アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
ぐぱっ!と大きく開かれた黒竜の牙が、大蜘蛛の足の一本に食らいつき、バキバキと圧し折る。
対する大蜘蛛も負けず、残る足を伸ばし、鋭く尖った先端を黒竜の鱗に突き立てる。
互いに血を流し、表皮を砕かれるアサルティとパラモア。赤と青、鮮やかな体液が飛び散り、まるで雨のように辺りに降り注いだ。
「ガルルルルルル!!」
首のあたりに穴を空けられ、アサルティは思わず牙を離す。しかし退く事はせず、今度は自分の両手に生えた爪を左右から振るう。
斬撃はパラモアの顔面に放たれ、八つの目のうち片側の二つが潰された。
「ギチギチギチ…! ジャマスルナヨ、トカゲヤロウガ!」
「
大蜘蛛は目を真っ赤に光らせ、自分に傷をつける黒竜に喚く。その間も自分の足を振り回し、獲物の前に立ちはだかる怪物を排除しようと、暴れ続ける。
黒竜はそれを、即座に切って捨てるように吐き捨て、自身の牙と爪を振るう。
苛立つ怪物は、己の中に湧きあがる激情に促されながら、自分と大差ない巨体に向かって襲い掛かった。
「アサルティさん……どうして」
二体の怪物達が殺し合う姿を、エイダは呆然と、糸に吊り下げられたまま凝視する。
一方的に八つ当たりし、愛想をついて何処かへ去ってしまったはずの彼が、どうしてあんなにも奇跡的な時機に助けに入ってくれたのか。
しかし、そんな少女の声に黒竜は答えない。自分の前にいる蜘蛛にのみ集中し、咆哮と血飛沫を撒き散らしながら、荒れ狂うばかりだ。
もしかすると、エイダの存在にそもそも気付いていないのかもしれない。
唖然としていたエイダはやがて、いつの間にかエイダの片腕を捕らえていた糸が外れている事に気付く。怪物達の乱闘の影響で、運よく引き千切れて外れたらしい。
「……馬鹿ですよ、僕なんか助けて。何の意味もないですよ、アサルティさん…」
果たして本人に、そんな意図があったかどうかは定かではない。
しかし、自ら命を断とうと怪物の巣に足を踏み入れ、死に方が気に入らず命乞いしたエイダが、間一髪で救われたのは事実。
このままここで食われてはならないと、そう考えたエイダは急ぎ、自分の四肢を拘束する糸を睨む。
そして腰に備えた短刀を抜き取り、残る四肢を縛る糸を切断しようと試みた。
「グルァァァァァァ!!」
「ギチチチチ……イヤ、チョッ、ヤメッ、オマエェ! ホンキデコロスキカ……イヤ、ホントニマテッテ!!」
「ひぃっ!?」
しかし、拘束を逃れるのは容易ではなかった。
怪物の放った糸は異様に強靭であり、粘度のせいで刃がうまく通らない。その上二体の怪物達の戦いの余波で、揺れて何度も手元が狂いそうになっていた。
ふと見ると、攻撃を繰り返すパラモアだが、最初よりもアサルティの鱗に突き刺さっていない。アサルティの斬撃や噛みつきの方が深々と決まっているのに対し、パラモアの攻撃は弱々しく思えた。
例えるのならば、日頃に運動をしていない弱者が、強者に押し倒され一方的に嬲られているような光景だ。
エイダは何故だか、ぶくぶくに太った肥満体型の男が、屈強な男に馬乗りにされて、力の限り殴られている姿を想像してしまった。
「ゴルルルル!!」
「アブッ、アブナイッテマジデ!」
組み合っていた黒竜と大蜘蛛は、やがて勢い余って壁に激突する。巨体が二つ激突し、洞窟内の壁が一撃で粉砕され、二体は隣の空間へと倒れ込む。
衝撃で、食らいついていた相手の牙が離れ、パラモアがごろごろと地面を転がる。
二体の間に距離ができた隙を見て、パラモアは急ぎ体勢を整え、黒竜の前から脇目もふらずに逃走を開始した。
「ニガスカ…! グルァァァ!!」
ぶるんぶるんと首を振り、アサルティは背を向けるパラモアを睨みつける。ずぶずぶと影を泳ぎ、パラモアよりも早く行き、捕らえようと獲物を見定める。
しかし、その身を闇の世界に沈めようとした黒竜に突如、頭上から無数の黒い影が降り注いだ。
「ホンタイノモトヘハイカセネェ!」「トカゲガリダ!」「ココハオレニマカセテサキニイケ!」「シボウフラグヲタテルナバカ!」
「グルルルル……ガァァァァ!!」
黒竜の背に飛び移り、蜘蛛の怪物達が牙を突き立てる。
それらの牙は黒竜の鱗を破るには至らなかったが、大蜘蛛を追おうとした黒竜の動きを止める事には成功する。
ガチガチと体表で鳴る牙の音や、全身を小さな生物が這いまわっている感覚に、アサルティは鬱陶しそうに唸り、ぶるんぶるんと体を揺らして振り払おうとする。
しかし、蜘蛛達は数十、数百と群がり、互いに足を絡ませて取り除く事ができない。
黒竜は自分の身体を壁に叩きつけ、地面を転がり、そして影の中に潜り、群がる敵を払い除けようと藻掻き続ける。
しかし、蜘蛛の怪物達はそれでも、アサルティの身体から離れようとしなかった。
「くっ……早く、早く…!」
苦戦するアサルティの姿に、エイダが慌てて、残る右足の糸を切ろうと急ぐ。
刃で切ったのではなく、熱で糸が弱まる事に気付いた彼女は、短刀ではなく弓の弦で摩擦し、他の糸をどうにか取り除いていた。
そしてようやく、ぶちぶちと最後の糸が千切れる。
しかしその瞬間、エイダは手元を狂わせ、掴みぶら下がっていた糸を手放してしまった。
「あっ……わっ、わぁっ!?」
手を伸ばすもすでに届かず、エイダは空中に投げ出される。森の大樹と同じ高さはあろう地上に向けて、頭から真っ逆さまに落下する。
ぶわっ、と顔中に冷や汗を噴き出させ、エイダはひゅっと息を呑む。
しかし、頭が果実のように弾け、真っ赤な花を地面に咲かせると直感した直後、黒く巨大な手がエイダと地面の間に割って入る。
ぼすっとエイダの身体を受け止めた手は、そのまま彼女を脇に放り投げ、地面に転がした。
「あぅっ!? ア、アサルティさん…!?」
「ゴルルルルルル…!!」
地面の染みにならずに済んだエイダが、苦悶に聞こえる咆哮を上げるアサルティを見上げ、目を見開く。
少女の呼びかけに答えることなく、怪物は壁に体を擦り付け、蜘蛛達をすり潰す。ギャリギャリと岩肌に鱗が接触し、赤い火花が無数に辺りに飛び散る。
ついには、硬い岩壁に頭から突っ込み、洞窟全体に凄まじい衝撃が走る。
強烈な一撃を受けた岩壁は大きな罅を入れられ、やがてガラガラと破片となって辺りに四散する。その崩落に巻き込まれ、黒竜に張り付く蜘蛛達の一部が、次々に潰され、剥がされていった。
「ギャアア!!」「コイツムチャクチャダ!」「コンナヤツニツキアッテラレルカ!」「オレハカエラセテモラウ!」「ダカラシボウフラグヲタテルナッテノ!」「モウヤダコイツラ!」
「グルルルル……!!」
ぼたぼたと零れ落ちた蜘蛛達は、暴れ回る黒竜の相手に嫌気がさし、同時に目的を果たしたことで次々に離れていく。
体を起こした黒竜は、ぶるぶると頭を横に振って正気を通り戻し、逃げる蜘蛛達を睨みつける。
すると次の瞬間、ぎょろりと瞳孔が縦に裂け、真っ赤な血のような光を放った。
「ガルルルルル!!」
「エッ、チョッ、ナンダコレ!?」「シズム…シズムゾ!?」「ナンジャコリャ!?」
黒竜の浸かる影が一瞬にして広がり、蜘蛛達の方へ伸びていく。
影は蜘蛛達の真下にまで達すると、すぐさま闇の世界に通じる穴を開く。蜘蛛達はそれを避ける事もできず、瞬く間に影の中に呑み込まれていく。
「ギャアアア!!」「イヤダ…イヤダイヤダイヤダ!!」「ダレカ…ダレカタスケロ!」「シニタクナイ!!」「フザケンナコノバケモノ!!」
ずぶずぶと闇の中に沈められ、蜘蛛達が口々に命乞いの声を上げる。
しかし、それで黒竜の処刑が止まるはずもなく、数分もしないうちに蜘蛛達の姿は完全に消え去る。
しん、と静かになった頃に、アサルティが目を細め、げふっと大きなげっぷをこぼした。
「……
べろりと口の周りを下で舐め取り、呟く。
そして影を泳いで移動し、途中ですり潰しておいた蜘蛛達の死骸を咥え、片っ端から噛み砕き呑み込む。
仕留めた獲物は、一匹残らず腹に収めるつもりで、瓦礫の中に埋まる異形の亡骸を平らげていく。
それを終えてようやく、アサルティはようやく動きを止めた。
「…
呟きながらアサルティは、自分の身体につけられた傷を見下ろす。
鋭く尖った足で貫かれ、今も血を流す深い穴。これまで狙ってきた獲物も、ここまで深い傷を負わせた相手はいない。せいぜい、鱗を少し削る程度のものだ。
しかし、あの蜘蛛は他とは明らかに違った。
頭脳は然して問題ではない。人語を介する程度で、罠にはめたり策を講じたりする様子はまるでなかった。せっかくの蜘蛛の糸も全く使おうとせず、力押しで向かって来ていただけだ。
しかし、その力押しが危険だった。大蜘蛛の体表は、アサルティの牙や爪でも容易には引き裂けず、食らいついている間に何度も反撃を喰らわされた。
どういうつもりか、ある程度組み合った後は一目散に逃げ出し、子に足止めをさせて姿を消した。
聞こえてきた言葉から察するに、相当に臆病な奴の様だが、もし好戦的な性格だったなら、戦闘の続行は非常に危険であっただろう。
「……
しかし、アサルティは不意に、にやりと口角を上げる。
己が初めて取り逃がした、未だ全てを味わえていない厄介な標的。黒竜の目にはもう、大蜘蛛の怪物が極上の獲物に見えて仕方がなかった。
「
「…きっと、集落です」
狭い洞窟の中で試行していたアサルティは、真下から聞こえてきた声に目を見開く。
じろりと目を向ければ、肩を押さえたエイダが恐る恐る、様子を伺うように黒竜の元へ近づいてくる姿がある。
アサルティは彼女に、やや厳しい視線を向けて牙を剥いた。
「…
「…攫われた女達を探せと、それと…あの怪物を探れと、そう命じられたんです」
「ハッ、
「……今さっき、その決断を激しく後悔しました」
気まずげに目を伏せていたエイダが、ちらりと背後を振り返る。
黒竜と大蜘蛛の戦闘の余波のせいだろうか、天井からぶら下げられていた女達が地面に転がっている。
四肢を糸に拘束されたまま、ピクリとも動かず、横たわっている。見ると、膨れていた腹が裂け、中身が溢れ出してしまっている。
それは内臓であり、無数の卵であり、原型もなくなるほどに潰れているのがわかった。
「あんな死に方をするぐらいなら、あの里で苦しんでいた方がましだと……そう、思いまして」
「ソウカ…マァ、ソウダナ」
アサルティも、無残な姿を晒している女達の亡骸を見下ろし、フンと鼻を鳴らす。
しばらくの間、竜も少女も何も言わなかった。
エイダは恩人に対し、自分が見せた失礼な行動を思い出し、黒竜は少女の後ろ向きな態度に苛立ち、どちらもまったく口を開かなくなる。
重い沈黙が続いた時、ふと、二人の視線の先……倒れ伏す女達の亡骸の一つから、微かな呻き声が聞こえた。
「……ぁ、あ」
「! まさか、まだ息があるんですか…!?」
慌てて駆け寄るエイダ。アサルティも何を思ってか、彼女と共に血溜の中に横たわる女の方へ近づく。
すぐさま彼女の容態を見るエイダだが、見た瞬間に悲痛に顔を歪める。
痛々しく呻き、血を吐く女の身体は、治療の知識のないエイダであっても、もうどうしようもないと確信してしまうほどの有様となっていた。
「…ごめんなさい。ボクじゃもう……あなたを助けてあげられません。ごめんなさい…」
「も…ぅ、いや、な、の…」
ばっくりと裂けた腹から、太い縄のように見える臓器がこぼれている女に、エイダはつい頭を下げる。
悲惨な姿に、エイダはまるで彼女の痛みを自分が受けているような気分に陥る。それをどうにもしてやれない事に、とてつもない無力感に苛まれる。
しかし女は、もう視力が働いていないのか、虚ろな目でエイダを、いや黒竜の方を見つめる。
今にも途切れそうなか細い声で、女は一言、懇願した。
「……ころ、し、て」
「ワカッタ」
こぼれた最後の言葉に、エイダがハッと目を見開く。
その時には既に、黒竜の牙が女の目前に迫り、がぶりと頭を噛み潰していた。
頭部を失った女の身体がビクンと大きく痙攣し、やがてただの肉の塊に変わる。アサルティはそれを舌で拾い上げ、ばくんと口の中に放り込み、ばりぼりと咀嚼する。
怪物は続いて、他に転がっている女達の亡骸に目をやり、次々に頬張り呑み込む。
数分も経たないうちに、洞窟の中にあった女達の憐れな遺体は、綺麗さっぱり片付けられた。
「…
「え…?」
「
どこに向かったかなど、皆目見当はつかない。
しかしアサルティは、両の目に怒りの炎を燃やしながら、取り逃がした獲物が最後にいた方角を睨みつける。食欲ではない何かが、暴食の怪物を突き動かしていた。
「
爛々と目を輝かせ、牙を剥き出しにするアサルティ。
その様に、思わず顔を引き攣らせ後退るエイダだったが、不意に表情を引き締め、踏みとどまる。
気付けばエイダは、ずぶずぶと影に潜ろうとした黒竜に向け、力強く叫んでいた。
「ぼ…僕も、連れて行ってください!」
「…ア?」
「きっと…きっとあの怪物は、新しい女を求めて、僕の里にまた現れます! そこに向かえば、もしかしたら見つかるかもしれません!」
力説するエイダに、アサルティはぎろりと鋭い目を向ける。
その目は理解できないものを見る目であり、同時に強い呆れを孕んだ目であった。
「…
「わかってます……でも、こんな光景を見て、何もしない気にはなれないんです」
「
冷淡な声で黒竜が告げると、図星を突かれたエイダは思わず俯く。
しかし、彼女の拳はギュッときつく握りしめられ、必死に耐えている事を示す。正論を突き付けられてなお、退けない感情に突き動かされ、エイダは黒竜に向き合っていた。
「そうですよ…! あんな人達、死ねばいいと思ってますよ…! いっつもいっつも、死ね、いなくなれって言われ続けて…! 苦しくて苦しくて仕方がなかったですよ…!」
「…ナラバ」
「だけど! ホントに死んだら、僕はこの気持ちをどうしたらいいんですか!?」
大きな声で、激昂するように吠えたエイダに、アサルティは思わず口を閉ざす。
気づけば少女は、ボロボロと涙を流していた。積もりに積もった本音と共に、封じた感情が堰を切ったように溢れ出し、止まらなくなっていた。
「あの人達がいなくなって、僕だけ生き残ってたら、一体僕はこの気持ちをどこにやればいいんですか!? 僕だけ痛い思いして、それでもここに生きてるのに、なんであの人達だけ勝手に楽になるんですか!? ふざけんな馬鹿!!」
「……」
「僕が苦しんだ分、あいつらも苦しめ! 死んだら何にも苦しくないじゃないですか! 生きて僕に悪い事したって、罪悪感に苛まれてろ!!」
大きく肩を上下させ、力の限り叫びまくるエイダに、黒竜は目を丸くしながら、じっと耳を傾ける。
以前話した時のように、全てを諦め自暴自棄になったわけではない。自分を責め苛むすべてに対し、反抗する気持ちで、自分の思いのたけを叫んでいた。
「だから…死なせてたまるか! あんな化け物に横取りされてたまるかってんですよ!」
キッ!と目を吊り上げ、吠えたエイダを見つめ、アサルティは無言のまま目を細める。
恐怖よりも先に、怒りと憎しみが前に出て、少女を突き動かしている。募り続けた不満が、怪物の元に向かう事への恐怖を薄れさせているのだろうか。
アサルティはやけくそになった彼女に、最早かける言葉が見つからない。
するとやがて、怪物はずぶずぶと身体を影に沈め、少女に向けて首を垂れてみせた。
「…あ、え…あの」
「
散々叫んで喚いてようやく落ち着いたのか、エイダは唖然とした顔で黒竜を凝視する。
自分の前に差し出されている背中を見つめ、どうすればと戸惑う彼女に向けて、黒竜はため息を交えるように、吐き捨てた。
「
そんな黒竜の申し出に、エイダはまたぽかんと呆ける。
やがてハッと我に返り、大急ぎで黒竜の背に飛び乗り、ざぶんと闇の世界に共に潜り込んでいった。