アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
白亜の城。
エイベルン王国の城がそう呼ばれるようになったのは、王都全体に使われる純白の石材に由来する。
陽の光を浴びれば白銀に、夕日を浴びれば黄金に輝くその石はエイベルンの領土から採掘され、主に建築材として重宝されてきた、周辺国家からも高い需要がある代物である。
固く、それでいて比較的軽い材質であるそれは、城だけではなく王都の建物全般にも用いられ、街を囲う壁にも利用されている。故に、街全体が純白に輝いているようにも見えていた。
豊かな山と森の間、広大な草原の中心に鎮座する王都は、はっきりとしたコントラストを生み出していた。
現在の王の治世になってからは争い事に巻き込まれる事もなく、平和な暮らしを続けてきたその都。
そこに今、異質な訪問者が現れた。
「…? 何だあれは…」
王都を守る壁に設けられた、東西南北四つの門。王都をぐるりと囲う堀の向こう側で、橋でつなげられた巨大な入り口。
純白の石材の中、目立つ漆黒の鋼鉄の扉が取り付けられたその門の左右に控えていた、純白の甲冑で身を包んだ兵士達が、視界に入ったそれに訝しげな目を向ける。
遥か遠く、草原の向こう側に見えた、黒い影。
信じられないような速さで向かってくる、夜闇よりも黒い巨大な生物の姿に、兵士達はすぐさま警戒態勢に入った。
「あれは…竜か? こっちに向かって来るぞ!?」
「竜だと!? 何故そんな化け物がこの国に向かって来るんだ!」
過去にない、野生の猛獣の襲撃。
異常気象や災害で食べるものがなくなった獣が、人里におりて被害をもたらす事件はそう珍しくもないが、それはあくまで山や森に近い田舎で起こる事。
王都のような、自然を完全に隔てた環境ではそうそう起こる事はない、異様な事態である。
しかし、兵士達が最も困惑していたのは、現れた黒竜のその在りようだった。
見えているのは黒竜の首から上で、身体の殆どは地面の下に―――いや、自らが生み出した影の中に沈んでいる。見間違いかと目を擦り、見返すも、目に見える光景が変わる様子はない。
明らかに異様な光景に、兵士達は顔を引き攣らせ、あちこちで驚愕の声を上げていた。
「何だあの竜は……影の中を、泳いでいる…!?」
「奴が何なのかなど、どうでもいい! 橋を上げろ! 壁の中に入れるな!」
一瞬戸惑う兵士達だったが、厳しい訓練を経験している彼らは取り乱すことはなく、冷静に外敵が現れた場合の行動を迅速に行う。
堀に渡された橋を、ギリギリと両側に備わった鎖を引いて跳ね上げていく。
底に無数の罠が仕掛けられた、深く幅広い堀。跳び越えるには遠く、下りていけばたちまち致命傷を負う堀を回避するには橋を渡るしかなく、これでもう誰もこちら側に来ることはできない。
防衛のために設けられたその機構が久しぶりに使われ、ガコンと道が完全に閉ざされた。
それを目の当たりにし、悔し気に歯を食い縛る者がいた。
兵士達からは見えない位置、黒竜の背に乗るアイシアとセリアである。
「く…やはりもう警戒されてしまったか。頼もしいと言えば頼もしい対応の速さだが、今は少しばかり腹立たしいな」
黒竜の背に乗り、丸一日。彼の者の助力で、予想以上の早さで王都近くまで辿り着く事ができた。
だが、最初に考えていたように、途中で乗り換えるための馬を手に入れられず、仕方なく王都の近くぎりぎりまで世話になるしかなかった。
騒ぎになる事を考え、少し離れた位置で降ろしてもらうつもりでいたのに、その距離感を測り損ねてしまったのだ。
「アイシア、どうするの? これではもう一度橋を下ろしてもらわなければ…」
「…どうにかして、こちらの話を聞いてもらうしかありません。門の前まで行きましたら、兵士達に声をかけていただけますか。私よりも、セリア様の方が耳を傾けてくれるかもしれません」
「わ、わかったわ…!」
不安げに尋ねるセリアに、アイシアは険しい顔のまま答える。
ぐっ、と拳を握ってやる気を見せるセリアから目を逸らしてから、アイシアは自分の浅はかさに歯を食い縛った。
(目立つ白旗でももって来ればよかったか…こちらに私達がいる事を伝え、争いの意志がないことを教えれば、警戒を薄れさせられたかもしれないのに…!)
見るからに恐ろし気な風貌をした黒竜、その背に乗る女騎士と令嬢。
こんな連中が現れて、警戒するなという方が無理である。国を守る役目を担った兵士達ならば、間違いなくこれを排除しにかかる。いや、そうしなければ守護者の人を任せられた意味がない。
焦りのせいで頭がうまく働かないのか、セリアとの旅が始まって以来上手く物事を運べないでいる。
精神的にまだまだ未熟であることを、自分で自分に突き付けているようで、アイシアはひたすらに自分の浅慮さを恥じるばかりであった。
(…後悔するのは、全てをやりきってからだ)
ぐっ、と唇を噛み、アイシアは自己嫌悪の感情をどうにか抑え込む。
表情を引き締めると、丸一日影を泳ぎ続け、アイシア達を運び続けてくれた黒竜の首元に手を伸ばし、光沢のある鱗を撫でる。
「…よし、もうここでいいだろう。貴殿には世話になった、本当にありがとう…!」
感謝を伝え、身振り手振りでここで降りる事を伝えるアイシア。
警戒する兵士達を刺激しないよう、少しでも離れた位置に留まってもらい、進言が終わるまで待ってもらおうと、黒竜の耳元に口を寄せて告げる。
だが黒竜は、首元に触れるアイシアに目を向けると、小さく唸って視線を前に戻す。そして減速するのではなく、あろうことかより一層速度を上げて泳ぎだした。
既に馬が走るよりも速く泳いでいたのに、それまでの倍近い速さになっていった。
「…!? ま、待て…違う! 行くんじゃない! 止まってくれ!!」
「う、ウソ…! このまま行ったら…!」
とてつもない加速で、髪が暴風に巻き込まれたように嬲られ、荒れ狂う。
必死に制止を伝えようとするアイシアだが、あまりの速さで黒竜の注意を引くこともできず、セリアとともに吹き飛ばされないようにしがみつく事しかできない。
凄まじい速度で迫り来る黒竜に、警戒し身構えていた兵士達が狼狽し出した。
道を閉ざせば、まずその勢いを止められるだろうと考えていたのに、反対に加速するとは微塵も思っていなかった。
「なっ…と、止まれぇぇ!」
「それ以上近付くな、化け物ォ!!」
迎撃のために、弓矢をつがえて壁の上に整列する十数人の兵士達。他の位置に控えていた兵士達も集まってきて、謎の巨大な襲撃者を止めようと、弦を引き絞る。
その背に二人の美女達が乗っている事にも気づかないまま、次の瞬間には兵士達の手から、鋭く無数の矢が放たれる。
黒竜は自身に向かってくる矢を前に、一切動じる事はなく、その全てを受け止める。鱗に当たった矢は全て弾かれ、一辺の傷をつけることなく地面に、影の中に落ちていく。
迎撃が無駄に終わった光景に、兵士達は思わず手を止めて目を見開く。だがすぐに我に返り、弓を捨てると今度は槍に持ち替えて、穂先を黒竜に向けて待ち構える。
至近距離にまで近づこうものなら、差し違えてでも止めてやる覚悟で、迫り来る怪物に闘志を昂らせる。
しかしその覚悟が報われる事はなかった。
黒竜はすさまじい速度を保ったまま突然影に潜り、兵士達の視界から消えてしまったからである。
「なっ…!?」
槍を手にしたまま、呆然と立ち尽くす兵士達。
簡単に隠れられるはずのない巨体を探し、壁の上から身を乗り出し、辺り一面をきょろきょろと探し回る。だが、文字通り影も形も見当たらず、徐々に不安と恐怖が芽生え始める。
一体どこに消えた、どこから向かってくる、という不安で、兵士達の顔中に脂汗が噴き出していく。
ゴクリ、と仲間の誰かが息を呑む音が妙に響く。
まさか、今まで見ていたものは幻か何かだったのではないか、などと言う突拍子もない考えが浮かび出したその時。
「―――ゴルルルル!!」
堀の直前から、全身を真っ直ぐに伸ばした黒竜が、矢のような鋭さで飛び出し、壁の上に並んだ兵士達の元に飛翔する。
水中から飛び出すように激しい音がしたわけでもない、本当に静かに、風切り音のみを残し、巨大な黒竜が空中に飛び出し、兵士達を飛び越えていく。
兵士達はひたすらに唖然となり、役目も忘れて呆然とその光景を凝視する。
しん、と静まり返った彼らを悠々と越え、黒竜は壁の向こう側の地面へと潜り込んでしまった。
「……! はぁっ!!」
「げほっ…! ゲホッ…」
視界に光が戻って来ると、アイシアとセリアは新鮮な空気を求めて大きく喘ぐ。何度も肩を上下させ、肺の中に大量の空気を吸い込ませる。
時間にして十数秒、その間に黒竜の背から手を離さずにいられたのは、縋るものがそれしかなかったことによる、本能的な体の働きによるものだった。
「何だあの化け物は…!?」
「に、逃げろ! 食われちまうぞ!」
「いやぁっ! 死にたくない!!」
ちかちかと白んでいた視界に、徐々に色が戻り始めると、アイシアはようやく自分の周囲の状況を理解し始める。
黒竜が泳いでいたのは、街中だった。白く美しい壁が続く、目的地である王都の街だとすぐに分かった。
丁度昼頃で、最もにぎわっていたであろうその街の中を、悲鳴をあげる人々が逃げ惑っている。全員が全員、初めて目の当たりにする怪物を前に正気を失い、我先にと背を向けて走り出している。
長年平和に慣れた住民達には刺激が強すぎる、凶悪な外見の怪物の登場で、街は完全に恐慌状態に陥っていた。
その怪物の背に乗ったまま、アイシアはがくりと項垂れ頭を抱える。
混乱の原因の一端となった申し訳なさで、もう人々の方に顔を上げられそうに無かった。
「まさか…あのまま突っ込むだなんて」
「グルルル…」
嘆きの声を上げるアイシアに、黒竜が何事かと横目を向けてくる。
悪意の欠片も感じられない、頭を抱えるアイシアを本気で案じるようなその素振りに、ふつふつと湧いていた怒りがぶつけ所を失う。
急いでいた彼女達を想っての行動であるとわかり、一言も文句を挟めなくなってしまった。
「アイシア! どうするつもりなの!? こんな事になっては…!」
「ええい…仕方がない! このまま城まで向かいましょう! 細かい事は、今考えます!」
起こすつもりのなかった大騒ぎを起こしてしまった責任を感じ、真っ青な顔になるセリアに、アイシアはそれ以上に引き攣った顔で返す。
やってしまったものは仕方がない、と割り切れればよかったのだが、生憎アイシアはそこまで薄情になれない。凄まじい罪悪感で押し潰されそうになりながら、黒竜の背に顔を埋めるばかりであった。
背中でそんな悲壮な空気が流れるのも知らず、黒竜はまっすぐに街中を突っ切る。最初にアイシアが示した方角の通り、そびえ立つ真っ白な城に向かって影を泳ぎ続ける。
途中に遭遇する人々や建物をすべて無視し、最も目立つものが見える場所を目指して進み続けていた。
そうしてやがて、彼女達の前にもう一つ、重厚な造りの門が見えてくる。
壁の外と同じ堀に囲まれた、より厳重な警備が配置された城の入り口―――そして、アイシアとセリアが会おうとしている国王の元に通じる入り口である。
「止まれ! …いや、何だ貴様らは!?」
「人…? 人が化け物の背に乗っているのか!?」
国王の守護を担う、より厳つい鎧を身に纏う兵士達が、接近する黒竜を前に槍を構える。
壁に配されていた兵士達よりもベテランなのか、黒竜を前にして戸惑う事はあっても後退る事はない。そして黒竜の背に乗っているセリアとアイシアに気付き、疑惑と警戒の目を向けて身構える。
アイシアはガシャガシャと集まってくる彼らを目にし、眉間にしわを寄せて考える。
やがて女騎士は、勢いを全く緩めず突き進む黒竜の耳元に口を寄せ、天を指差すと大きな声で叫んだ。
「飛べ!!」
「ゴルルルルルル!!」
黒竜は唸り、一度影の中に深く潜る。最初から覚悟を決め、息を止めたアイシアとセリアがきつくしがみつく中、影の中で勢いをつけた黒竜が地上へと飛び上がる。
驚愕の表情で固まる兵士達を再び飛び越え、黒竜は城に通じる門を高々と飛び越えていく。
そして次の瞬間、ズシン!!と轟音を響かせて、黒竜は門の向こう側に広がる広場へと、四つん這いで着地してみせていた。
「ゴルルル……」
「な…何なのだこの巨大な化け物は…!?」
「何者だ、貴様ら! ここをエイベルンの城と心得ての狼藉か!?」
ようやく停止した黒竜の周りに、城中から武装した兵士達が集まり、鋭い槍を突きつけて包囲を始める。背に乗っている、怪物とともに現れた彼女達を警戒し、不審な真似をすれば即座に貫く姿勢を見せる。
黒竜は自身に向けられる穂先にやや不機嫌そうな唸り声をあげるも、首を撫でられ宥められたことで、渋々剥き出しにしていた牙を収める。
突然大人しくなった黒竜に、兵士達が訝しげな視線を向ける中、体勢を低く落とした黒竜の背から女騎士と令嬢が降りてきたことで、全員の注目が集まった。
「―――お騒がせして申し訳ありません…! 私はツーベルク公爵令嬢、セリア・ツーベルクです!」
「…その専属護衛、アイシアと申します」
「国王陛下に緊急の連絡事項があり、このような姿で失礼させていただきました! どうか、陛下に一度! 御目通りをお願いします!」
困惑の視線が集まる中、セリアはボロボロの装いのまま見事な
どよめく声で、辺りがざわざわと騒がしくなるのを無視し、セリアはキッと表情を引き締め、兵士達全員に向かって声を張り上げる。
しかし、セリアの言葉にすぐに応じる者は一人もおらず、未だ全員が疑いの目を向けていた。
「なっ…何を言うのか!? そんな化け物と一緒に現われておいて、できるわけがないだろうが!!」
「無茶な事を言っている事はわかっています……ですが事は、一刻の猶予もありません! 早急に応じていただかなければ、この国に未来はありません!」
「何を馬鹿な事を…!」
予想通り、セリア達が真正面から名乗り、兵士達は警戒したまま応じる気配を見せない。
異様な力を見せる黒竜の背に乗って現れた二人を、怪しいと思うなという方が難しく、化け物を従える魔女が攻めてきたと言われた方がまだ信じられる状況である。
説得は困難を極めると覚悟を決めていたセリアは、一体どうすればいいのかと険しい顔で歯を唇を噛み締める。
そんな時、傍らから聞こえてきた金属音に、振り向いたセリアや兵士達はギョッと目を見開き、言葉を失う。
いつの間にか鎧を脱ぎ、剣を鞘ごと外したアイシアが、制服の上着まで脱いで地面に投げ捨てていたからだ。
「……私達を敵とお疑いなら、この場でいくらでもお調べいただきたい。何なら全裸になっても構いません…ですが、その代わりどうか、セリア様のお話をしかと聞き入れていただきたい」
シャツとズボン姿になったアイシアが、その場に膝をつき深々と頭を下げる。
主以外の人間に首を垂れるという、騎士にとっては最大級の屈辱をあえて受け入れながら、表情一つ変えない女騎士の姿に、身構えていた兵士達はかける言葉を見失う。
「…グルルルル」
すると、彼らはさらに驚きの光景を目にする。
アイシアとセリアが乗ってきた黒竜、あまりに異様過ぎる姿を見せつける怪物が、まるでアイシアに付き従うように地に体を伏せ、首を垂れていたからだ。
一端の騎士のような礼儀を見せる黒竜に、兵士達は逆に恐怖感を覚えて後退ってしまうほど。さらにはセリアまでもが地面に膝をつき、頭を下げるのだからもう理解が追い付かない。
口を開かせる暇もなく排除するつもりでいた兵士達は、戸惑いながら互いに目を見合わせ、長く考え込む。
しばらくしてから、兵士達の中で最も年嵩の、白く豊かな髭が特徴的な老騎士がセリア達の前に出て、険しい顔のまま口を開いた。
「……まずは、そのお姿を清めていただこう。王の御前に出るのに、淑女がそのような装いをしていいものではない」
老騎士から送られる気遣いの言葉、そして霧散していく周りの騎士達の殺気に、アイシアもセリアもホッと安堵の息をつく。
黒竜はそんな双方のやり取りを見ながら、べったりと腹を地につけ、深い息を吐き出した。