――赤く染まれ(Sei rot)――――――」

「ギャー!! ボソボソで怖いごめんなさい助けてーー!!!!」

 

 鼻先へ痛みの香りが突き刺さる、その瀬戸際で攻防は続く。膂力も落ちてきている今日この頃、本来なら力負けしているであろうこの場面も、ちょっと痛いくらいには踏ん張れば涙を流させられる程度には、力も湧き出てくるのだ。負の感情とはやはり、無限の力の源泉となり得るのだ。

 

「……メンバーと言えば、もう一人が決まりかねているとは、風の噂で聞きました」

「もう一ヶ月切ってるのに、はてさて、誰になることやら~」

「今から決まっても調整に苦労するでしょうし、もう人選自体は決まっているんじゃないのかしらね」

「強い人を見繕うのが難しいんじゃないかな?」

「ほのぼのしてないで助けてくださーい!!」

「――――――溺れとけ(Ertrinken)――――――」

「圧が増したァーーー!?!?」

 

 血液のような水面に、エルの口が触れていく。そうだ、そうれでいい、その咎の池を貴様は黙って啜れコノヤロウ――――!!

 

「けど――――誰が相手でも、私が勝ちます」

「――――ううん、私だよ」

「この私が走る限り、簡単には勝たせないわよ」

「うへぇ~……みんなバチバチだね~――――ま、最後に勝っちゃうのは私なんだけど」

「――――――いい雰囲気だな。誰が負けても恨みっこ無しで行こうな――――――」

「アタシも混ざりたいのにぃ~~!?!?」

 

 ギャイギャイと騒ぎ立てて、真面目に話し合って、たまには火花をぎらつかせて、ぶつけ合ったり励まし合ったり支えあったり、相互に関係を構築して、掛け替えのない時間を共有していく宝石のようなとき。

『友達』の線引きから、一歩、大きく隔てられた『強敵』という境界線へ進む日。かつてともに踏み出し、しかし足踏みを全員で揃えた瞬間は、とうとうこなかった。

 その日が仮に来るとして、彼女達は、喜んでくれるのだろうか――――喜んでくれたなら、どこまでも、嬉しいものだが。

 

 

『……それから、今日来たのはもう一つ――――贈り物を、持ってきました』

 

 贈り物とやらを渡す、その前に。

 前置きを、しずしずと老婆は語る。

 

「――過去より変わった貴方が、現在(いま)を走ろうとすること。それは、貴方にしか分からない苦悩もある事でしょう。迷い、見渡し、どこへ進めばいいのかも、分からなくなることもあるかもしれません」

「……変わった……のかな」

「私ですら一目瞭然なのです、貴方と共に時間を過ごした者なら、それはもう分かりやすいかと」

 

 カイトの隣で、淡い水色の笑顔が、柔く花を開かせた。言わずもがな、言葉にするまでもなく、いっそ微笑ましいくらいに分かりやすいのだろうか。

 

「カイト、貴方は、何の為に走るのですか?」

「……親友。親友の為に、俺は、最後を走りたい」

「それだけじゃないでしょう」

 

 物知り顔のアルダンが、「やれやれ」と今にも言いたげな顔を見せる。

 パッと思いついた理由を述べた。即座に頭へ浮かんだ理由、なら、それだけ素直な気持ちをそのままに出力している。それだけじゃない、など、なぜ言えるのだ。

 

「ずっと見てきたから、カイトが()()()()()()くらい、簡単に見分けられます」

「……、……たのしそうな、顔、ねぇ……そんな顔、俺が……本当に?」

「ええ。……あの人たちと走る未来を想う時は、いつも――――まるで、十年以上も前のような、無邪気な顔を」

 

 誰よりも自分を見てくれたひとが、時の流れを愁う、美しい貌を覗かせた。

 涙が切れそうな程度に、その理解の深さが、嬉しかった。

 

「トレーニングが楽しくてしかたないって顔に出してばっかりで、帰って来た時、いつも機嫌がいいもの」

「……そっ、か」

「走るのが楽しいと口に出したがっているよう。それが私は嬉しいの。……………………妬ましくも、あるけど」

 

 最後に少し膨れるものだから、何というか、しまりが悪いことこの上ない。けれど、ぐうの音も出ないほど、的確に、その言葉はするりとカイトの胸へ入り込む。言い繕うための体の良い言葉など、探そうとも思えなかった。

 それが答えと同義だというのに。

 

「否定はしない」

「肯定は出来る、と」

「うるっへぃなぁ……」

「こういうところがカイトのとっても可愛らしいポイントなのです」

「……今の照れ隠しは、非情に分かりやすいですね」

「うっさいうっさい、俺を虐めてくれるな」

 

 ぐうの音ならいくらでも出せてしまうのが、自分ながらに憎たらしいと申せばいいのか。飛び出るのは、響く手応えの無い憎まれ口ばかりだ。物申せば申すほど、彼女らの笑みは深まっていくばかりだ。

 手を放り投げて、素直な心情を吐露せざるを得ない――――此処でなら、するりと表へ出すことを、自分で許せる気がした。

 

「ああそうですよ、楽しいですよそりゃもう充実してますとも」

「……どうしてカイトは、最後にもう一度、走ろうと思えたの?」

「走りたいから走ってる、最期になっても、後悔はしないって分かる。……痛くても、辛くても、アイツ等と走れたならきっと――――楽しいだろうから、走りたい」

 

 ()()()()へ前向きになろうとする自分――――それを邪魔をし続ける違和感を、殺してくれるともだち。

 過去から足を忍ばせる苛みは、きっと、彼女らと走ることで、今度こそ置き去りに出来るだろう。寒く冷たい季節が追いつけない場所まで、自分達の脚でなら辿り着ける。互いに削った鎬の果てで、悪も善も、何もかもをも超越した無垢の領域へ征けるのではないか、と。

 その瞬間を、ただの一度でも甘受できれば()()()()()()()()()

 

「……過去の知り合いと、諍いがあったとも聞きましたが」

「それは、え、えっとぉ……事実、では……あるんだけど……その、まだ、ぶっちゃけ怖い。過去とは向き合いたくないし、また、()()()()()()と再会した時に耐えられるとも思えない。……――――待て待て待て! 三人ともその顔やめろ!! 頼むから大事にしてくれるな!!」

 

 己を発端とした余計なトラブルなど、あまつさえそのせいで、周囲の大切な人達の価値が下がるような事態になる事だけは、それだけはまっぴらごめんなのだ。

 

「でも、だからって――――それは、()()()じゃない。前向きに逃げる為の言い訳にだけは、絶対に使いたくない」

 

 情けない逃げ道に使いたいという話など、あるものか。

 進んだ脚の跡を、俯きながら進みたい訳じゃない。エイヴィヒカイトは、隣で己の蹄鉄を打ち鳴らし、記憶へ傷を刻みたいだけなのだ。

 

「心に傷を抱えたままでも、俺は、アイツ等と同じ場所にいたいって思っちゃった」

「むぅ……」

「アイツ等に、憶えていて欲しい。……並び立とうと必死になったバカが居たってことを、ずっと、この先も――――()()()()()()()の通りに」

 

 暗闇の決意。暗黒の覚悟。決死の喜び。仄暗い嘶き。暗雲の懸命。無謀へ投身。全霊の自滅。

 なんだっていい、どうだっていい、なんとでも呼べばいい。負けっぱなしでいられるかこんちくしょう――――せめて、彼女らの記憶の隅を占領してやる。願い得るならば、最後の勝ち逃げという鮮烈な記憶を焼きつけてやる。

 これは、そういう話だ。

 

「心配は、もう要らないようね……」

「うん。……心配ばっかりかけてごめんなさい、お婆ちゃん」

「ッッ、、……で、あれば――――心機一転、屍も同然であった過去(カイト)とは違うと示すべく、それに相応しい装いを仕立てさせました」

「……うん?」

 

 控えていたじいやが、高級さを感じずにはいられない紙袋を差し出してくる。

 袋を開けて見ろと、生暖かい視線で促してくる老人が二名。むず痒いそれに耐えきれる精神性など持ち合わせていない自分は、内心の喜びを抑えきれず、やや急いだ手つきで袋を開けていく。

 袋から出されたそれが服の類だというのは、すぐに分かった。

 ただ、その装飾は、普段使いするようなデザインではなく、然るべき場で着こなすような。

 

「アルダンから聞いたサイズ通りに造らせはしましたが、しかし、実際に着てもらわないことには何とも」

 

 採寸されていた覚えなど、いつの間にやらなのでしょうか。採寸されるような隙など、そりゃ確かにいっぱいありましたよなぁと。

 たった一度へ向けた、ただの一度しか使われないであろう、この一着。数カ月も満たないうちに一回、一走、一分ちょっとの刹那の為に作ってくれた、願いの一着。前のは、込められた願いを、それはもう穢してしまったから。

 今度こそは、自分へ向けての祈りを無碍にはしない。

 感じる暖かさが欺瞞であると、恣意的に感じたがる自分にはもうなりたくない。

 

「カイトの新しい勝負服……ッ!! 完成していたのですね……っ、はやく着替えてきてカイト!!」

「なんで俺より嬉しそうに……まぁ、いいか」

 

 着る気など更々、この場で着飾るなど気恥ずかしいにも程がある。第一、相応しき場でなければ場違いにも程がある。そういった程度の程々で、まるで小学生の入学式みたく、新品のランドセルを振り翳せるお年頃でも無いのである。

 ――なのだが、如何せん、こちらを見つめる三つの視線はどうにもカイトを急かしたてるような。

 

「……え、今この場で着る流れなのマジ?」

「勿論。その為に足を運んだのですから」

「カイト早く、早く見せて、ね? ね?」

「ではお坊ちゃま、十数年ぶりにお着替えを手伝わさせていただきましょうかな」

「ワタクシってば、そこまで子供じゃなくなっちまったのですけども!?」

 

 

「……ただいまー」

 

 この言葉を清んだ心で口に出来るのは、自分の家以外なら、ドイツにある従姉の実家と、この家くらいしかないと言うべきか。それとも、「ただいま」と言える家が一つだけに留まらない自分は、やはり度を越した幸せ者なのだろう。いざという時に逃げられる場所があるのは、心に一抹の安堵を保ってくれるのだから。

 現に今の自分は、アルダンと共有する時間とも別の、されど同等規模の多幸感で溢れていた。

 

「はい、おかえり」

 

 自分によく似た顔立ち――ああ、逆だ。自分が彼女に似ているのだと、顔を見るたびに嬉しくなる。

 髪の色は、漆黒をまぶした自分とは打って変わって、薄茶色に明るく目立ち、耳の色彩も同様に違う。端正に整った耳の形は、自分の棘々しいものとは違う。

 そんな彼女が、カイトの被る帽子を手に取り、隠されていたギザ耳を、労わるように撫ぜる。エイヴィヒカイトはくすぐったそうに身をよじるも、本気で嫌がる様子は見せようとはしない。かなり、いや相当に気恥ずかしそうだが、そんな様子さえ愉しげに、黒い艶のある髪を好き勝手に撫で繰り回す。

 

「ふいー、歩くのつかれたー」

「長旅お疲れ様。疲れてるようなら、今日は寝ちゃう?」

「ううん、お腹減った」

 

 カイトの嗅覚は、既にその香りを捉えている。鍋か、いいやカレーか、それとも――――とにかく、香辛料が香るのは間違いないのだ。

 玄関先で気が付いてしまえば、意識の矛先はそちらへ向きっぱなしだ。

 

「せっかく作ってくれたんでしょ? なら、食べたい」

「あらあら、嬉しいことを言ってくれるのね~」

「ふっ、俺ってばかなりの親孝行者なのよねー」

「親孝行者なら、怪我をしてまで走らないと思うのだけどね~」

「……ま、まあまあ、うん、価値観は人それぞれってことにしてだねー……」

 

 笑っていない笑顔、まさか母親からも喰らうことになろうとは。アルダンからならどうしてか、ちょっぴりの嬉しさもあるのだが、母親となれば恐ろしさしかない。

 

「それで……、……脚の調子は、どう……?」

「悪い。めっちゃ悪いしめっちゃ痛い、笑えるくらいに悪化してる」

 

 一歩踏み出せば鋭痛、二歩目の痛みを無視すれば、五歩目くらいには捩じ切れんとする激痛。車に乗れればとは幾度と思うが、理性を押し退ける拒絶反応はどうしようもない。治療に専念すれば、短距離を歩くくらいなら問題ない程まで納まるらしいが、当の本人がこのザマだ。治療の選択肢など頭に無いわ、より強く負荷を掛けんと頑張るわと、最悪、歩行もままならない可能性も視野に入れておけとは主治医の言。

 それを見守ろうとは、自分なら気が気でない。止めようと躍起になるだろう。自覚している辺りがホント、どうしようもない。

 

「でも、やりきる。最後のチャンスに、納得を手に入れてみせる」

「……走りたくないなら、そう言ってもいいのよ」

 

 困ったように笑いながら、面と向かって、生きた声で、慮った意見を届けてくれる。止めたがっているのを、言葉の節々から感じ取る。一度は喪い掛けた存在だからか、誰からも何度とて受けた気遣いも、その嬉しさはひとしおだ。

 それら全てをおじゃんにする。最低なことに、慣れ切ったいつもではあった。

 ――――けれど、後ろ向きに、下を向きながら前進していたこれまでとは違う。

 

「ううん、俺が走りたいから走るんだ」

「……そう――――なら、後悔の無いようにね」

「うんっ」

 

 笑い合い、少し遅めの昼餉でも、その微笑みが事切れることはなかった。

 今度は、本当の光の方角へ向けて、しっかりと目の前を見据えて、地平線を進んでいる確信が胸を弾ませているから。

 

「んで医者さんってばさ、まるで俺が大怪我をしてるみたいな言い草でさぁ、参っちまうぜまったくもう」

「あららぁ? ――――違うの?」

「違いません、ええ、ははうえさまの言う通りですね、はい」

 

 怒られたってなんのその。そのやり取りは、とってもとっても親子らしいのだ。

 そう、如何に注意されようとも萎縮と身震いその他各種しか感じ取らず、エイヴィヒカイトは前へ向けて進んでいるのでした――――!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吸った息が、鋭かった。

 ――取り込んだ空気の鋭さは、胸中の燻りに溶かされて――

 吐いた息は、熱かった。

 パドック、その場で観衆の感情を受け止めて、少し驚く。経験が何もかも、すっぽり抜け落ちたかのような新鮮さを、今の自分は受け取っている。――よくよく考えれば、あの頃の自分は、それこそ回りなどに目をさほど向けていなかったのだから当たり前か。あの頃は本当に酷いなんてものじゃない、対戦相手への礼儀など投げ捨て、さも当然のような顔で周りの夢を踏み砕いていた。意気揚々としていたならともかく、さしてレースを楽しもうともせず、義務のような姿勢で臨み、清く美しいレースという概念へ泥を塗りたくろうとしていた。

 今ではこうして、自分へ集まる視線の数々をつぶさに観察する余裕もある。――どうせ、そんなものに気などやる余裕も消えるだろうが。

 ――手持無沙汰に、つむじを少し掻いた。普段なら触れる帽子は、今は無い。鼻頭の重たさは消えて、視界に移る景色は、裸眼を直接包み込むレンズ越しに、鮮明を視神経へ押し付ける。眼鏡も、帽子も、ターフを走るとある王には不要なものだ。あれらを付けているのなら、走らないことの証明だから、その後の未来へ預けてきた。

 

「おー、おー、……驚いてら」

 

 何一つ隠すことの無い、ありのままの五体に力が満ちていく。全身へ、活力が回っている。末端が、中枢からの命令を待ち侘びて、今か今かと、その瞬間を乞い願うように――――だいたいは、大嘘だ。

 力なんて欠けている。活力なんて、不足しているモノをどう回せと。末端の精度など、脚先の痺れを思えば期待などできようもない。

 頭が痛い、くらくらする。脚が痛い、ふらふらする。胸が痛い――――いいや、胸は、痛くなどない。――熱い、そうだ、熱いのだ。我慢ができない暑さだった。今は夏かと思うような、不自然な体温を自覚している。頬が火照り、顔を塞ぐ己の掌が、ひんやりと冷たく死人のように感じられるくらい、熱が芯から伝播を始めている。

 四肢に力は籠めづらい。思考の回転数は普遍的そのもの。特段、極限まで尖れた()()()()を感じている訳でも無いのに。

 不可思議に、身体は熱を発している。

 

「コンディション、『不調』……最の悪にも程がある~♪」

 

 ()()()という意味では、未熟にも程がある。自分とてトレーナー業務の一端を知っているだけに、己がどこまで落ちぶれたのか。見守ってくれたトレーナーには、恥じる想いでいっぱいだった。手伝ってくれた先輩には、みっともない姿を見せつけてしまい、情けなさでもうたくさんだ。こんな状態で走るものなら、転倒なんかのアクシデントも引き寄せやすいのだと、素人でも分かりそうなものだ。

 脚先からは、どうしても痺れが拭えない。動かせば痛いし、動かさなくてもオマケで痛む。冗談じゃない大きさの波が、常に虎視眈々と、自分の精神力へ爪を立てようと目論んでいる、これは事実だ。どうしようもない本当の事だ。

 血の気が、額から失せて、眩暈が止まらない。緊張とは違う原因からくる息切れが、日夜止まらず、風邪をひいている訳でも無い今で尚、止まらない。最悪だ、どこまでもあり得ない状況だ、最悪中の最悪の状況下のど真ん中を、自分は走り抜けようとしていた。どうしよう、自分がまるでバカみたいだ、というよりもバカそのものか、治したいのに治せない不治の病の一つか。

 天気は良い。転機としてはこれ以上ない。舞台は最高潮。かつての目的を抱いて消えるのなら、絶好の状況と舞台だ――――そう嘯く自分も、強く自覚している。

 

「……――――知るか(nach vorne)

 

 でも大丈夫なのだ。

 自分の安否など、取るに足らない。

 散り際の舞台など、何だってかまわない。

 何かの弾みで死のうが、何かの幸運で生きようが、どっちでもいい。

 どうでもいい、どうでもいいのだ、なんだっていいのだ、何もかもがどうでもいいのだ。ほら、だんだんと、概ねの不安要素も、核となり得る期待因子も、どうでもよくなってくる。

 発端となる理由と掲げた言い訳の二つか三つも、どうでも良くなってくる。

 殆どが胸の裡で霞消えていく中、望みとしてただ一つ輪郭を残しているのは、願いのような色のモノ。

 

「、い」

 

 周囲から送られてくるのは歓声、というよりも、驚愕の色が大きい。()()()()と、その驚きか。影も形も無かった傲慢な王が、表へと姿を顕した戦慄か。

 スピカの姿が見えた。スカーレットは、大きく口をあんぐりと開けて、しかし喜びに満ちた笑みを深めてくれている、出来た後輩だ。ウオッカは、一瞬ポカンとしたが、次の瞬間にはガッツポーズを男前に示してくれた、微笑みでも返そうか。ゴールドシップはどこで前情報を知っていたのか、ニヒルに口角を曲げて得意げに、でも、目尻にひとしずく、何かが見えたような気もした。キタサンは驚きと嬉し気を混ぜた笑みを浮かべて、強くその存在の名を呼びあげ、その来訪を祝福してくれていた。

 ダイヤは、被れば耳の隠れる人間用の黒い帽子を手に握り、ただじっと、熱い双眸でその威光を見上げていた。

 生意気を言われるのが嫌いじゃなかった後輩が、口を抑えてはしゃぎたてていた。普段はぬぼーっとしている親戚が、今のひと時は目を見開いて、飛び跳ねていた。

 トレーナーが、眩しそうに、けれど決して目を伏せることなく、バカの無茶を最後の時まで見守っていてくれるだろう。いかなる結末がやってこようと、目を覆いたくなる悲惨だろうと、悲願を遂げた果てであろうと、その目を閉じることなく、見届けてくれると信じている。

 優しさに囲まれて、幸せなのだと自覚をして、周りへ自慢して回りたくなる。どうですか、異なる産まれであれど、自分はこんなにも生を謳歌していますと。周囲の優しさを懇切丁寧に解説して回って、そのどれもが自分の宝物なんですと、声高らかに歌い上げたい。

 その全部を――――――――どうでもいいと、一蹴した。

 

「――、たい」

 

 見える、聞こえる、ざわめく中には、それでも確かな歓びを以て受け入れてくれる声も聞こえてくる。その声には覚えなどなく、知り合いのとは違う響きが――今の今まで、見て見ぬフリをしていた声援だろうか。

 そういった声を受け入れられる自分へ代わっていったというのに、何とも皮肉な話だが、どうでもいいのだ。

 気にならない。

 

「――――ちたい」

 

 乾いた笑いが、内側から突発的に込み上がってくる。楽しい訳じゃない――まだ()()()()()とは向き合っていない。

 なのに、笑えと、笑っておけと、笑ってしまうのが正解だと分かるのだ。

 戻ってきたと、誰しもへ宣言するように。

 されど以前とは違うのだと、その期待を嘲笑うように。

 これは決して、()()()()()()のだ。前と同じモノが、前と同じままに戻って来た訳じゃないのだ。

 これは、生誕。

 レースを楽しむ魔王が、この世界へと生誕したその日。

 最初で最後――――永劫の鬨を、俺は静かに叫ぶ。

 

「――――勝ちたい――――」

 

 未踏領域(勝利を求める心)の果てだけを、エイヴィヒカイトは見据えている。

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