アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
「……何という、力だ」
圧し折られた樹々の奥から近づいてくる、体中を紫色の体液で汚した黒竜。
それを目にし、呆然と立ち尽くしていたエルフ達の誰かが、ぼそりとそんなことを呟く。
謎しかない、それでいて圧倒的な力を持ち、同じだけ巨大で手の出しようがなかった怪物の群れを相手に、理不尽なまでの蹂躙をやってのけた怪物。
その光景を目の当たりにしたレヴィオや他の老エルフ達は、開いた口が塞がらなかった。
「我等の手が何も通じなかったあの怪物共を、たった一体で……」
「一体……一体何者なのだ。ただの獣ではまずありえんぞ」
目を大きく見開き、冷や汗を垂らす老エルフ達。
無論、慄いているのは彼らだけではなく、蜘蛛の怪物達の襲撃をどうにか生き延びた、若いエルフの戦士達も同じように驚愕の視線を送っていた。
「ば、化け物だ…!」
「化け物を食い殺す……もっと危険な化け物だ…!」
命の危機を抜け出した彼らだが、全く心を休める事ができず、がたがたと身を震わせる。
優れた身体能力を誇り、高い知能をも有する特別な種族。先祖代々住処である森を守り続け、何者にも侵させたことがないという自負を、生まれた時から持ち続けていた。
なのに、突如現れた得体の知れない化け物達に森を破壊され、抵抗が全く何の役にも立たなかった。
エルフの戦士達は皆、矜持がズタズタにされ、凄まじい無力感に苛まれていた。
そんな中、いち早く我に返ると、キッと横に振り向く者がいた。
ギリッ、と歯を食い縛り、目を吊り上げたレイアンは、他の者達と同じく呆然となり、草地にへたり込んでいるエイダを睨みつけた。
「見ろ! お前が連れてきたあの化け物のせいで、数百年に渡って我らが守り続けた森は、こんなにも無残な姿になり果てた!! お前のせいだぞ、汚らわしい屑が!!」
「……」
自分の中の恐怖心をどうにか抑え込み、唾を吐き散らし、暴言をぶつけるレイアン。
だが、エイダの表情は微塵も変化がない。近づいて来る黒竜に対し、どこか責めるような、落胆したような冷めた目を向けるだけで、返事もない。
ついには黒竜の顔に付着する紫色の体液に、羨望のような眼差しを送り始めていた。
虚ろな目で怪物を見つめていたエイダは、不意にぐいっと襟首を掴まれ持ち上げられる。その間も何も反応を示さない彼女に、レイアンが再び吠える。
「聞いているのか、貴様ぁ! 全部お前の所為だぞ! 森がこんなふうになったのも、あれが我らに牙を剥くのも、我らが殺されるのも! 全部全部貴様の所為だぞ!!」
「レイアン! やめろというに…」
「うるせぇ爺! 邪魔すんじゃねぇ、黙ってろ!」
身動ぎ一つしないエイダを締めあげるレイアンに、レヴィオが肩を引いて宥めようとするが、息子は全く耳を貸さず、むしろ敵意を持って拒絶する。
この場で首を絞め、命を奪う気にも見える気迫に、エイダはもう何もかもを投げ出す気になり、虚空を見上げる。
レイアンはむしろそれが気に入らないようで、襟首を掴んだままがくがくと前後に揺さぶり始めた。
「おい、何を黙ってるんだ貴様! もっと泣けよ、嘆けよ! お前のせいでこんな事になってるんだぞ!? 何の反省もないまま終わらせるつもりか!? ふざけるな糞餓鬼が!!」
「っ……」
「お前が泣いて謝らなきゃ、私が満足できないだろうが! 詫びろよ! 全部自分の所為ですと! 生まれてきてごめんなさいと! 今ここで全部を懺悔しろよ!!」
エイダの顔中が、飛んできたレイアンの唾液でべたべたになるが、エイダはやはり何の反応も返さない。聞こえてくる声にうんざりしながら、ぐらぐらとされるがままになっている。
レイアンはますます顔を赤黒く染め、精悍な顔立ちを醜く歪め、額に血管を浮き立たせる。
思わず、握りしめた拳を振り上げたレイアン。手っ取り早く少女を痛めつけ、泣きながら謝罪の言葉を吐かせるようにしようと考え、汚れ一つない自分の剣を構えた。
「いい加減にしろよ糞餓鬼…! 私が泣けと言っているんだからさっさと―――」
「オマエガイイカゲンニシロ」
だが、彼の剣が少女の首を裂くより先に、彼に衝撃が襲い掛かる。
真横から叩きつけられた黒く太く硬い何かによって、レイアンは空中に吹っ飛ばされる。そのお陰でエイダはレイアンの手から逃れ、真下から生えてきた巨大な竜の腕に抱き留められた。
「あぅっ…」
「サッキカラギャーギャーギャーギャー……ウルセェクチヲサッサトトジヤガレ、クソヤロウ」
エルフ達の元から引き離し、真下から顔を出した黒竜アサルティが、鋭く吐き捨てるような声で告げる。
巨体を見上げるエルフ達は、ぎろりと向けられる鋭い眼光に息を呑み、思わず数歩後退る。
アサルティはエイダを掴んだまま自分の傍に下ろし、誰も近づかぬように周りの全員を睨みつける。
迂闊に動けば、先程の蜘蛛の怪物達と同じような末路を辿ると察したエルフ達は、一歩も動けずただ立ち尽くす事しかできなくなる。
だが一人だけその空気を読めず、起き上がるや否や声を荒げる者がいた。
「きっ……貴様! この私に手を出すとは愚かな事を! やはりその糞餓鬼の手先だな! ここで処分してくれ……」
「デキルモノナラ、ヤッテミロクソヤロウ。オマエハクウキニモナラナイ」
取り落とした剣を慌てて拾い、構え直すレイアンに、アサルティは牙を剥き出しにして唸る。
エイダを抱える方とは逆の腕を影から持ち上げ、ゴキゴキと骨を鳴らす。その気になれば、軽く握りつぶせるだけの膂力を有するそれに、レイアンは途端に勢いを失くし、冷や汗を流す。
しかし、ここで引くことは彼の自尊心が許さないらしい。
引き攣った顔のまま、がたがたと全身を震わせながら、震える切っ先を突き付けた。
「ヒッ…こ、この私を誰だと…!」
「やめんか、レイアン! いい加減にしろ!」
情けない姿を晒し、それでも上から見下す態度を止めないレイアン。力の差をわかっていても、膨れ上がった自尊心が彼に退く事を許さないようだ。
そんな息子の姿を見ていられなかったのか、レヴィオがきつい口調で吠え、制する。思わぬところからぶつけられた怒声に、レイアンはびくっと肩を震わせて口を閉ざす。
ようやく黙ったレイアンの前に割り込み、息子を背中に庇うようにして、レヴィオがアサルティに向き合った。
「……不肖の息子が、失礼をした。どうか、気を悪くしないでいただきたい」
深々と頭を下げるレヴィオに、若いエルフ達がざわざわと動揺の声を漏らす。
他の種族、それも異形に対し首を垂れるなど、自意識の高いエルフにとってはあり得ない事で、レヴィオに対する視線が明らかに変わる。
「我が同胞達の窮地を救ってくれたこと、感謝する。この礼は、後程いかようにも……」
「爺! こんな奴に頭など下げるな! 恥を知れ!」
「お前は黙っていろ…! 状況をどれだけ理解できていないのだ……お前のその浅慮な行動で、一族全てを危険に晒すつもりか…!」
父親が他者にへりくだる様に、レイアンが声を荒げるも、レヴィオはそれにきつい目を向けて叱る。
小声で、黒竜に聞こえないように忠告するも、頭に血が昇ったレイアンは微塵も察する事ができないようで、なおも鋭く黒竜を睨むばかり。
それも、父親の背に隠れたままという情けない姿を晒している事に、気付いていなかった。
アサルティはそんな彼らに、呆れたように鼻を鳴らし目を細めてみせた。
「ベツニレイナドヒツヨウナイ……タスケヨウトナド、オモッテイナカッタカラナ」
「そうか…なら、其方は何を望む? 何のためにあの蜘蛛の怪物を喰らった?」
「ハラガヘッテイタカラ、タダソレダケノコトダ」
そう言って、アサルティはぺろりと自分の口の周りを舐める。
エルフ達は、付着した怪物の体液を見て、いずれ自分達も同じ運命を辿るのかと息を呑み、また後退る。手にした弓に力が籠もるが、アサルティは微塵も気にしていない。
さらに張り詰めた雰囲気が漂い始める中、レヴィオはアサルティを見上げたまま、再度問いかける。
「…ならば、其方には我等を食するつもりはないと申されるのか?」
「オマエタチガナニモシナケレバ……アトハ、オレノハラガ、キョクゲンマデヘッテイナケレバナ」
「それを、保証できるか…?」
「スルイミガアルノカ? ソコノオトコハ、ハナカラオレヲコロスキデイタガ…」
アサルティは再び、レイアンを睨み牙を剥く。
敵意に晒されたレイアンは、無意識のうちに父の背中に縋りつき、自分のみを隠そうとする。表情こそ見下したままだが、身体は正直に恐怖感を示している。
レヴィオは肩を引っ張られながら、片手を広げて息子を隠そうとする。そして、再度恐ろしき黒竜に向けて語り掛けた。
「…あいわかった。誰も其方に手出しをせぬよう、厳命しておく。其方も、我らに手出しをせんでくれるか…?」
「スルイミガナイ。オマエラヲクッタラ、ハラヲクダシソウダ」
「なっ…! 貴様!」
「やめよ…! 今私が言ったばかりであろうが…!」
またも声を荒げ、罵ろうとしたレイアンを必死に止める。
レヴィオの額には大量の汗が噴き出し、血の気が引いて酷い顔色になっている。今にも倒れそうなほど、精神的負荷に苦しんでいることが明らかだ。
流石のアサルティも、それを見て何も思わないわけではなかった。
「……ココニハモウコナイ。テダシモシナイ。コレデイイカ?」
「感謝する…! それと……其方の助けにも、もう一度礼を言う」
「イイ…ソコマデイワレルト、ムズガユイ」
アサルティはそう言い、居心地悪そうに目を逸らす。
自分の欲のままに行動した結果、褒められ称賛されるという状況が、違和感があまりに大きいようだ。
「…イクゾ」
「あっ―――」
不意に踵を返すと、黒竜は片腕で掴んでいたエイダを持ち上げ、自分の背中にひょいと乗せる。そしてそのままエルフ達を背にし、ずぶずぶと影を泳ぎ、その場を離れていった。
謎ばかりを持つ、恐るべき力を持つ怪物が里を離れていく姿を、エルフ達は武器から手を離さないまま、一言も発することなく見送る。
夜の空より黒く、巨大なその背中を見つめていた彼らの目は、アサルティに対する畏れの他にも、怪物が連れていくエイダに対する蔑視もあった。
「…最後に一つ、良いだろうか?」
「…ナンダ?」
樹々の向こう側に消えようとしていたアサルティを、レヴィオが不意に呼び止める。
黒竜だけでなく、周りのエルフ達から向けられる訝しげな視線に対し、レヴィオは微塵も気にした様子を見せず、真っ直ぐな目で黒竜を見つめ、問いかけた。
「もし、我らが其方に頼んだとしたら……あの蜘蛛の怪物共を、我らの代わりに退治してくれるか?」
「長!? 何を…!?」
周囲からぎょっと、エイダからも驚愕と非難の視線が突き刺さるが、レヴィオはいたって真面目な顔でアサルティを見つめたままだ。
本気で異形の力を頼ろうとしている台詞に、若いエルフ達からは疑うような目も向けられ始める。
アサルティはそんな、どんな相手であろうと誠意を備える長の態度に、息子とは大違いだと呆れた様子を見せる。
しばらくの間、真意を探ろうとするような鋭い目を向けていたが、やがて面倒くさそうに鼻を鳴らし、吐き捨てるように答えた。
「ソノキニナッタラ、クイニイク。ダガ……オレハオマエラニタノミゴトヲサレテウナズクホド、オンモギリモモッテイナイ」
「…左様か」
「ジャアナ……」
若干の落胆を見せる長を、そして唖然としたまま立ち尽くすエルフ達を残し、アサルティはなぜかぼんやりとしているエイダを背に乗せ、森の先へと姿を消す。
後に残されたエルフ達は、長への不信感で一杯になった眼差しを向け続けていたのだった。