アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
「お父様…」
ベッドに横になる、以前見た時よりも痩せ細ってしまったツーベルク侯爵に縋りつき、セリアは悲痛な声をこぼす。
枯れ枝のように骨が浮き出た、今にも折れてしまいそうなほどに弱った姿を目にして、一人娘はぐっと息を詰まらせる。
ツーベルク侯爵は、そんな娘に向けてふっと微笑み、ぽんぽんと彼女の頭をなでてやる。
「……大丈夫だ、君の友人が運んできてくれた薬のおかげで、私も、民も峠を越えられた。心配しなくとも、お前の前から今すぐに旅立つことはない」
「はい…はい…!」
父からの温かい感謝の言葉に、セリアはぽたぽたと涙を流し身を震わせる。
もう少し遅ければ、病の進行も帝国の侵略も、何もかも止めることが間に合わなかったかもしれない。自分の巡り合わせと幸運に、そして神の采配に深く感謝するばかりだ。
ツーベルク侯爵はしばらく娘の好きなようにさせていたが、やがてスッと目を細めて彼女を見つめ出す。彼の纏う雰囲気も、ピンと張りつめたものへと変わった。
「…だがセリアよ。私はお前を叱らねばならない。たとえこの身がどうなろうと、私はお前をあの男の元に差し出すつもりなどなかった……自分の価値を、過剰に貶め過ぎだぞ、お前は」
「…は、はい」
「結果が全てだというが、私はお前を失う結末などどうあっても受け入れられない。こんな事は、もう二度としないでくれ……お願いだ、私の宝よ」
ツーベルク侯爵はそう告げ、優しくセリアの頬に触れる。
たとえ最たる主君である国王に命じられたとしても、妻を失った今の自分にとって唯一の宝となった愛娘を手放すことはできないのだと、傷ひとつないセリアに心底安堵の眼差しを送る。
父からの懇願に、セリアも自分の愚かしさを痛いほどに知らしめられ、また涙腺を決壊せ、嗚咽をこぼす。失わずに済んだ温もりに、ただのか弱い少女はひたすら泣き続けていた。
しばらくの間、固く心を通じ合わせる父娘。
やがてツーベルク侯爵は、ふと思い出した様子で、この場にいない一人の姿を探した。
「…ところで、セリアよ。君の護衛の彼女は、今どこに?」
「…え、アイシアですか? 彼女なら―――」
顔を上げたセリアは、目元を擦って涙を拭い口を開く。
訝しげな目を向けるツーベルク侯爵に笑みを見せ、得意げな表情で続けて応える。
「この地の……この国の救世主と共にいます」
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バクバクしゃくしゃくもぐもぐボリボリ、と。
皿の上に乗せられた大量の果物を咀嚼し、〝それ〟は舌に感じる甘味を堪能する。
(ふむふむ……量は雀の涙だが、この味は実に甘美。最近は生臭い肉ばかり口にしていたせいか、初めての感覚で新鮮だな! 腹はたまらんが胸がいっぱいだ! 素晴らしい!)
黒い鎧の連中を片っ端から喰いまくり、影の中に引きずり込んでから呑み込み、食欲と衝動の赴くままに暴れ回ったが、それでも胃の中はまだまだ隙間が空いている。
自分を苛んでいた激しい飢餓感は抑えられたが、最初に戻っただけで、胃袋はまだ不満を告げていた。
(うむぅ……しかし、ここまで食っても満腹とならんとは、一体この身体はどうなっているのやら。下手をしたら、後になってやってきたあの白い連中まで食っていたところだ)
ごっくん、と噛み砕いた果物を呑み込んでから、〝それ〟はふと少し前の事を思い出す。
黒い鎧の連中を一人残らず平らげ、一息ついていた〝それ〟の元にやってきた、白い鎧の集団。
黒い鎧の連中よりもはるかに少ない、強い緊張感を醸し出していた彼らを前にして、〝それ〟はある既視感を抱いたことから襲撃を止めた。
やって来た集団の格好は、〝それ〟がこの地まで送り届けた女性の鎧と似た意匠のものだった。
細かな違いこそあったが、胸元に刻まれた紋章を思い出すに、間違いなく同じ勢力に属する集団であると推測できる。
武器を突き付けられたが、手を出さないで正解だったと〝それ〟は安堵の息をついていた。
(失せろと顎を向けたらその通りにしてくれたが、一体奴らは何をしに来たんだろうな……やたらと悔し気に顔を歪めていたが)
ぺろりと口周りを舐め、残った果実の汁も残らず舐め取り、〝それ〟は少し満足げに唸る。
皿の上にはもう一つも果実はなく、物足りなさを感じるものの、欲をかいてもどうにもならないと自分を納得させる。
思考を変えようと、〝それ〟はもう一つ、気にかかっていたことを思い出した。
(あの薬……妙に鼻につく臭いがする町に置いてきたが、あれで正解だったか? 適当に目立つ格好をしていた奴に渡してみたら、喜んでいたから間違いはないと思うが……効かぬ薬だったら失敗だったかもしれんな)
腹ごなしに影を泳ぎ、見つけた人里。
元気のない、痩せた人間ばかりが目立つその場所に入ってみて、もしや使い道があるかもしれないと、確保しておいた薬の袋を差し出してみたところ、ちょっとした騒ぎになった。
その際、鱗のどこかに引っかかっていたらしい大きな布に気付いた〝それ〟が、邪魔に感じて引き裂いたところ、辺りから凄まじい歓声が上がり心底驚かされた。
(あれが何を意味していたのか……未だに全くわからんな)
「――、―――――。――――、――」
ふん、と鼻を鳴らし、不思議そうに首を傾げる〝それ〟。
ぼんやりとしていた〝それ〟は、横から話しかけてくる、見慣れた女性に訝しげな視線を向け、眉間にしわを寄せた。
(…さっきからコイツは、何を話しかけているんだ? 果実をくれたのは嬉しいが、何をそんなに笑っているのやら。……まぁ、どうでも良いが)
満面の笑みと共に、やたらと話しかけてくる長く時間を共にした女性。
この地に辿り着き、近くの森の中でしばらく寛いでいたところに彼女はやってきて、大量の果物を目の前に持ってきた。
差し出されるそれを受け取らない理由はなく、こうしてご相伴にあやかっているわけだ。
(顔を見るに、何かの礼か……運んだことか? 正直言えば、俺は此奴を利用していた立場なんだがな……そう考えると、若干居心地が悪いな。少しばかり…申し訳ない)
「――、――――。―――――――」
(というかさっきからずっと喋っているな、こいつ。意思疎通だけでもどうにかなるまいか……主に、今後の方針を決めるうえで)
妙に親し気な様子の女性に、黒竜は影の中を揺蕩いながら、フッと呆れたような息をこぼしていた。
「こんな形でしか礼をできんが……その様子を見るに気に入ってくれたようだな、安心した」
手持ちの皿で最も大きな皿を用意し、その上に用意できる限りの果物を乗せて運んできたアイシア。
それを口にし、すぐさま平らげ始めた黒竜が目を細め、恍惚とした姿を見せてくれたことでホッと安堵し、笑みがこぼれる。
今現在、彼女の財布はすっからかんになっているが、これでもまだ礼には足りないくらいだと全く気にしていなかった。
「…貴殿は凄いな。私やセリア様を救ってくれただけではない。この国の窮地まで救ったのだからな……これでは、あの王も貴殿を害そうとは思えまい。してやったり、というところだな」
「ゴルルル…」
満足げに唸る黒竜の鱗を撫で、アイシアは語り掛ける。言葉が通じておらずとも、溜まりに溜まった感謝を、物の代わりに言葉でぶつけたかった。
そこでふと、アイシアはある事に思い至る。
「……そういえば、いつまでも貴殿と呼ぶのは味気ないな。私の勝手な印象だが、これまで長く共にいるのに、あまりに他人行儀が過ぎるやもしれん。真に名前があったとしても…呼び名くらいはあってもいいのではないか?」
返事がないことをいいことに、アイシアは寛ぐ黒竜を見下ろし考え込む。
この怪物が、何を思って自分達を助けてくれたのかは分からない。しかし、何故だかわからないが、今後この黒竜とは短くない付き合いになりそうだと感じ、腕を組んで首を捻る。
そこに自分の願望が混じっている事を自覚しないまま、女騎士は黒竜へ贈る、名前という名の贈り物を考え続ける。
そしてしばらくして、アイシアは満面の笑みを携えて黒竜に向き直った。
「ならば、貴殿の名は―――」
「グルル…?」
視線の強さが気になってか、黒竜は訝しげな目をアイシアに向けて唸る。
何を言っているのか、何をするつもりなのかまるでわかっていないらしい怪物に、少しばかり愛らしさを抱きながら、アイシアは今考えだした怪物の〝名〟を口にする。
「
紡がれたその名が、黒竜の耳に響く。意味が分からなければ、ただの音でしかないそれが、鼓膜を震わせ黒竜の脳にまで伝わる。
我ながらいい出来だと自画自賛するアイシアの前で、黒竜はやはり不思議そうに彼女を見つめ返し、小首を傾げてみせる。
その変化が生じたのは、突然だった。
「グル―――!?」
「あッ―――!?」
アイシアと黒竜の視界に電流が走り、パチパチと弾けて視界の全てが真っ白に染め上げられていく。五感の全てが麻痺し、一人と二人だけが世界の中から隔絶されたかのような感覚に陥る。
そして次の瞬間、アイシアと黒竜の脳裏に、全く同じ声が響き渡った。
―――ついに……ついに完成した!!
―――これが私の最高傑作…!
この世にある全ての生物をリセットする、この世界の全てを無に帰す最強の捕食者!!
あらゆるものを支配し、奪い、凌辱し、屠り、喰らい、壊し、殺し尽くす終末の獣!
―――私の全てはここに集約した…!
私から何もかもを奪ってきた塵共が、全てを無に帰されるのだ!!
―――今、この時をもって人の世は終わりを告げる!!
「なん……だ…これ、は……!?」
高らかに嗤う、見覚えのない男。
視界に広がる緑色の液体。
そして、硝子の壁に映った異形の影。
雷のような怒涛の勢いで、脳にねじ込まれる見たことのない記憶が、アイシアの中で暴れ回る。
よろよろと足元が覚束なくなり、激しい嘔吐感に襲われ、目の焦点が狂ったアイシアが、ずるずるとその場に倒れ込む。
それは黒竜も同じ事で、瞳孔が急に収束したかと思えば、即座に弛緩し、目から光が消え失せる。
ぐらりと巨体が体幹を崩し、ゆっくりと横たわり、やがて影の中に全身が沈んでいく。
まるでただの屍が、暗い水の底に沈んでいくかのように、ピクリとも動かず影の中に消えていく黒竜の姿を、薄れる意識の中で瞼に焼き付けるアイシア。
同時に、どこからか自分を案じ駆け寄ってくる主の少女の声を耳にした気になりながら。
アイシアの意識もまた、深い闇の中に沈んでいった。