いいやまだだ。完全復活の嗎は、ジャパンカップでこそ世界へ轟くであろう。
見せてくれ怪物女王。アンタの物語を締めるにゃ、イチバン以外じゃ物足りないってなぁ!!??
そんなかんじの謎テンション
「さあ、とりあえず中に」
「いや……俺は」
「いいからいいから。雨で冷えちゃってますから、シャワー浴びてきてくださいね」
背中を強く押し込まれて、かと思いきや回り込んだ少女は手を強く引く。
細くともしなやかさのある、女性の柔らかな指だ。腕力だけの話なら、振り払うのに然したる労は要らない。けれども今の自分とは比べ物にならないくらい熱の篭ったエネルギーに抗う選択は溶かされて、なすがまま誘われる。
脱衣所まで案内されてから、ふと疑問を覚える。なんというか、あのテンションは数年前にも幾度か見覚えがある。しかし時はそれなりに経ったようで、世間を知らない少女が一人で暮らすのもその証拠。
「着ている服は洗濯機の中に入れておいてください」
「……そんなの、悪いから」
「いいんですっ、なんと言ってもウチの洗濯機は乾燥機能も付属した優れものですから!」
問題点としている部分に相違が見受けられる。これもかの日々に散々感じた感覚。
世間をまだよく知らなかった彼女の感性は、とても澄んでいて、それでいて個性的でかつ洗練された方向性を会得していた。強引に流されるがままなのが、どこか悪くないと感じてしまうのも、彼女の人柄が由なのだろう。
若さだけでは説明のつかない情熱でもって、何事にもいざ挑まんとするその姿勢には、年長である自分にも知らずに元気をもたらしてくれた。だが、その矛先が、何故、如何にして、自分へと向いているのか。
押し込まれてようやく気がつけば、そんな詮無きことを無意味に考えこんで、冷えた体にぶつかるシャワーの熱が、ようやく冷静さを運んでくれた。
「……」
無駄なことばかり浮き上がるポンコツ頭でも、遠慮の二文字は所有していたらしい。
「ダメですよ〜。ちゃんと湯船にも浸かって温まってくださいね」
「…………」
浴びた手前、サッと全身をシャワーノズルで流して、すぐさま浴室の扉へ手が届く前に、扉の向こうから釘が飛び出し男の動きを止める。
目敏いと言うか勘の鋭いと言うかなんというか、お見通しだったようだ。
「先生の着替えはここに置いておきますから、上がる時にちゃんと温まってなかったら私、怒りますよ〜」
「……」
「それとも……直接監視しないとダメですか?」
「…………分かった、観念する。ちゃんと風呂にも浸かる。これでいいだろ」
「――――……ええ、はい。それではお待ちしてますから、先生はごゆっくり」
遠ざかる足音は慎ましく、彼女の育ちの良さを露わにさせる。
話し相手は暫し席を外した。止めていたノズルを少し回して、まとわりつく念を洗い流すように、熱めの湯を顔で受け止める。水に包まれて息が止まり、けれどそんな心地よい不快も途切れ途切れとなって。
「……っ…、…」
思いは募り、懊悩は溜まり、苦しみが沈み落ちる。
自分は家を飛び出して、女を一人ぼっちで置き去りにした。シャワーノズルを少し回す。縋りつこうと泣いていたが、見捨てて外へと逃げ場を求めた。ノズルを掴む手が強くなる。苦しませたのは自分で、苦しむ発端となったのも自分だった。水で滑ってノズルをうまく掴めない。責任に背を向けて、寄り添ってくれた者に安寧を諦めさせたくせして、自分一人だけが安寧を求めている。
シャワーの勢いは、とうに限界まで捻られていた。
「…………ごめん……」
後悔しかない。踏み外した時を思えど、容易く戻る時は無い。
けれど分からない。間違えた地図を見比べど、進んだ道は崩落しているのだとしたら。
謝意を届ける相手はいない。投げ出して逃げ出した醜態を晒したのなら、どうやって挽回の機会など訪れるものか。一人の人生を道連れにして、それも壊滅的に砕いてしまって、許される道など何処ぞに見える。
「………………ごめ……ん」
在りし日の想いを浮かべることすら、罪悪に押し潰されそうだ。
「…………アル、ダ…………っ……」
大切な宝石だった名は、呵責で尖り突き刺さる。
呼んでしまえば、殊更痛い。
「……――――カットカットカットカットカットォォォォォォォっっっっ!!!!!!」
レンズへ向かって(半裸で)吼え立てる、その威迫は獣の如き。
「セリフの途中で止めんなよ!」
「しまいにゃ殴るぞぉ!?」
浴室を貫通する勢いで叫ぶのは、夢破れて落ちぶれた冴えないDVヤロウ――ではない。
嫌々渋々弱みを掲げられ、泣く泣くこの茶番に参加させられることになったエイヴィヒカイトその人である。ちなむとバスタオルの下には、念の為にとしっかり海パンを装備済みだ。男のポロリなど、森羅万象の序列内にて底辺へ当たる事象であるからして、何を如何したって防がねばなるまい。
「ふざけるのも大概にしやがれ狂人が!!」
「一度頷いた話に口出しすんな!!」
「それとこれとは話が別ぅー!!!!」
終始、苦笑いでカメラマンに徹していたスペも、これには思わず引き攣り笑い。照明を担当していたテイオーも、これには思わず面白おかしがる笑いを隠せない。演者候補兼音声を担当していたマックイーンは、激しくかつ鋭さをも伴った視線をカイトへフルに突き刺して、ちょっぴりの身の危険が虫の知らせだがこいつは無視。やめろ目を血走らせるな。
スカーレットもウオッカもどいつもこいつも、ただ一人の例外を除いて見世物として高みから見物している。
痛ましいものを見るように優しい視線を与えてくれるのは、スズカ以外誰もいなかった。相も変わらず悲しくて切ないのね、ぼくたちが生きる世界ってのは(えいゔぃひかいと)。
「演じるのはいいさ! けどな……っ、だからってこれは聞いてない! これはあり得ねえよお前実はドの付く阿呆なんじゃないのか?!」
近くの台本を乱暴に開き、適当な一文を叩いて示す。
正直な話やると決まってしまったならそれはもういいのだ。見る人を楽しませるため、スピカその他の面々との催しを完遂させるため、例え矮小でも持てる限りの演技力でもってカイトのゼンリョクを見せつけるのみ、なのだが――――。
「――なんだって登場人物の名前がアルダンなんだよおおぉぉぉぉ!!!!!」
登場人物に付けられた名称は軒並み『男』や『女』等、抽象的に書かれていたがそれらはフェイクだったのだろうか。
まさか台詞に紛れ込まさせていたなどと、夢にも思うまいて。
「ああ、そういや言い忘れてたけど、主人公の名前はカイトって裏設定だぞ」
「確信犯じゃねぇか……!?」
白状までのスパンが早い。しかも悪びれた様子がこれっぽっちも見て取れない。なんなんだコイツ。しでかした事の大きさを理解していないのか。否っ、理解しているからこそ、悪辣に愉快にやらかせるのかふざけんなよ。
「ったく……どうだスぺ、どの辺まで撮れてる?」
「んっと、カイトくんが呟きかけたところで切れてるよ」
カメラの映像を覗き込む姿は、やり手の敏腕監督って感じだ。そのグラサン外せよ、室内だぞ。
「ならいっか。言葉を絞り出してる方が情緒出るだろ」
「聞けよこら」
「ほいじゃ少しの休憩の後に次のシーン取るぞー」
「次はどこのシーンだったっけ?」
「『少女』に慰められるところ。ちゃんと憶えときなさいよウオッカ」
シャツを着ながら思った、なにその取られたくない絵面。慰められるのはエイヴィヒカイト演じる『カイト』であり、慰めるのはダイヤ演じる『少女』な訳だが、台本をチラッと見れば膝枕やらあすなろ抱きやら書かれているんじゃが。カイトトレーナー演じる『先生』が、ダイヤ演じる『教え子』にあやされるって不味い。とってもマズイ一枚絵だ。
着替えが終わり、脱衣所から顔を出して開口一番静止の声を上げる。
「おい……、おい」
「カイトさんを癒せるように頑張りますねっ!」フンスッ
「なんでお前は上機嫌なの……?」
「お兄様は耳をほぐすと緩みますわよ」
「ああ……カイトくんはやっぱり耳が弱いのね」
「ほうほう、耳ですか! 耳、みみ…………――――そうなんですね」
「あのー、おーい? 誰か聞いてるー?」
「……のくらい……効果…………か………………よしっ」
「おっかしいなー、俺って声大きい方だと思うんだけどなー」
凱旋門に挑むのと欠片も変わらない意気込みはなんなのだろう。あとカイトを癒すのでなく、『カイト』役のカイトを癒せばいいわけである。カイトは癒さなくていいのだ。あれ、どっちだっけこれ。
「キタさんこいつら止めれない?」
「いやぁ、このダイヤちゃんはちょっと……」
「お助けしてくれないのかキタさん」
「……うん、頑張りましょう! 頑張るのを全力でお助けしますから!」
「何事にも一生懸命なのは可愛いんだけどなぁ……」
頑張り屋さんは嫌いではない。キタサンのように表裏が無く、曲がりの無い真っすぐな尊敬を向けられたならもっともっと好きになっちゃう。愛い後輩は最高です。
しかし悲しいかな、可愛いだけで世界をどうにかできるのは、『カワイイ』クラスの可愛さを持ち得る強者だけである。カレンとかとか。でも気持ちは嬉しいから後で頭を撫で繰り回してあげよう。髪の毛わちゃわちゃにしてやるから覚悟しとけよ。
「お前のそーゆーとこ好きだなぁ」
「へ?」
「情に熱くて優しいキタさんのことが好きなんだよね、俺」
「……、へ、ふぇ、っぇ……?」
キタサンは自分の担当ではないが、スピカとはズブズブの関係な今、目を掛けてやりたい後輩なのは確かだ。教え子とは少し違うが、単に目下の子だからか、キタサン元来の人誑しがそうさせるのか、目を離せない後輩であるのは間違いない。
そしてカイトは身内が大大大好きな新種であるからして、褒め殺すのもフィルター取っ払って好意を伝えるのも平常運転。
「そのままのお前でいてくれ」
「……は、はい…………」
「む、糸くず……」
平常運転で事故るのも普段通りとか、そんな人生を潜り抜けたいこの頃でした。
キタサンの耳の根元に引っ掛かった糸を、軽く払うように取り除けば、指先が耳を掠める。
僅かな風圧程度にしか感じないような、触れてすらいないと判断しても良いくらいの微細な感触。
「ひぅっ」
「あ、悪い」
謝罪の念を込めて、軽く髪を撫ぜるようにはたく。
みるみるうちに赤色が増す頬を見て、仄かな愉悦心が心を満たす。照れ屋さんかよ可愛いな。
「ひゃっ、……ぃぃっ」
「おわっと、ビックリさせちゃった?」
「ぜっ、ぜんっ、、んんっっ…………全然、大丈夫です!」
「そう? ならいいけど――」
「あー! ゴルシちゃん浮気現場発見の巻ィー!!」
「うぜぇな逢瀬を邪魔すんな」
てかやめろ滅多を喚くな。撮影所の此処はマイホームなんだぞ。買い物中の家の主が、体の悪いタイミングで戻ってきたらどうするってんだ。玄関空けたらその先に居たらどうするってんだ。
「――――お兄様?」
「そんなんじゃねぇってば」
「先輩ってやっぱりバカなんすか?」
「もー、ウオッカってばそんなの常識じゃーん」
「よーし、そこの奴等引き摺り回してもいいぞキタさん」
撮影のセットは整ったらしい。では早々に取り終わらせてしまおう。台本の内容は多少のアドリブを追加するとして、家主が戻って来るタイミングとかち合わないように祈るばかりだ。
「はい先生、コーヒー好きでしたよね」
「ああ、ありがとう」
「本当は先生が淹れてくれたコーヒーがまた飲みたいですけど……それはまたの機会ですね」
マグカップを受け取って一息。舌先に違和感のある苦みを感じたが、最近のインスタントはそういうモノなのだろう。
懐かしさを感じる情景が、胸へと安堵感を飛来させる。
そうしてしばしの憩いが落ち着けば、少女は強く切り出した。
「このまま別れちゃった方がいいですよ」
「……む、無理……だ」
「……それは、どうしてですか?」
静まり返る部屋に、賢明な言葉が明るく響いた。
「お二人の関係を聞けば聞くほど、これ以上一緒に居続けるのは毒です。物理的に、それも徹底的に距離を空けないと、何も変わりません」
「ゃ……でも……」
「奥さんのことが、怖いんでしょう」
「――――っ」
歯の奥から不協和が鳴り、噛み合わせが即座に悪くなった。目の前が傾き始めた男の顔色は、真っ青の代表格となってしまっている事だろう。
そんな頼りない肩を、ささやかに支える手。
「大丈夫です。先生が怖がる人は、ここにはいません」
「ぁ……ちがっ、怖いだ、っなんて……っ」
「はい、分かっています。優しい先生は、誰かを怖がる自分が嫌なんですよね。分かってますよ」
「なっ……」
「それが心の比重を占めているならなおのこと……。けれど大丈夫です。怯える対象も、先生を責める存在も此処には在りません」
誰かを想った無償の心を届かせようと、自棄の感情に支配された男へと言葉を尽くしているのが伝わる。
「先生の安心していい場所なんです」
明るい色のベッドに並んで座り、柔らかな手のひらが男の背中を労わるように撫でる。落ち着いたトーンで話を促して、男の内で渦巻く懊悩を吐き出させる。
春のように繊細で暖かな心は、徐々にでも平静さを取り戻す一助となってくれた。
「――奥さんは先生をこれ以上追い詰めて……何のつもりでそんな」
「悪いのは……俺だから」
「でも、先生は奥さんのことを考えて決意したのに…………こんなに、脅えさせて」
温度が上がった体は、けれども一向に震えが止まらない。今後をどうすればいいのかと考えて、最後に見た女の縋る姿を思い出すたびに、本能の萎縮が止められない。
壊れた瞳の光が、怖くてたまらない。
女の叫びの通り、そうさせたのは自分にも関わらず。
実に情けない姿だ。大の大人が肩を落として、見るに堪えないみすぼらしさ。面倒事だと一目瞭然なら、無視して関わりないように振舞うのが賢く敏い生き方だ。悪い生き方ではない。常識に生きるなら、騒動が遠い方が生きやすい。
背負う必要も無い事情など放り投げればいいのに、見捨てず傍に居てくれるのは人柄による優しさだろう。その優しさには、現在進行形で助かっている自分がいる。
「先生からの思い遣りを貰える、唯一の人なのに――――ッ」
「ち、違う……本当に、あいつは悪くない。ぁぁっ、あいつにはっ、落ち度なんって……これっぽっちも無いんだ」
「……ふふっ、やっぱり優しいんですね、先生は」
「やめろ……俺なんか、そんなのじゃないさ」
柔和な笑みは淑やかで、穏やかな声色が心を癒してくれている。
同時に――――底なしまで掘削してくる罪悪感。その都度苦痛は表情まで浮き出て、空いた穴をすかさず埋めてくれるのは、元教え子の優しい温もり。
そんな連鎖を良しと受け取れる、自分への反吐が止まらない。
「なら……これからどうするんですか」
「…………戻るよ。ちゃんと向き合って、それで……」
「それでまた――――奥さんに支配される日々に戻るんですか」
「支配っ、だなんて…………違う」
無意識でもそう仕向けていたのは、自分だ。
宝石のような女が得られるはずだった幸せを壊したのは、自分だ。
「あいつが幸せになるなら、それが一番、だ」
「……だったら、先生の幸せはどこにあるんですか?」
「俺の幸せは、あいつが幸せになること、だから」
戸惑うほどその言葉は簡単に出てきた。幼い頃から根源は未だ変わらない。後悔の日々を送りながらも、奥底にはずっと変わらない想いがあったのだ。
今更何を言っているのか、自分でも呆れかえるばかりだ。間に合うだなんて思えない。今日明日頑張り始めれば取り返せるなど、そのような虫の良い話などある訳が無い。致命的と言えるくらい、自分の行いの重さを理解していないから出てくる発想なのかも。
でも、やっぱり。
だとしても。
「あいつには幸せになってほしいよ」
「……………………――――そうですか」
悉くを棚に上げてでも、取り戻したい掛け替えのない光はあったのだ。あるからこそ、容易くは離れられない状態まで成ってしまったのかもしれないが。
信憑性など何処にも無い。けれど困ったことに、これが偽りなき本心を晒し出した結果だったのだ。
一つずつ整理を進めていれば、いつのまにやら腹は決まっていた。ああ、そうだ、男の人生は徹頭徹尾何処までもを、女のためだけに使い尽くす。何も無い自分に出来る唯一の贖罪があるのなら、きっとこれに違いない。
「………………私だったら……もっと、」
「え?」
「――――いいえ? なんでもありませんよ」
『もっと』、その先は引き攣った呟きにも聞けて汲み取れない。
「もう一度話してみる……今度は、あいつが本当に望む形になるように」
「そう、ですか……はい、元鞘に戻れるのならそれが一番だと私も思います」
まだ恐ろしさは残っている。けれど決意は先んじて己の中で為っていたのなら、独りになどさせてはいられない。
もう、帰らなくては。
「色々とありがとう」
程よく飲みやすい温度になったマグカップには、残り半分程度のコーヒー。それを覚悟と共に、一気に飲み干した。
「……行っちゃうんですか?」
「ああ……向き合わないと、ダメなんだ」
「なら先生、帰る前に一つだけ」
立ち上がった男の袖を、小さな手が握る。
「お洋服、まだ乾いてないですよ」
「あ」
自分よりも小さな手に、今日だけでどれほど救われただろうか。
世界の色味が久しく明活に見えるのは、新鮮さすら覚える。
「さあ、乾燥機が止まるまでゲームでもしてましょう?」
「世話に……な、る」
「それとも……お昼寝でもしますか?」
恩を得た。小さいなどとは口が裂けても言えない規模の大恩だ。
それも元教え子から得たのなら、何十倍にして返さねば嘘だろう。
「さっきから先生ってばとっても眠たそうな眼をしていますから」
「む……? ……そう、かな…………?」
「そうですよ……。ほら、今こうしている間にも、意識が薄くなって……目がとろーんってほどけていって……」
「……、…………ん」
「だんだんと眠りに落ちていくんです。ゆっくりと……深い場所まで……先生は睡魔に逆らうことなく」
それも有難迷惑なんて中途半端ではない。
少女の望んだ形で、男にできる最大限の返しを与えなくては。
「安心してください、先生を傷つけるモノはどこにもありません」
「………………。…………」
「私の膝くらいならいつでもお貸ししますから、おやすみなさい先生」
まどろみに誘われて墜落を始める自意識は、最後までそれだけを考えていた。
「ダイヤはいつだって、この家で先生を待ってます」
女のことなど、微塵の欠片も忘れて。
「いつなんどきでも、私は先生の味方なんです――――覚えておいてくださいね」
ああ――でも、淵で垣間見えたその表情は。
少女と称せる色ではなく、男の知る女と変わらない光を讃えていたような――――――――。
愉快だと、思う。だってほら、不愉快を突き抜ければ、その先に愉快も在りえるのだから。
目の前で行われている催しがひと段落ついて、先んじて目に着くのは、あの二人は一体いつまで膝枕をしているのだろうかと。
カイトは一体いつまで、されるがままに寝たふりを続けているのだろう。
―――――――― 浮 気 ? こ の 家 で ?
「……あら、本当に眠ってる」
うたた寝ならともかく、周りに人がいて深い熟睡状態になるのは珍しい。コーヒーを飲む際に顰めた顔をしていたが、あれは演技ではなかった。となれば一服盛られたのだろう。リアリティを求めるが故に、密着しているのも仕方のないことなのだろう――――とはならない。
ひっかかる部分は、他にも多々散見するどころの話ではない。
疑問点が多いのであれば、独り言が漏れ出てしまうのも如何仕方無しだ。
「『この家で先生を――』……だったかしら」
「びっ、びぇえぇぇっ!??!? ぁ、ぁる、あっ、アルダン先輩……!?」
こんにちは、と返す前に送りたい疑問符。
「『この家』は私とカイトの家なのに…………不思議ですね?」
「…………」ガタガタガタガタガタガタガタガタ
ああ、なんて寒そうなのだろう可哀想に。暖かいお茶でも淹れてあげましょう。
ただその前に、色々とこの人達には聞きたいことがある。
「どしたスぺ……ぉっ、oh邪魔してまぁすぅ〜っ……」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
大丈夫。冷静だ。私はすこぶる冷静で荒れている。何せ可愛い――――カイトが気に入るくらいに――――可愛い後輩達の前だ。荒波が如く荒れ狂うのではなく、至極冷静かつ朗らかな対応で荒りましょう。
そして私は、静かに笑顔で聞いてみた。
「サトノさん」
「…………なんでしょうか?」
「カイトを乗せ続けるのも辛いでしょう? 見たところ、カイト自身も知ってか知らずか一服盛られたようですから」
この瞬間、全員の顔色を見比べた。焦りが一番顕著なのは一名のみ。その他は殆どが戸惑いを浮かべていた。
いの一番に焦っていた監督さんには、これ以上は作りようのない笑顔を差し上げてみた。
「私のカイトに――ねぇ? ゴールドシップさん」
「ヤ、ソノ、デスネー」
「ふ――――――ふふふふふふふふ」
「………… 」ガタガタガタガタガタガタガタガタ
???? 不思議なことに、怯えた様子の振動が止まらないようだ。サングラスがずり落ちるほど、果たしてナニへ恐怖したのだろうか。
「膝枕、変わりますよサトノさん」
「それには及びません。全然、全く、これっぽっちも苦ではありませんから大丈夫です。……むしろ………………うれしいんです」
「はい?」
「カイトさんの重みを感じると……胸が暖かくなるんです」
「 は い ? 」
「寝顔も安心した様子で身を預けてくれてますから、それがなんだか家族みたいで嬉しくて」
「 ハ い ?、 ?」
私とカイトだけが使う寝具の上で、何か、耳障りの良くない響きが聞こえた。
ああ、そう言えばカイトの教えを受けているのだった。それならこの度胸の強さも納得だ。状況への理解度の鈍さも、確かにカイトに似ている。
「……………………は」
「……あ、アルダンさん……?」
「撮影は、終わりましたよね」
「え、まだ撮りたい部分もあ」
「終わりましたよね」
「ゴールドシップさぁぁぁぁんん!!!!!」
「イエスマァム!!!! 我等スピカとその他は撤収しますうぅぅぅ!!!!!!」
嵐が過ぎ去った、そんな音を立ててこの場を後にする一同。
ゴミや忘れ物などもなく、きちんと後を濁すような無礼は見られない。カイトが惹かれる人達なのも分かる。悪ふざけを共にする間柄だとはよく聞くが、占めるべきところは心得ているようだ。
「んー……」
「ダイヤちゃん? 早く行かないと……」
「……ちょっとだけだから…………ちょっと、だけ」
と感心していると、名残惜しそうなサトノさんがカイトの顔をマジマジと見つめて――――。
――――ちゅっ。
『……………………………………?』
頬に近づいた。目尻よりやや下。頬骨の辺りだ。
唇じゃないからまだ良いだろう、などと大らかにはなれない。後輩のしたことだから、などと心広くはなれない。カイトの教え子の茶目っ気だから許してあげよう可愛いものだ、などと見逃してはならない。
最後に、疑問が瞳孔を支配する私へ、その姿見せつけるように、己の成果を自慢するように、赤い舌先が、蕩けた粘膜を、私の最愛へ触れさせて。
挑発と蠱惑に濡れた瞳が、私を睨んだ。
「――――――――――――――――――――――――」
「だっ、だだだたっダイヤちゃぁん!?!!??」
「サトノがヤベーコトしでかしたぞヤロウ共! 逃げろーーーい!!!!」
「サトちゃんってばゴールドシップよりクレイジーだよー!!!!」
「ウソでしょ……っっっ!!」
呆けていたのは何秒だったのか。気が確かになって時計を見上げれば、長針は数字を二つ通過していた。時間の流れから意識が逸脱するくらい、ほどほどの衝撃だった。
「………………楽しい方達なのね」
一旦忘れよう。牽制は必要だが、今は忘れたい。よりにもよってカイトが大層可愛がっている立ち位置へ、降って湧き出た虫には頭が痛くなりそうだが、今はただ、最愛に甘えて忘れておきたい。
ベッドの上に一人残されて、眠りこけて無防備な顔を晒すカイト。彼女らの騒ぎに巻き込まれては、その度に愚痴を灯すが、なんだかんだと不満ではないのだろう。その寝顔は決して悪いものではない。眉間に力が入ることなく、自然な形で悪夢とも遠い寝顔。
幸せそうな顔をもっと近くで見たくて、布団をカイト諸共覆ってしまえば、私の幸せがこんなにも近い。
「カイトは今、幸せなのね」
「……、……」
「言わなくても分かるもの……罪作り」
もっと言ってあげよう。
「浮気者。女の子好き。寂しがり屋。色事師。スケコマシ。ウマたらし」
「…、…、、……」
「でも、好き」
帰結した。自己完結終了。
晩御飯を作りたいが、愛しき寝顔の前から去る選択肢なんて無い。そも薬で眠らされたのなら、しばらくの間は起きないと踏むべきだ。加えて一人で摂る食卓など、二人で共にする幸福を知っているなら、それもまた選択肢から自然と消える。
このまま眠ろう。服が乱れてしまうが、コラテラルダメージそのものだ。
瞼を閉じる、前に服の袖でカイトの寝顔を拭き取る。
先程いかがわしき意図全開で触れられた部分を、過度なまで拭き取る。赤くなっても拭く。皮が剥げるまで拭くつもりはこれっぽっちしかなかった。
「……」
「……ん、……」
強く拭きすぎただろうか。身を捩るカイトだが、起きる気配は一向に無い。
依然として、無防備なまま、隙と言う隙を全方面へと曝け出している。これは危ない。余人が見れば、襲わんとするくらいに危ない。『どうぞよろしくいただいてください』と言わんばかりに、とにかく抵抗の『て』の字だって感じられない。
だからこの姿を見れば、定期的に家の奥底へ閉じ込めたくなるのも、ままある衝動の一つ。
「もうっ……そんなに隙だらけだから、グラスワンダーさんにも襲われたんでしょう」
「…………」
「ドーベルにもそう。……仲が良いからって、なんでも許される訳では無いのよ」
でも許してしまうのだ。いや、許すも何も無いのだろう。
身内なら、なんだって構わない。悪辣だろうと、善良だろうと、単にカイトが好きな人なら、何をどうしようと受け入れる。受け入れてしまう。
その器の中心に収まれている身でありながら、怖くなってきてしまう。
「ようやく落ち着いたと思ったら……すぐまた不安にさせて」
カイトの見る目が悪いとは思わない。築き上げた交友関係は、大体が善良な者達ばかりだ。過去の経験から、無意識にその手の嗅覚が優れているのだろう。
けれど今までは偶然そうだっただけで、もしもこの先で、悪辣な者を身内と定めてしまったなら。
もしもの話。けどもしもそうなってしまったなら、可能性を考えるだけで恐ろしい。
身を滅ぼすのも厭わない奉滅精神。自分に出来る最大限の恩返しをしなくてはと、その結果があの夢。自己犠牲では無い。誰かを想って尽くすための心が在り、そのブレーキが壊れて、最低限の基準値を示すモノがカイトの感情量に比例するということ。
その指針を誰よりも手繰れるのは、カイト自身でなく、カイトが身内と定めた者。
「……でも私が守る」
ずっと前から決めてたこと。
「私は貴方の基準点。だから、悪いものからは私が遠ざけてあげる」
痛いことから守りたい。辛いことから隠したい。
今はまだ、叶えている途中。
同じ棺で眠るまで、この夢は永遠に叶える途中で在り続ける。
「だからあんまり私を不安にさせないで」
それでは夢の途中経過そのn回目の試行錯誤として、膝枕をしようと思う。
別に他の女にされてたから上書きしようとか、そんなせせこましいことでは無い。
無い。無いのです。全然そんなんじゃない。
(あれっ、なんかこのコーヒー苦っ……この苦味、タキオンの先の輩のに、あじが、にてい……………………………)
(あん……? おかしいな、苦味を演出するためにゴーヤのシロップ入れただけなのにマジで眠った……? …………この方が臨場感あるしいっかぁ!!)
(あぁんっ……眠たそうな顔かわいい……本気で戸惑う顔かわいいぃ………………部室で二人きりの時に使おうかなぁ……敢えて薄めて眠たそうなだけの顔を眺めるのもいいかも…………うへへぇ……)
(ゴールドシップ……本物使ったのね。カイトくんには……言ってないのでしょうね……可哀想に)
(ここがこう……むむっ、寝顔を映えさせるのって難しいんだね)
(うっわマジで寝させた……。ホント先輩への扱い酷いな)
(…………グラスちゃんが喜びそうな画角撮れちゃった。え、うわ、しかもあれ、普段の居眠りとは違う本気の熟睡だ。ますます喜んじゃうなぁ……ハァ)
(ダイヤちゃん……目が怖いよ……! 自重しないとダメだってば!!)
(あ、鍵の開く音がしたわね。隠れときましょう)
(あ、玄関の開く音がしましたわ。隠れてておきましょうか)
(カイトの靴の他に女の靴が……九つ。誰かが遊びに来る等の事前連絡は無し。現時点でも無し。…………………………ふふっ)
どれが誰だか当ててみろよ