未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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今度デアリングタクトに会いにいきます

エルフィンステークスのような差し脚を見せてくれ。
あの感動に更に倍増しした、復活の狼煙を見せてくれ。


【ファン】主役を飾るのは【感謝祭】

「まって……! それはっ、そのお金は……」

 

 この場にもはや用は無いと言わんばかりに、立ち去ろうとする足へと華奢な細腕がしがみつく。懸命な表情で、精一杯の勇気を使い尽くしての抗議。

 ケアの滞った髪を振り乱し、涙を堪えながら懇願する姿勢には、かつての深窓然とした令嬢の面影など褪せて見る影もない。

 

「家賃なのっ……っ、それを使ったらっ、住めなく……!」

「うるせぇ……増やすからいいだろう、がっ!!」

「きゃっ?!」

 

 しがみついた上身ごと、雑多の小石のように蹴られる。

 痩せて軽石のように浮き上がる身体を、飛ばすにはさほどの力は要らない。四畳と僅かしか無い小さな部屋の中では、少し押されるだけで壁へ衝突するのに時間は要らない。

 背中をしたたかにぶつけて、絡まった呼吸を正そうと咳き込む女。

 息を整えるために丸まった背中は、男の目からは普段よりも小さく見えた。

 

「……けほっ」

「っ、……チッ」

「ぁ……まっ、まって……あなたっ!」

「……んだよ」

 

 ギロリ、と。決定的に間違えたとしても、誤っても自分の伴侶へ向けてはならない眼光が、気の強い訳ではない女を怯えさせる。

 これ以上邪魔をするなら、もっと痛い目を見たいのだと判断する。男の目は、静かに冷たくそう語っていた。

 

「っ……! ……ぁ、そ、ぁのっ、かっかえりっ、は……いつっ?」

「お前が知っても意味ねぇだろ」

「でっ、でも……ごはんっ、作ってあげたい、です……」

「……外で食ってくる」

 

 言えば、恐れの色は哀しみと絶望に混ざって消えた。

 

「……え? ……ぁ、と……その、……だれ、と………で?」

「別に」

 

 一人で食べるつもりだったが、それを告げる気分でもない。

 肯定も否定もしないものだから、勝手な勘違いを引き起こす。

 

「っ! まさかっ、女の人……!?」

「……だからっ、お前には関係無いだろうが!!!!」

「っ、ひっ!?」

 

 騒ぎ立てる気配を読み取って、手に取れる場所にあった灰皿を荒く掴み、壁に向かって殴り付ける。

 ドッ、と。布をバットで叩いたのに良く似た鈍い音。

 効率良く脅すのに、音は何よりも使い勝手が良い。特に物が壊れる音は、精神のドコカを削ってより一層効果がある。

 小さな穴が増えた壁は、女の気をより萎縮させる。

 

「ごめ、っ、ごめんっ、なさっっ、い」

「……」

「ごめんなさっ、い……! ごめんなさいっ、ごめん、なっ、さい! もうっ、聞かないからっ、、お金もっ、私が、っいくらでも、用意するから、っっだだか、ら……!」

「…………ハァ……」

「っ!! 許してっ、ください……! ごめんなさい、許して、、おねがいします……っ、ゆるしてくださいっっっ、、、、だから…………!」

 

 暴力への怯えではない。

 恐喝への震えではない。

 懇願は、謝罪は、恩赦を求めて涙を流すのは、ただ一つを怖れていたから。

 知ったことではないと、空いた穴を見つめて落ち着けば、やはり足は外へと向き直す。

 

「…………先に食って寝てろ」

「ぁ――――ゃっ、やだっ……、ぃゃ…………!」

 

 煩わしさが圧倒的。

 投げ出したい。放り投げたい。煩い。いなくなりたい。

 そういった混濁の澱を吐き出すために、早く外へ出たい。

 這いつくばって、立ち上がる気力も奪われた女から、一刻も早く目を背けたい。

 

「まって、あなた……っやだ、やだやだやだやだっ、おねがいまって、行かないで!」

 

 子供みたく乱れて叫ぶ姿は、あまりに痛々しい。

 かかとの潰れたスニーカーをサンダルのように履いて、男は部屋の外の日差しを浴びる。

 爽やかに感じる余韻など、とうの昔へ置き去りにした。生き物へ暖かさを届ける光から得られるのは、陰鬱と幽愁の色をした世界の彩りだけ。

 この霞は、果たしていつから目を曇らせたままなのだろう。

 

「――――すてないで」

「…………」

 

 懇願に優しく返す言葉など今更存在しない。背中の無言だけを、無理矢理に受け取らせて部屋を後にする。

 玄関を閉める間際に見えたのは、置いてかれないかどうかだけを案じていた翡翠の宝石。男は不安と恐怖で曇りきったその瞳が、何よりも嫌いだった。

 日課となった道を歩く。酒屋までの道を辿り、店で安酒を一日分買う。そこからは気分次第だ。競輪でも競艇でもなんでも。日課の遊びには変わらないのだから。

 そう、変わらない。何一つ変わらない。

 惨めさを自覚する毎日。伴侶へ恐怖を渡す毎日。過去への後悔と現在への悔恨が募る毎日。無気力で無感動で、無価値で無意味な毎日。

 寄り添わせた女一人でさえ自由にする度胸も、捨て去る勇気も持てない、無力が苛み蝕む毎日。

 

「…………っくそっっっ……!」

 

 発泡酒を一息で飲み干して、粘ついた苛立ちを飲み干せば、やってくるのは救いの酩酊。その初期段階として、大気の感触はふわりふわりと、意識は現実味から音もなく剥がれていく。

 されど、しこりとなった胸中の棘は、どうやっても取り除けない。

 残り滓となった苛立ちを吐き出すように、握り潰した空の缶を電信柱へと投げつける。柱の根元には、同じくらいの腕力で潰された缶が集まってまばらに捨てられていて、全く同じものがまた一つ追加された。

 日差しを見上げれば、眼孔へと突き刺さる光の切先が、断罪の刃ように神々しく映る。

 映るだけで、何も起こらない。何一つ起こせない。自死の勇気一欠片も起こせない。

 男にとって一つも変わらない日常が、始まった。

 

 

「主人公は夢を追いかけていたけど挫折して、酒やらギャンブルやらにのめり込んで、けどそんな自分を嫌悪していて、けれどどうしても飲んだくれて遊び呆ける毎日から抜け出せないロクデナシ」

「……」

 

 まだ何も言うまい。

 

「そんな落ちぶれた男に延々と寄り添う、イイトコ生まれで昔からの幼馴染の妻」

「……」

 

 まだ言ってたまるものか。

 

「この人は自分がいないとダメなんだと支えて、尚且つこの人の優しいところを知ってるのは私だけなんだとも思い込んで、修正不可能なまでのズブズブな共依存の沼へ沈ませようとする女。……ある意味毒女ってやつか」

「…………」

「夫が少しでも前を向こうとすると、『私をこうしたのは貴方なのに、貴方だけが前を向くの?』と言わんばかりに堕落させてこようとする妻。逃げ出そうにも逃げ道を見出せないで、凄惨へと堕ちていく自覚が纏わりつく毎日に嫌気が差し、けれど妻を放り投げるには単に『情が移った』の一言では表せない執着を抱く夫」

「…………」

「自分が壊した妻への罪悪感と情。堕落の末路へ自分と共に歩みを進める夫へ、仄暗い悦楽とドス黒い情愛を覚える妻。そんな夫妻の物語にしようと思ってんだ」

「………………これってR15の予定だよな」

「全年齢」

「幅広ーいっっ!!」

 

 正気か? ああそうか、狂気か。

『一年生になったら』と、そう未来の希望を謳う歌謡曲があっただろう。日本で真っ当に義務教育期間を過ごしていれば、十中八九で耳にするアレだ。未来への展望に期待が高まるあの歌を口ずさまんとする者達もやってくるのだが、夢と希望と綺麗な何かで溢れる年齢にすら達していない、いたいけ真っ盛りな少年少女へナニをお送りするつもりなのだろう。

 鬼か悪魔か、それらと同義語のナニカが頭に詰まっているのだろう。南無は違う。アーメンと言えばいいのかな。今すぐゴルシから出ていきたまえ。え? ナニもいないんですって? そんなバカな。

 

「PTAが恐ろしくないのか……」

「んだよ、こんくらいドラマでだってやってんぞ」

「お前が言いたいのは月9だろうが、この濃度は昼ドラじゃん。のびのびとした成長過程を求められる年頃には悪影響間違いなしだ」

 

 子供に優しくが絶対のモットー、とまでは言わない。けれど年下にはなるべく優しくがモットーなカイトだ。大事な部分を捻じ曲げかねない破壊力を持つこの台本を、意味不明な技術力を持ったゴールドシップの主導でお披露目などしてはならない。これが意義を申し立てたい一つ目の理由。

 

「なんだっておめでたい日に向けて、おめでたくない映画を撮らなきゃならないんだ。却下だよ却下。まともなシナリオに書き直せ」

「あにをー!? 主演に据えてやったんだからワガママ言うな!」

「それ込みで大きな不満点だっつってんの!!」

 

 意義を申し立てたい二つ目の理由はこれだ。

 ――主演、エイヴィヒカイト。わあすごい、とっても嬉しくない。いつぞやの仮想世界で巻き込まれたロールプレイを思い出せば、忌避の二文字が強く主張を止められない。演じるということそのものに対して、幾分かの拒絶感も拭えない。

 とっても大事で致命的な事実をここに述べる。

 

「適してないだろ。それこそ他の……あっ! トレーナーとかどうなんだ?」

「無理だ」

「そっか無理か」

 

 にべもないならしょうがない。トレーナーを贄に捧げるのは諦めよう。

 

「演技とか恥ずいし、つーか俺ってそれなりの大根だし。何より役柄がマズイし」

「……ははーん? さてはお前そういうことか」

 

 意味不明なスペックを誇る彼女は、察しもそれなりにきく。言わずと理解してくれたようだ。

 

「今の脚本の内容じゃ満足できないってことだろ?」

「違くないけど、俺が出たくないってことだな?」

「アタシも気付かされたぜ……エイヴォンの詩人を超えるくらいの超大作でなけりゃ出る気が湧かないなんてな…………ったくよぉ! 感化されちまったじゃねぇか、この上昇志向の塊め!」

「そのヘッドギアはあれか、反対意見はことごとく肯定に変換されるのか」

 

 もしかしてコレは叩き割っても良いのかなと、此奴に出会ってから通算で五百を超える疑問の数。

 打てば響くツーカーの流れで、されども全く会話内容が前に進まない。ゴルシからすればど真ん中なのだろうが、申し訳ない事にこちとら普遍的でどこまでも普通な感性を持った新種なのである。余人から見れば斜め上と呼べる方向性への跳躍で全霊を賭けている珍種に着いて行けるのは、バカと紙一重な同種以外居ないのだろう。ある種の孤独、お疲れ様である。

 

「と、ここまでは半分冗談だとしてだ」

「半分……?」

「妻の役はスズカかマックちゃんのどっちかだけどよ、二人が不満か?」

「な訳」

 

 合ってはいると思う。ザックリとした内容を眺める限り、『育ちの良い物腰』に『幸薄な雰囲気』のどちらかを必要とする役柄だろう。スピカで条件に当て嵌まる存在を改めて考えてみる。

 スペは持ち前の明るさが強すぎる。ウオッカは男勝りな印象に、スカーレットは勝気な明活さが。テイオーは求められる役柄と比べて、キャラの印象が合致させるには些か童顔だ。キタサンはスペと同じ理由である。ゴルシは論の外へ立たせておこう、監督やる気満々だし。

 対してスズカは幸薄という点ではスピカでピカイチだろう。儚げで抱き締めれば手折れそうに脆弱を思わせる一見は、なるほど確かにダウナーな役を演じるにもってこいだ。マックイーンは何故だろう、没落令嬢の四文字が異様に似合う。四畳半で貧乏な暮らしをしても、不思議と違和感なく、具の少なめな味噌汁を掬う、明るい背中が容易に想像可能だ。

 

「念押ししとくけど二人に不満は無いよ。問題を抱えてるのは俺」

「ああ! お前銀幕アレルギーだったのか!」

 

 はい無視。これもゴルシとの付き合いでは必要なコミュニケーション力の真髄。

 

「多分怒られるんだよ」

「は? 誰に?」

「………………言わなきゃダメ?」

「……あっ、あー、そうかそうか…………んだよ惚気かよ」

「言い淀んだ意図を汲み取れ奇人……!」

 

 きっと汲み取った上で敢えて言っている。間違いない。こういう性格なのだ。

 

「……婚姻ってか、その、夫婦とか、そんな関係にはアイツ()一定の憧れがある。だから仮に演技だとしても、俺だけその役割をやるのは、多分、怒ってくれる」

「怒って()()()、ねぇ……」

「……文句あんのかよ」

「べっつに?」

 

 うわ腹立つ。

 

「大丈夫だろ」

「根拠」

「この夫な、後々に出てくる夫の元教え子に奪われるんだよ」

「空虚な根拠をドヤ顔で出すのやめろ」

「妻とは違って明るく振る舞ってくれる元教え子に、心の底から知らず知らずの内に惹かれていって…………」

「溶解度九十%脚本やめろ!」

 

 本になったら少しだけ読んでみたいと思ったのは内緒。だって人間関係が拗れたフィクションほど、休日の消費にもってこいな娯楽はない。

 

「なあ、人って腹に刃物が刺さるとどれくらいでポックリなんだ?」

「……失血が主な原因だから、箇所による。あと刃渡りのサイズ。とにかく内臓に傷が入ったらマッハで血が出てくるから、ホントに箇所次第で生存率は変わる」

 

 ガリガリガリガリと、ボールペンを唸らせるゴルシ先生。

 余計なことをしている予感しかしない。

 

「ふーん……なら複数箇所に喰らったらかなり危ないんだな」

「……なんで聞いたの?」

「この主人公を危機一髪状態にしてやろうかなと」

「サスペンスなのかー……重めのラブコメかと勘違いしちゃったなー……」

 

 遠い目であらぬ未来を探す。え、マジで? 本気でカイトはコレに参加するんです?

 方向転換させないとこっぴどく怒られるなぁと、それはそれで嬉しくもあるなぁと、甘々な思案は糖分色のオーラを大気と混ぜていく。

 

「おはようございま――あっ、カイトくん!」

「ん、おはよスペ」

「朝からこっちに来るなんて珍しいね」

 

 この場所でスペの挨拶を聞くのは、数ヶ月前のはずなのに、つい昨日まで聞いていたような錯覚。

 そうでもないと反射で返しそうになるが、そう言えばカイトはもうスピカではないのだった。とはいえズブズブの関係ではある。スピカの部室に馴染みすぎて、たまに自分のトレーナー室と間違えるくらいには馴染んでしまっていた。

 

「そら、今度の祭りは合同でやるって話だったろ。……つっても実質全員スピカなんだけど」

「そっか。当分はこっちに寄るの?」

「ダイヤもキタサンと一緒にいれたら喜ぶだろうし、そうしようかな」

 

 様々な問題(ゴルシ多数)が積み重なるが、準備段階での動乱もまた、醍醐味の一つなのだろう。

 学生とは違った立場で見るなら、また違った楽しみも見つかるといいな。

 

 

 雨の日だから、部屋干しの匂いが室内に広がる。その中心地で、懸命に乾いた服を皺なく畳む女。そんな女を、窓を眺めるフリをして観察する男。二十半ばの二人きりの夫婦だと言うのに、不思議なくらいに色気のない時間だった。

 使い古されているのは、使い古すしかなかったから。何処かの誰かの所為で、新しく買うだなんて選択肢は生まれる余地が狭い。

 よれよれに萎びたシャツを、丁寧に畳む背中。ありがたいと想っていながらも、感謝よりも罪悪に呑まれるのが先んじる。理不尽に怒鳴ったのはつい先日だというのに、気に留めた様子が無い――――こともなかった。

 機嫌を損ねないように、一挙手の気配を感じ取ろうとして。一投足の動きを見逃さないように、常に意識は此方へ向けていた。

 いつものこと。普段通り。

 そんな日常が痛々しくて、これ以上見据える苦痛には耐えられなくて、解放の手引きとなればと決心したのだ。

 

「……話が、ある」

 

 か細い声だったように思える。けれど意識はこちらへ向いていたからか、女の顔はゆっくりとこちらへ向き、手に持っていたシャツをそそくさと畳んで、こちらへと向き直る。

 傷み切った男物のシャツなど、腹いせに捨ててもいいのに。切り刻んだって構わないのに、長く使えるようにと健気に補修を繰り返し、使い古されたそれをいつまでも大事に扱う神経が、未だに理解できなかった。

 そう、理解ができないのだ。

 

「はい……どうしたの? ……お金なら……もう少しだけ、待っててくれますか……?」

「その話じゃない。……大事な話」

 

 手に持った一枚を、二人の間に挟まれた机に置く。

 少し触れただけで脚が揺れるような、限界近くまでガタのきている代物。けれど負担など一切かけない、紙でできたその一通。

 

「これ」

「……封筒?」

「中身、見てくれ」

「はい。…………――――――――ぇ?」

 

 緑の公的書類。

 幸せの象徴である赤色ではなく、関係の決壊を意味する緑色。

 淡々としたフォントで、男の意思を示す一枚の紙。

 

「……離婚、してくれ」

「――そ」

 

 ――――きっとお二人は一度離れた方がいいです。それも徹底的じゃないと効果ありませんよ!

 半端に距離を取ったところで意味が見出せるほど簡単な問題では無い。頷ける話だ。故に何処までも、決裂すら覚悟の上で離れるべきだと、そう言ってもらえた。

 彼女にそんなつもりはない。善意だけで相談に乗って、善意を以って解決の光明へ続く案を提示してくれたのだ。本当に、彼女は優しいだけだった。

 渡りに船だと、内心でひそかに喜ぶのは、自分だけ。

 ああいや――女も喜んでくれるだろうか。

 

「これ以上一緒にいても、その、互いに良くない……分かるだろ?」

「ん――な――――ぃ」

 

 何故か男を責めない女に甘えている自分がいた。深みへと沈む自覚もあった。

 この先に進めば、不幸な闇色しか待っていないと示唆をする夢を幾度も見た。

 

「俺はお前を傷つけるし、このままだともっと取り返しのつかない事になるかもしれない……だから――」

 

 だからその前に、人としての矜持を僅かでも示せる内に、失墜するだけの人生に巻き込んでしまったこの被害者は、どうにかしてでも解き放ってやらねばならないと。

 

「――――――――だからその前に、離婚?」

 

 ――――思い込んでいた。

 

「アナタの、望む女に……なろうと頑張ってきたの」

「なに、を……?」

 

 学生時代の話かと。

 

「アナタの発散相手として相応しく怯えられるようになったの」

 

 即座に違うと分かった。

 けれども、女が何を言おうとしているのかは、男には分からない。

 

「お金の工面も料理の腕も。髪型もそう。喋り方もそう。服装もそう」

 

 相互の理解がズレている。

 男はてっきり、女を憐れみの対象としか認識していなかった。

 違ったのかもしれない。もしかしたら、男の認識を飛び越えて、この女はもっと――――。

 

「味の好みも、本の嗜好も、好きなテレビも、眠る時間も、起きる時間も、歩幅も、呼吸のリズムも、全部、ぜんぶ、全部全部全部全部全部ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶっっっっっっっ…………アナタの、ためだけに――――――――!!!!」

 

 癇癪、と言うほどには発散の色は薄い。

 では何だ。女は男に何を求めている。

 

「私をこうしたのは、アナタなのに!! アナタのために、私はこうなったのに!!!! なんで今更そんな事を!?? 私はもう……っ! アナタから離れられないのに!! アナタがいないと生きていけなくしたのはアナタなのに!!!!」

 

 言葉は失われて、喉の奥へと隠れて出てこようとしない。

 圧倒されて、意味を紡ぐ言の葉は結び目が緩い。

 

「なのにアナタは私を捨てっっ――――捨てる、の…………?」

 

 激情から一転した、濡れそぼった瞳。

 昔は愛していた翡翠の宝石は澱みを含んで、今の男には愛していると言い切ろうとすれば躊躇が勝る。

 しかし破滅的であれ、宿った美しさに貴賤は無かった。

 皮肉なくらい、手放そうとしていた宝石が、厭な輝きを増していく。

 

「…………そんなん、じゃ、」

「――――いやよ、そんなの」

 

 嫌に静かな声を出す。そのくせ窓を叩く雨に負けずと、耳孔へ直接囁かれるような怖気すら感じる。

 

「捨てないでお願い」

「……違う、捨てるなんて、そんなこと……こと、は」

「わたし、に――――」

 

 ないと、断言がどうしてもできない。

 男の迷いは、当然のように女に見つかる。

 本気の度合いを感じたのだろうか。身も蓋も取り繕わない、剥き出しの感情の羅列が始まった。

 

「――――私に、出来ることならなんでもしますから。気が済むまで殴っていい。いつもなら無意識のうちに加減しちゃうけど、優しさなんて忘れて、骨が軋んでも殴り続けていいから。それでも気が済まなければ、もっと酷いことをしてもいいの。火傷でも切り傷でも、それでアナタの気が済むなら私を痛めつけて。恐いこともいっぱいして。なんだって耐えてみせますから。いつもみたいに、ギリギリのところで耐えて、アナタの溜飲を下げてあげます。だから、なんでもしていいから――――――――」

「お、落ち着け……っ」

「やだ、やだやだやだやだ、いやっ、やなのっっ、だめなのっ……もう、わたしひとりじゃ、いきてはいけないの……っっ! だから……っ、だからぁ――――」

「ひっ」

 

 好きだった。愛していた。澄み切った瞳が女の気質を示しているようで、眺めて見つめ合うことが、何よりも幸せの自覚剤だった。

 いつからだろう。翡翠の瞳が嫌いになったのは――――空恐ろしく感じるようになったのは、いつ頃から始まっていたのだろう。

 

「――――――――  ――捨  てな い で」

「ぅ――――あぁぁ!?!?」

 

 恐怖の耐久値は、既に振り切れていた。

 

「まって いかないで  おいて、いかないで   つれていって    ――――  すて  な い  で」

 

 清らかに感じられていた美しい声も。

 今では率先して耳を塞ぎたくなる呻き声でしかない。

 女の全てが、男は恐ろしかった。

 

 

 公園は、夜が深まるほど人気は失せていく。雨が降ったら尚更だ。

 そんな物好きしか来ないであろうタイミングで、たまたま二人の影が公園内へ入り込む。

 

「あったあった……ああっ、売り切れてる……」

 

 ()()()()轟々と降りしきる雨に晒されながら、お目当ての自販機へ到着する。

 その少女――と言うには愛らしさは美しさへと変わった風貌。

 ベンチから少し離れた先にどこか見覚えがある人影を、幾千幾万の水の粒が遮る視界で見つける。オマケに声にも聞き覚えがある。ような気がした。

 

「…………居た」

「……………………」

 

 近づいてくる足取りには迷いがない。なら男の予想は当たり。

 走ってきたのだろう、片手に持ったビニール傘は一部がひしゃげそうになって、安物の本懐をこれでもかと遂げようとしている。

 

「……風邪引いちゃいますよ、先生」

「……帰れ、夜遅いぞ。こんな時間まで、何を……」

 

 何をしているのかなどと、男がそれを言えた立場だろうか。

 縛り付けていた自分から解き放つこともままならず、女の心を微塵も理解できておらず、あまつさえ理解不能な大きな情から逃げ出した自分には、誰かへ意見する権利など有りはしない。

 

「心配してくれるのは嬉しいですけど、そんな顔をしてる先生を放って行ったら、私が心配し過ぎて風邪を引いちゃいます」

「……いいから、帰れ」

 

 孤独は人を殺す始まりの毒。知ってはあれども、甘くも感じる孤の毒には、今だけ浸って抗いたくない。

 いっそこの数瞬の間に風邪を拗らせて、三秒後には死していれるのならどれほど楽なのか。自死を選ぶ者達がいる理由を、男はこの瞬間に理解できた。

 

「…………先生、家まで送ってくれませんか?」

「……?」

 

 まだ帰ってなかったのかと、目つきを尖らせて注意をしようと思ったが、どうしても体は動かない。気力と呼べる底は空っぽだ。

 ただ、自棄の象徴を体現するのが現在の男なら、そんな哀れを見兼ねる優しさの体現は()()にもそばに居た。

 

「だって、暗い夜に女の子を一人で帰らせるのは危ないんでしょう?」

「…………」

 

 昔、面倒を見ていた頃の名残が浮き上がってきた。

 絡まりほつれて乱れ尽くした思考を整理するには、丁度良い時間潰しかもしれない。

 

「ほら、行きましょう先生」

「……ああ」

 

 手を引かれて、半ば無理矢理に傘の中へと誘拐されてしまう。

 淑やかな少女然としたくせに、妙に押しが強いのは相変わらずだなと。

 失意の底で落ちぶれていたハズなのに、ふと、自然な笑みがこぼれた。

 

 

「…………カイトさん、キャスティングについては何か聞いてますか?」

「奥さんの役にスズカ先輩かマックイーン据えるつもりだってさ。……ゴルシに言えば、多分ダイヤなら候補に入れてくれると思うぞ」

「むむむむ……うーん……」

 

 令嬢だし、イメージの問題はクリアしている。ところでカイトが気になったのは、何だって興味を抱いた瞳をしているんだい。もしかして出たいのか。この昼ドラサスペンスにか。マジでか。

 

「ちなみに……――夫役は一体……?」

「残念なことに俺らしい」

「――――なるほど」

「なるほど?」

 

 なんでも女心は秋の茜色やら夕暮れ色やらと、千差万別気まぐれござれを極めた空模様なようで。もうカイトはとうの昔に理解を諦めたのでござる。とある女性一人にだけ寄り添って生きていけば、女心ならど知らなくても問題ない――――って言い切りたい人生でした。タスケテ。ダレカ、タスケテ。

 直近で起こってしまったグラスとのあれこれ。じわじわと心象領域を侵略していくベルちゃんとのあれこれ。頭を抱えてばかりの日々が続く今年は厄日か? しかし厄と申すには男としての役得もある。しかししかして、諸手を振って手放しに喜ぶにも、ガラス色のお嬢がこわくてにっちもさっちもいかないぜ。

 

「……私も出ます」

「や、嫌だったら裏方でもいいんだぞ。無理することないぞ」

「この……夫役の人の、元教え子役に立候補したいです!」

「え゛」

 

 まっっっずい。今からでも遅くはない。止めよう。つーか逃げよう。エアグルにリークして、催し事態も頓挫させなければ命がまずい。

 

「台本を読む限り…………うん、やっぱり私、この役やりたいです!」

「チャレンジ精神の無駄遣いかな〜? いいんだぞ、根性をこんな無駄な場面で爆発させなくても良いんだぞ?」

「あれれ、カイトさん?」

 

 半分諦めつつも、物は試しで止めようと模索はしてみる。してみるけど結果は爆炎を見るより明確なのだった。

 興味津々意気揚々と、好奇心が形を成したお嬢様がサトノダイヤモンド。こうなったら止めるのは野暮でしか無い。

 

「何か、私がこの役をやって不都合なことでもありましたか?」

「えっっっ? ……っスゥーーー……いやー、無いかなぁ〜?」

「ならよかったです。一緒に頑張りましょうねカイトさんっ」

「えっ、えっえっ、えっっ??」

 

 わあいふっしぎぃー。カイトも参加するのも確定してたよ。

 抵抗は無意味というか、そもする気が起こらないが正確なところ。

 カイトはダイヤに対して、その、こう、甘い。なんでもマックイーンやウララなどといった対象とも、また別な甘やかし方をしているらしい。曰く、とあるお嬢談。

 その所為か否かは不明だがダイヤの話題を出すと、カイトの婚約者は怪訝な顔をする。敵愾心も顕現させる。嫉妬心を爆発してくれる。大体は食卓でバカがポロッと話題に出すが、その度に空気は冷え切って、就寝時には熱々な折檻が待っている。最近では敢えて狙って話題を射出するバカもいるらしいが、心底は寝屋の中だ。

 

「大丈夫です」

「何が?」

「私たちが演じれば、きっとハッピーエンド間違いなしですよ」

「そっかぁ」

「私の両親も見に来るそうなので、頑張りましょうね」

「そっかぁ………………え、なんて?」

 

 何がともあれ、何はともあれ。

 ダイヤが乗り気なら、それでいいかと気を乗り替えた。

 無論トレーニングも並行していくが、合間に両立させるのも彼女の要領の良さならさして問題はあるまい。仮に有るなら、それこそカイトが問題の根ごと排すればよい。

 

「――――ふふふっ」

 

 それでは結末をここに。

 バカがお仕置きされて終わる。この予測は既に予言だ。




阪神競馬場で、僕と握手!!!!!!
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