未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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『新種にだけ効力を発揮する時間停止スイッチ、いるかい?』

 ――――以下、暫くは求める者達が殺到するメッセージで埋まってその後。

『欲しけりゃくれてあげるとも。探せ! 彼の手の中に全てを置いてきた……』

 以下、ザックリとした使用法を載せた後、偽りの目撃情報が飛び交いブラフ戦へと化す。
 世はまさに、dieカイ賊時代。


こんな日々があるのかも
ダイヤモンドは焦がされて


「〜〜♪ ……えへへっ♫」

 

 とても気分の良い一日だった。

 首に回された金属製の感触は、とっても心地の良い感情を生み出し続ける。

 誕生日に何か欲しい物はあるのかとなんとなしに聞かれて、その機を逃さず我欲を全面に出せたのは渾身のファインプレーだった。色んな人の目に着いて、そのネックレスについて聞かれるたびに、誰からの贈り物なのかを説明するたび、高揚と多幸感に包まれる。

 スピカの先輩方は軒並み苦笑いだったが気にすることはない。彼の平坦ではない道のりを見届けた彼女らだからこそ、それに対する気不味さやバツの悪さを感じるのだろうが、それはそれでこれはこれ。

 キタちゃんが羨ましそうに見ていた事実には、普段なら見逃さなかったが今の期間はどうでもいいや。

 

「ふふっ……♪ でへへ〜〜〜♡」

 

 どうでもよくなるほどの幸福が、私の顔をだらしなくとろけさせる。

 憧れの人からの贈り物。それもただ渡されるだけでなく、ちょっとしたサプライズの体を成したプレゼント。

 

『ま、聞いただけなんだけど』

『え?』

『アルダンへのプレゼント選びの参考にさせてもらおうかと』

『…………  え゛゛  ゛ ?゛   ? 」

 

 思わず全身が飛び上がるほど嬉しかったのに、急転直下でドン底へ叩き込むその一言が、どれだけの深い絶望を産み落とすのか知らないのか。この後を思えば、もしくは知ってて言ったのかも知れない。実は寮に帰ってから、少しだけ泣きそうになった事は誰も知らない。

 この件の記憶がまんまと薄れた一週間後。

 思わせぶりな素振りは、ビタ一文見せることなくその時は唐突に降り注いだ。

 

『ダイヤー』

『はい?』

『ヘイパス』

『へ? っととっ! ……これって?』

 

 消しゴムを貸すかのような気楽さで、フワリと投げ渡された少し長い箱。

 細やかな手触りの良いベルベット生地は箱を包んで、シックな高級さを指先に伝える。

 戸惑った私が顔を見上げて、不意に突き刺さる一言。

 

『誕生日おめでとう、サトノダイヤモンド 』

『……………………ふぇ』

 

 もう、ムリだった。忘れ去られていたと思ったり、そもそも期待もしていなかった分の反動で、込み上がる情動は過去最大規模だったり。

 落として上げる手法が上手すぎる。飴と鞭の使い分け方が器用で、こんな事が続くようなら私はどんどんダメになっていくし、だんだん心だって今以上に惹かれていく。

 もしやこのまま彼の元で精進を続けていけば、この手のイベントが少なくともあと二回は発生するのだろうか。年一だとすれば最低二回も期待できるのか。幸せか。

 

「ダイヤモンドを贈られちゃった…………♡」

 

 決して安い買い物ではないだろうソレには、彼からの想いをこれでもかと感じる。温度を感じない貴金属から、自分の体温よりも安心する温もりが広がる幻覚。ここ暫くはまともな生活が送れそうにないと自己判断を下す。純情な乙女に何をしてくれたのだ。

 ところで、ダイヤモンドを贈ることの意味。

 ところで、ネックレスを女性へ贈ることの意味。

 その二つを兼ね備えたプレゼントの意味。

 間違いない。舞い上がっちゃってますね私。勘違いだとしても、勘を違えたまま受け取ってしまえる。それくらい今が幸多き時間なのだから。

 

「……〜〜♪ ……あっ、カイトさん……!?」

「よっす、機嫌良さそうだな」

「それはもうっ! ……カイトさんのおかげですから」

「ふーん?」

 

 そんな私がとんでもない代物を手にしてしまった。

 今はすっごい嬉しい。喜ばしい。幸せと言い尽くせないくらい幸せだ。もっともっと欲しくなるくらい、この幸せは癖になる味がした。

 それを踏まえて。

 横恋慕をしている自覚のある(でも不思議と諦めとかの概念は浮かばない)私が、今現在の感情値のままにそれを手に取るのは、あまりよろしくないのかもしれない。

 

「あ……そっっっ、それがっっ!?」

「えっ、いや別になんでもないから、触らないでね」

 

 目敏く見つけたのはグループLANEで話題沸騰中の、とある一つのスイッチ。

 情報提供元は発明者本人である。

 

「……ちょっとだけ、借りても……」

「いやいや危険物だから、なんでもないから、触らないでね」

「…………ああっ、メジロアルダン先輩がっ!?」

「ッ!! どうしたっ」

「今です!」

「あっ」

 

 幸福とは善良だけを生み出せるほど融通のきく感情ではない。時としてそれは、悪的行動へと後押しする事だってあるのだ。

 普段は良い子で心掛けて、嫌われないように振る舞っている自分も、今日ぐらいはちょっと悪いダイヤになってしまう。しかし悪辣とは程遠いこの感情は、むしろ好いているが故なのだと少しの言い訳。

 今回はそう言った話。

 

 

「フゥン……やはり私は天才か」

「呼び出して開口一番に自画自賛だと……? 忙殺されかねない社会人を捕まえた割にはいい度胸してますね」

「ハッ」

 

 鼻で一笑に付される。別に呼ばれることに対しての嫌悪感等は無いし、口で言うほど怒り等も湧いてはいない。けれどどうしてか、鼻で笑われるとこめかみがこう、ピキッと、ね? ふわっと付け添えた一動作だけで、霊長の血圧とはみるみるうちに高められていくものなのであります。

 

「四の五の言ってられるのも今のうちさ」

「はぁ……で? 突然なんで呼び出して……」

「刮目しておけよ新種モルモット」

 

 ああどうしよう、俄然見たくなくなってきた。やる気を損なう呼称ランキング上位に余裕で食い込む呼び方やめろ。

 目の前のマッド先輩がカイトをそう呼ぶ際は、往々にして何かしらの実験台としてテストされる事が多い。もしくは()()()()()事が多い。前者ならこちらの意思表示をひとつまみ程受け取ってくれるが、後者ならせめて前もって許可は取ってくれと切に願う。事後報告で『君の身体を弄らせてもらった』はゾッとしないのだ。

 さて、此度はどちらだ。

 

「こいつをどう思う?」

「むっ…………うん、すごい、こう……スイッチです……」

 

 投げ渡されたのはどう見てもスイッチ。

 間違えようないスイッチである。ナースコールのような、親指で押すタイプのスイッチである。形としてはアレにコードがついていないと考えれば、誰しもが想像しやすい形だろう。

 

「やれやれ、いつになっても不肖の後輩だね」

 

 なんだその節穴を見つけたとでも言わんばかりの顔は。嬉々としているのが余計に腹立つ。

 

「視力が落ちたのも納得だ。そうも節穴では衰えていく一方だろうよ」

「うーむ、ぶっとばしたい」

「口だけ暴力的なのは一見すれば悪印象、しかし本心ではちっとも実行に移す気がないのは君の良いところだ」

「人はそれを口が悪いって罵るんですよ」

 

 外見も内見も、口調も心も優しいのが一番なのだ。自分が優しいかどうかは別の話。

 ともあれこの女は、堂々と口で言いやがりました。馬鹿にされるのもやむなしな関係性ではあるが、とりあえず後程に焼き芋でも作ろうか。マックイーンとスペあたりにも声をかけておこう。

 よく燃えそうな書類()に目をつけていけば溜飲はみるみる内に引き潮となっていく。ストレスとの付き合い方が上手い今日この頃であった。

 

「…………んで?」

「押してみたま」

 

 言い切る前にポチリとな。

 御託を並べるよりも行動である。言われるがまま親指を押し込めば、カチリと心地よい手応えが伝わる。

 

「? 何してんすか」

「――――」

「……先輩?」

 

『押してみたまえ』の『みたま()』で口の形は固定されて、促すような手の形もピクリとも動かない。

 まるでそう、時が止まったような。

 

「たっ、タキオン先輩?」

 

 うんともすんとも言い返さない。まばたきもしない。呼吸で上下する胸元も無い。訝しむような声色は、加速度的に心配の色へと切り替わっていく。

 手の中にあったスイッチを放り投げて、彼女の元へ駆け寄った。

 

「――え。っと?」

「先輩!」

「おっ、おおっと、近いよカイト君」

 

 元に戻ったタキオンは、珍しく動揺を含んだ動作でカイトを引き剥がす。

 

「マジで大丈夫ですか?」

「この通りピンピンしているとも」

「……その、ようですね…………よかった」

 

 何てことないと言うように、ひらりと肩をすくめる動作は確かにアグネスタキオンの常時でもある。ついでにその人を食ったような嘲面も健在。

 一先ずは何事も無いようで一安心。

 

「んで、説明は?」

「考察する前に種明かしか?」

「すっごく考えたけどさっぱり分からん」

「ああ、バカだものな」

 

 そういった問題では無い気がする。

 

「そうだな、名称はまだ未定だが……」

「……」

「敢えて付けるのなら、疑似的時間渡航体験機だ」

「…………なるほど」

 

 分からん。さっぱりと。これっぽちも。完全無欠に分からない。

 

「対象の脳波に割り込んで、脳を通じて全身の感覚を一時的に堰き止め、まるで数秒数分数時間後の世界へと飛ばされるような疑似体験ができる代物さ」

「……??」

 

 疑問を浮かべながら、先輩がスイッチを拾い上げる姿を見送る。

 ザックリとした説明を受ければ、なるほど要は個人への時間停止現象を疑似的に再現させる装置なのだろう。とんでもない代物の割には、その小さすぎるスイッチの外観はあまりにもしょぼい。もっと仰々しく、メカメカしくても良かったんじゃないだろうか。

 しかしやはり分からない。装置の構造等ではない。門外にも程がある専門外だ、興味を抱かない現在では聞く気も無い。

 

「な、なんだってそんな、トンデモなヒミツ道具を……?」

「暇だったから、ついね」

「つい!? 『つい』でそんなサイコでマッドなブツを!!??」

 

 遠隔で脳を、全身の感覚を奪う発明品だ。世が世なら賞賛されて、更なる発展性を求められていたような恐ろしき発明だ。しかし現代では倫理観に阻まれると思うが、まあこの先輩ならなーとか思わなかったり。

 道を外すのに躊躇はしない類の生き物だと思ってはいたが、こんなふとした弾みのような気軽さで、そんな世界観でもないのに作り出してしまうなんて。ここは絶望の瀬戸際にある世紀末世界ではないのだから、狂科学な思想は無用の長物なのですよ。

 

「ほら、プレゼントだ」

「要らねぇ……俺の人生には明らかな不要物ランキング上位ですよ……!」

「身近な存在で効力を試すと良い。……例えば、君のフィアンセや教え子なんかも」

「実験台にはさせねぇよ?!」

「面白そうなのに……」

 

 振り回されて実被害も被っている今までだ、彼女らはもう振り回させたくないというか、ギャグみたいな発明に振り回されるのはカイトだけで十分なのだ。

 

「とにかくソレはあげるよ」

「えぇ……?」

「捨てるもよし。使うもよし。君の自由にしてくれ」

「いや使わんし、絶対捨てるし」

 

 仮に使うとしても用途が考え付かない。ナニに使えば正解なのか、知っているならむしろ教えろ。

 

「要件はそれだけさ」

「く、くだらねぇ……」

「来週には経過報告をくれると嬉しいね」

「はぁ……まぁ捨てるんですけど」

 

 とんでもないスイッチを受け取らされてしまったものだ。悪用にも善用にでも、どちらにも使える恐ろしきブツ。廃棄するにせよ場所を選ぶ必要もある。

 ひたすらに厄介なコイツの扱いを決めあぐねながら、とりあえずはこの場を後にした。

 

 

 ――――ダイヤと鉢合わせたのはそんな矢先。

 

「――――れ? ……?」

「……フゥ……フゥーッ…………んくッッ……!」

「? ……えっと、ダイヤ? どうした」

 

 指の背を咥えて、何かしらの衝動を堪えるような表情は、怪しく火照って平常ではないと伝わってくる。声を掛けても、誘惑を振り解くように首を振り回すだけだ。よくよく見れば額からは汗が滲んで、前髪が張り付きやはり尋常ではない。そんなに興奮するような出来事があったかと言われれば――カイトは首を捻る

 記憶の接続がおかしな挙動をした気がする。鉢合わせて早々にスイッチを見られて、貸して欲しいと言われて、それでアルダンが何とかと言われて――――。

 

「……ありゃ? そういや……あれっ??」

「フゥーーッッ……ふぅっくっっ…………ど、どうか、しましたか……?」

「え、いやダイヤだろ」

 

 見るほどにどうかしている。動揺の象徴みたいなリアクションをして、私は冷静ですと言われても信じられるか。

 

「……具合が悪いなら寮まで送ろうか?」

「け結構っ、です、!!」

「お、おう」

 

 強く拒絶されて割とショック。けれど本人がそう言うのならそうなのだろう。あまり触れないことにした。

 

「ところで俺さ、今なんか持ってなかった?」

「ぜっ全然っっ!」

「……手のひらサイズのスイッチなんだけど」

「私は何も見ていませんっ!」

「…………そうか」

 

 必死な声は普段とテンポが僅かにズレた声色。まばたきは妙に忙しい。耳の動きも落ち着かず、尻尾の振られ方もこれまた忙しない。

 怪しさマックス。後ろ手に何かを隠している気配も相まって尚更訝しい。

 けれどまあ、ダイヤが何も知らないのならそうなのだ。嘘吐かれた事もない信頼もある。暴走することは多々あれども、性根からして徹頭徹尾良い娘な面しか知らない。疑うのも可哀想だし、カイトも身内へ疑惑を向けるのは好かない。

 深掘りするのはやめてあげよう。

 

「どっかで落としたか……邪魔して悪かった。それじゃあまた後でな」

「ぁ……邪魔だなんてそんな……――――そう言えば、部室でそれらしきものを見たような……」

「えっ、部室?」

 

 理科準備室からここまでの道中で寄ったかなと思い返すが、脳内は不可思議な暗雲が立ち込めてよく思い出せない。疲れでも溜まっているのだろうか。

 

「大事なものなんですよねっ! なら早く行きましょう!」

「うん。……うん?」

「善は急げとも言います! ほらっ、ねっ?」

「……それもそうか」

「えっ…………そうですよっ!!」

 

 ――――可愛いくらいにチョロい。

 言葉にしない声が聞こえたような、聴こえなかったような。

 誘蛾灯のようにふらりふらりと、流され体質な男は連れて行かれる。

『でもちょっと待ってほしい。まさかあのダイヤがそんな事するなんて思わなかったし、そもそも魔を刺させた女郎が一番悪いんじゃないか』とかとか、年下と身内に甘い男は後に焼き土下座の体制で語るらしいが、その顛末はこれからであり――――――――

 

 カチリっ。

 部室に二人で入り、扉を閉めた瞬間。

 プラスチックの弾ける小さな音が耳に届きかけた。

 

「え――」

「…………ごめんなさいカイトさん」

 

 ――――この件が判明するのも割と先だったりする。

 

 

 なんて――恐ろしい一品だ。

 

「カイ、トさん……?」

「――――」

「……っ」

 

 逸っては掛かる猛りを捩じ伏せて、カイトさんを椅子へと座らせるためにその手を引いた。されるがまま無防備に手を引かれる姿を見て、なんか、こう、形容し難いサイケデリックな感情がゾクゾクと背筋を震わせた。

 思考力に抵抗力。その他諸々霊長が待ち合わせる一切の力を無に帰して、棒立ちの人形としてしまうその背徳感。

 尊厳の悉くを剥奪して、その身を好き勝手にしてしまえる愉悦から端を発する優越感。

 悪用しか用途が思い付かないのは、元々が邪な願望で埋め尽くされていたから――――そう指摘されれば否定もできないくらい、ダイヤはこの状況を悦んでいた。

 

「っっっ……ふぅ……」

「――――」

「……焦ってはダメ……まずはどこまでアリなのか、確かめないと」

 

 製作者への個別メッセージを送れば、秒と経たない内に返信はやってくる。

 曰く、『実質的な疑似体験をさせるだけであり、本物の時間停止等ではない』と。これは知っている。先程廊下で思わず使って抱きついた際に、しっかりとカイトから呼吸の音がしたことから、流石にそんなSFじみた代物ではない事は簡単に把握できていた。

 曰く、『命令等はできない』と。謂わば全感覚を一時的に絶っているに等しく、マインドコントロールなどとは別物なのだとか。つまり生きた人形とすることしかできないらしい。説明から滲み出るサイコホラー感だが、今は至極どうでもいい。

 曰く、――この点が自分にとっては一番大事だった――『記憶には残らない』と。感覚を閉ざす故に、肉体が覚えたりも精神が記憶したりも無い。

 

『安心安全に堪能しなよ、運の良い当選者』

「…………なるほど」

 

 最後にカイトと親しい者達へ、虚偽の目撃情報を送って携帯をしまう。ここでポイントなのは、偽りが混迷を極めるグループではなく、敢えて個別で飛ばすこと。協力的な姿勢を見せつつ、見せかけの信憑性も上がる。

 これでこの部室も、当分は二人きりだ。

 そう、二人きり。邪魔する者はどこにもいない。その実感が湧いてくれば。

 耐え切れるラインは容易く超える。

 怪我をさせないように、けれども勢いはどうしたって付いてしまう。

 その胸元へ、一も二もなく飛び込んだ。

 

「っっ!! カイトさん……!!」

 

 物言わぬとも、自分よりも大きな男の身体は、少女でしかないダイヤを受け止めて見せた。

 それがどうしても歓喜を呼び起こして、芯が震える。

 

「すぅっ、はぁっ……カイトさんっ……カイトさん! ん……はぁっ」

「――――」

 

 あっ、だめ。情緒が呼吸を混乱させた。

 なので生理的行動に出ます。生き物としてとっても自然な行動です。

 まずは彼の上に座った。椅子に座る彼へ横座りになって、顔をシャツへと潜り込ませるように押し付ける。皺になるくらい強く、はしたないくらい雑に押し付ける。

 深く鼻で息を吸って、自分の空気を吐き出す。カイトの匂いで呼吸をして、ダイヤの二酸化炭素で室内を満たす。

 ウマ娘の持つ人間離れした肺活量を、これまでの人生史上最大限に活かした瞬間だった。

 

「っっっすぅーーーーーーーーーーーーーーーっ………………はふぅ……」

「――――」

 

 鼻腔を通して肺を満たす空気が、どうしてこんなにも暖かい。落ち着くための深呼吸なのに、吸えば吸うほど頭はゆるゆるとほだされていく。

 これまではあくまでさりげなく、誰にも悟られないように近づいていた。本人はおろかその周囲にも気取られる事なく、ゆっくりと距離を詰めていっていたのだ。

 いつしか身内と認識してくれていたと気づいた時は、それはもうたまらなく、感情を消化し切るのに一ヶ月は必要だった。

 それでも焦る事なく、一歩ずつ、着実に、周りへはこの熱情が漏れぬように。

 

「……ぁぁ…………あたまが、ふわふわ、って……」

「――――」

「カイト、さんのせいです……私に、あんな走りを魅せ付けたからぁ……」

 

 表情の抜け落ちた無機質な顔も、それも彼のモノだと思えば愛おしさしか受け取れない。私自身の手でこうも人形然とさせたのだと実感すれば、狂的で痒いような愛熱が丹田部で膨らんでくる。

 偶然触れるのではない。必要事項の過程で事務的に触れ合うのとも違う。

 自らの欲に従って、思うがままに彼へと触れられることの、なんら幸福なことか。

 

「……太い指……私のとはちがう……大きくて、頼り甲斐のある…………あったかい手」

 

 ごつごつとしたそれを自分の頬に当てれば、不思議と全てを委ねてしまいたくなる引力を感じた。

 ――――選抜戦で勝った時、色んなトレーナーさん方に囲まれる中で、私が考えていたのはずっとその後のこと。

 ほぼ初対面の人達へ軽い挨拶を終えて、私の走りを見守ってくれていたはずの姿を探せども、見回せども黒帽子の目印は見つかることが無かった。

 落胆は無い。一つの約束が胸を縛って、余韻に浸る間も無く私を急かしていた。

 

『お疲れ様。選抜戦勝利、おめでとうさん』

 

 慈愛と親愛に満ちて、温もりだけを溜め込んだ微笑みはいつだって心の中心に在り続けている。

 例えばマックイーンさんは星のような憧れ。

 手が届くかどうかは夢物語。けれども技術を磨き、努力を絶やさず、研鑽を積み重ねれば夢への挑戦の道は開ける。そんな、望遠鏡で星を見上げる子供のような憧れ。

 例えばカイトさんは――――太陽のような暴威。

 手を届かせれば自分はオカシクなる。手を掠めている今ですら充分オカシイ。きっと技術を磨き、努力を絶やさず、研鑽を積み重ねても一吹きの息吹で消し炭となるような、あまりに暴力的な威光。そんな、誤って太陽を望遠鏡で見上げてしまったような。

 

「……すんすんっ……すぅーーっっ、ふぅーー……」

「――――」

「すぅー……はぁー……っ! ……これ、ダメになっちゃぅ…………」

 

 強すぎる光が網膜を通して全部を焼いてくれたような、破滅的な憧れ。

 ――は盲目とも言うが、これは実に至言だ。

 強烈で破滅的な光源を愛するのなら、盲目でいることが一番良い。苦しむことなくその存在を愛せる。煩わしさを感じることなく触れることができるのだから。

 他の人達も、多分同じ。

 

「……あぁ……これ、絶対にカイトさんから……イケナイ成分でてりゅぅ〜……」

 

 鮮烈なその背中からは黒白の輝きが灯って、輝きに惹かれた原石は焼かれてしまった。

 破滅を想起する、心が軋むほどに恐ろしいくも暖かい光。大きく燦然と輝くのに、深淵を思わせる暗がりを内に秘めている。秘められた空洞に吸い寄せられて、より深みへとハマっていくのだ。

 退廃へ向かって突き進む背中に、妖しい光を見た者はみんな囚われる。虜となる。いつしかその光は価値観を焼いて、彼へ対する最適化を成すのだ。

 走りに魅せられなくとも、彼に火傷を刻み込まれて絡め取られた者も多いだろう。

 彼の手を誘導して、ダイヤの臍へと当てさせた。

 

「ぅ、ぁ――っだ、」

 

 火照り切った身体は熱くて、彼の手はいっそう冷やかにすら感じられる。くすぐったくて、ざわめくような情動が湧き上がってしまいそうだ。

 戦慄するくらいの歓悦を、理性はどうにか説き伏せる。

 脊髄をなぞられるような快感を、穴だらけの理性はどうにか抑え切った。

 

「っ、だめっ…………まだ、だめ」

「――――」

 

 まだ時間が足りていない。その先へ進むには、もっと絆を育んでから。

 でないと全てがご破産だ。ここまで培った時間も、ここまで得られた信頼も、悉くをひっくり返してしまう。

 行き着きたい先を思えば、感情のままに動くのはなんて勿体無いのだろう。

 

「っ…………せめて……ずっと、こうしていたいだけなのに……」

 

 肌に感じる36.5°の熱。健康的なリズムを奏でる鼓動。指でなぞって分かる鎖骨の形。血流を流れる振動は彼の生命を直に感じさせてくれる。五感で受け取れる彼の情報全てが、ダイヤの呼吸を早く高まらせていく。

 一番でなくても構わない。彼が選んだのは自分ではないから、彼の一番にはなれない。その席は、他ならぬ彼自身が他者へ譲ろうとはしないだろう。意識的にも無意識的にも、正直なところ口惜しくもあるがそこは奪い取れないだろう。

 しかし天上の存在にすら思える彼に触れていられるのなら、それだけで幸福過ぎるのだ。

 

「光が、太陽(アナタ)がいなければ――――宝石(ダイヤモンド)は輝けないから」

 

 二番でも三番でも、彼のヒカリを浴びていられるのなら。

 きっと私は、ダイヤは、サトノダイヤモンドはなんだってする。

 

 

『――――テストでもなんでもやりましょう。……いやぁ、大した課題じゃなくて良かったぁ……』

『あのメジロマックイーンを大したことがないとは……随分と自信がおありのようだ』

『いや、アイツが弱いって話じゃないんですけど……むしろアホみたいに強いし……強すぎるし……』

『では何故?』

『そりゃ……元より心中する覚悟ですし?』

 

 彼は、あっけらかんと言い放ちました。

 林檎は木から落ちるのだと疑わないように。夜は明けて朝が来ると知っているように。

 まるで、それが自明の理なのだと常識を語るように。

 

『ようは信じてるってだけです』

『……眼に適わなければトレーナーの資格を破却することを忘れていませんか?』

『それ込みですよ』

 

 自分の全てを託してくれると、当たり前のように言ってくれました。

 

『俺の全てを賭けていいって――――アイツらの他に――――思える娘でしたから』

 

 気丈な雰囲気を深めて、強く笑った。

 声色は軽薄な響き、でも確かな信頼と決意の秘められたその言葉が嬉しくて、ずっと胸の内に突き刺さっては勇気をくれていた。

 激動の三年間を駆け抜ける、何よりの導だったのでした。




・脱法指定薬モドキ野郎
 なんか気づけば夕方だった。なんで?
 なんか気づけばダイヤもいなかった。なんで?
 なんか気づけばアルダンが不機嫌だった。ななっ、なんでぇ?
 なんか気づけば逃げられない状況下だった(三年目)。ななっなっ、なんでっででえぇえぇぇぇ???!!!!!

・中毒者(新参)
 あの幸せ成分を知らない自分にはもう戻れないし、むしろ深みへ一直線。
 猫吸いなる文化と大体同じであると、後年に彼女はそう主張した。その際にバカは焼き土下座の運命を辿ることになるのだった。
 時折堪能しては、マッドでサイコな先輩にメンテナンスと改修を頼むことになる。

・中毒者(古参)
 む……なんか他の娘の匂い……?(最初の引っ掛かり)
 む……なんかジャケットから他の娘の匂いが……教え子ならしょうがない。(一年目の妥協)
 む……なんかジャケットとシャツから他の娘の匂いが……教え子ならしょうがない……?(二年目の訝しみ)
 む……なんかジャケットとシャツと帽子とズボンとネクタイから他の娘の匂いが……教え子ならしょうがな………………うふふ…………説明してね?(三年目の暗黒)

・まっどさいえんてぃすと
 実はバカだけでなく他者にも有効。バカが悪用したらそれはそれで面白そうだなと思っていた。結局はバカ専用手軽廃人製造装置(狂気の沙汰)となったのだった。


しかし短い
やる気あんのか?
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