アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜   作:春風駘蕩

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23.Gluttony

 広大な平地と豊かな自然に恵まれた、エイベルン王国の北側の領地ツーベルク。

 長年に渡ってエイベルン王国を支え続ける、由緒正しき侯爵家の者が統べる地である。

 

 そこは今、謎の病魔によって衰退の一途を辿らされていた。

 

 

 

「お母さん……! お母さん!」

 

 幼い子供が、寝台から起き上がる事もできなくなった母親に縋りつき、外に聞こえてくるほどの悲鳴をあげて泣きじゃくる。

 枯れ枝のように痩せ細った母親は、痛々しい声で泣く我が子を宥めたくとも、弱り切った身体では頭を撫でてやることもできない。

 

 そんな家が一つや二つではなく、ツーベルク領内の主な町、さらに詳しく言うなら川に接した広範囲の人里で生まれ、悲しみの声があがっている。

 ツーベルク侯爵、アレス・レイル・ツーベルクもまた同じで、一向に引く事のない熱と吐き気、呼吸困難などで苦しみ続けていた。

 

「…もはや、この身も終わりか」

「旦那様…! そのようなことをおっしゃらないでください!」

「いや……自分の身体がどうなっているかくらいはわかる。私の命はもう…そう長くは持つまい」

 

 ベッドに横たわり、掌に血が滲むような咳を何度も繰り返すツーベルク侯爵。

 彼を労わる老執事も、顔色は悪くやせ細っている。忠義に厚い彼は自分の体の不調を押してでも、主の身を案じて職務を全うしようとしていた。

 

 屋敷内にいる他の執事や侍女達は、すでに暇を取らせて家に帰らせていた。

 主を敬愛している彼らは渋ったものの、ほとんどが体調に不調をきたしていたため、渋々ながらその命令に従った。

 屋敷に居るのはまだ元気な者か、命令に背いた頑固な者達だけだった。

 

「先祖代々、守り続けてきたこの地がこんな事になるとは……向こうで父祖に合わせる顔がない」

「それは…旦那様の所為ではございません。天災を人がいかに退ける事ができましょうか?」

「だがそれでも……もっと早く異変に気付き、対処する事ができていれば。ここまでの事にはならなかったかもしれんのだ」

 

 自己嫌悪に陥る主に、老執事は必死に否定の言葉を返す。だが、正義感の強いツーベルク侯爵は納得しない。

 苦悶の表情のまま頭を抱え、思慮の足りなかった自分を責め続けるばかり。

 

 老執事がかける言葉を見失い、悲痛な顔で俯き出した時、不意にツーベルク侯爵が顔を上げた。

 

「セリアは……セリアはまだ見つからないのか」

「…はい。例の書置き以外に手掛かりはなく、現在もアイシア殿と一緒に行方不明のままで…」

 

 たった一人の娘、愛する妻の忘れ形見であるセリアの事を考え、苦しげだったツーベルク侯爵の顔がさらに歪む。大切な宝物が手の中から消えた事で、弱っていたツーベルク侯爵の心はさらに苛まれる。

 

 領内に病魔が広がり、倒れる民が何人も出だした頃に突如姿を消した愛娘。

 部屋にたった一枚残された置手紙に書かれていたのは、『育てて頂いた恩を、今この時に返しに向かいます。親不孝な私をお許しください』という文章だけだった。

 

「ああ…一体何を考えているんだ。優しいあの子の事だ、この現状を黙って見ていられるはずもない……何か打破するための手立てを探しに行ったに違いない」

「ですが、一体どちらへ…?」

 

 老執事の呟きに、ツーベルク侯爵は険しい表情で俯く。

 彼の脳裏に即座に浮かんだのは、彼の人生でたった一人、長年に渡って嫌い続けているある男の事だ。

 

 レギン・ガーランド。

 貴族の子息が通う王都の学校の同学年の生徒で、何かと突っかかって来ては罵倒をぶつけてきていた、常に他者を見下す典型的な馬鹿息子だった。

 成績や家柄、さらには女子生徒との関係においていちゃもんをつけ、問題を起こす事が多かった相手。

 それは双方が大人になり、ツーベルク侯爵が家庭を持つようになっても続いた。

 

 集まりがなければ会うこともないような、思い出すことも煩わしい男。だが今この状況において、そんなろくでもない男の事が妙に気にかかっていた。

 

(あの男の領地は質の高い薬の生産地……もしやセリアはあの男の元に? なんと愚かな…飢えた獣の前に新鮮な生肉を置くようなものだ。何をされるか……)

 

 愛娘に向けられているかもしれない、下賤な欲望を想像し、ツーベルク侯爵はとてつもない吐き気を覚える。

 誇り高き貴族が相手ならば、ここまでの不安はそう抱きはしないだろう。だが、頼ろうとしている相手がもし奴ならば、考える以上の最悪の結末が待っているかもしれない。

 

 亡き妻の最愛の宝が、最低の存在に穢される光景を想像することは、弱った身体にはあまりに酷な事だった。

 

「…王都から、何か返答は」

「何も……街道は封鎖されたまま、隔離が続けられています」

「くっ…このままではいけない事はわかっているだろうに…!」

 

 頼りにならない王国に、ツーベルク侯爵は苛立たしげに声を荒げ、すぐに激しく咳き込む。

 

 隔離が対処として必要だと理解はできても、様子見がこうも長引くとさすがに腹が立ってくる。

 生きる為に必要な食糧の生産の多くを担うこの地の機能が停止したままでは、今後どのような弊害が出てくるかもわからないというのに、だ。

 

「これが神の采配だというのなら……神はどれだけ性格が悪いのだろうな」

 

 皮肉をこぼすと、老執事は気まずげに目を逸らす。言っても仕方ないことという嘆きで、侯爵自身も深いため息をついて項垂れる。

 

 そんな時だった。侯爵の寝室に、一人の薄汚れた格好の兵士が飛びこんできたのは。

 

「ほっ…報告! 報告です!!」

「何ですか、騒々しい! ここをどこだと心得て……」

「緊急の…報告なんです!」

 

 およそ領主の屋敷に入るには相応しくない格好の兵士、おそらくは国境警備の者であろう彼に、老執事が思わず苦言をこぼす。

 しかし兵士は引き下がらず、慌てた顔のまま跪き、ベッドに寝たきりとなった侯爵に首を垂れると、息を荒げたままその情報を口にした。

 

「てっ…帝国の軍勢が! 現在ツーベルク領に向かって進軍中! その数……およそ5千!!」

「なっ……」

 

 もたらされた報告に、老執事は絶句し目を見開き、呆然とその場に立ち尽くす。

 侯爵は僅かに目を見開くも、やがてベッドに倒れて顔を掌で覆うと、心底うんざりした表情で天井を仰いだ。

 

「…神よ、あなたは本当に残酷だ」

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 それは、まるで黒い波だった。

 重厚な漆黒の鎧に身を包み、整然と四列を保ったまま行進する数千人もの兵士達。

 山道を、川を越え、これから侵す地を見据えて進み続けるその姿は、まるで人間では無い一個の生き物の様だ。

 

 いや、一人一人の表情を見るとそれも正しいかもしれない。

 兜に隠された歩兵の顔は、皆ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべて進んでいる。まるで、目前に生肉を置かれた飢えた狼のように、欲望を抑えられないけだものの貌である。

 

 それを指揮する、馬に乗った将の顔を見ると、こちらも人間とは言い難い。

 向かう先、ツーベルク領に向ける目は、欲望に満ちた醜悪な眼差しである。兜に隠されていなければ、悪魔の様に歪んだ悍ましい顔が覗けたことだろう。

 

「フン…予定よりも遅いな。これが今の帝国軍の現状か、嘆かわしい」

 

 そんな声が、兵士達が進む山道を見下ろせる丘の上から響く。

 やたらと装飾が施された甲冑を身に纏い、同じく無駄に飾られた青鹿毛の馬に跨る、細く厭らしい目をした髭の男が兵士達の行進を見て呟いていた。

 

「だがあれはあれで、蹂躙が始まれば十分に役立つ点は褒めてやるべきか……進軍で手に入れた者は全て好きにしていいと伝えてあるし、不満をこぼす者はそういまい。まったく、都合のいい駒で助かるな」

 

 吐き捨てるように言い、将の男は鼻を鳴らす。

 彼の兵士達に向ける目は、同じ人間に向けるものではない。金をつぎ込んで仕込ませながら、思った以上に役に立たない犬か、使い勝手の悪い道具に向けるようなもの。

 彼らには、大事を成すための足掛かりにする程度の期待しか、勝敗抱いてはいなかった。

 

 

『帝国は全ての国を支配し、永遠不変の栄光を築く』

 それが現皇帝の掲げる理想であり、国を統べる指針である。

 

 帝国以外の国は全て、帝国に貢ぐことが義務であり至福。そうでないものは存在する価値がないと言われるほど、絶対的な権力を主張している。

 実際、その妄言を実現できるほどに帝国は軍事力を増し、周辺国家を呑み込んでさらに勢力を拡大している。数年前は現在の領域の半分程度しかなかったのだから、その速さは凄まじいものである。

 

 だが、それで得をしているのは帝国のごく一部、上層部のみである。

 帝国内は身分の差が激しく、貴族でない者は人間扱いされる事も少ない。男は単なる労働力としか見られず、高い税で縛られ自由など微塵もない。

 女にいたっては道具でしかなく、好き勝手に甚振られて道端に捨てられることもざら。

 老人にいたっては絞れるだけ絞られた後、見せしめに殺される事も多々あり。

 子供は幼い頃から洗脳教育が施され、決して帝国貴族に、特に皇帝に逆らわないよう魂の芯にまで叩き込まれる。

 

 帝国に生まれた者は、人間ではなくなるのだ。

 それが他者を支配しようとする化け物になるか、生きながらの屍になるか、その違いでしかない。

 

 

 今、他国に進軍している兵の多くは、絶対的強者に恭順し甘い汁を啜ろうと画策している者達だ。

 逆らうことは端から考えず、それならいっそ自ら従っていい目を見ようと考える小心者。自ら兵士を望む者がいたとしても、それは余程性根が腐った者か、殺戮を好む異常者である。

 

「だが、土掘りしか能のない下民よりはマシか……田舎を征服するのにそう時間はいらんだろうし、今回はずいぶん楽な蹂躙だ。こうも暇では、鈍ってしまうなぁ」

 

 山々の向こう側、畑が広がっているはずの土地を見やり、将の男は欠伸交じりに呟く。

 進軍の邪魔になりそうな作物は火をかけるか、兵を使って刈り取り捨てるか。田舎の食べ物など、上流階級の世界に生きてきた自分の舌には合うはずもないと、早々に廃棄を考える。

 

 将の男にも、もちろんこの場にいない帝国の貴族達にも、民の暮らしを考える気はさらさらない。

 後でいくらでも増える労働力の環境を、いちいち考えているほど暇ではなく、自分達が如何に優雅に快適に過ごせるかどうかこそが大事であり、唯一である。

 まだ到着もしていないが、将の男の脳内は帰国して遊ぶことだけを考えていた。

 

(買い取った女で遊ぶのももう飽きた……子供で猟をするのも最近つまらん。帰ったらまた別の玩具を買い求めるとするか……いや)

 

 退屈そうに虚空を見やっていた将の男だが、やがてにやりと不気味に嗤う。

 視線の先、ツーベルク領を越えたさらに先にある王国に思いを馳せ、男は自分の欲望がむくりと鎌首を上げるのを感じる。

 

「どうせなら……あの国の連中で遊べないか進言しよう。ああ、そうだ。あの田舎者共に武器を持たせ、互いに殺し合わせる催しを開くのもいいか? もしかすると陛下もお気に入りになられて、私への報償も増えるやもしれんな…」

 

 ニタニタと、将の男の笑みがますます化け物じみていく。

 その思考はもはや人間ではない。自分以外の全てを玩具としか考えない、そして自分の存在こそが絶対で揺るがない者と捉える、異常性を自覚しない怪物の思考である。

 

 身の毛もよだつ悪意を全身から醸し出した男は、俄然やる気を出して進軍の様子を見下ろす。

 そうと決まったのなら、さっさと命の限り働き死ね、と使い捨ての道具でしかない兵士達を見送り、すでにすべて終わったように馬の上で寛いでいた。

 

 だが次の瞬間、彼の余裕は全て失われた。

 

「「「「「ぎゃあああああああああああああ!!!」」」」」

 

 不意に聞こえてきた、軍勢の先頭を歩いていた兵士達の絶叫。

 遠い山道の先で、姿の見えない彼らから放たれたその声に、将の男は訝しげに目を細め、背筋を伸ばして目を凝らした。

 

「…? 何だ?」

 

 何が起こっているのか、と、一応将として持ち合わせている小さな望遠鏡を取り出し、レンズを覗き込む。

 軍勢の列を辿り、悲鳴が聞こえてきた方に照準を合わせてみる。すると、前方の舞台が何やら慌てふためき、来た道を駆け戻ってくる姿が目に入った。

 命令に従順であらねばならない兵士にあるまじき醜態に、将の男は苛立ちに顔を歪める。

 

 しかし続いて見えてきた光景に、彼はギョッと目を見開く。

 逃げ惑う兵士達が、次々に姿を消し始めた。何の前触れもなく、あっという間に数十人が消え失せたのだ。

 

「うわあああ!!」

「助けて……殺される!」

「お母さ―――」

 

 異変は徐々に軍勢の前方から後方にまで広がっていき、数百人が姿を消していく。

 大勢の悲鳴が響き渡るが、それは声の主が姿を消すたびに途切れ、然して大きくなることもない。静かすぎる最期が、望遠鏡を覗く将の男の目に焼き付けられた。

 

 ごくりと息を呑み、冷や汗を流す将の男。

 彼はやがて、消えた兵士達の足元に起きている異変に気付いた。

 

 兵士達が歩く山道、そこに巨大な影が広がり、兵士達はその中に足から沈み込んでいたのだ。

 ずるずると、凄まじい勢いで広がっていくその影は、まるで底なしの沼のように兵士達を沈ませ、瞬く間に全身を呑み込んでいく。

 異様なその光景は、まるで何かに捕食されているようにも見えた。

 

「ぎゃああああ―――」

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌―――」

「なっ…なんだ!? 何が起こっている!?」

 

 将の男は、望遠鏡の先で起こっている異常に絶句するしかない。

 彼が棒立ちになっている間に、犠牲者は遂に千人にまで届く。列の前方から順に、影の中に沈み真面な悲鳴もあげられないまま消えていく。

 何が起こったのかも理解できないまま、痕跡一つ残さず姿が見えなくなる。

 

 すぐ目の前で呑み込まれ消えていく味方に目を見張る後ろの兵士だが、気付いた時には彼らも影に足を取られ、同じように呑み込まれてしまう。

 何度も同じことが続き、あっと言う間に軍勢は半分近くにまで減らされていた。

 

 ようやく、異変を察したらしい後方の兵士達が、迫り来る何かに対抗するために武器を構えだす。

 広がってくる影に気付き、何かがいると察して飛び退り、呑み込まれる事を防ぎ始める。

 

 軍勢の減少が止まって、〝それ〟はついに動き出し、自身の姿を軍勢の前に曝け出した。

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 地面に生じた闇の中から飛び出した、巨大な黒竜。

 夜空よりも暗く、光の全てを呑み込みそうな色をした鱗に覆われた、一口で人を丸呑みにできそうな怪物が、雷鳴のような咆哮を上げてその姿を現す。

 

 兵士達は現れた怪物を前に、武器を構えたまま立ち尽くし呆然となる。

 迎撃することも忘れて固まる兵士達に、黒竜はギラリと鋭く輝く眼光を向け、夥しい量の血に濡れた牙を剥き出しにする。

 がぱりと開かれ、目前にまで接近する大顎を前にして、兵士達はもう何の反応もできなくなっていた。

 

「ゴルルルルルル!!」

「ギャッ―――」

 

 立ち尽くす兵士達の上半身が、黒竜のひと噛みによって食い千切られ、ただの肉片となり果てる。鎧など何の意味もなさず、ぶしゃりと噛み潰され、瞬く間に数十人が犠牲となり食い殺される。

 

 刹那の内に消えた味方の成れの果てを前に、すぐ横にいた兵士達は目を見開き、一拍遅れて悲鳴をあげる。

 だが、口を開いた時には既に黒竜の牙が近くにあって、上げた悲鳴ごと暗く深い喉奥に吸い込まれていた。

 

「このっ…!」

 

 何とか我に返った兵士が、ばりばりと味方の兵士を咀嚼する黒竜の顔に向けて槍を突き出す。しかし、突き出した槍はぶつかった途端に半ばからへし折れ、僅かにも傷をつける事も叶わずにただの木片に成り代わる。

 目を見開く兵士に、黒竜は一切の躊躇いなく食らいつき、ぼきっと腰から上を食いちぎる。

 

 一切の抵抗が無意味と悟った瞬間、黒竜を前にした兵士達は顔面を蒼白とさせ、武器を捨てて走り出していた。

 

「ひっ…ひぃぃぃ!?」

「ど、どけ! どけよ!」

「逃げろ! 殺されちまうだろうが!!」

「お前がどけぇ!!」

「死にたくねぇ…死にたくねぇよ!!」

 

 もう味方への遠慮などありはしない。自分一人が生き残る事を考え、一刻も早くあの恐ろしい化け物の前から離れることに集中する。

 もう彼らは他国を脅かす侵略者ではない。自分達を遥かに超える圧倒的強者に蹂躙され、見っともなく逃げ惑うだけの、張りぼてを失くした餌でしかなかった。

 

 背を向けて走り出し、後方の列とぶつかって渋滞を起こす兵士達にも、黒竜は躊躇いを見せない。

 手近にいた獲物を喰い終えると、黒竜はどうやってか自分の潜っている影を広げ、揉める兵士達の足元にまで届かせる。

 罵倒し合い、殴り合いまで始めた兵士達は、そのままずぶずぶと影に飲み込まれていった。

 

 

「ば……化け物、こ、こっちに来る…!? 嘘だろう…!?」

 

 そんな地獄の光景を、将の男はガタガタと震えながら凝視していた。

 彼の乗る馬も怯え、将の男が手綱を引いても応じない。あげくの果てに、体勢を崩した将の男が鞍から落下すると、我に返ったように走り去ってしまった。

 

「お、おい! 待て…待てこの獣め! 私を……私を置いていくな!!」

 

 逃げ去る馬に手を伸ばし、叫ぶ男だが、馬がそれを聞き入れるはずもなく、彼はぽつんと一人取り残される。

 

 悲鳴が丘の下から響き渡り、ぼきぼきと肉と骨が砕ける音が断続的に響く。徐々にそれが自分の元に近づいてくる事実に、背筋が震える。

 その事実に怯えながら、男は涙と鼻水で顔中を汚し、尻餅をついたまま震える体で後退った。

 

「来るな……こっちに来るな化け物! いやだ、私はまだ死にたくない!!」

 

 早くこの場を離れねばと、将としての責務をすべて放棄し、這いずりながら惨状に背を向ける将の男。

 そんな彼の目の前に、どちゃっと何かが落下してくる。

 

「―――ひ、ひぃっ! ひぃいいい!?」

 

 目前に転がったのは、兵士の生首だった。それも一つではなく、顔の半分が食いちぎられた物から、目玉が一つだけだったりと、無残な状態のものが幾つも。

 将の男は完全に腰を抜かし、自分と目が合った生首から離れる事もできず、じたばたと藻掻くことしかできない。

 

 そして彼は気づく。

 あれだけ聞こえていた悲鳴が、もう一つも聞こえてこない事に。

 生首たちを持ってきた〝それ〟が、静かに自分を見下ろしていることに。

 

「ゴルルルルル……」

「あ……ぁ…」

 

 顔を上げて視界に映ったのは、口周りを真っ赤に汚した黒竜の貌。

 そこだけ夜になってしまったかのように真っ黒な、鎧のような鱗に覆われた巨体に、一本一本が剣のように鋭く巨大な牙。そして、生物とも思えないくらいに怪しく真っ赤に輝く両目。

 

 文字通りの怪物が、ぎろりと男を見下ろしていた。

 

「……助けて」

 

 誰に対する者でもなく、将の男が悲しげにこぼす。

 黒竜はそれに耳を貸す様子も見せず、ゆっくりと顔を男に近づけ。

 

 

 がばりと。

 男に向けて顎を開いた。

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