アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜   作:春風駘蕩

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2.Interests

 かすかに肌寒い風が柔らかく吹き抜ける、早朝の草原。

 青々と広がる草地にて、大きな鹿達の群れが静かに葉を食んでいた。

 

 しなやかな体に光沢のある毛皮を纏い、水晶のようにキラキラと輝く角を持つ、どこか気品さえ感じられる風格を持つその鹿。

 朝日を受けて美しく輝く姿を持つ彼らは、穏やかな時間をのんびりと過ごす。

 

 ふと、群れの中の一体―――一回りも大きく、角も太く立派な一体が顔を上げ、辺りを見渡し始める。

 動物的な本能が、自分達に何かが近づく予感を感じ取り、危険信号を送りつけたのだ。

 

「…キュルル…」

 

 小さく鳴き、脅威の姿を捉えようと、辺り一帯をくまなく見渡す群れの長。

 しかし、確かに予感がしたはずなのに、影も形も見当たらない。それどころか、生物であれば必ず放っているはずの気配も、何一つ感じ取れない。

 姿も見えない、気配も感じない、気のせいかと思えるほどの異変の少なさだ。

 

 人間であれば、予感も無視し周囲の警戒も放置したかもしれない。しかし、群れの長はどうしても、気のせいだと自分の勘を無碍にする事ができなかった。

 

 どこかに必ず、何かがいる。

 そう確信し、群れを守るために全神経を集中させ、自分達を狙う敵の存在を探し続けていた。

 

 しかし―――

 

「―――ゴルルルル!!」

「ギュッ…!?」

 

 次の瞬間、彼の視界は真っ暗な闇に塗りつぶされ、ぶつりと意識が途切れてしまう。

 ごぎん、と耳を塞ぎたくなるほどに嫌な、骨と肉が砕かれる鈍い音が響き渡り、ドサッと地面に長の身体が倒れ込む。

 首から上を断たれ、鮮血を噴き出させた長が、哀れな亡骸を晒していた。

 

「キュィイ!」「キュゥ!」

 

 異変に気付いた他の水晶鹿達が、変わり果てた長の姿を目にし、徐々に恐怖を目に表し始める。

 何が起こったのか、何がいるのか全く分かっておらず、ただ群れを脅かす何かが現れ、その牙が自分達にも向けられている事だけを察する。

 

 動揺が群れ全体に広がると、水晶鹿達は急ぎ長の亡骸に背を向け、全速力で走り出した。

 

「グルルルル…!」

 

 ドドドドドッ…!と凄まじい足音を立て、草地から逃げ出し森に駆け込んでいく水晶鹿達の後を、地面に映った大きな影が追跡する。

 影になるような何かは、地上にいない。しかし、はっきりと地面に表れた巨大な影が、長く太い体をくねらせながら、樹々の間を走り抜ける水晶鹿達を追いかける。

 

 やがて影の速度は群れの最後尾に追いつき、一体を影の中に引きずり込む。

 足に食らいつかれた小柄な鹿は、断末魔の声すら上げられずに、影の中に消えていく。かと思えば、新たな最後尾となった個体も、影の中に呑み込まれる。

 たった数秒の間に、水晶鹿達は影を泳ぐ何かに襲われ、数を減らされていった。

 

「キュゥ…キュウウウ!!」

 

 先頭を走るのは、群れの長の子で最も長生きをしている個体。長が死んだ時、次の長となる事が決まっていた若い鹿だった。

 彼は種族の血を守るため、群れを守るために誰より速く走り、謎の敵から逃げ、生き延びようと懸命に走っていた。

 

 だが、彼は逃げる事だけに集中しすぎ、大きな失態を侵してしまった。

 

「グルル…!!」

「キュゥ!?」

 

 低木を飛び越え、開けた場所に飛び出した若鹿は、前方から響き渡ってきた咆哮に思わず停止する。

 

 不機嫌そうな声を上げたのは、見上げる程の巨体と広く分厚い剛腕、鋭く長い尖った爪を有する、赤い瞳を輝かせる熊だった。

 この森を縄張りにする、そして生態系の頂点に存在する、強力な獣の一種である。

 

 大熊は縄張りに入り込んだ若鹿を睨み、やがて牙を剥き出しにしてみせる。若鹿を見る目は、完全な捕食者が見せるものとなっていた。

 

「グォオオオオ!!」

「キュ―――」

 

 大熊は爪を振りかざし、若鹿に向けて歩き出す。

 一振りで簡単に獲物の命を奪える、大熊の剛腕と鋭爪が、ゆっくりと若鹿の命を奪うために迫っていく。

 

 思わぬ新たな窮地と、命の危機に対する恐怖で固まってしまった若鹿が、じりじりと後退り始める。

 後ろにも捕食者、前にも捕食者という、逃げ場を奪われた哀れな獣となった若鹿。鈍く輝く爪を凝視したまま、思い切って方向転換し、全身全霊で走り出そうとしたその瞬間だった。

 

「ゴルルルルルル!!」

 

 飛び出そうとした若鹿の首が、闇の中から現れた巨大な牙に挟まれ消える。そして瞬く間にブチブチと食いちぎられ、辺り一面が真っ赤に染め上げられた。

 

「グルルル…!?」

「ゴルルルルルルル!!」

 

 首を失い、倒れ込む若鹿の肢体を凝視していた大熊が、戸惑うような引き攣った唸り声を漏らす。しかし森の頂点としての矜持があってか、すぐさま臨戦態勢に入る。

 

 それを見やり、影の中から飛び出した牙の持ち主―――大熊が見上げる程の巨体を持つ黒い竜が、歓喜のような咆哮を上げる。

 倒れた若鹿の残った肉を頬張り、ボリバキと噛み砕いた黒竜は、続いて己を睨みつける大熊に視線を移す。新に表れた〝獲物〟に、怪物はにたりと口角を上げた。

 

「グルル……ゴァアアア!!」

 

 先に仕掛けたのは大熊だった。自慢の爪を振りかぶり、黒竜の喉元を切り裂こうと飛び掛かる。

 しかし、巨体に見合った鈍さの為にその一撃は届かず、簡単に躱されてしまう。外れた爪は、進行方向上にあった木を真っ二つに切り裂いて止まる。

 

 今度は黒竜が牙を剥き、四つん這いになった大熊の背中に向けて噛みつきに向かう。

 だが、大熊はそれに自分の腕をぶつけ、横に弾く。顎を殴られた黒竜は苛立たしげに目を細め、ガチン、ガチンと牙を噛み鳴らした。

 

「グルルルル……ゴルルルル!!」

「ゴァアアア!!」

 

 甲高い音を立て、大熊の剣のような爪と黒竜の鎧のような鱗が激突し、激しい火花が散る。

 まるで生物の身体が放っているとは思えない音が立て続けに起こり、同時に周囲の樹々が巻き込まれ、森は無惨な姿に変貌していく。

 

 そしてついに、黒竜の牙が大熊の喉元に届き、深々と突き立てられる。それにより、どぷっ、と大量の血が噴き出し、大熊が苦悶の声を上げて暴れ回る。

 

 苦し紛れに振るわれた爪が、がしがしと黒竜の鱗を打ち、何回かは鱗の間に刺さり、黒竜の肉に傷をつけた。同じく赤い血を流す黒竜だったが、大熊に突き立てた牙は決して離さなかった。

 

「グルルルル…!!」

「ゴァ……ガ…、ゴ……!」

 

 ばたばたと激しく暴れ、血の泡を吹く大熊。何度も何度も爪を突き立て、黒竜を引きはがそうとするものの、怪物の力は凄まじく全く通じない。

 黒竜は影の中から両腕も伸ばし、全力で大熊の動きを抑え込みにかかる。

 

 やがて大熊の動きは鈍くなり、抵抗する爪の攻撃も、徐々に力が抜けていく。

 それから数秒か、数十秒か経った頃には、大熊は白目を剥いたまま動かなくなり、だらりと首を垂らして沈黙してしまった。

 

「グルルル……ゴァァァァァ!!!」

 

 事切れた大熊の亡骸を地面に置き、黒竜が大きな咆哮を上げる。

 光沢のある漆黒の鱗に幾つも傷を刻み、痛みが走っているはずなのに、それこそが嬉しくてたまらないというような狂喜を見せる。

 

 喜びをあらわにした黒竜は、さっそく斃れた大熊の肉を食い千切り、ばりばりと咀嚼を始める。

 巨体はあっという間に黒竜の腹の中に消えていき、森には血痕だけが残される。全て食らい尽くした水晶鹿達と同じように、元からここにいなかったかのように、怪物は獲物を奇麗に平らげてしまった。

 

「グルルル……」

 

 骨一つ残すことなく腹に収めた黒竜は、やがて顔を上げて真っ赤に汚れた口周りを舐める。

 大量の餌を呑み込んだはずなのに、怪物の唸り声には不満げな響きがあり、目は新たな得物を探して辺りに向けられる。

 

 ふと、がさりと繁みが動く音がする。それにつられ、黒竜はバッと勢い良く振り向き、繁みの向こう側に目を凝らす。

 そこにいた、数本の尾を持つ狐の姿を視界に捉えた瞬間。

 

 黒竜は、にたりと牙を剥き出しにし、悍ましい形に嗤ってみせた。

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