アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
ザザザザザザ…!と、七本脚の巨体が密林を走る。
激突された樹々は、まるで小枝のように圧し折られ、遠く吹き飛ばされていく。無数の樹々に邪魔されながら、大蜘蛛の怪物の進撃は一向に衰える様子がない。
自らの唯一といえる天敵から逃れるため、パラモアはひたすらに走り続けた。
(くそが! くそがくそがくそが!! あのトカゲが! 俺の邪魔ばかりしやがって!)
残った六つの目を爛々と輝かせ、胸中に怒りを渦巻かせる。
起こすはずのない失態、あるはずのない障害、いるはずのない敵、予想だにしなかった事態が連続して降りかかり、パラモアは苛立ち焦る。
数ヶ月かけて生み出してきた眷属は、黒竜の襲撃によりほとんど全滅した。苗床にした女達も、あの場に全て集めていたことが災いし、全て手放す羽目になった。
あの巣を作って以来、どこにも行かず引き籠っていたため、唯一の住処も失ってしまった。
今のパラモアが有しているものは、もう何もない。
できる事と言えば、こうして捕食者の脅威から逃げ続ける事だけだ。
(何なんだよ!? 何なんだよあの化け物! 俺のものを……俺の玩具を奪いやがって! 俺の家を壊しやがって! 何であんな奴に俺の楽しみを邪魔されなきゃならないんだよ!?)
不平不満を内心でぶちまけ、パラモアはガチガチと牙を噛み鳴らす。
今すぐに引き返して、自分の世界に割り込んできた黒竜を殺して、ぐちゃぐちゃにしてやりたかったが、身体は素直に逃走を続けている。
今の姿になるずっと前から、荒事を恐れ、自ら動く事さえ億劫になっていた怪物にとっては、立ち向かうという選択は最初からない。
巣に引っ込み、自分よりも弱い相手にのみ攻撃できる矮小な精神の怪物は、積み上げたものを壊されても、反撃することなどできるはずがなかった。
(どうする…!? どうする!? あの化け物はどうしたらいい!? 平気で俺の足を食い千切るし、こっちの攻撃は効かないし! 食われるしかねぇじゃねぇか!!)
自らの身体に突き刺さる、黒竜の鋭い牙と爪の痛みを思い出し、必死に打開策を考えるパラモア。
戦う術など一切知らない大蜘蛛は、ひたすら悶々と悩み続けていた。
(どうすりゃいいんだ…! どうすりゃ…!)
―――罠を張ればいい。
自慢の糸でがんじがらめにしてやれば、あの化け物と言えど容易には逃げられまい。
(ああ、そうだな…! そうだ、おれにはこの力があるじゃねぇか!)
ふと聞こえてきた声に、パラモアは即座に納得し、恐怖心がわずかに減る。
冷静で、そして冷酷なその声に、パラモアは何の疑問も抱くことなく、ぎろぎろと六つの目を蠢かせ、嗤う。
(何ならギチギチに縛って、窒息させてやってもいい! 触られなきゃ何も怖くない…!)
―――窒息させるより、引き千切ってやった方がいい。
影に潜るなどという、わけのわからない力を持つ化け物だ……加減など不要だ。
(そうだ……その通りだ! 縛ったところで両目を潰して、口の中からずたずたに斬りさいてやればいい! もう二度と、俺の身体を壊せないようにしてやる!)
臆病に逃げる事だけ考えていたパラモアの思考に、惨たらしく相手を殺す残酷な思考が混じる。己に傷をつけた怪物に対する憎しみが、謎の声の導きが、大蜘蛛の思考を変えていく。
(殺してやる…! 俺の邪魔をする奴は皆、全部殺してやる…! 男は全部餌で、女は全部孕み袋だ! 全部犯して壊して食ってやる…!)
―――そうだ。
全部俺のものだ、全部俺のためにあるものだ!
(全部俺のものだ! 全部俺のために存在しているのだ!)
じわり、じわりと、大蜘蛛の思考が危険で独善的なものに変わっていく。
元からあった色欲がより膨れ上がり、残虐性が混じり出す。悍ましい桃色だった思考に、一滴の黒が混じりさらに毒々しく変化していく。
突如聞こえてきたその声が一体何者なのか。それに対する疑問は、パラモアの中に何一つ浮かんでこない。
その事にすら、パラモアは何の疑問も抱いていなかった。
△▼△▼△▼△▼△
「……最近は、静かですわね」
「ああ、あの蜘蛛の化け物が現れた時はどうなるかと思ったが、戦士達がどうにかしたようだな」
エルフの集落、あの中のある一件の家の中で、一組の夫婦が向かい合って座り、ほっと胸を撫で下ろしていた。
夫レノンは戦う力のない、あまり体の強くない機織り。妻レーナの方は体は丈夫だが、さほど身軽でもなく、夫のために家事を行う程度の生活を送る、ごく普通の夫婦だ。
いつも通り平和に過ごしていた時に起こった、怪物達の襲撃。
二人は自宅の奥に身を寄せ合い、身を隠す事で、怪物達の襲撃を免れていた。
「聞いたところでは、レイアン様が何か策を講じたらしいな……何でも、あの混ざり者を利用して化け物を退治するおつもりだとか」
「まぁ、あの子を……ずっと嫌っていましたものね、汚らわしいと」
「果たしてあんな奴に何かできるのか……レイアン様のお考えはまるでわからん」
時折集落に顔を出し、ちょっとした用事を済ませに来る混じり者の少女のことを思い出し、夫婦は顔をしかめる。
レイアンほどではないが、この夫婦も人間に対してはあまりいい印象を抱いていない、集落においては典型的ともいえる人物であった。
嫌悪感を抱いていた少女が、集落に迫った怪物を退治する役に立つという。
夫婦には、どうにも信用しがたい話であった。
「いざという時は、集落を捨てて何処かへ行かなければならないかもしれない……」
「何処かって…どこへ?」
「何処かだよ……あの怪物が現れないような、遠く、静かな場所さ」
レノンはそう言い、深くため息をつく。
数百年に渡り、先祖代々守り続けてきた森を捨てるという選択は、確かに受け入れ難い。豊かで馴染み深い、この地以外で暮らす想像など、どうやってもできない。
「…最近のあの方はおかしい。以前はもっと……年長者を敬う程度のことはしていたはずだ。それなのに…」
しかし、最近のレイアンの様子を思い返すと、どうしても頼り甲斐というものに欠け、付き従う事に忌避感を抱かされる。
長年エルフの民を統べ、信頼の厚い長レヴィオとの衝突は何度も見ていたし、その口ぶりがどうにも乱暴で、受け入れられない。
まるで欲深で狼藉者ばかりと噂の人間のようで、好きになれそうになかった。
彼の取り巻き達も、彼に影響されたのか粗暴な態度が目立ち出し、良識ある者達からは棘のある目で見られだしていた。
「こういっては何だが……私達に子がいなくてよかったかもしれない。もしいればあの方と同年代で…同じように、傲慢で自分勝手に育っていたかもしれない」
「……こんな事に、感謝する日が来るとは思いませんでした」
「私の身体が弱いせいで、君には寂しい思いをさせてきた……すまない、レーナ」
長い時間を夫婦として過ごし、しかしただの一度も子を成したことがない事に、二人は悲しさとともに安堵も覚える。
子を成せない身体であるレノンは、申し訳なさそうにレーナに頭を下げる。
夫婦となってから百数年、二人で夜を過ごしたことは片手で数えるほどしかない事が、レノンに罪悪感を齎していた。
「…もうやめましょう、あなた。子供はいつかでいいのですよ……そうね、平和な場所で、のんびり過ごしたいですね」
「ああ…準備を、進めておくとしようか」
気遣ってくれる妻を悲しげに見つめ、レノンは立ち上がる。
他の者達に何か言われるかもしれないが、大事なのは妻と今後の生活。何と言われようと、脅威がすぐそばにあるこの地に留まる理由は薄い。
夫に付き従い、妻も準備を手伝おうと腰を上げる。
できれば早い方がいいだろう、と持ち出す物を考えていた、その時だった。
「―――逃げるつもりか、裏切り者」
戸口から響いたその声に、夫婦はハッと目を見開き、振り向く。
何の音も立てず、気配さえ悟らせず、入り口を塞ぐように仁王立ちした青年―――レイアンの姿がそこにあり、夫婦の思考を凍り付かせる。
二人を見つめる目は冷たく、およそ同族に向けるべきものではない。氷のようなその視線が、レノンとレーナをその場に縫い付けていた。
「レ…レイアン様…」
「俺のものを勝手に持ち出そうとは……どうやら命が惜しくないようだな、塵屑め」
表情を強張らせる二人の元に、レイアンは遠慮なく上がり込む。
怒り狂っているようにも、冷め切っているようにも思える平坦な声で、ゆっくりと近づく。
夫婦は異様な迫力を醸し出すレイアンに困惑し、徐々に部屋の奥へと追い詰められていく。刃物を突き付けられているかのように、夫婦は青年にただ事ではない恐怖を抱いていた。
「あ、貴方のものなど持ち出したつもりはありません。私達は着の身着のまま、この地を去ろうと思っただけです。決して、貴方の手を煩わせるつもりなど―――」
「黙れ! 臆病風に吹かれた雑魚が! お前が盗人であることに違いはない!」
「盗人って…!? だ、だから…私は妻と共に、あの怪物から逃げるためにこの地を離れるだけで……」
来ていきなり、敵意を剥き出しにするレイアンに、レノンは必死に言い訳を返す。
しかし夫が何を言い募ろうとも、青年の罵倒の言葉は止まらない。目は正気を失っていて、真面な状態には全く見えない。
レーナは本能的な恐怖を覚え、思わず夫の後ろに隠れる。
妻が夫の背に身を隠した時、青年の目がギラリと、毒々しい赤色に光る。
そしてレイアンが片手を突き出し、手首から白い何かが射出され、レノンとレーナに襲い掛かる。
「がっ!?」「きゃぁっ!?」
白い何か―――太く大きい大量の蜘蛛の糸は、重力をまるで無視した動きで夫婦にそれぞれ絡みつき、四肢を縛り宙に吊るす。
さらにはレノンの首に巻きつき、ギリギリと気道を狭め始めた。
「かっ……がっ、れ、レイアン様…!? 何を……!?」
「あ、あなた…! あなたぁ!!」
呼吸を阻害されたレノンは、泡を吹きながらレイアンを凝視する。見る見るうちに顔を青紫色に染めていく様に、レーナが悲鳴をあげる。
対するレイアンはさらに目を吊り上げ、苛立たしげな様子でレノンを睨みつける。
手首から放たれた糸が蠢き、夫の首をより強く締め上げる。ぎちぎちと、肉だけでなく骨まで軋む音まで聞こえていた。
「盗人を懲らしめるのだ……痛みが無ければ反省などするはずないだろう」
「だっ…だから! 私達は何も盗んでなど……!」
「いや、今まさに盗もうとしていた…! 俺のものを、お前のような役立たずが持ち去ろうとしたのだ!」
そういってレイアンが見つめるのは、夫と同じく宙に吊り下げられる妻。
数百年たっても美しさは損なわれず、むしろ年月を経るごとに魅力を増していくと、ひそかに自慢に思っていた妻。
それをレイアンはまるで、我が物のように見ていた。
「なっ……れ、レイアン様!? 彼女は…私の妻で」
「うるさいわ、塵屑め! 剣も振るえない、弓も射れない、戦いの手駒にもならん役立たずの分際で、俺のものを横取りできると思ったか!?」
「レイアン様…!? 何を、言って…」
「俺以外に雄などいらん! 種の繁栄には俺だけがいればいい! 俺以外の雄に存在する価値はない!!」
激昂し、わけのわからない言葉を吐き散らすレイアン。
言っている意味がまるで理解できず、レノンもレーナも、怯えた眼差しで次期長と言われていた彼を凝視する他にない。
「この里にあるものは全て俺のもの……土も木も食物も、女もだ! それを奪う者は、誰であろうと殺してくれる!!」
唾を吐き、吠えるレイアンの目がレノンを射抜く。
くわっと見開かれた彼の目が―――昆虫の複眼に変化している事に気付き、夫婦は一斉に悲鳴をあげる。
異形と化したレイアンは、糸を射出する手をぐいっと引っ張る。それにより、レノンの全身に巻き付いた糸が一気に引き寄せられ、捕えた獲物に凄まじい力を加える。
ギチッ!とレノンの身体に糸が食い込み、驚異的な力で肉を締めあげ、そして。
「ぎゅっ―――」
ぶぢぃっ!!と。
レノンの全身が切り裂かれ、吹き飛ぶ。糸が肉に食い込み、一瞬にして切断してしまったのだ。
「ひっ……ひぃやぁあああ!!」
目の前で夫がばらばらにされた姿に、一瞬固まっていたレーナが叫ぶ。
ぼたぼたと落下する肉片からは血液が噴出し、夫婦の家を真っ赤に染め上げる。想い出の全てが穢されていくような光景に、頭の中が真っ白になる。
レイアンはそれを、実に気分良さそうに眺めていた。
目障りだった邪魔者、嫌鬱陶しかった虫けらが目の前から消えた事で、爽快な気分に浸っていた。
「きひっ、きひひふひひ、ひははは…! 邪魔をするからだ…俺の邪魔をするからだ」
不気味に笑い、レイアンはもう一度レーナを見やる。
自分が次の標的にされているのだと気付き、途端にレーナは悲鳴を止め、がたがたと震えだす。
異質な異形の力を使い、同胞を何のためらいもなく殺した様を見たことで、レイアンに対する恐怖が思考の全てを支配する。
長く見知っているはずの青年が、もう同じ種族とは思えなかった。
「お、お願いします…! こ、殺さないっで…お願いします…!」
「殺す…? せっかくの苗床をなぜわざわざ潰さなければならない。まだ一度も愉しんでいないのだぞ」
ニタニタと嗤い、レイアンが手を伸ばす。伸びた両手がレーナの衣服を掴み、思いっきり左右に引っ張る。
ぶちぶちと、人外の強さで衣服が引き千切られ、レーナの豊満な体が青年の前に晒しだされた。
「ひっ…いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
夫以外に見せた事のない、あられもない姿を見られ、涙を流して泣き叫ぶレーナ。
隠そうにも全身を縛られた状態では、身をよじる事さえできず、身体を左右に揺らすしかなく、余計に見せつけるばかりである。
自由を奪われた哀れな人妻の姿に、レイアンはゆっくりと歩み寄り、不気味に指を蠢かせ、距離を詰めた。
「お前も俺のものだ……この里の、この森の、この世の雌は全て俺のものなんだ……!」
迫り来るレイアンの、悪魔のように醜悪な笑みに。
四肢を封じられ、吊り下げられるレーナはただ、涙を流しされるがままになるのだった。