アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
枯れ木が砕けるような、乾いた音が連続して響く。
自分を支えていた足が、一本を残して破壊された大蜘蛛の怪物は、毒々しい色の体液をぶちまけて崩れ落ちる。
目からは光が薄れ、命の灯が徐々に薄れている事を示していた。
「ギッ……ぎギッ…! ち、ぢグショぉ…! 俺が…こノ俺ガ…! コンな所で……!!」
どろどろと、口から体液を吐き出し、真下に池を作るパラモア。
しかし、満身創痍の状態に陥ってなお、自分に牙を剥いた敵に対する怒りは維持されている。
バキボキと、食い千切ったパラモアの足を咀嚼していたアサルティは、ゴクンとそれを呑み込むと、訝しむように目を細め、首を傾げてみせた。
「…
最初の邂逅、地下の巣穴で相対した時とは明らかに異なる態度。
まるで姿形だけ同じの別個体のような、高慢で自信過剰な正確になっている事に、アサルティはひたすらに困惑する。
赤く目を点滅させ、呻いていたパラモアは、やがてハッとアサルティを見上げて固まる。
「オ前……お前モ、同ジナのか!? お前モ、転生しテ……ドッカの誰カに、力を与エラれて…!」
「ア? テンセイ?
驚愕と共に、怒りを込めてぶつけられた問いに、アサルティは逆方向に首を傾げる。
天性か? 転成か? 点睛か? 典正か? 転生か?
聞きなれない単語を突き付けられ、お前はそうなのかと問われても、どのことを言わんとしているのかわからず、答える事もできない。
するとパラモアは、急に目を強く光らせ、激昂したように声を荒げだした。
「トボケるなヨ……化け物! お前みタイナ奴が、俺以外にイテタまるカ…! 誰カ、誰かお前ニ力ヲ与えたニ決まッテる! ソレは誰だ!? 神カ!? 答エロよ!!」
「
何を急に怒り出しているのか、とアサルティは呆れる他にない。
意識がはっきりしてから、早数週間といったところ。
自分が何者であるか、どうして何も覚えていないのか、目覚める直前まで何があったのか、その全てが記憶から欠落しており、説明などできるはずもない。
何よりも、思い出したいとも、知りたいとも思っていないのだから、黒竜は自分の成り立ちを知る由もなかった。
「い、イヤ…! そンなはズハナい…! オ前は俺ト同類だ…! 日本人デ……アノ時死んデ、コの世界の化ケ物に生マれ変ワッたンダ…!」
「フゥン、
喚くように、ぶつぶつと独り言ちる大蜘蛛に対し、黒竜は不思議そうに目を瞬かせる。
パラモアの呟く言葉の内容は、アサルティには皆目見当もつかない。何とか理解できる、呟きの端々から察するに、この怪物は何か知っているのかもしれない。
目に映る他の生物とは明らかに異質な自分達の正体について、何かしら察しているのだろう。
しかしやはり、アサルティにはどうでもいい事であり、欠片も興味がわかなかった。
「マァ、
べろり、と汚れた口周りを舐め、アサルティが口角を上げる。
突如、不気味な笑みを浮かべて近づいて来る黒竜に、気付いたパラモアはびくっと全身を震わせ、ぎょろぎょろと目を泳がせ始めた。
怪物の目の前にいるのは、足の殆どを失ったボロボロの自分―――つまりは獲物が一体のみ。
それを前にした化け物がすることなど、もう一つしか思いつかない。
「マ、待て! お、俺トオ前は同郷ダ! ソシて……同じ人間だッタンだ! こ、殺スノは良くナイ……そうダロう!?」
「
別人のように変化していたパラモアの態度が、ここにきて元に戻る。
見下し、自分以外の全てを組み伏せようと声を荒げていた怪物は、迫り来る命の危機により、急速に勢いをなくし出す。
決して届く筈もないのに、自分の命を、血肉を狙う別の怪物に向けて、必死の命乞いを始める始末。
情けない声を上げ、醜態を晒すパラモアに、アサルティは表情一つ変えなかった。
「
牙を剥き出しにし、ゆっくりと近づくアサルティ。
パラモアはどうにか逃げようと藻掻くも、一本しか残っていない脚では移動などできない。それどころか、巨体を持ち上げ、立ち上がる事さえできない。
アサルティには、散々逃げて手を煩わせていた大蜘蛛の怪物が―――調理を終えて、食われるのを待つ極上の料理に見えていた。
「や、やめロ……ヤメて…!」
「
ぐぱっ!と、アサルティの顎がこれ以上ないほどに大きく開かれる。
ずらりと並んだ鋭い牙の奥、見えた黒竜の喉は、まるで深い穴の底のような、光を一切受け付けない漆黒が広がっている。
もし入り込もうものなら、二度と陽の下には戻って来られない、そんな地獄が広がっていた。
そしてアサルティの牙が、ぶるぶると震えるパラモアの頭部の上下に、それぞれ突き立てられていく。
「ヤ、ヤめ―――ギッ!!」
諦め悪く、命乞いを口にしかけたパラモアの声が、それ以降ぶっつりと途切れる。
八つの目全てを噛み潰し、頭部を食い千切った瞬間、大蜘蛛の残った身体がビクンッと大きく奮える。
その後、ばきばきぼきぼきと、思わず耳を塞ぎたくなるような、殻と肉を咀嚼する音が響く。
大蜘蛛の巨体は見る見るうちに小さくなっていき、夥しい範囲の血痕だけを残し、この世から跡形もなく消え去っていく。
全てを食い尽くし、アサルティは顔を上げる。
顔中を毒々しく染め、満足げに舌で顔を舐め取りながら、げふっと大きなげっぷをこぼした。
「
もう跡形もない獲物―――同郷で同種の存在だと喚いていた何者かにそう告げ、アサルティはゴキゴキと首の骨を鳴らす。
微かな違和感を自身に覚えながら、怪物はにたりとまた口角を上げるのだった。
△▼△▼△▼△▼△
ごぽっ…と、地面に横たわる女達の孔から、黒い塊が幾つもこぼれる。
こぼれ落ちたそれ、小さな蜘蛛の仔はうぞうぞと蠢いていたが、やがてぴくぴくと痙攣し始め、そのまま動かなくなる。
腹に卵を産み付けられた女達全員がそうなり、生みつけられた蜘蛛の子は全て死に絶える。
しかし、女達もまたわずかな痙攣を残し、ピクリとも動かなくなる。
虚ろな目で空を見上げたまま、涙の痕を目尻に残し、先に行った夫や恋人達の元へ、その魂を手放していった。
「終わったようだな、全てが……一度は拒否したあの者が、終わらせてくれたらしい」
血の気がすっかり引いた真っ青な顔で、レヴィオがぼんやりとした様子で呟く。
体に開けられた大穴により、もう体中の血がほとんど抜け落ちた。あとは意識が闇の底に落ちていくのを待つだけである。
そうなるよりも前に、レヴィオは自分を抱き上げるエイダを―――娘の忘れ形見である少女を見上げ、悲痛げに目を細める。
「お前には、すまん事をしたと思っている……人間に犯されて帰ってきた娘が産んだ子を、守ってやれんとは……親として、恥ずかしく思う…」
「長……は、私の…祖父、なのですか……?」
「皆の手前、表だってそう扱う事はできなかったがな……」
初めて知る真実に、エイダは目を見開いたまま言葉が出ない。
もうこの世のどこにもいないと思っていた、血の繋がり。それをこの男が有していたのだと知り、どうしていいかわからなくなる。
「だ、だったら……レイアン様は、私の叔父…? いや、伯父…?」
「…お前には、親族を殺させてしまった。だが、もうあれはエルフでもなくなった、ただの化け物だった……気に病むことはない」
「でも、でも、私はこの手で、誰かの命を…!」
「それでもだ……己を殺そうとした相手の命を奪っただけのこと、責める者はもう居ない」
そういって、レヴィオはエイダから目を逸らし、周囲に目をやる。
美しかった森は破壊され、そこにあった家屋やエルフの営みも、跡形もなくなっている。
住民達は皆、無残に殺され苗床にされ、五体満足でいる者は誰もいない。
森を守り、長い月日を経て、この世のどんな種よりも高潔で誇り高いと自負してきた種は、その内この地に一人もいなくなってしまう。
その様を嘆きながら、レヴィオはこれでいいと納得し始めていた。
「我等は、傲慢過ぎたのだ……他とは違うのだと驕り、レイアンのような者を生み出し、あの化け物に付け入る隙を与えてしまった。自業自得なのだ、我らの滅びは……」
「長…」
「だが、お前は違う。望まぬ生まれを持ち、穢れた存在だと蔑まれ続けた。だが、だからこそ驕らない。柵に囚われない……お前を縛るものはもう、どこにもなくなったのだ」
今にも泣き出しそうな目で見つめてくるエイダに、レヴィオは自嘲し目を伏せる。
岩のように重い手を伸ばし、項垂れる少女の頭に乗せ、掌を擦り付けるように撫でる。
「この森に住まうエルフの種は、この時を持って滅ぶ……他者を見下し、今の地位に胡坐をかいた愚かな種として、死んでいくのだ。その最後は……私でいい」
エイダの頭に乗せた手からも、徐々に力が抜けていく。目からは光が失われ、見えているかどうかも定かではなくなる。
ハッと息を呑むエイダの前で、レヴィオはまた、優しい笑みを浮かべてみせた。
「エイダよ……生きよ。お前のために……」
その言葉を最後に、レヴィオの手がことりと落ちる。
エイダは慌ててその手を取るが、長の―――自分の実の祖父がもう呼吸もしていない事に気付き、顔をぐしゃぐしゃに歪めて項垂れる。
もう、二度と口をきいてくれない最後の肉親の手を握り、エイダはぽろぽろと涙を流した。
「意外ダッタナ……マサカアノ糸、食エルトハ思ワナンダ。菓子ノヨウナ甘サダ。アノ蜘蛛、生カシテ俺ガ満足スルマデ糸ヲ作ラセレバヨカッタ」
くちゃくちゃと、そこら中に張り巡らされていた糸を咀嚼し、影を泳ぐアサルティ。
大蜘蛛を喰いきった後、まだ小腹が空いたままだと食えるものを探し、ふと思いついて糸の山にかじりついてみたら、思った以上に濃厚な味を感じた。
思わず気に入り、瓦礫と一緒に片っ端から食い荒らし、満足げに集落の中心に戻ってきたのだ。
そこでアサルティは、老人の亡骸を抱えて座り込むエイダに気付き、訝しげに目を細めて、彼女の元に近づいた。
「……何ヲヤッテルンダ、オ前ハ」
「な、何でも……ありません」
「イヤ、絶対ニ何カアッタダロ。ドウシタンダ?」
「なんでもないんです…! 本当に……放っておいて、下さい」
問いかけたアサルティに、エイダはぐいっと目元を拭って首を横に振る。
赤くはれた目を黒竜から隠し、エイダは祖父の亡骸を横たえ、立ち上がる。アサルティは、明らかに何かあったと思わしき少女を見つめ、何も言わずにその場に留まる。
しばらくの間、エイダは無言で佇み、虚空を見つめていたが、やがてアサルティの方に振り向く。
「アサルティさん……一つだけ、お願いを聞いてもらっていいですか?」
「何ダ?」
嫌がる素振りも見せず、アサルティが問い返す。
口が悪く、自分勝手だが、自分の命を救い、脅威であった怪物を屠ってくれた異形に向け、エイダは痛々しい笑みを見せ、頭を下げた。
「集落の人達を……私の家族を埋葬するのを、手伝って貰えませんか?」
「……仕方ネェナ」
アサルティは、一人ぼっちになってしまった少女のその願いを、断る事ができなかった。