孤独へとひた走ろうとしたのは、恐ろしかったから。
いつまでも在るのだと疑わなかった身近の幸せが、その実どこまでも儚くて、カミサマの気まぐれ一つで彼方へ追いやられてしまうくらいに軽々しいのだと知った。
自分の不注意一つで、ぐしゃぐしゃに砕けて散らばってしまうのだと、眼前でこれでもかと実演されていた。
――やっぱり忌み子だったのよ。
自分の傍に居てくれていた存在は、右を見ても左を見ても、誰も彼もが優しくて。
最愛の二人だけではない。本当の兄弟姉妹のようなひと時を過ごした少女たちも、本当の孫のように扱ってくれていた当主も。
既存とは異なる新種が、仕える者達に近しい事実へ眉を顰める者たちも。
みんな、優しさだけがあった。
心ないと思われがちな言葉も、排斥を願う心も、根源にあるのは真なる優しさだ。
――あの二人も可哀そうに。
――奥方様の心労はすべて彼が産まれてからよ。その挙句に
だって、自分に聞かれないように隠れてその話をすることこそが、優しさに溢れた気遣いに他ならないのだ。
ソレを自分に聞かせてしまえば傷つけてしまうと知っているからこそ、まだ幼さの目立つ自分を、これ以上は追い詰めてしまわない方が良心的だ。そんな判断をしてくれるのは、優しさとどう違う。その瞬間の自分は、いっそ感謝すらしていた。
――当主様もいつまで置いておくつもりかしら。
――あのような気味の悪い子供をお嬢様方の傍に置いていれば、いずれ良くないことが――――
「――――」
これ以上盗み聞くのは苦しかったからやめておいた。
「……」
聞き耳を立てていたのは、女給達の優しさを踏みにじる行為だと幼いながらにも理解はしていたから、気づかれないように笑わないように、泣かないように気を付けて、静かにその場を離れた。
別段、恨む理由もない。
そして、少女たちとこのまま仲を深めていけば、良い結果には繋がらなくなってしまうとも、理屈を省いて分かりきっていた。
「でていこう」
このおおきないえから でていって。
あるだんや まっくいーんや べるちゃんたちから はなれないと。
胸を内側から引き裂いて出てくる感情が、とどめようと努力をしても、すぐに染みのように浮き彫りになっていく。
「おれがここにいるのは……だめなんだね」
引き攣った笑みが止まらない。
口元の孤月は深く。喉奥からは引き裂かれたガラスのような掠れた声。
両親こそがここにいてもよい理由だったのなら、理由がなくなった自分には、居場所なんかないのかもしれない。
ここはもうダメだから、けれどどこへ行き着くのなら、許されるのだろう。
疑問に答えてくれる人はいない。疑問を投げかけられる味方もいない。
けどそれでいい。
どこまでも孤独だからこそ、誰も傷つけずにいられる。誰とも繋がらなければ、疫病神としての仕事ができなくなれる。
でも、それならなおさらに。
「……どこに、いればいいのかな」
わからない。分からない。判らないし、解らない。
けれど判明している事実は一つ。
自分がいてもいい場所は、ここじゃない。
優しさだけが集うこの場所には、絶対にいてはならない。
「……これが、じゃまなのかな」
いてはならない理由を探したとき、二つの特徴を真っ先に思いついた。
漆を幾重にも丹寧に塗ったような艶で、自分のふくらはぎをくすぐる尾。
傷一つ無い美しい黒色をして、ピンと凛々しく立つ耳。
ベルちゃんはお揃いだと喜んでくれていた。マックイーンはカッコいいとはしゃぎたててくれた。ブライトは触り心地が良いと褒めてくれた。ライアンは綺麗な色だと言ってくれた。パーマーは父とお揃いでよかったねと、とても嬉しいことを言ってくれていた。
アルダンは、とても純粋な一色で、惚れ惚れするように端正な形は心を映したかのようと、難しい言葉で称賛を与えてくれた。
――――両親は、片や自分と同じ髪色で嬉しがっていた。片や、お揃いでないことに悔しがって、けれど顔つきが母親寄りなことにすぐさま満足していた。
ただの部位には収まらないくらい、暖かな記憶ばかりだ。
暖かいそれらが、実は、もしかしたら
「――とらなきゃ」
コレを持って産まれたから、父親は砕け散った。コレを備えてしまったから、母親は深く眠った。
幼い頭ですぐに気づけた。
不要なのだと、すぐさま結論が出た。
『――ご飯、ちゃんと食べれてる?』
慮る感情だけを乗せて、カイトが傷だらけにしたガラスがやってきたあの日。
決して、他者へ気を向けてよい顔つきじゃなかった。誰かを思いやる前に、まず自分を優先させないと自死しかねないんじゃないかと、そう思える顔つきで彼女はそう言った。
あれは確か、自分の一部を切り落としてすぐの出来事。自分に傷を刻んで、傍に居たヒトにも傷を付けて、逃げるようにメジロ家を出て、一週は経った頃。
『また来ても、いいかしら?』
『――――、――』
何と返したかは忘れたが、肯定の意を返したのだ。その後、十年と先まで付き合いは続いたのがその証拠。
後悔は後の祭り。言ってしまったが最後なのだった。
その言質を振り翳して、監視でもされているのではないかと疑うようなタイミングで、安物アパートには似つかわしくない令嬢が襲来してくるようになった。
これは死人と何ら変わらないような泣き顔を、彼女もある程度は隠せるようになったくらいの頃。夢を胸の内へと隠して、叶えるための算段も付けられた年齢の頃合い。
――――初等部の中間くらい、だったか。
「…………ッッッッハ、ゴホッ……えほっ、んぐっ、、」
肺がズキズキと痛む。膨張と収縮を高頻度で繰り返して、細胞分裂が加速しているような気がする。
脳細胞が尖り突き刺さり、『今すぐ栄養を寄越さないと中身をぶちまけてやる』とでも言わんとばかりに暴れているような頭痛が、脚を止めた瞬間から鳴り響く。糖分が欲しいのか、酸素が欲しいのか、水分が欲しいのか、何を補給したところで長いこと響くと確信できる痛みだった。
パンパンと膨れ上がったふくらはぎは、剥き出しの筋肉を、満遍なく鉄のムチで容赦なく打たれている幻痛がした。
「……ゴホっ、ゴ、ヒュッ、、……かふっ」
一定のペースをとことん守って、昨日までの距離よりも一段階伸ばした距離を走る。これが愚かな小僧なりに思い付いた、夢へと繋げるために積み重ねる下地。
走る速度を上げようにも、専門的な知識などは、とんと有りはしない。センスで『こうすればいい』などと浮かぶような才や閃きに期待するなら、どうにも時間がもったいない。
愚直な努力でも、重ねれば確かな層が作られるのがスタミナだ。多くて困ることはないし、過剰に持て余すこともない。何より今の自分に出来る唯一の努力なのだから、努めて励まないのは無駄でしかない。
そして、自分を鍛え上げられている何よりの証拠として、己が定めた距離を、しっかりと走り切れている。
「……ぐっ……げほっ」
霞む視界は湾曲を重ねて、意識が多々断線しかけては幾度も途切れそうになる。
すぐにでも倒れ込んで、見覚えの薄い土手へと転げ落ちそうになる身体。意識が体の操縦を手放せば、受け身の余裕すらなく後頭部だって打ち据える。それは命がまずい。その度に頬を引っ叩いては自己を慌てて保った。
まだ怪我をするには早い。無茶な鍛錬をいくつ重ねるのはともかく、それが起因して走れなくなるような故障に憑かれてしまうのはいただけない。朧げに形を成し始めた夢は、その到達点を手探りでも結論付け始めている。しかし今の時期に不能となってしまったのなら、夢の前提にすら届くことはないだろう。
「っ……寝るなら、帰ってからだろ」
一度顔を手のひらで叩く。暗示のように呟いて、眠気にも似た倦怠感を後回しにする。
今日のランニングはおしまい。あとはシャワーを浴びて、ストレッチを入念に行って、腹を満たして眠るだけ――ああ、とても憂鬱になる事実を思い出してしまった。
「……クソ、今日は食べない日だったっけか」
もしくは食べれない日でもある。
げんなりと気落ちした矢先に、腹の音が鳴って更に気分は落ち込んでいく。
ふと、自分の体系を見てみた。
腹回り、これは当然引き締まっている。有酸素運動を毎日の日課として実行しているなら、怠惰に弛んだウエストなどは作られる余地がない。
二の腕も、子供故の柔らかさはあれど、これまた日課としている筋力トレーニングの成果として、同年代と比べれば一目瞭然な形だ。
足腰なら当然のように鍛えられている。どこを見やれど、食事を抜く理由などはあり得ない。より良い身体を作り上げるためには、食はどうしたって欠かせない要素だ。そもそもとして、過酷なダイエットをしているつもりだってない。
食を抜く理由は肉体の関係ではなく、ひとえにもっと現実的に切迫した理由。
「…………腹減った……ような気がする」
金が無い。シンプルに食費を削らなくては、今月を暮らしていけないくらい逼迫している。これに尽きた。
十になったばかりの子供では、アルバイトなどできる訳もない。せめてもっと体が大きくなれば、歳を誤魔化して働くことも出来るだろうが、いかんせんその手ですら実行するにはあまりに体格が足りていない。中学に上がれば高校生だと嘯くことも出来るだろうが、それは先の話。
とにかくエイヴィヒカイトには、生活費が圧倒的に足りていないのだ。
メジロ家からありがたく頂戴させてもらっている仕送りも、無駄に浪費してこうなったのではない。むしろ逆を心掛けようと、六歳の一人暮らしを始めた途端から節約生活は始まっていた。毎日スーパーや八百屋で賞味期限が危ないものを進んで選んで、部屋の電灯は一日の間に一時間程度しか使わず、ガスを使わないように冷水のシャワーで洗体は済ませて、冬は布団に包まり夏は窓を全開にして空調は無用の長物へと化けさせた。切り詰められる部分はとことんまで削ってすらいたのだ。
「……気のせいだな。うん、腹なんて減ってない。ぜんぜん、今日はお腹が空かない日だから」
暗示になるよう祈りながら、独り言を止めることなく帰路へと向かう。
――――家にたどり着く少し前辺りで、クラスメイトとすれ違った。夕日の向きの関係性か、日の真ん中を幸せそうに歩いていく彼らは、薄暗く陰ったエイヴィヒカイトには気づかなかったようだ。
愉し気にエイヴィヒカイトで遊ぶことを日課とする大多数の一人。反抗しようとしない新種をいいことに、やることなすことがどんどんエスカレートしていく男子だ。
普段から大勢でつるんでいたが、けれどその時はそもそもそういった大勢とは違っていた。数だけなら、むしろ少ないくらいだ。
待ち伏せでもされていたのかと身構えたのが、一気にバカらしくなってしまう。
――!
――、――。
「……」
大人が二人、その男の子を挟むように手を繋いで、仲睦まじく歩いている。
大人の男性と女性は、繋いでいないほうにビニール袋を持っている。そのロゴは駅前のスーパーと合致していて、買い物帰りなのだとすぐにでも分かった。
この後は家に帰って、家族で夕餉を囲むのだ。当たり前の食卓に着いて、今日学校で起こったなんてことない出来事を両親へ話して。そんな一日が、今日だけの特別ではないのだ。
そんな
剥奪された者には与えられない暖かさを、当たり前の権利として甘受し続けるのだろう。
「……寒くない。腹も、減らない。……………………羨ましくなんか、ない」
そのしあわせが、壊れてしまえばいいと、本気で考えている。
もう手に入らない温もりは、どんな温度だったかを忘れかけている。繋いだ手の中に灯る優しさが、どれくらい心地よいのかなど思い出せもしない。
忘れてはならない熱を忘れさせるくらい、孤独とはこうも残酷を引き寄せるらしい。
「笑えば、全部平気」
自分の忘れた幸せを謳う奴等が、すべからく消え去ってほしかった。
「……」
楽器が先ほどからうるさい。それも音を奏でてうるさいのではなく、引き攣った弦を不格好に引き裂くような鈍い音。伴って体感を強制される
音源は――他ならぬ自分自身から。
冷水シャワーの余韻から逃げ去ろうと、布団に包まって眠りの世界へと向かうべく瞼は固く閉じた。
閉じはした。部屋は真っ暗で、瞼をこじ開けて入り込む光もないのなら、可及的速やかに眠らなければ駄目である。睡眠時間が足りていなければ、その時間量に比例するように疲労も残る。というか疲れ切っているのなら、スヤスヤと眠りこけて然るべきだ。
だってのに、腹部から鳴る異音が眠りを妨げる。
別段珍しい話ではない。週に二回ほどのスパンで、一日を水だけで過ごすなど既に慣れてすらいたのだが。
本日の腹の虫は、やたらと居所が悪いようだ。
「……はぁ」
水でも飲めば、多少は気を紛らわせる事もできるだろう。
思い立てばシンクへ向かうために、布団から這い出た。
音をなるべく鳴らさないよう腹部を軽く殴りつけながら、食器棚からコップを探す。すると。
「……?」
玄関先から、二人分ほどの物音がする。ビニール袋が擦れる音も聞こえて、隣の住人だと納得しかけた時。
インターホンが鳴らされた。
「……まさか」
頬が引き攣ったのを自覚した。けれど断定するのはまだ早い。もしかしたら宅急便や、回覧板のお届けだったりするかもなのだ。現時刻が一九時であることを鑑みれば、やはり考えうる可能性に埋もれる程度の懸念でしかないのだ。
念のために、無いとは思うがもしも万が一
ゆっくりと玄関へとたどり着けば、二度目のインターホンが鳴らされた。
「……」
覗き穴を拝見した瞬間、レンズ越しにとあるご令嬢を見つけてしまい、足はすぐさま布団の方角へと向いていた。
寝よう。すぐさま寝よう。アレはエイヴィヒカイトにとっての天敵に他ならない。
即座に、それでいて落ち着いた足取りで、エイヴィヒカイトは扉の向こうへ気取られぬように歩き出す。
――もう眠ってしまったのかしら?
――就寝には早すぎる気もしますが。
耳をすませば戸惑いと心配を混ぜ込んだ声が聞こえてくる。そうですこれから寝るんです。彼女らが何をしに来たのかは、大体の予想がつくがしかし、あまり世話になりたくないのが正直な話であり、関係性を持たないことこそがメジロ家当主と結んだ契約内容でもある。
優しさはありがたくもあるが、自分には関わってほしくはないのが正直なところ。
このまま寝ていることにして、帰るまでの間を静かにやり過ごそうとしていた――のだが。
――――ガチャチャッ。
「……うん?」
まるで鍵を鍵穴へ入れようとして手こずる音。
――――カチャリ。
「…………かちゃり?」
極めつけになんというかこう、プライバシーが消し炭と化した音がした。
「……お嬢様……」
「……ね、寝顔をちょっとだけですから。起こさないようにしますから……少しだけ」
呆れたような声を出すばあやの声を背に受けて、意味が不明を通り越した理屈を振りかざすお嬢様。なんなら理屈にすらなってもいない、言い訳としては落第点もいいところだ。ばあやもばあやで止める努力を諦めないでくれ。
軋む音すら出さないよう心掛けて、ゆっくりと丁寧に扉は開かれていく。
廊下のないキッチンと玄関が共通する空間で、二つの視線がばっちりとぶつかり合った。
「……しょうがないか」
「……ほえ? ……? ……カイト??」
もう観念した。こうなってしまっては丁重に対応して、丁重にお引き取り願おう。
紅茶好きの彼女には、カルキたっぷり水道水をふるまいましょう。あまりの庶民臭さに、嫌気が刺してすぐに帰ってくれることだろう。
ギザギザな耳を隠すように白いピクチャーハットを被れば、お嬢様の対応にいざ取り掛かろう。
一抹の期待感には見ないフリをして、憂鬱な時間と向き合う時だ。
『みてみてー、あるだーん!!』
底抜けに明るい無邪気な足音が、荘厳な廊下を駆け回っている。彼の音に付随する二人目は、屋敷に来ればずっと彼の後ろを付いて回るマックイーンの音。
色んな人たちに見せて回っていると聞いていたが、とうとう私の元まで回ってきたようだ。
――綺麗な色ですね。
『おとうさんとおかあさんがかってくれたのー!! すごいでしょー!?』
楽し気に、嬉し気にそう言って、くるりくるりとその場で回る愛らしい子。
見るものを魅了する無邪気が、自然と周りへ笑顔を運んでくる。まるで春の暖風のように、心へと微睡みの温もりを運んでくる微笑ましさ。
――カイトにとっても似合っていますよ。
『えへへ……うんっ! ふたりもねっ、すっごくにあうってほめてくれたんだ!!』
来年の四月に向けて、両親から贈られた宝物の一つ。背負う新品の色はよくある黒色ではなく、淡く薄い水の色。
これから来やる十二月の冬を超えて、彼は晴れて一つの段階が上がる。
先の未来で辛いことがあっても、この眩いくらいの笑顔が曇らないならきっと大丈夫。
――どうしてその色にしたの?
『おれ、がらすとかがさ、きらきらしててすきなんだ』
曇らなければ、きっと大丈夫――――そのハズだった。
『とうめいで、きれいだもん!』
そんな十一月の出来事を、思い出さずにいれようか。
「――カイト……この、ランドセル……」
「やべっ」
色褪せつくして、刃物でズタズタに裂かれて、表面の皮は所々剥がれていて。
使い古してもこうはならない。男子だから使い方が多少荒くなるのは頷けるけども、これは明らかな悪意に晒された証左だと、見れば誰もがその見解を出す。
「や、それは……その、さ」
「誰に……まさか自分で、」
「そんな訳っ!!」
親から貰ったものは、須らくが大切だ――――自分以外は。
自分の手で壊そうとするなど、一部の例外こそあれどもあり得ない話。
「……だったら、誰にされたの」
自分じゃないと、これ以上ない否定を見せつけてしまった。こうなったのなら、自分以外とこれでも示してしまったなら、他者からの害意でこうなったのだと露見してしまう。何ならアルダンからの強めの語気を思えば、彼女はもう断定しきっている。なんだか説教をされている気分だ
「教えて、カイト」
「……教えたらどうする気さ」
「別段何も」
あっけらかんとした態度で、あっさりとした返答だった。淡々と詰めてくる様子からして、相当にお冠だったように見受けられたが気のせいだったのだ。平和的な解決が間近で非常にありがたし。
「ただ――――ずっと覚えておくだけです」
「ず、ずっと」
うむ。不穏である。
「ええ、ずっと。私が誰かの人生を左右できる影響力が身につくまで」
「そ、それで、どうするの」
聞きたいような、やっぱりぜったい聞かない方が良いような。でも聞いちゃったのでその葛藤には意味がありませんでした。
「……………………秘密です」
「可愛けりゃ誤魔化せると思うなよ」
「ふぇっ? …………かっ、かわ……可愛い、ですか?」
「……あ、ごめん今のなしで」
「どうして!?」
そんなこんなで話は流された。流されたのか? いいや流されたと願いたい。遥か未来に、アルダンがこの件を忘却の彼方に放り投げてくれていることを願っておこう。
今こそ本題へと舞い戻るときなのだ。
「なにしに来たの」
「晩御飯をカイトと一緒に食べたくて」
そう言って私は、朗らかに笑えているだろうか。
「……そんだけ?」
眉は強く顰まって、言葉数は少なけれどその視線は私を責め立てる。
込められているのは嫌悪ではないと信じたいけれど、自信をもって胸を張れることがないのは、この少年を使って罪悪感の清算を行おうしている負目と、そんな自分自身への嫌悪がそうさせるのだろうか。
「迷惑、でしょうか……?」
「……そういった話じゃない」
私からの問いに、彼は答えてくれない。それだけで不安が胸を掻き立てている。たった少しだけの沈黙があるだけで、背筋に汗が張り付く実感を得てしまう。
平気な顔で、安心するような笑みを形作れているのだろうか。冷や汗すら当然と思えるくらいに怖がるのは、彼に拒絶されること。
行き場を失いそうになった彼の拠り所になれたのなら、それはどれほどの贖罪の心で在れるのだろうか。
だから、拒まれることだけはしたくない。
「俺に関わるなって……何度も、言っただろ」
「でも……」
「忌み子で疫病神」
けれども、何よりも恐ろしいのは、彼を独りにすること。
「――――」
「俺といると、良くないことが起こるらしい」
「……なに、を」
「俺のせいで父さんも母さんもいなくなった。アルダンも関わらないほうがいい」
突き放したがる意図を感じた。こんなたわ言を、本心から言ってしまえる子だ。
誰も悪くなんかないのに、責任の所在を自分へと向けようとして、自分だけを傷つけて終わらせようとする寂しげな子。
こんな子を独りになどできる訳がない。
「誰……がっ、そんなことを!?」
「誰、って……訳じゃない」
目を伏せて、泳ぐ視線を隠そうとする素振り。隠し事の合図としては、あまりに分かりやす過ぎた。
「…………まさか――お屋敷の人?」
「っ、違うっ」
「――――そうなのね」
「ちがうっ、あの人たちは……っ、違っ、俺がっ! そう思っただけ…………だから――――」
言葉を紡ごうとすればするほどに、保とうとしていた仮面は剥がれ落ちていく。私もそうだが、未だ初等部の子供には、嘘を隠しきれる腹芸は難しいのだろう。
今では見る影もないが、明るく素直を体現していた彼の根は、嘘を吐くのが苦手なのだと見ていればすぐに分かる。嘘を吐くことに抵抗が生まれるくらいの信頼は勝ち取れていることに、一瞥の嬉しさが込み上げるがそれは後。
顔を真っ青にして、カイトを傷つけた者たちを庇うように、エイヴィヒカイトは必死に捲し立てる。
「――ま、納得だよ。俺なんかが生まれてきたから」
「……カイト?」
滲み出ようとする感情を堪えようとして、見たくなかった表情は現れる。
どこまでも、その仮面は笑顔を讃えていた。
偽りなのは感情の色だけで、拙げに語る語気はされど硬い意志と結論が込められていた。
「俺なんかいなければなぁ……」
その嘲りは、いったい誰へと向けられているのか。
「実際気持ち悪いだろ?」
「カイト、それ以上は」
「違和感の塊だ、良くないことの前触れだって話も頷ける。――やっぱりさ、俺は生まれないほうがよかった」
仕方のないことだと、くしゃりと笑った。
「そんなことを言わないでください」
「ぇ――んぶっ」
――その口を胸元へ引き寄せて、押し潰すくらいに抱きしめる。生きた熱が少しでも分けてあげられたらと、願い祈って、私の抱擁はカイトを力強く包みこんだ。
聞きたくなかったけれど、自らを責め立てることへ必死なカイトには、私なんかの懇願は届きそうもない。
背丈が見るたびに伸びていくカイトよりも、まだ私のほうが体は大きいことが幸いした。肉体が未成熟な内は、体格差で力づくを行使できるか否かが決まる。カイトよりも年上だったのが本当によかったと、本心から思う。
「悲しいことを言わないで」
「――――――――!?!?」
もがく手を取って、より強く抱きしめる。
何もかもを受け入れてしまう危惧は、彼が自分を引き裂こうとした日から残り続けていた。優しさだけを跳ね除けようとして、在らぬ罪への断罪だけを求めて、謂れの無い排斥さえも当然の制裁として喜々と受け取るのだろう。すぐにでも読み取れてしまうくらいに、今の彼は危うく見える。
しかし確固とした決意をほどくには役不足。言って聞かせられるのは、頑固な自己否定の根幹となった存在だけ。だから私には、どうしても言葉だけでは届かせられない。でも、無理矢理に思い遣りを伝わらせることはできるのだ。
贖罪に依った我儘でも、貴方を想い、健やかな未来を願う者は確かにここにいると思い知ってほしかった。
「カイトはここにいてもいいの」
「……そうかな」
「二人の優しさをこの世界の誰よりも知っている貴方が、何を言うのですか」
「…………」
納得していないことは、顔を見ずとも分かってしまう。
「私だって、カイトが苦しむのは嫌なんです」
「……アルダンが?」
「ええ」
「…………本当に?」
怯えるように顔色を伺う様子は、年相応の幼さを感じさせる。
大人びていると言われることも多い私よりも、深い達観と諦観の雰囲気を纏ったカイト。そんな彼にも、まだ子供らしい一面が残されていることに喜びすら感じられた。
「カイトが思う以上に、貴方を心配する人達は確かにいます」
「……」
「だからお願い、もう泣きながら嗤うのはやめて」
凍り付いた仮面を、今すぐにでも溶かせたならどんなに。
「――――なんだ……わかっちゃうのか」
自分では、足りないのだろうか。
――そうか、アルダンには気づかれてしまうのか。なら、
もうやめよう、とはならなかった。
――なら、もっと上手く隠せるようになろう。
この仮面はもっと強くかぶる必要がある。本心を覆いつくすだけで足りないなら、本心と思い込めるほどに深く被ればいいのだ
強く、深く、
――アルダンにこれ以上、心配をかけないように。
もう見たくないと願われた。
だから、同一のモノではないと他者どころか自分すらも欺き偽れたなら、彼女の願いは叶ったも同然だ。
この先もずっと、そう信じて疑わなかった。
夢の終わりが訪れる間際まで、一番近くに居てくれた存在へ、狂った笑顔を向け続けていた。
安価木製テーブルを囲んで、場にはそぐわない二人と相応しい一人が静かに夕餉を楽しんでいる。
しっかりと満腹になれるのは、前回にアルダンがやってきて以来だった。
以前と同じ大きさの鍋には、三人前と少し多めのビーフシチュー。それから日持ちのきく煮物類。これらがエイヴィヒカイトを助けるために作られた数々だと思えば、嬉しさと申し訳なさは同時に生まれる。本当に優しい人たちなのだと、感動すらも覚えた。
前回と少しだけ違うのはビーフシチューの中身だ。均整で子供にも食べやすいサイズの具材だったのが、大小様々な個性を引っ提げて、皿の中身を彩っていた。
「ほら、これなんか見てください」
食欲に任せてシチューライスを掻き込むエイヴィヒカイトの姿を、微笑ましく観察してきたばあやへと見せつけた。
芳醇な香りに満たされた海から、ニンジンを一つスプーンで掬って出てくるのは、ものの見事なまでに豪快な切り口で掻っ捌かれたことを察し取れる。ニンジンだけに限らず肉も玉ねぎもジャガイモも、ガタガタの八角形やズタズタな三角錐のように、歪な形へと成形されてばかりだ。芸術性とはグロテスクからも生まれ出ずるとはこの間本で読んだが、いっそここまで振り切ったなら確かに一種のアートなのかもしれない。
「あらまあ、これはこれは……」
「名家のシェフにしてはへったくそな切り方。新人さんでも入ったんですか?」
「……」
ザ・初心者と言わんばかりに統一性がない。これらを切った者は、きっと指先が絆創膏だらけに違いない。――そういえば今日のアルダンの指先には、ガーゼやら絆創膏やらが巻かれつくしていたが、家庭科の授業で不器用でも晒したのだろうか。
「ぶっちゃけ俺のほうがもっとうまく切れますよ」
「……っ」
「それに味も……前回とはちょっと違う……?」
「ぁぅぅ……」
味付けは概ね同じなのだから、おそらくレシピは同一の物を用いているのだろう。
けどやっぱり、いつもとは明確に違っていた。
「カイト坊ちゃんは気に入りませんでしたか?」
「それは……ないですけど」
「……!」
「むしろなんていうか、こう……」
端的に言うなら味が薄い。でもそれは、単に腕が未熟なだけが理由ではない気がする。
誰かの健康を想って、あまり調味料を入れすぎないように努めてしまって、その結果的に病院食のような薄味になってしまったのだろう。手抜きしたと考えるには、肉の煮込まれ具合が適格のど真ん中を捉えすぎている。そんな細やかで時間のかかることを行えるのなら、味付けの分量を忘れるなんてヘマはしそうにない気がした。
もしくは、そう思い込みたいだけなのかもしれないが。
――――つまり。
「俺はこっちのほうが好きかも」
「!!」
「やわらかい感じがして……なんか、あったかい味がする」
「!!!!」
心がくすぐったい。
忘れていた優しさを思い出す味が、内からぬくもりを灯してくれた。
「ま、また、食べたい……?」
「? ……うん、また食べたいな」
「!? ……でっ、したらっ! またっ、食べられますっ!」
「? 嬉しいけど……や、待った」
ご相伴に預かり続けるのは気が引けるから、できればその辺りをご遠慮願いたいのであります。
「……やっぱり、美味しくなかった?」
「……じゃなくて、ばあちゃ…………当主様に怒られるだろ」
「そうかしら……?」
本当はこうして助けを受けることさえ、交わした契約を考えれば決してあってはならない。本家はこれを知らずにいるのか、それとも何らかの意図を以て黙認しているのだろうか。
仮にエイヴィヒカイトとメジロ家娘達との接触を許されていたとして、他ならぬエイヴィヒカイト本人が謹んでお断りしたい。
「今度はもっと美味しくなってる! ……ハズですから」
「はぁ」
よっぽどそのシェフが気に入ったのだろう。語る言葉尻からは、期待と向上心で満ち溢れている。
そこまでアルダンに言わせる存在を、何となく、本当に何となくだがそのツラを一度拝んでやりたくもある。
「その時はまた、食べてくれますか……?」
「……まぁ、喜んで?」
「~~~~~っっっ!!!! い、言いましたからねっ!!?」
「……うるさっ」
思わず耳を帽子の上から塞ぎそうになる声量だった。
「ねぇっ、言いましたよねっ! また食べてくれるって言ったでしょう!?」
「わーってんだよ! また食うってば!!」
投げつけるように言い放てば、急いで両手で頬を押さえつける。
隠そうとしても隠し切れなかったのだろう。信じられないくらいに柔らかく笑った。
「……ふふっ、うふ、えへへぇ……っ」
「なんなんだよコイツ……」
ちょっと怖いくらいには笑い続けていた。
「てか食ったら帰れよ」
食わせてもらっている身で言うのもアレな話だが、やはり言っておかねばなるまい。
こうして会うのは、どう考えてもよくないことでしかない。お互いに悪影響しか及ぼさないなら、近くにいるのはどうしても。
「…………そのことで一つ相談があって」
「……?」
ところで、体の弱いメジロアルダンだが、今は絶好調をマークし続けている。
自責の重荷は増やさせたくないのだ。余計な荷を背負わせないようにと、彼女は格段に調子の良い日に限定して、彼の元へと訪れている。本来ならば毎日でも来たそうな勢いであると、アルダンの傍付きは推理している。無論のことだが、その気配に少年は気が付く由もない。
「夜も遅いし」
「帰るにはちょうどいいな」
「帰り道も物騒だし」
「車だろお前」
始まりはそれぞれが責任感と自責で刻み付けた思い込み。
それらを真実の心とするまで、それなりに時間は必要だろう。
「今日は泊っても……」
「バカじゃねーの?」
けど、いつかは。
・ちっちゃいバカ
当主は出ていく際の最低条件として、住まいの支援と毎月の仕送りの約束を締結させた。バカはバカでとんでもないバカだから、その条件に対してかなり渋ったが、おばあちゃんは頑張って納得させたのだった。これがなくては野垂れ死ぬのも断然あり得ていた。バカじゃん。
最初は腹筋、背筋、スクワット、腕立て伏せ等の筋トレをそれぞれ百回ずつ。加えて朝夕に一キロずつのランニング。これを毎日こなして、一週間毎にその量を少しづつ増やしていった。なお、栄養を碌に摂取できていないため、肉体の練りあがる速度は遅々とした歩みだった。継続が力にならなけりゃ、トレセンにすら入らずグッバイしてたであろう。
まだまだ仮面は作りこみが甘い。この日を機に、内心を悟られぬようにより精巧なペルソナを形成していく。だってそうすれば、彼女が悲しまないと信じていたのだから。
もう惚れてる。バチバチに惚れ込んでる。一万年と二千年前から愛してるかもしれない。けど自覚しそうになるたび、心を覆う自責と否定の意識が邪魔をして、親戚なだけの姉的存在に落ち着く。やっぱバカじゃん。
この頃に好んだ味付けは、薄味が好き。けれども不思議なことに、とあるお嬢様のウデマエが上がるのと並行して、バカの好きな味付けも変わりゆくのだった。フッシギダネー。
時系列的にはこの先でたづなさん、ススズ、エアグルーヴ、マルゼン、フラッシュ、ドーベルなどなど、このバカが好感触を抱きやすい異性の特徴として、主に年上という点が挙げられる。歪めたのは、うん、まあ、誰じゃろう。
・ちっちゃいバカよりすこしおっきいお嬢
発展途上。同年代よりかは高めの戦闘力。
料理のウデマエも発展途上、どころかぺーぺーの初心者。しかし初めて臨んだ手料理は、見事に標的へと突き刺さる好感触を得た。続けていこうと思える大きな成果だった。なお、抱く感情はカワイイ弟くらい……ナノカナー? 本当カナー?
無自覚でバッキボキに歪めた。
・ばあやん
観客でありヤジウマ――もとい、傍観者。
ストックホルムもどきから発展して、くっついたらおもしれーなとか考えてる。
・おばあちゃん
孫的存在の急な一人暮らしに内心アタフタ。
事故にあったらどうしよう! 事件に巻き込まれたらどうしましょう! あんなに少ない仕送りで、毎日ちゃんと食べれているかしら! 学校で何かトラブルに襲われていないかしら! それに何より、十五にもなってない子供一人で一人暮らしだなんて、危ないことだらけじゃない!! とかなんとか、内心アワアワしている。けどそんなおばあちゃんの心配をよそに、肝心の本人が事故って乙ろうと事件で乙ろうとも、それはそれでアリとか考えていることをおばあちゃんは知らないのだった。
陰口った使用人をとりあえず首にして、更に地獄を見せてるかもしれない。