アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
ギッ…と軋む音を立て、自宅の扉を開く。
日に日に開けづらくなる入り口に、その内修理をしなければ、と憂鬱な気分になりながら、エイダは中に入り、扉を開けっぱなしにする。
「…どうぞ、入ってください」
室内の端に移動すると、入り口に向かってそう告げる。
入室を促されたアサルティは、一度鼻先から扉を潜ろうとして、顔の横が引っ掛かってすぐにやめる。
少し考えると、アサルティは一度後ろに引き、影の中に潜ると、エイダの家の中心から顔を出した。
「……
「ほっといてください!」
室内を見渡し、寝具や机など、最低限の家具しか置いていない中身を見て、思わず呟くアサルティ。
すかさずエイダが声を上げるも、自分でも日頃から思っている事であるため、がっくりと肩を落としてため息をつくばかりだった。
気を落とすエイダだったが、やがて我に返ると家の奥に引っ込み、貯えていた果物の袋と、事前に作ってあったあるものを運び出してくる。
「じゃ、じゃあ、どうぞ……少ないかもしれませんが、お約束のお礼の品です…」
ドサッ、と袋を黒竜の前に置き、口を開いて中身を取り出す。それと一緒に、自作の菓子も皿に置き、アサルティの前に差し出す。
アサルティはクンクンと鼻を鳴らし、差し出された菓子を不思議そうに見下ろした。
「…
「木の実を使って作ったお菓子で……母に教えてもらったものです。あんまりうまくはないですけど…せめてもの感謝の気持ちって事で」
恥ずかしそうにはにかみ、エイダは耳を垂れさせる。
アサルティは差し出された菓子を見つめ、しばらくすると舌で掬い上げ、ボリボリと噛み砕き味わい始める。
エイダがごくりと息を呑み、様子を伺う中、アサルティは喉を鳴らし、ぺろりと口の周りを舐めて、少女を見つめ返した。
「
怪物に高評価を貰い、エイダはホッと安堵の息をつく。もし気に食わず、激怒でもされようものなら、自分の命は今度こそここまでだっただろう、というほどの覚悟をしていた。
アサルティは残った菓子を一つ残らず平らげ、続いて袋の中の果物に口をつける。
モリモリと中身が減っていき、ほお袋を一杯にして咀嚼する怪物を見つめ、少女は心底安堵した様子で頬杖をついていた。
「…お気に召していただけましたか?」
「
「そういうのは、思っても口にしない方がいいですよ」
無駄に正直な怪物の返事に、エイダは困ったような顔で苦笑する。
確かに、食欲に促されるまま蜘蛛の怪物達に襲い掛かっただけで、自身を救うために現われたわけではないかもしれない。しかし、
その行動の結果、自身は命を拾われたのだから、感謝を抱くのも間違いではない。そう思い、エイダは穏やかな笑みを湛え、巨大な黒い竜を見つめ続けていた。
「…ゴチソウサマ」
やがて、差し出された礼の品を全て腹に収めたアサルティは、満足げに唸り目を瞑る。
しばらくの間、口内に残った甘みを堪能していた怪物は、不意にパチリと瞼を開けると、エイダに訝し気な視線を向け出した。
「…デ、
「え?」
「
嫌悪を剥き出しにしたアサルティの名指しに、エイダは一瞬呆気にとられ、やがて納得したように肩を落とす。微笑も消え、少女は心底疲れ切ったような表情になる。
「…あの人は長の子で、レイアン様です。唯一の男児で、次期村長の座を約束されている方で、若いエルフの中心人物なんです」
「
「いいとこ……まぁ、権力はあると思いますけど」
「
アサルティが不思議そうに尋ねると、エイダは途端に口を閉ざし、気まずげに目を逸らす。
沈黙し、重い雰囲気が漂い出すと、怪物もさすがに気を遣ったのか、無理に問い質すようなことはせず黙り込む。
ややあってから、エイダは重くなった口を再び開いた。
「……僕が、人間の血を引いているからだと思います」
ぽつりとこぼれる、これまで誰にも語ることがなかった、自分以外の誰もが知っている事実。
自分から語ろうとはせず、しかし彼にならいいかとほんの少しの気のゆるみから漏れてしまった自身の過去。
しまった、と目を見開くエイダだが、すぐに落ち着きを取り戻し、開き直ったように続きを口にした。
「母と、人間の旅人だった父との間にできた子……勝手に禁断の恋をして、森を飛び出して、裏切られて戻ってきて、帰る場所を失くした愚かな女の子供、それが…僕です」
―――それは、ある一人の愚かな女の話。
外の世界に夢を抱く、世間知らずのエルフの箱入り娘。
徹底的に排他的で、外の世界との交流を禁じてきたエルフの里に生まれたその娘は、とにかく決まりというものを嫌がっていた。
知らない世界を見たい、知らない誰かと出会いたい、知らない何かを感じたい。
そんな好奇心と無知さに溢れた、無邪気で恐れを知らない、頭の少し足りない子供だった。
そんな彼女の日常が狂ったのは、ある一人の人間と出会ってから。
里の外に食糧を採集しに行った際、獣道の途中に倒れ伏す、怪我を負った男を見つけた時だった。
他の種族に対する遠慮も隔意もない彼女は、迷うことなく彼の元に駆け寄り、簡単な応急処置を施した。そしてしばらくの間、里の者も獣も近づかない場所に連れて行き、匿ったのだ。
傷が癒えるまでの間、警戒一つせず話しかけ、交友を深めた彼女は、いつしかその男に対し恋心を抱くようになっていた。
熱く見つめてくる彼女に対し、男も同じ気持ちだと告白し、その晩に即座に身を重ねてしまった。
無論、そのような関係を里の者が認めるはずもない。村の娘を誑かした男として、何よりエルフの縄張りに侵入した慮外者として、処分してしまおうという声が上がった。
娘はそれを嫌がり、止める声をすべて無視し手を振り払い、男と共に森を飛び出したのだった。
娘にとって悪夢だったのは、それからだった。
彼女が愛した男は、詐欺師であり扇動者であり泥棒でもある、物事を金でしかとらえられない金の亡者。
それでいて自身の欲望を、人のいい笑顔で隠す事ができる異常者で、娘の事も骨の髄まで利用し尽くすために、恋心を芽生えさせ自由に操るためだったのだ。
彼女を連れ出したのも、彼女を人間社会においては非常に価値の高いエルフの奴隷として、高額で売り出すためであった。
娘がその思惑に気付いたのは、男と共に暮らすようになって数年経ってからだった。
慣れない人間の暮らしに四苦八苦し、ようやく家事をこなせるようになってきた矢先、突然仕事先から戻ってきた夫が、気味の悪い笑みを浮かべた男達を伴ってきた。
彼らこそ、娘を奴隷として買い取りにやって来たのだと、夫の口から直接語られたのだ。
娘はすぐさま逃げ出そうとし、そして捕らえられた。
異臭のする男達に全身を掴まれ、愛したはずの夫に下卑た目で見下ろされながら、娘は首輪を嵌められ、買主の元に連れ込まれた。
そこでの暮らしは、たった一度も想像がしたことがないほど凄惨で、自ら命を絶ちたくなるほど悍ましく恐ろしい日々であった。まるで玩具のように弄ばれ、痛めつけられる暮らしは、娘の心を鑢で削るように壊していった。
その暮らしは、一年ほどで何とか終わらせられた。
森の暮らしから何年も離れ、身体能力が著しく低下した娘であったが、ほんの一瞬の隙をつき、買主達の元から逃げ出す事ができた。
追っ手から逃れ、身を隠し、足をボロボロにしながらも娘は逃げ続けた。
そしてついに、彼女は母なる故郷の森に辿り着く事ができた。
しかし、命からがら戻ってきた娘を、彼女の父や母、同胞達は決して受け入れなかった。
必死の思いで逃げ続けた娘の胎には、悍ましき人間のこの命が宿ってしまっていたからだ。
拒絶され、絶望した娘は再び自らの命を奪う事を考え、そして腹に宿った命を殺すことも考えた。
しかし、生来他者が傷付くことを嫌がるお人好しな娘は、何の罪もない子を殺める事を忌避し、自ら死ぬ選択も取れなくなった。
仕方なく彼女は、村から遠く離れた場所に居を構え、たった一人で生きていくことを決めた。
そしてたった一人で、忌まわしき人間の血が混じった娘を産み落とし、齢十になるまで何とか育て上げた。その間、村の者達は誰も彼女を助けることなく、生まれた子を嫌悪してきた。
母となった娘はやがて心労で亡くなり、彼女の娘はたった一人取り残された。
味方が誰一人いない森の中で、少女は孤独に生き続け、自らの存在そのものを嘆き、疎むようになってしまったのだった―――。
小さな、消え入りそうな声で告げられた少女の過去に、怪物は動きを止め、続いて大きく首を傾ける。
理解しがたい事を聞いたように、眉間に深いしわが寄ったくしゃくしゃな顔となっていた。
「
「え…? あ、いや、えっと……に、人間は暴力的で、嘘つきで、森を汚す穢れた種族だからって、その血が流れている僕を目の敵にしていて……それで」
「
怪物の問いに、少女はぷるぷると首を横に振る。
返ってきた反応に、アサルティはますます訳がわからないというように首を傾ける。連中の考えも、それを少女が文句ひとつ口にせず受け入れているのかも、何一つ理解できない。
虚空に目をやるエイダの表情は、全てを諦めたような無気力そのもの。どれだけ理不尽な暴言を吐かれても、暴力を振るわれても、一切の抗議を諦めた様子であった。
「
「おかしいも何も……変に逆らったりしたら、この森を追い出されるかもしれませんし。大人しくしてるのが一番賢いやり方ですよ…」
「
「それはそれです……現に僕、望まれて生まれた存在じゃありませんし、はは…」
渇いた笑いをこぼし、膝を抱えて俯くエイダに、アサルティはじっと鋭い視線を向ける。
怪物の目の前にいるのは、本気で今の環境を仕方がないものと受け入れた、今以上の苦しみを恐れている少女。改善することも考えず、自分の立場そのものが変わる事を恐れる弱虫な子供。
見た目以上に小さく見える少女を見下ろし、怪物は呆れを孕んだ目を細めた。
「…
「こうして生かしてもらってるだけで、ありがたいと思わなくちゃ」
「…
アサルティの棘のある言い方に、エイダはどう返したものかと険しい顔になる。
ただ単に嫌悪しているだけなのか、自分を勇気づけようとしているのかは分からないが、レイアンへの暴言には思わず苦笑してしまう。
逆らうことなど考えられない、絶対的な上位者への暴言には、同意できなかった。
ふっと微笑んだエイダは、空になった袋と皿を持ち、奥に片付けに行く。
ついでに背負った弓と短刀を置いた彼女は、アサルティを置いて出口に向かっていく。
「じゃあ、私……長にあの蜘蛛の化け物のことを、報告しに行かなきゃですから。また、食べ物を取ってきますから、ゆっくりくつろいでいてください…」
儚げに笑いかけた彼女は、小さく頭を下げて自宅を後にする。
小さな足跡が遠くなり、何も聴こえなくなったころに、アサルティはフンッと勢いよく鼻息を吹き出し、吐き捨てた。
「
自分でも戸惑うように、眉間にしわを寄せたまま呟いた怪物は、苛立たし気に唸り、ずぶずぶと影の中に沈んでいった。