アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
プロローグ
それは、ある夜のこと。
人気が全くなくなった、ある大きな街の貴族街にて。
暗い夜の闇を、オレンジ色の光が通り過ぎていく。
二頭の馬が引く、漆と金箔で飾られた馬車が、ゴトゴトと石畳の上を進んでいた。
やがて、馬たちの嘶きと共に馬車が止まり、扉を開けて、一人の紳士が顔を出す。
精悍な顔立ちに、整えられた髪と髭。見る者の十人中十人が、誠実そうな男だと評価を下すだろう外見の男が、自宅である大きな屋敷の前に降り立った。
「…御苦労だった、後片付けを頼むよ」
「はい、旦那様」
御者席に座る老人にそう命じ、馬車がゴトゴトと進みだすと、男は屋敷の扉に向かう。
街で有数の実業家にして、一、二を争う富豪の一人である彼。
今夜もある重要な取引、企業の重役達との会食、溜まった書類の整理に奮闘した帰りで、さっさと就寝してしまいたいと必死に眠気と戦っていたところだった。
「明日は何だったか……ああ、そうだ。用意しなければならない書類がまだいくつもあるんだった……いい加減、纏まった休みを取って体を休めなければな…」
ゴキゴキと、凝り固まった首を回して骨を鳴らし、大きく欠伸をこぼす。
何か、就寝前に小腹を満たしておくか、と考えながら、門に手を伸ばした時だった。
「―――あの、すみません。ゴードンさんで間違いないですか…?」
「…ん?」
唐突に、聞きなれない声で自分の尚を呼ばれ、男―――ゴードン・エルハイムは訝しげに振り向く。
眠気を我慢し、帰宅の邪魔をされたことへの苛立ちを見せないよう、余所行きの表情で振り向く。
そこにいたのは、年若い女だった。
肩までの長さの赤毛に、卵型の顔。大きな瞳に、艶のある唇。長く細い手足に均整の取れた身体つき、程よく実った胸元と臀部。
街中でもそう見つからないなかなかの美人であり、ゴードンは一瞬眠気を忘れ、内心で感嘆の声をこぼす。
「君は…?」
「夜分遅くにすみません。私、レニーって言います。ゴードンさんのことを尊敬していて、いつかお会いできたらと思って探していまして…!」
頬を染め、目を輝かせてそんなことを言う、レニーと名乗る娘に、ゴードンは表面上は微笑み、内心では鬱陶しさに舌打ちする。
富豪であり、有能な手腕で知られているゴードンの元には、度々こういった輩が現れる。
話がしたい、関わりを持ちたい、教えを請いたい。いずれもゴードンの持つ財産や能力を欲しがり、自分のものにしたいと考えている者達であった。
(こいつもどこかの回し者か……いや、どこかの企業の娘か。私の財産を狙ってきたんだろうが……どうしたものか。見た目は悪くなさそうなんだが…)
そんな、自分の功績に
相手が男だからと、見た目を重視した女を送り込んでくるのが基本であり、突き放せば後で悪い噂を流される事もあり、甘い顔を見せればいつまでも付き纏ってくることになる。
実に厄介な、対応の仕方には十分な注意が必要な事態だが、こういった輩をゴードンは長年の活動で見慣れており、あしらい方も熟知していた。
「すまないね……今日はもう疲れていて、休みたいんだ。話なら、また機会があったときにしてもらえないだろうか」
申し訳なさを見せつつ、自分が困っているという事を示し、自ら引き下がるように促す。
悪印象を残すのは相手側も望まない事であるため、大抵の女はこれで引き下がる。しかし質の悪い、あるいは頭の悪い女であればこれでも諦めない事がある。今回は後者であったようだ。
「少しだけ、ほんの少しだけでいいんです! 少しだけでも、お時間をいただけませんか?」
「ふぅん……困ったね」
ずいっ、と距離を詰めてくる女に、ゴードンは顎に手をあて、困り顔で首を傾げる。
しかし内心では、しつこく食い下がる女への苛立ちで、湧きあがる殺意を必死に抑えつけていた。
(今日のはしつこい奴だな……こういう輩は面倒だ。上がり込んだら急に態度を変えて、肉体関係を迫って責任を取らせようとしてきたり、目を離した隙に重要書類を盗もうとしたり……)
自分が経験してきた、あらゆる苦い記憶。
数々の成功を収めてきた自分を妬み、引きずり落とそうとする者。あわよくば愛人の座に収まり、蜜を啜り寄生しようとする者。多くの人間が、ゴードンの身を狙ってきた。
人知れず始末することもできる。奴隷として売り払ってしまえば、雀の涙の額であろうが懐は潤う。
しかし、相手がどこの誰であるかわからない時点でその手段に踏み切れば、どんな報復が帰ってくるか全くわからない。
富豪といっても、一つの街で最も力がある程度。大国の富豪が相手だった場合、易々と踏み潰される場合もあるのだ。
「……わかったよ、私の負けだ。少しだけだよ、話をするのは……それと、話をするのはここでだ」
仕方なくゴードンは、女に向き直り耳を傾ける。
相手が何を要求するのか、何が目的なのか探るために、屋敷にはあげずにその場で相対する。
ごねる事を覚悟のうえで、それが最低限の条件だと一歩も退かない様子を見せる。
「ありがとうございます…! お時間はそんなにいただきません!」
にっこりと笑みを浮かべ、女は全く気にした様子もなく、ゴードンに一歩近づく。
ゴードンは彼女に聞こえないよう、小さくため息をつきながら、腕を組みその場に佇む。
これで重要書類は盗まれない。屋敷の中の金銭も奪われない。
ただ単に実業家である自分を尊敬してか、何かしらの縁を結びたくてかは知らないが、これで少しは危険を減らせただろう。
そう考えていたゴードンは次の瞬間、全身を水の塊に覆われ、呑み込まれた。
(……え?)
ごぼっ……と困惑したまま息を漏らし、次いで自分が水中にいる事に気付き、慌てて藻掻き出す。
ばたばたと両手足を動かすが、水は重く、べたつき、自由に動けない。
ここはどこだ、何故水の中にいる、何が起こった、と。何が何だかわからないうちに、ゴードンは溺れ、意識が徐々に薄くなっていく。
そして彼は、自分の衣服がボロボロと崩れ始めている事に。
いや、自分の体そのものが溶け始めている事に、驚愕と混乱の中で気づく。
(何だ、これは…⁉ 何だ、何が起こっ……)
皮膚が爛れ、筋肉が灼け、骨が溶けていく感覚に怯えながら、ゴードンは必死に藻掻き続ける。
辛うじて残った片方の眼球で、必死に外を凝視し足掻いていた彼は。
水が形を成し、先ほど見た女の顔となって、自分を見下ろしている光景を最後に目に焼き付け―――やがて、跡形もなく消え去っていった。
「……あー、終わった終わった。ったく……ぐだぐだ時間取らせてんじゃないわよ、あのおっさん」
しん、と静かになった夜の闇の中、一人の女がぼやく。
一糸まとわぬ美しい体に、黒髪を垂らした妙齢の美女が、ぶつぶつと鬱陶しそうにあたりを見渡す。
すると、その体が徐々に歪んでいく。細く華奢な肩が盛り上がり、手足が伸び、全身にみるみる筋肉が盛り上がり、次いで皮膚が変色していく。
「まぁ、いいや。全部貰っちゃったし―――今後はこれを有効活用させてもらうとしようか」
ぼやいていた声もまた、ぐちぐちと肉が蠢く音と共に変化し、男のものに変化する。
あっという間に黒髪の女の姿はその場から消え去り、女がいた場所には、溶けて消えてしまった筈のゴードン・エルハイムが佇んでいた。
「ふむ、ふむ……なるほど、見た目にそぐわぬあくどい仕事をしていたようだな。それでこの儲けようか……悪は栄えないというが、この世界においてはそうでもないのかもしれないな」
声の調子を確かめ、頭の中の記憶を探り……ゴードンの姿と全てを模した〝それ〟は、にやりと笑みを浮かべる。
コッコッ、と弾む心を表すように靴を鳴らし、自分の屋敷に入ろうとした時。
ドサッ…と、布の塊が落ちるような音が響き、〝それ〟がくるっと振り向く。
「ひ、ひぃ…⁉︎ お、お前は一体…⁉︎ 旦那様に何を、何をした…⁉︎」
「……ああ、見られてたのか」
腰を抜かし、青ざめた顔で震える御者の老人に、〝それ〟はゴードンの顔をしたまま眉間にしわを寄せる。
一通り、周りに人がいないことを確認して事に及んだはずだが、老人が戻ってくる時機を見誤ったらしい。全て見られてしまったようだ。
どうしたものか、と頬をかき、考え込む〝それ〟。
やがて、〝それ〟はニヤリと笑みを浮かべ、悍ましく目を光らせ、老人の下に近づいていく。
「せっかくだ……お前も貰って行こうか」
そう告げる〝それ〟の姿が、ぐにゅりと粘土のように歪んだ瞬間、老人はよたよたと慌てふためきながら走り出す。
一刻も早く、あの化け物から逃がれなければ。
しかし、老人の必死の思いを嘲笑うように、どぷりと津波のように押し寄せた〝それ〟が、老人を包み込む。
最期の悲鳴さえも呑み込み、街には再び、不気味な静けさが漂うのだった。