アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
ザザザザザザッ…!と素早く動く八本の足が、草地を走り音を立てる。
それが何十も重なる事で、寒気を走らせ気持ち悪さを齎す音が、大量に鼓膜に突き刺さってくる。さらには青々とした緑が真っ黒に染められていき、見た者に吐き気を催させた。
「ギチギチギチギチギチ…!!」
「な、何だこいつらは!?」
「巨大な……蜘蛛!?」
爛々と輝く真っ赤な眼が、突然の事態に慄くエルフ達を、特に驚愕と恐怖で固まる女達を凝視する。
長く森に棲む彼らでも初めて見る蜘蛛の怪物、それが夥しい数の群れを成し、真っ直ぐに向かってくる光景に、エルフ達は同様で即座に動けなくなっていた。
「オンナハサラエ! オトコハイラン!」「オレ、アノオンナガイイ!」「ジャアオレハアッチノチイサイコ!」「ババアガイルケドソッチハ?」「コノミジャナイカライラネェ!」
その隙を見逃さず、蜘蛛達ははっきりと人語を口にしながら、エルフ達に襲い掛かる。
巨体からは想像もつかないような俊敏さで動き、見上げるほどの高さまで跳躍すると、棒立ちになる一人の男に覆いかぶさる。
凄まじい重量を受け止めた彼の身体から、ボキボキと嫌な音が響いた。
「ぐああああああ!!」
巨体に押し潰され、押し倒された男は苦悶の声を上げ、白目を剥いて血を吐く。
彼にのしかかった蜘蛛の怪物は、悶え苦しむ男の様を見下ろし、心地よさそうに泣き声をあげる。そしてばたばたと暴れる彼に向け、がパッと開いた口から鋭い牙を伸ばし、男の額に突き立てる。
「オトコハイラネェッテイタダロウガ! ジャマダバカガ!」
「げぎゅっ―――」
牙は男の額を貫き、脳にまで届く。直後、男の頭の中からじゅるるるっと中身を啜る音が響き渡る。
男はビクンッと体を痙攣させると、やがてピクリとも動かなくなる。
中身を全て吸い上げた蜘蛛の怪物は、ずぷっと血肉に濡れた牙を抜き、満足げにまた大きな声で鳴く。
同胞が瞬く間に、物言わぬ骸となり果てるその光景に、目撃してしまったエルフ達は絶句し、立ち尽くしてしまった。
「うっ…うわあああ!!」
「ギチチチチチチ! ジャマスルオマエラガワルインダ! エサニデモナッテロ!」
我に返った何人かが、背を向けて走り出そうとするも、その時には既に蜘蛛の怪物達が襲い掛かり、最初の被害者と同じように体液を啜り葬る。
数秒も絶たないうちに、どさどさと次々に、からからに乾いたエルフの男達が草地に倒れていき、積み重なっていった。
「いっ…いやあああ!!」
「ジェダ! 嘘でしょ、ジェダ!? 嘘だと言ってぇ!」
倒れた男達の中に、自分の夫や恋人の姿を見た女達が、顔を真っ青にして悲鳴をあげる。
変わり果てた愛する男を前に、彼女達の思考は完全に冷静さを失い、足が勝手に犠牲者達の元へ向かっていく。
周りの者がそれを見て正気に戻り、止めようと手を伸ばすも、すでに彼女達は手の届かない距離まで離れてしまっていた。
「ジェダ―――」
横たわる夫、恋人の傍に駆け寄ったその女性達。その手が骸に触れようとした瞬間、女達の姿が掻き消えた。
夫達の元に手を伸ばしたまま、女達は腰に白い糸が巻きつけられ、宙に持ち上げられていく。
頭上に広がる大樹の枝、そこにぶら下がった蜘蛛達が、腹部の紡績器官から放った糸により、あっと言う間に何人も連れ攫われていた。
「ギチチ…! ヒトヅマトイウノモマタイイモノデスナ!」「ネトラレハイイブンカ!」「コノハイトクカンガタマラネェ!」「ザイアクカンナンテナイクセニ!」
「このっ……おのれぇ!」
「化け物め!!」
増えていく犠牲者を前に、ようやく戦士達の目が覚める。
意味の分からない言葉を吐き、女達を攫おうとする頭上の蜘蛛に向け、数人で一斉に矢を放つ。
しかし、鋭い勢いで放たれた矢は、全て蜘蛛達の体表に刺さることなく弾かれ、虚しく残骸が飛び散る。蜘蛛にも、矢が当たって痛がる素振りは全く見受けられなかった。
「そんな―――ぎゃっ!?」
「は、速い―――ぐはっ!」
「ダカラ、ジャマスンナッツッテンダロウガゴミクズドモ!」
攻撃が全く聞いていない事に、愕然と目を見開くエルフの戦士達。
棒立ちになる彼らに、今度は蜘蛛達から凶刃が放たれる。
女達に糸を巻き付けたまま、顔を向けた蜘蛛達の口が大きく開かれ、その奥から鋭く尖った糸の槍が放たれ、戦士達を串刺しにしていく。
矢よりも速く、力強く放たれたそれは、容赦なくエルフ達を次々に貫き、骸に変えていった。
「こ……これは、一体何だというのだ…!?」
同胞達が次々に斃れていくその光景に、レイアンは後退りながら絶句する。
屈強な、優れた力を自他ともに認める戦士達が、得体の知れない怪物達の魔の手によって、為す術なく屠られていく。その間に、美しい女達が片っ端から攫われていく。
まるで、エルフという種が滅ぼされていくかのような光景に、レイアンは開いた口が塞がらない。
不意に、レイアンの視線が背後に向く。
彼と、彼の取り巻き達が囲んでいた、忌まわしき人間の血が混じる少女。今まさに処刑しようしていた汚らわしき存在エイダに、レイアンは憎悪に満ちた目を向けた。
「貴様…貴様だな! 貴様があの化け物を呼び出したんだな!」
「やめんか、そんな場合では……」
「黙れ老害が! お前にはもううんざりしてるんだよ!!」
表向きには従順に首を垂れていたレヴィオに向け、我慢の限界に達したレイアンは、溜め込んでいた苛立ちの全てをぶちまける。
吊り上げた目で父親を睨み、彼の忠告を一切の躊躇いなく振り払う。
焦燥と怒り、そして訳の分からない存在によって、自分の世界が壊されていく事への恐れで、これまで辛うじて保たれていた楔を破壊してみせた。
「こいつさえ……こいつさえ殺せば! あの化け物共はどこかに消える! そうに違いない!!」
「そ…そうだ! こいつが悪いんだ!」
「殺せばすべて解決するんだ!! 早く、早くやってくれ!」
目を血走らせ、腰に佩いた剣を抜くレイアン。切先をエイダに向け、焦りで震える刃を首に当てる。
取り巻き達もそれに全面的に同意し、エイダを決して逃がさないように、レヴィオ達の妨害が入らないように包囲をより固める。
「何の根拠があってそんな戯言を……や、やめろ! 話を聞け!」
「落ちつけ、お前達!」
「うるせぇ! 邪魔するんじゃねぇ!!」
まるで正気ではない彼らに、レヴィオを始めとする老エルフ達が止めようとするが、頭に血が昇った若いエルフ達は止まらない。むしろより一層激昂し、老エルフ達を払い除ける。
すぐ近くから上がる怒号と、遠くから聞こえてくる悲鳴と断末魔。
自分には縁がなくとも、平和だった森に突如訪れた惨劇。怒涛の流れに取り残されたエイダは、尻餅をついたままその様を見ている事しかできない。
自分の命を狩ろうとしている刃を、凝視する事しかできなかった。
「さぁ、死ね! 汚らわしい悪魔の娘よ!!」
エイダにそう叫び、刃を振り上げるレイアン。
耳まで裂けて見える口や、血走った焦点の合っていない目は、彼こそが悪魔のように醜悪で悍ましい。
取り巻き達に止められる長以外、誰も凶行を止めてくれる者はいない。
首を断とうと迫り来る刃を前に、エイダはきつく唇を噛み、自分の身体を抱きしめ固まる。
(どうして……!? どうして僕は……僕が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ…!!)
生まれた時からずっと続く理不尽、覚えのない悪意。
望んで生まれて来たわけでもないのに、生かしてくれと頼んだわけでもないのに、罪だと言われて詰られる。
そんな自分の生が、経験してきた全てが、彼女から気力を奪っていく。
まるで化け物のように見えるレイアンの手で剣が振り下ろされ、刃が自分の首に触れたその瞬間。
エイダはスッと瞼を閉じ、強張らせていた体から力を抜いた。
(こんな事なら……あの時、助けてもらわなきゃよかった―――)
一度、自分で口にした感謝の言葉を否定し、諦める。
つい先日、里を侵す怪物達と最初に遭遇した時に、今この状況のように襲われ、死んでいればよかったと、生き残ったことそのものを後悔する。
瞼を閉じ、視界から光を拒んだ彼女は。
誰より自分を憎み、死を望む青年の手で屠られる事を、無抵抗のまま受け入れようとしていた。
だが、その未来はまたしても訪れなかった。
「―――グオオオオオオオオオオオ!!!」
ドッ、と。
地中から巨大な影が飛び出し、辺りに大きな影を作る。同時に凄まじい咆哮が辺りに響き渡り、大気と大地を揺らす。
体の芯にまで伝わってくる震動に、思わずレイアンは手を止めて振り向く。
彼の取り巻きも、レヴィオも、そしてエイダも、大きく目を見開き、突如乱入した存在を―――
△▼△▼△▼△▼△
「ゴルルルルルル!!」
「ナンダコイツ!?」「キノウノヤツダ!」「セッカクノロリノシュウカクヲジャマシタヤツ!」「フザッケンナヨコイツ!」「オタノシミノトチュウニワッテハイルトカ、マジナエルワー…」
凄まじい唸り声をあげ、宙に跳び上がったアサルティは再び影に潜り、再度顔を出して凄まじい勢いで泳ぐ。
牙を剥き出しにし、敵意を向けて来る黒竜に、蜘蛛の怪物達は途端に退いていく。
驚愕と不満を口にしながら、雷のように轟く咆哮を上げる、自分達とはまた異なる姿の怪物から逃げ出していった。
(こいつら、デカいくせに俺よりも速い……普通に追いかけていては、一匹も捕まえられん! ならば…!)
「グルルッ!!」
ぎり、と牙を鳴らしたアサルティは、手近に生えた大樹を片手で掴む。
自分の泳ぐ勢いを利用し、自分の腕よりずっと太い幹をバキバキと圧し折ると、大きく振り上げる。大きく体をのけぞらせたアサルティは、掴んだ大樹を槍のように投げ飛ばした。
投げ飛ばされ、ぐるぐると回転する大樹は勢い良く森の中を進み、並び立つほかの樹々を半ばからへし折っていく。
そしてやがて、放たれた追撃は大蜘蛛達の元にまで届き、素早く動く足に圧し折られた多くの大樹が絡まり、逃走の足を止めてみせた。
「ギギギギ!?」「ナニヤッテンダテメェ!」「オレノセイジャナイデショウガ!」「オイ、オスナヨ!?」
蜘蛛達は体勢を大きく崩し、顔面から地面に倒れ込む。背後から来た大樹の一撃をどうにか躱した個体も、前を走っていた個体に巻き込まれ足を止められてしまう。
巻き込まれた個体が他の個体に対し文句を垂れ、その声にも抗議の声が上がる。
すぐさま立ち上がろうと、投げ出された足全てを立て直そうと、わずか数秒もたつく。
それが、彼らの運命を決定づけてしまった。
「ゴルルルル!!」
「ギッ―――」
走り出そうとした蜘蛛の怪物の一体が、僅かな悲鳴と共に真っ二つに切り裂かれる。
バキバキバキッ、と硬い殻に覆われた巨体が、真下から噛みついたアサルティの牙によって、あっと言う間にバラバラにされる。
夥しい量の、毒々しい紫色の体液がぶちまけられ、辺りに鼻に刺さる悪臭が漂う。
森の中を、目に居たい極彩色に染め上げながら、黒竜は次なる獲物を見定め、今度は上から飛び掛かった。
「グルルルルルァ!!」
「ヤメェヨコイツ!」「オイハヤクイケヨ!」「アシヲフムナ!」「ニゲロ、ニゲロッテ!」「コンナヤツヲアイテニシテラレルカ!」「オレハカエラセテモラウゾ!」
鋭く尖った牙を剥き出しにし、もう一体の腹部を食い千切るアサルティ。
瞬く間に竜の顔面は紫色に染まり、貪欲な食欲に燃える目が爛々と輝きを放つ。それに射抜かれた怪物は、何の抵抗もできないままに貪り食われていった。
(今はただでさえ腹が立っているのだ…! この苛立ちを少しでも抑えられるように、お前達全員、俺の胃に収まってもらうぞ!!)
「ゴアアアアアアアア!!」
アサルティは、今この時までずっと怒りを堪えていた。
長い耳の少女と出会い、その同胞と遭遇した時からずっと、理由のわからない苛立ちを抱え続けていた。
年上らしき集団が、小さな少女を一方的に罵り見下す様に。それに何も言い返そうとしない少女の弱々しい姿に、何故だか堪えきれない怒りを抱いていたのだ。
それをどう解消すればいいのか、何故そんなものを抱いたのか、わからない事にも苛立ちを募らせ、空腹も相まってどんどん我慢ができなくなっていく。
地上に感じた無数の気配によって、黒竜は今この時を以て、感情を爆発させたのだった。
「ヤベェッテ、コノママジャゼンメツスルゾ!」「ハヤクホンタイニホウコクニイケ!」「ホンタイデテクルカナァ…?」「イイカラハヤクイケッテンダヨ!!」
次々に仲間を屠っていくアサルティに、蜘蛛達は口々に叫びながら右往左往する。
諦めず逃げようとする怪物達だが、すぐさまアサルティに追いつかれバラバラに食い千切られ、血の跡だけを残して消される。
するとただ一体、蜘蛛達の中でも特に小さい個体が、他よりも遥かに素早い速さで逃げ去っていく。
粗方の獲物を喰い終わったアサルティは、ぎろりとそれを見つけ後を追おうとしたが、その時には既に小型の個体は、樹々の奥の見えない場所にまで逃げ去ってしまう。
(チッ…! 一匹逃がしたか……!)
逃げた個体が見えなくなると、アサルティは即座に追うのをやめ、その場に留まる。
やがて、フンと満足げに鼻を鳴らすと、口周りに付着した大量の体液を舐め取り、ゆっくりと踵を返すのだった。