アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
「……何ヲシテイルノダ、アイツハ」
エイダが去った串肉の屋台の前では、取り残された店主や客達が呆けた顔になり、彼女が去った咆哮を見やって囁き合っていた。
銅貨十枚ほどで買える串肉に、その千倍ほどの価値がある金貨を差し出した世間知らずの亜人の少女。その後の怒涛の展開で、その場にいた全員が呆れ果て、立ち尽くしていた。
(騒動に巻き込まれねば気が済まんのか、あいつは……俺に騒ぎを起こすな、厄介事を起こすなといいつけておいて、勝手な奴だ)
屋台の影に映った影の中から地上に目を浮かばせて様子を伺いつつ、アサルティは思考する。
目を細め、喧しく騒いで走り去った少女の向かった方を見やり、如何したものかと唸りながら考える。
見るからに高価そうな貨幣を隠す気も見せず、大して高価でもなさそうな串肉をと交換しようとして、どこぞの盗人の獲物にされてしまった。
完全なエイダの自業自得なのだが、これまで森で一人で暮らしてきた彼女にそのような事を考える事を期待するのも、酷な事に思えた。
(ここで別れてもいいが……絶対に後で騒ぐに違いない。全く……勝手に一緒に来たくせに、勝手にいなくなるとは、最初に会った時より、間違いなく我儘になっているな、あいつは)
置いていったとしても、そのうち追いついてくるかもしれない。
もしそうなった時、放置された時間が長ければ長いほど、エイダは自分に不満と怒りをぶつけてくるだろう。それは間違いなく面倒臭い事態だ。
ぎゃーぎゃーと喧しく喚く様が容易に想像でき、アサルティは厄介な同行者に心底呆れを抱く。
(面倒臭いが……暫く付き合ってやるか、どうせ、この先やる事もやりたい事も無いのだしな)
心の中で独り言ちると、アサルティはずぶずぶと影の中に潜っていく。
どうせどこに行ったとしても、気配を辿ればすぐに追いつける、と軽く考えながらエイダの居場所を探り出す。
しかし、その時アサルティは完全に沈む前に、辺りに今一度鋭く視線を巡らせ、奇妙な違和感に苛まれている事を自覚した。
(……気のせいか? ここらの人間の気配は、似ているというか、
これまでに感じた事のない感覚、見た目は異なるのに、辺りにいる人間全てが全く同じ存在であるかのように感じ、君の悪さを覚える。
しかしアサルティはそれ以上気にする事なく、ずぶりと完全に影の中に沈み、そして影毎跡形もなく消えてしまうのだった。
国の入り口付近よりも、遥かに大勢の人々が集まり、ひしめき合う街の中心地。
隙間などほとんど見当たらない、通ろうとすれば即座に四方を囲まれてしまいそうな中を、黒い小さな影は慣れた様子ですいすいと抜けていく。
まるで人の動きを全て予測し、最短の道を算出しているかのような素早さで、後を追うエイダをみるみる引き剥がしていった。
「くっ…! 待ちなさい! 私のお金……返してください!」
叫び、必死に手を伸ばしながら呼び止めるエイダだが、黒い影は立ち止まるどころかさらに加速し、みるみる遠くへ離れ、小さく見えなくなっていく。
自分を嘲笑うかのようなその後ろ姿に、エイダはかっと頭に血を昇らせ、自身の肺があげる悲鳴を無視し、突如大きく跳躍する。
鬱陶しい人混みの上を飛び越え、大通りの片側の屋台の屋根の上を飛び跳ね、進む。
大通りの人々から驚愕と困惑の眼差しを受けながら、それらを一切気にすることなく、人混みの中を走り抜ける影の跡にぴったりと張り付く。
「逃がしませんよ…! 絶対に取り返してみせます!」
きっ、と鋭い目で小さな背中を補足し、その場から大きく跳躍すると通りの片側に並んだ屋台の屋根の上に飛び移る。
辺りや屋台の店主達からどよめきの声が上がるも気にせず、屋根と屋根の間を軽々と飛び越え、まるで風のような素早さで駆けていく。
森での暮らしで得た俊足と体力、どんなに足場が悪くとも体勢を崩さない平衡感覚。
半分とはいえ、森人の身体の力の全てを使い、込み合う人混みの中から飛び出したエイダは上から盗人の後を追いかける。
「そこです! 次で勝負を決め―――」
位置を確かめ、時機を見計らい、飛び掛かって盗人の動きを止めようと考える。
他の者を巻き込まないよう、自分を凝視している者達の動向を常に気にしながら、意を決して再び飛ぼうとしたその時。
不意に、盗人が一人の通行人の影に隠れた直後、二つに分かれて別々の方向へ走り出した。
「―――ヘ⁉」
突然の事に、エイダはぎょっと目を見開いて思わず立ち止まる。
ずっと目で追い続け、瞬きも必要最低限に抑えて見逃す事など無かった相手が、突然二手に分かれた事に動揺してしまう。
「え、えっと…⁉ ど、どうして⁉ 二人になった……ぶ、分身⁉ 双子⁉」
おろおろと戸惑いながら、全く異なる方向に行ってしまう二人を交互に見やる。
どちらが自分が先ほどまで追いかけていた相手なのか、それともどちらかが自分を惑わせる幻なのだろうか。何が起こっているのかまるでわからず、眼を見開いて立ち尽くす。
「えっと、えっと……ええい、ままよ!」
迷ったエイダは勘で片方を標的に捉え、再び屋根の上を跳躍して追いかける。
いきなりの事態に困惑した所為で、エイダと盗人の間の距離はより広げられてしまい、気を抜けばすぐに見失ってしまいそうになっている。
しかし、エイダは執念で小さな盗人を追い続けていた。
やがて、盗人は大通りの途中の横道に入り、どんどん奥へと入り込む。
大通りよりも暗く狭いが、十分大勢の人々が通っている場所で、小さな盗人は彼らの間に潜り込み、姿を隠そうとする。
「この…! いい加減にしなさい!」
エイダは屋台の屋根の上から、食事処や様々なものを売る店の屋根の上に映り、上から盗人の姿を探す。
一件、どこもかしこも人の頭ばかりが目に入って見つけ辛い事この上ない。しかし通りを歩く人々は、自分の足が汚れるのを嫌がり、足元を走る盗人を避け、その分隙間が作られ、見つけ易くしている。
エイダは人々が左右にぞろぞろと動き、足元の小さな影にぶつからないようにしている箇所を見定め、一切目を逸らす事なく走り続けた。
やがて二人は、さらに暗く狭い通りへと足を踏み入れていった。
明るく賑やかな大通りとは正反対に、湿気の多く薄暗い、人の姿が疎らな場所である。
盗人の影を目で追っていたエイダは、そこで奇妙なものを目にする。
ちらほらと見える人間は、薄汚い格好で俯き大半がその場に蹲っていて、生気の薄い死人のような顔を晒しているのが見えた。
かすかに見えた顔は弱り切った老人ばかりで、中には横たわったままぴくりとも動かない者もいる。暗く汚い細道も相まって、棺桶の中をの字てしまったかのような不気味さが感じられた。
「…あれは…? いいえ、それどころではありません」
気になったエイダだが、すぐに我に返って盗人に意識を戻す。
盗人との距離は徐々に近づいており、このままなら確実に抑え込めると確信を持てる所にまで来ていた。
「もう、逃がしませんよ……ふっ‼」
機を見て、一切の容赦など考えず屋根の上から飛び掛かろうとした、その瞬間。
眼下に接近した盗人が、ほんの一瞬速度を緩めたと思った直後。
数分前の大通りで起こった事と同じように、盗人の影が幾つにも分かれる。五つに分かれた小さな盗人は、ばらばらと全く別の方向を向いて散っていった。
「ええ―――わっととと⁉」
標的を一瞬見失い、何も無い地面の上に降り立ったエイダは体勢を崩しかけ、どたっと顔面から前に倒れ込む。
額を強かに打ち付けたエイダは呻き声をこぼしながら、走り去っていく複数の小さな人影をそれぞれ睨みつける。五つの影は、エイダには目もくれずに一心不乱にどこかへと走り去っていく。
すぐさま追い続けようとしたエイダであったが、突如ぐらりと体を傾げさせ、その場に勢いよく倒れ込んでしまう。
「あ、あれ……なに、これ……身体が……」
起き上がろうと藻掻くも、エイダの身体は本人の意思を無視して微塵も動いてくれない。
何故か朦朧とする意識の中、エイダは息を荒げさせながらごろりと横たわる。全く力の足りない、重くなった体を仰向けにさせて、四方を壁に囲まれた空を見上げる。
そうした途端、エイダの腹から凄まじい、旅の同行者が放つ唸り声のような音が、盛大に響き渡った。
「……ぉ、おなか、空いた……」
空腹を訴える腹を撫でさすり、エイダはそう言えば屋台の串焼き肉を食い損ねたままであった事を思い出す。
旨そうな臭いに誘われ、手に入れられるだけ確保しておこうと思った矢先。手にするよりも前に貨幣を全て奪われた。その上で盗人を捕らえようと全力疾走した結果、捕える事に失敗して疲労感だけが残った。
踏んだり蹴ったりという言葉が一番ふさわしい有様に陥らされている事に、思わず自分自身に落胆のため息をこぼす。
「あ、あの泥棒……絶対に許しません……おいしそうなお肉……これじゃもう、食べられないじゃないですか……! ……はぁ」
とっくに姿を消した盗人への恨み言を吐くも、やがてそうする気力も失くなってくる。
みるみる減っていく自分の中の活力に嘆息しながら、空に浮かぶ雲を見上げ、口の中に溜まった唾液をだらだらとこぼすばかりになっていた。
「……どうしよう、この先」
「―――何ヲシテイルノダ、オ前ハ」
誰にともなく呟いていると、すぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
はっ、と目を見開いて、声がした頭上へ顔を向けてみると、真っ逆さまになった同行者の黒竜の顔が視界の全てを覆い尽くす。
何時の間にやら、自分のすぐ目の前で影の中から顔を出していたアサルティ。どことなく呆れた風に見えるその顔を見つめ、エイダは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「アサルティさん……すみません。ごはん、買えなくなっちゃいましたぁ」
潤んだ目で黒竜を見上げ、情けない声を漏らす同行者を見下ろし。
半森人の少女を追ってきた黒竜はじとりと目を細め、やがて面倒臭そうに首を竦め、唸り声と共に生温かい息を吐きかけるのだった。