未踏領域で果てる   作:真の柿の種(偽)

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願望マシマシ地雷オオメ雰囲気ヤワメ


そのはち

 夢で再生された記憶は、当たり前の様に私を冷やす。

 春の陽気がぬくぬくとするこの季節に、毛布が欲しくなるなど珍しい。

 

「……ふぁ…………」

 

 一度覚醒を始めた自意識は、起床を促して脳を働かせる。五感から次々と運ばれる情報の数々は、少しづつ私の調子をつくりあげる。

 天井が知らない材質。電球の形も色も、これまた見慣れない。

 口の中は鉄の味。夢にうなされて唇を噛み切っていた。

 鼻腔に運ばれるのは、他人の家の様な不思議な不思議な匂い。でも何故だろうか。少しだけ胸がくすぐられる匂い。

 耳には鳥の囀り。でもいつとも違って、電車が走る音も追加されている。

 肌に触れる掛け布団は、いつもと違う手触り。そもそも寝ていたのはベットではなく敷布団。普段は中々使わないそれに、何処か安心する匂いを感じる。

 

「…………?」

 

 なんか、違う。

 部屋の窓はこの位置ではない。机の形ももっと別物だった。カーテンの色は、私の知っている物と同じだったが。

 そもそもだ、私のルームメイトは何処へ消えてしまったのだ。

 上体を起こしきり、周りを見渡して――――とりあえずの絶句。

 

「……………………」

「…………クソガキテイオー……ゴラァ……むにゃ……」

「……夢、なのかしら……」

 

 夢だ。これは紛うことなき夢。でなきゃ幻。それくらい現実との乖離が酷い光景だ。

 一緒の布団で一緒に寝ていたなど、昔はともかく最近にそんな出来事があったのなら、それほどに強烈な記憶を忘れる訳が無い。

 なのでこれは現実ではない。此処は夢。私の願望が自己満足の為に作り出した、妄想の桃源郷。

 

「……アパート……同棲…………幸せ四畳半……?」

 

 このシチュエーションは、最近読んだ駆け落ちモノの小説の影響だろうか。私よりもドーベルの方が気に入りそうな状況だが、私も嫌いではない。むしろ好ましい部類である。

 読了したあのストーリーでは、駆け落ち後の二人はささやかな幸せを満喫して、互いの間に小さな命が芽生えて、そこで終わっていた。

 そして夢とは記憶を元に再構成される積み木の様なモノだ。つまり。

 

「籍を入れて…………そうして……その後は……」

 

 とあるワンシーンを挟んで、病院へ場面転換して、それで終わったのだ。

 とあるワンシーン。

 チラリと、快眠を貪るカイトを見た。

 寝返りを打ったからか寝巻きは乱れて、少し色白な鎖骨が露わになっている。

 指先で少しだけ、いやもう欲張ってベッタリと手のひらで、筋肉質な首元を撫でる。

 

「……〜〜〜〜っ!」

 

 なんだか今日はとても暑い。主に顔一面が局所的に猛暑の日だ。足も不思議とバタついて、全体的に落ち着かない。

 普段だったら出来ない事だが、それも安心今は夢。私が生み出した都合の良い世界。だから赴くままに行動しよう。

 

「……と、とりあえず、お邪魔、します…………」

 

 口だけならおずおずと、しかし行動に一切の迷いなし。躊躇なんて勿体無いことはできない。私のレム睡眠が継続している間に、これでもかと私の欲を満たすのだ。

 まずはカイトの胸元へ潜り込んで、ゼロ距離密着した。

 

「…………あったかい」

 

 こう、肌同士の密着による皮膚温度上昇では無くて、胸の内からポンポンと優しく撫ぜられるような、安心する温もりを感じた。夢ってすごい。

 さて次はどうしようかと迷っていれば、カイトが動いた。

 

「………か、カイト……!?」

「……やよいにゃんこ……げっちゅ…………」

 

 げっちゅされてしまいました。今日から私の名前はメジロアルダン改め、やよいにゃんこで構いません。

 半身が覆い被さって、腕は首を通して回されて、頭は胸板へ押し付けられて。

 寝惚けたカイトは檻となって、私を抱きしめ閉じ込める。逃げ場は何処にもない。そもそも私自身が逃げる気を持っているかどうか。

 

「…………ぁぅぅ……」

 

 安心感と羞恥が変わりばんこにやってくる。暫くこのままでもいいかもしれません。なんて考えていれば、カイトは無自覚に次の一手を打った。

 徐々に締め付けが苦しくなってくる、腕の檻。抑えこまれる後頭部が、込められた力を直で感じている。これが夢の感触とは、生体の神秘ってとてもすごい。

 

「んっ…………かいと?」

「…………逃げるな」

「ひぅっ!?」

 

 決定打はここだ。この一手は私を底無しにダメにした。

 耳の位置は頭頂部。現在の位置関係では、ちょうど耳の位置にカイトの顔が来ている。

 寝言を呟けば、私の耳へダイレクトに伝わるのだ。

 

「は、はぃ……にげません、からぁ……」

「………ここにいろ……」

「ぁぁっ…………はぃ……わかり、ましたぁ……」

 

 正しい思考能力は奪われて、脳はとろけきっている。キャパオーバーな精神が、早急な睡眠を欲する。もうちょっと堪能していたいけれど、欲望よりも先に私が私を保てなくなってしまう。

 だからこれは自衛の睡眠。決してカイトに負けた訳ではありません。誰へ向かっての言い訳なのか、もう自分で自分を見失いかけている。

 どろどろに溶解した自意識は、底は落ちていく。そうして私は夢の中で眠りについた。

 

 

 一度でも許してしまえば、後はズルズルと押されてされるがまま。こんなことなら断固としてノーを差し出しておけばよかったと、そんなこと出来るはずもないたらればに、後悔の念を抱いていた。

 週二回は流石に阿呆なのではないだろうか。嫁入り前が何やっとるんじゃ。本家にバレたらカイトの頸が飛び跳ねかねない。その手の説法に貸す耳はついていない。

 世話焼きのラインを飛び越えやがった、七面倒なお嬢であった。

 そんなこんなで桜花賞を超えて、今日の朝。

 

「待てやよいにゃんこぉ!!」

 

 中々懐いてくれないにゃんこ。カイトは其奴をやよいにゃんこなる二つ名を付けた。そんなプライド気高き獣を、この手に一度捕まえたのだ。これでもかとホールドして、その身の自由を奪ってやった。あの毛玉に頬擦りしてやろうと、何度目論んだことか。

 そうして次は肉球をマッサージしてやろうと思えば、にゃんこは透明度を増して消えていく。

 そう、ネコ科動物的姿は世を偲ぶ仮の姿。彼奴の本当の正体は――――!!

 

「……なんだ夢か」

 

 そんな知能指数の低い夢を見ていた。

 枕元の時計を確認すれば、普段起きている時間よりも断然早い。

 意識もはっきりと開放感あふれる目覚めだ。そうして気付く。

 

「……? …………??」

 

 アルダンの寝顔がガンアップ。体勢は抱き枕。

 敢えて疚しき感じに言い換えるなら、カイトとアルダンは同衾していた。

 アルダンの布団はリビングに置いたはずだが、はて。

 

「……寝惚けたなコイツ」

 

 こうなった原因を即座に看破すれば、対応策も即座に浮かぶ。名付けて『使ってた寝具は逆ってことにしておこう作戦』だ。

 寝床を間違えるなど、一体此奴は何歳だったかしらと首を捻る。

 

「余裕あるし寝かしとくか」

 

 今日の授業は無い。かと言ってチームでのトレーニングも存在しない。現役を退いたアルダンも同じく。

 皐月賞前日。今日はスペシャルウィークが勝負服を受け取る日。

 

 

「どうしたの?」

「い、いえ、なんでもありません……あはははは……」

「オゥ……見ちった」

 

 可愛いおべべに着替えたスペシャルウィークを眺めていれば、とんでもない事実に気づいてしまった。ちょうど後ろに立っていたからか、その瞬間をバッチリと確認しました。時代の目撃者、エイヴィヒカイトです。

 本当なら見て見ぬ振りをすべきなのだろうが、これはどうするのが正解なのだ。指摘すれば多分セクハラ。しなければ明日に負けの目の可能性。折衷案など思いつかない。これは詰みかも分かりませんね。

 弄りたくもなってきたので、指摘してやろうと思う。

 

「……あーゆーのってマジで起こるんだな」

「みっ、見ましたかっ!?!」

「不可抗力って知ってる?」

「ううぅぅぅ……!!」

「なになに? なんのはなしー?」

「うんー? お前がメジロマックイーンにホラ吹き込んだってハナシー」

 

 脱兎の如く、その体現者が此処に極まれり。

 脇目を振らずに走り出すクソガキだが、既に協力者はそのタイミングを待ち構えていた。阿呆め。地の利に人数有利、両方とうに抑えているのだ。やはり戦いとは始まる前に終わっているものなのだ。

 

「ちょっハナシテヨー!!」

「ナイスゴールドシップ」

「これでマグロ奢りってマジ?」

 

 出口付近を張らせていたのはこの為。

 体格差とは残酷なもので、小柄なトウカイテイオーは、大きなゴールドシップに抑え込まれる。

 

「マジマジ。なあトウカイテイオー?」

 

 契約ではそうなっているが、カイトは一銭たりとて払う気が無い。だってほら、ちょうどいい財布が居るじゃないか。

 カイトの感情が伝わるように、目線をしっかりと合わせてやれば、目が全力バタフライを行なっている。人と話す時は目を見て喋れって教わらなかったのだろうか。これはいけません。

 

「さあ選べ。ゴールドシップと俺にマグロを奢るか、それとも俺に……指折られるか」

「怖っ! 奢る奢りますっ! ゴメンナサイー!!」

 

 優しいトウカイテイオーは、カイトの金欠を見兼ねてくれたのだろう。意気揚々と、ご馳走します宣言を行う。些細な善行へこんなにも全力になれるなんて、ぼかぁ彼女に尊敬を抱きました。

 ぶっちゃけた話。キレてるかキレてないかでいえば、メーターは振り切っている。理不尽な騒動の元に対して、これ以上同じ轍を踏ませない様、徹底的に躾ける必要がある。

 でも指を折るとか、そんな物騒は実行しませんよ。ホントホント。エイヴィヒカイトウソツカナイ。

 

「あいつへの訂正もな……?」

「するからっ!!」

「ゴールドシップ」

「うぃ〜」

 

 その言葉が聞きたかった。その言質を確保すれば、もう拘束の必要は無い。ジャックな外科医の面持ちで、トウカイテイオーを解放する。これに懲りたなら、今後似たようなことはしでかさないだろう。

 

「……なんだったんだ?」

「気にしないでくれ」

 

 こっちの事情はもう済んだので、その一言で打ち切る。未だ荒れ狂う感情を自覚している今、深入りはオススメしない。そう視線で伝える。

 ああ、流石はトレーナー。察してくれて何よりだ。

 

「んで、明日大丈夫なのか?」

「……明日はお母ちゃんも見てるんです、なので! 頑張ります!!」

「スペ先輩気合十分ね!」

「(腰チラさせながらの宣言でありました)」

 

 指摘はしても、ジロジロ見る気も無い。さり気なく目線は逸らして、眩しい柔肌から目を背ける。

 せめて筋肉増加であってくれと、どうか贅肉増加でありませんようにと、明るい空の向こうに祈るばかりだ。でもスカートの淵に乗っかっていた質感を思い出せば、後者が濃厚な気がする。

 

「明日の踏み込みは力強そうだな」

「うぐっ……頑張ります!」

「グラビティパワー満天で頑張れ」

「が、頑張ります!」

「スぺちゃん、どうかしたの?」

「頑張ります!」

 

 頑張りますBOTと化したスペシャルウィーク。見て見ぬフリをしたい事柄のあまり、自我の崩壊が始まっている。もしかしたら自分は純朴な少女をぶっ壊してしまったかもしれない。ちょこっとの暗い愉悦に、口角を気づかれないように釣り上げた。

 どうせなるようにしかならない。今更ジタバタしたって覆るような事柄では無い。賽を用意する期間は終わりを告げている。

 スペシャルウィークの、初めての大舞台。日本一を目指す少女の、大一番。

 

「……明日のレース、どうせなら楽しめるといいな」

「はい! 頑張ります!!」

 

 カイトには少し難しいことを、この少女ならできてしまうのだろう。

 それがちょっぴり羨ましい。

 

 

 大きな賑わいだ。それもそのハズ、今日はGIレース。それも三冠という最高峰の名誉を手にできる、その足掛かりの始まり。

 先日カイトが走ったレースの時よりも、歓声の数は多いように思える。どっちが上などは無いのだろうが、皐月賞とは桜花賞よりも客を集めるらしい。これでは屋台も繁盛していることだろう。

 活気あふれる祭りのような熱の中で、スペシャルウィークを抜いたスピカは、パドックへとやって来ている。

 

「ああ、例の――」

「よく――堂々と」

「……なんか、居辛いっすね」

 

 注目を嫌が応にも集めれば、それりゃ苦言の一つや二つも漏れる。不可抗力ってやつだろう。

 

「ちょっとウオッカ!」

「あっ……す、すみません」

「んー、何の話しだ?」

 

 後輩のお茶目を、目を細めた笑顔で流す。と、そういえば。

 無差別に向けられる奇異の視線と、嘲るような呟きでたった今思い出せた。そういえばカイトには向かうところがあったのだ。もちろんスペシャルウィークの走りは見るが、それまで此処から離れなければならない事情があった。

 これみよがしに携帯を取り出して、みんなへ伝える。

 

「ちょっと用事あるわ」

「えー? もうスペちゃん出てくるのに?」

「ああ、どうしても外せない用事。でもレースまでには戻ってくるし、スペシャルウィークの勇姿も見届けれるから」

 

 そう満面の笑みで伝えれば、スタコラサッサと踵を返す。

 とりあえずは適当な食べ物でも買って、上階の席から眺めるとしよう。あそこなら誰の邪魔も入り辛く、誰の邪魔もし辛い。パドックを見たくはあったが、そこまでの高望みは人様に迷惑をかける。

 それでは、と。後ろ手を振りながら歩き出せば、二歩目が踏み出せない。後ろにつんのめっているような感覚を受け取れば、掴まれていた制服の裾がシワを作る。

 振り返れば、人参色先輩の姿。

 

「…………」

「先輩?」

「用事ってなにかしら」

「ヴェッ、いや……まあ、野暮用ですよ」

「どんな野暮用なの?」

 

 サイレンスに詰めてくるスズカ先輩。略してサイレンススズカ。

 淡々と、何処までも不思議そうな顔が怖い。スペシャルウィークの憧れた先輩は、彼女の晴れ姿を見逃すなと目で語る。

 

「あっ、とー……! 腹! 減ったなーって!!」

「ん。食うか?」

「これで解決ね」

「……えぇ……ありがとうございます……っ!」

 

 苦しい逃げ場は、ウスターソース色の麺に阻まれる。

 差し出された焼きそばを、うんともすんとも言えずに受け取る無力なカイト。しかし何処までも邪魔をするゴールドシップだ。此奴は天敵説、再び色濃くなってまいりました。

 軽く項垂れながら、跳ねないよう気をつけて焼きそばを啜る。うん、美味しい。大きく盛られた器は、それなりの重量感を手に伝える。これで腹は膨れる。空腹を理由に消える口実は消えた。

 なので袖から手を離しては頂けませんか。

 

「もうすぐね」

「おーい、無視ですかー」

「離したら、逃げるでしょ?」

「…………」

 

 沈黙が雄弁に是を語ったように捉えられて、これ見よがしに溜息を吐かれる。

 

「い、やいや、逃げませんって」

「いーや今のは逃げてたな。ナイスだスズカ」

「逃げないってば」

 

 桜花賞でやらかしたツケ。ヘイトを分かりやすく叩き買った、あの走り方。意図したものでは無いけれど、それでも反感を買うには容易い勝ち方だった。

 感情とは流水の如く。反感反発心とは本人だけでなく、周りへ流れることもある。

 正直なところ、ヘイトが周りへ向くのがトレーナーだけなら構わない。その覚悟を決めた、責任を取れる大人だ。彼に対する遠慮の必要は、あまり無かった。

 それがチームメイトともなれば、話は全くの別物。なのだが。

 

「……」

「あ、スペちゃん」

 

 どうにもこの先輩は、カイトの思う通りにさせてはくれない。結構強引なところもある、静かな先輩だ。

 白と紫の晴れ着に着替えて、気合十分と言った表情のクラスメイトが姿を表した。

 ホックの締まりきらないスカートから覗く、昨日も見た柔肌をつまんなそうに眺める。退屈な行動は下らない思考とマッチしている。

 結局今日は、先輩から一時も離れることを許されず、言い含められた子供のような気分が一日中続いていた。

 

 

 チームスピカで三冠独占なんてすれば、箔も出ると思ったが、そう現実は甘く無いらしい。やはりクラシック三冠とは、そう手が届かないからこそ人生の夢と見定める者だっているのだろう。

 メイウンスマイさんの仕掛け。スペシャルウィークの増量。坂への不慣れさ。大きく分類すればこの三つになる。それが一冠目を逃した原因だと、カイトは息を切らすことなく推測を立てる。

 

「合ってるよ。概ねがお前も考えた通りだ」

「体重周りは改善出来たんじゃない?」

「……ああ、俺の見積もりが甘かったよ」

 

 ランニングマシーンをひた走りながら、消沈気味のトレーナーとの反省会。とはいえ自らの落ち度とする所は心得ているようで、カイトの仕事は問題点の反魂くらいなものだ。

 放任主義の個性重視が、悪い方へ傾いた結果だろう。他の走者をもっと研究していれば、あるいは食事制限か坂に慣らさせるか。どれか一つでも達成できたのなら、タイトル獲得にも手が届いてように思える。

 もっとも、今回は負けた訳だが、それはそれで構わないと考えていた節も見受けられた。

 

「でも落ち込みすぎでしょ」

「…………」

「イキモノは不完全だし、俺らだってトレーナーに完璧完全完成を望んでるわけじゃ無い。それに……」

 

 給水のため、ペースをウォーキング程度へ落とす。

 三度口へ含んだ後、カイトは自らの確信を話す。

 

()()()スペシャルウィークは立ち上がるんだし、当事者でないトレーナーがウジウジしてもね。ぶっちゃけ時間の無駄」

「お前なぁ……少しは歯に着せろよ……」

「トレーナー自身が自覚してる事をワザワザ俺に言わせてるんだ。二度手間させられると結構腹立たない?」

 

 この男、どうにも自分を責める相手が欲しいだけに見える。その気持ちは分からないでもない。自分で背負い込めれば、そうして自分だけが悪者になるのはとても楽だ。でもスペシャルウィークはそれを決してしないだろう。スピカの面々も、トレーナー周りの人達はそう言った言葉を投げかけない。

 だからカイトのこなす今現在の役割は、ただの貧乏くじだ。こんな楽しくないこと、嫌々やっているに決まっている。こんなのは焼肉くらいは奢ってもらわねば割りに合わない。

 

「次の給料日、ザギンで待ち合わせな」

「……お前に愚痴らなきゃよかった」

「身から錆を出し過ぎなんだよ」

 

 ただカイトとしても、トレーナーには感謝している訳で。だからこんな相談のような、その実反省会に付き合ってやっているのだ。

 カイトという異分子を受け入れようと思いついてくれたこと。先の桜花賞での騒動。

 此処へ至るまで一ヶ月。面倒だと、手に負えないと感じた見捨てるのも可能なくらい、その程度には理解を深めている。それでも見捨てずに居てくれているのは、シンプルにうれしく思う。

 絶対に口には出さないが。

 

「てかサイレンススズカ先輩のアレってなに?」

「分からん……あ、でも先週頃から様子が違うような……」

「あやふやかよ。もっと舐めるように観察しとけよ」

「俺捕まるぞ」

「トレーナーならしゃーないでしょ。脚フェチ」

「言い方ァ!!」

 

 たづなさんから夕飯に誘われた男二人。暇つぶしの軽いトレーニングは、緑のお一人が来るまで続く。ご飯の前は、お腹を空かせるのが一番良い。

 

 

 不調は無かった。

 血圧は良好。視界は鮮明。倦怠感など微塵も無い。頭痛も筋肉痛も、一切合切予兆を見せない。不備の足跡も聞こえない。

 意気揚々とゲートインした。歓声に紛れた罵倒を拾えるくらい、五感は冴え渡っていた。これ以上は求められないくらい、コンディションは最高潮を維持していた。

 

「――あれっ?」

 

 ゲートが開くのは、スタートの合図。学園で学ぶ前に、中学を卒業する前に、物心つけばそれとなく理解している。それくらい分かりやすい始まりの合図。

 開いた瞬間に、次々と飛び出していく。フォームを整えて、周囲を確認して、自らにとっての優位を確保せんと走る。

 それはカイトとて例外では――――否、カイトだけが例外だった。

 

「う、そ」

 

 もう一度言おう。

 血圧は良好。視界は鮮明――――とにかく調子はこれ以上望めないクラス。目に見える異常は無くて、五体で自覚できる異常も、これまた感じない。危険信号となる苦痛なんて、もってのほか。

 自分自身に理由を聞いても、理解不能と自分は結論を出す。なんでこうなっている。何故、何故。

 何故エイヴィヒカイトは、足を動かせずにいる?

 

「ちょっ、マズっ……!?」

 

 まるで下半身にボンドを塗りたくって、乾いた後に接着剤に漬けたような。要約すれば、下半身の全てが固定化されている。

 

「シャレになんねぇって……!!!」

 

 ピタリと止まって、一ミリも動きはしない。指は動かせるが、どうしてもつま先が前へ進まない進めない。無理に動かそうとしても、硬質化した足は軋んだような感触だけ受け取らせている。そのまま無理をすれば、割れてしまうのでは無いかと危惧するくらい、何処までも足が硬い。

 このままでは、レースに負ける。

 

「ダメだろ」

 

 苦痛の生まれない異常事態に、恐ろしく冷たい汗が出る。このままでは負ける。スタートすらせず、健闘すらせず、落第者となって無為に終わる。

 それは、夢を諦めると同義。

 許せない。そんなことを受け入れられるほど、カイトは人格者では無い。何で動かないのかと、答えの出ない不明瞭に段々と苛立ちが募る。こうしている間にも先頭との距離は、絶望的な差へ広がっている。

 動かせば割れるのなら、割ってしまえ。

 そう決心すれば、案外一歩目は容易い。膝を上げて、足の裏を着地させた時、致命的な響きをカイトだけが聞いた。

 

「――――知ったことか」

 

 最初の一歩だけが、どうにも難しい。であれば、進んだ今ならその先は容易がありふれている。

 きっと先頭とは、八百程度の距離が離れている。

 そう、その程度だ。

 ターフに流れる一つの常識、『レースに絶対は無い』。そんな絶対を捻じ曲げる、絶対的存在だと証明せよ。

 こうしている間にも、先頭との距離は、常識的範疇に収まる絶望的な差へ広がっている。ほら、所詮はその程度でしか無い。

 常識を越した超越を目指す身として、その程度の差異は有って無いようなもの。

 

「さあ、――――ラストスパート(はじまり)だ」

 

 フルスロットルが木霊する。筋肉が摩耗する。骨の強度が損なわれている。

 でもまあ、それで勝てるのなら安いもの。安い買い物なら、カイトは好きだ。

 そうしてカイトは、圧倒的を越した追い込みを見せつけて、当然の表情で勝利した。

 周りが勝負服でおめかしして、その中で唯一体操服で臨んだ異分子。

 前回は明らかに様子がおかしかった。茫然自失の自意識を薄くしていた様子は、誰の目にも止まって、明らかな不調だと教えていたからまだよかった。

 今回はどうだろう。

 スタートしても一歩たりとて進むことなく、コースの半分を過ぎた頃にスタートし、挙句大差で勝ち上がる。その姿を遠目に見ていた殆どには分からなかっただろうが、スタート地点で棒立ちでいる走者。

 遊んでいたと考える者はいる。手を抜いていたと叫ぶ者もいた。

 マスコミはこれでもかとその姿を激写していた。

 

『――――!! 、――ッッ!!?』

 

 真剣さを嘲笑った、ろくでなしだと泣いたウマ娘がいた。

 私達の目指した夢で遊んで、それで満足かと慟哭を聞かせるウマ娘がいた。

 

「――ごめんね」

 

 そんな彼女へ、目を細めて笑顔で謝る。

 競う相手の存在しない、孤独なレース。

 直近の夢へ、遠き夢へ、エイヴィヒカイトはまた一歩近づいた。

 ティアラはまず一つ。

 つまらなそうに独り、曇天を眺めていた。




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