アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
少女は、幸福だった。
国内でも屈指の勢力を誇る商人の家の一人娘として生まれ、与えられる暮らしを享受してきた。
多くの使用人達に囲まれ、高級な食事を毎日摂り、優秀な教師を雇って最高位の教育を受け、商家の跡取りとなる未来が約束された類稀に幸運な人間であった。
両親との仲も良好で、夫婦は喧嘩をする事は全くなく、毎日娘に愛情を注いでくれていた。
家を守る事が大前提であり、その為に産んだ娘ではあったが、結婚や趣味においてある程度の自由を得られるように尽力する、真摯に娘の幸せを願う人格者達であった。
ただ、位の低い貴族であったり、貧しい家の出身の者に対してはやや偏見を抱く箇所があったのが玉に瑕であったが、それでも大きな問題を起こす事はなく、平穏に暮らしていたのだ。
「おとうさま! みてくださいまし!」
ある時、少女は一枚の紙を抱いて自室を飛び出し、自宅の一角にある書斎の扉を押し開け中に飛び込んだ。
書斎の中にいたのは、眼鏡をかけ髭を蓄えた中年の男。人より少し肥えた腹を持つ、温和な印象を抱かせる金髪の男性―――少女の父親である。
突然の訪問に父は驚いたが、相手が娘である事がわかると途端に破顔し、満面の笑みを浮かべて立ち上がり、駆け込んでくる娘を抱き留めた。
「おぉ、どうした? 何かいい事でもあったのかな、我が娘よ」
夕陽のような赤い髪、毎日使用人達に香油で整えられ、さらさらとした心地良い感触がする自慢の髪を撫で、父はにこにこと笑っている娘に問う。
仕事の途中であったが、普段は真面目に文句一つ言わずに勉学に励んでいる娘が飛んでくるような事態だ。相当に大事な話なのだろうと、内心期待を抱いて顔を合わせる。
「お、おべんきょうがおわったので……せんせいにゆるしていただいて、これを! おとうさまたちに!」
頬を林檎のように朱く染め、少し恥ずかしそうにしながら、少女は大事に胸に抱いていた紙を父に手渡す。
父はそれを受け取り、訝しげに首を傾げながら、何かが描かれた面を上にする。
果たしてそれは、鮮やかに描かれた父母と少女の絵であった。
文筆で輪郭を作り、絵の具で着色した、家の前に並んで立つ三人の親子。満面の笑みを浮かべた彼らは仲睦まじく寄り添い、絵の具の所為では無い輝きを放っている。
はっきり言って、巧いとは言えない落書きの類。
少女はそれを恥ずかしそうに、しかしどこか誇らし気に見せ、父の反応を待っていた。
「……これを、私に?」
「お、おとうさまとおかあさまにかんしゃをつたえたくて……それと、ずっといっしょにいてほしいな、と。ご、ごめいわくでしたか…?」
拙く、家の中に飾られている絵画と比べるまでもない代物。勉学が終わった後とはいえ、仕事を中断してまで受け取るものではない不要な物を渡され、父はしばらくの間沈黙する。
邪魔をされて怒りを抱いた……訳では当然なく、ぶるぶると震え出した父はがばっと顔を上げ、目尻に涙を滲ませながら娘に抱き着いた。
「嬉しいぞ! 感動だ! 我が娘は天才だ! こんな素晴らしい絵を描いてくれるなんて!」
娘の描いた絵を高々と掲げ、大きな声を震わせ、父はこれ以上ないほどに歓喜を露わにする。
拙かろうと無駄であろうと関係がない。娘が自分達の為、想いを込めて描いてくれた贈り物であるというだけで、父の心は幸福で一杯になっていた。
「額縁に入れて飾ろう! 厳重に守らなければならん! 我が家の家宝にしようぞ!」
「おとうさま……おおげさですわ。やりすぎです」
「やり過ぎな事などあるものか! お前がくれた宝物だ! 私が死ぬまで大切に保管するぞ! 絶対にだ‼」
父は娘を抱き上げ、部屋の中でくるくると回って自身の歓喜を見せつける。
もうこれ以上に幸せな事はないと言わんばかりの狂喜振りを見せ、贈り物をした娘を呆れさせるほどに笑い、燥いでいた。
しかし、喜んでいたのは娘の方も同じだった。喜んでくれるかどうか不安になりつつ、一生懸命に描いたものを本気で喜んで貰えて、心から温かいものが溢れ出すのだ。
それはそれとして、こうも異様なほどに騒がれると羞恥が膨らみ、そろそろ落ち着いてほしいと切に願ってしまう。
こんな所を誰かに見られては堪らない、と頬をさらに赤く染めていた時、書斎の扉が勢いよく開かれ、また新たな訪問者が姿を見せた。
「あなた! 何を騒いでおいでですか⁉ 外まで聞こえるではありませんか‼」
「! お、おかあさま……」
ばん、と扉を押し開けて仁王立ちする、礼装を纏った妙齢の美女。
少女よりも淡い髪を一纏めにして胸の前に垂らした、背の高く豊満な身体つきをした女性―――少女の母が、厳しい表情で夫と娘を見据えていたのである。
鋭い眼光に射抜かれ、燥いでいた父は途端に勢いを失くし、そろそろと娘を落として縮こまってしまった。
「あ、いや……すまん。つい興奮してしまってな」
「由緒ある商家の長としての立場をお忘れになられては困ります。外にはあなたの部下も使用人達もいるのですよ? 腑抜けられては困ります」
「う、うむ……」
「何が嬉しかったのかは知りませんが、いつも言っている通りに他の者の視線を気にし、然るべき姿勢を保って―――」
嫁入りした妻であるが、生真面目で冷静な彼女は夫に対しても毅然とした態度を保ち、他者にも同じ態度を求める芯の通った女であった。
自他に厳しい彼女は恐れられていたが、それ以上に聡明で優れた采配能力を有し、商家の従業員や使用人達に信頼される、夫並みの人格者であった。
しかし、生真面目過ぎるゆえに融通が利かない性分であり、度々理由も聞かずに夫を叱る事があり、夫はその点だけを残念に思いながら、大人しく説教を受けていた。
「まって、おかあさま! おとうさまはわたしのえをほめてくれたの! しからないで!」
しょぼくれる父の姿を見ていられなくなった少女は、懇々と言い聞かせる母に立ちはだかり父を庇う。
母は即座に口を閉ざし、夫が持っている絵に視線を送り、はっと表情を改めた。
「……それは、あなたが描いたの?」
「はい…おとうさまとおかあさまに、かんしゃのおもいをこめました。だから、おとうさまのじゃまをしたのはわたしなんです。おとうさまをしからないであげてください」
「あぁ、娘よ……」
父が喜び過ぎていたのは確かだが、そうなった原因は自分にあると、少女は俯きながら母に訴え出る。
今度は自分が叱られる番かもしれない、と無言で見下ろしてくる母に怯え、しかし自分の罪はしっかり受け止めなければときゅっと目を瞑る。
母は父から絵を受け取るとしばらくの間見つめ、黙り込んだかと思うと、やがてふっと微笑みを浮かべ娘に手を伸ばした。
「……素敵な絵ね。このまま飾っておきたいわ。丈夫な額が必要になるわね」
ぽん、と娘の頭の上に手を乗せ、優しく撫でてやる母。慈愛に満ちた眼差しで娘を見下ろし、自分と夫が描かれた絵を大事そうに片手で抱き締める。
娘は目を見開くと、ぱっと明るい表情になって母の腰に抱き着く。母はすぐさまその場にしゃがみ込み、豊かで柔らかな胸元に娘を抱き寄せた。
「怒ったりなんてしないわ、こんな素晴らしい贈り物をしてくれるいじらしい娘を、どうして叱らなければならないの? そんな事をする人なんて、人間じゃなくて化け物だわ」
「おかあさま…!」
満面の笑顔で顔を埋めてくる娘の髪を撫で、母はくすくすと上機嫌に笑う。すると父もやや遠慮がちにその場に膝をつき、母と娘を纏めて抱き寄せる。
両親の温かさに包まれ、娘は心の底から安堵を抱く。贈り物をして本当によかったと、自分の行いに凄まじい満足感を抱き、温もりに身を委ね続けるのだった。
「今夜の夕食は豪勢にしましょう。素敵な絵をくれたあなたへのお返しよ」
「…! はい!」
少女は幸せだった。
何不自由なく、両親に愛され、いつまでもこんな日々が続くものだと、永遠に変わる事はないのだと信じ切っていた―――その日が来るまでは。
「どけ! 糞餓鬼!」
ぶんっ、と横薙ぎに振られた腕が、少女の鼻っ柱に直撃する。
思わぬ一撃に少女は反応する事すらできず、木の葉のように軽々と宙を舞い、どさっと背中から床に叩きつけられた。
「…⁉ ⁉」
「あ、あなた…! 私達が一体何をしたというのですか⁉」
横たわった少女の元に駆け寄り、小さな体を抱き上げた母が戸惑い怯えた表情で問う。
見つめる先にいるのは、自分達家族に躊躇いなく愛情を注いでくれていたはずの父。普段ならば穏やかに笑っているはずの彼は、悪鬼のような恐ろしい形相で娘と妻を睨みつけ、鬱陶しそうに鼻を鳴らしていた。
少女は困惑しながら体を起こし、不意に自らの鼻の下に感じた生温い何かに触れる。
それが自らが発した血である事を理解すると、少女は顔からさっと血の気を引かせ、母の腕の中でがたがたと震え始めた。
「邪魔な塵があったから払い除けただけだ。一々騒ぎ立てるな、面倒臭い奴め」
「邪魔って……あなたの娘ですよ⁉ あなたが何時も、眼に入れても痛くはないほどに可愛がっている……私達の宝なのですよ⁉」
「煩いぞ。何が宝だ、餓鬼の一人や二人死んで何が問題だ。鬱陶しい」
ぺっ、と唾を吐き捨てながら、父は母の剣幕をものともせずに言葉を返す。
眉間には皺が寄り、こめかみはぴくぴくと痙攣を続け、足はばたばたと上下して苛立ちを隠そうともしない。組んだ腕を人差し指でとんとんと叩き、身体全体で忙しなさを表している。
何より異様なのは娘に向ける視線で、道端に放置された臭った生塵を見ているかのような、凄まじい嫌悪感に満ちた視線を向けていた。
その姿には、以前の優しさも穏やかさも一切感じられず、まるで赤の他人であるかのような錯覚に陥らせた。
「お、とう……さ、ま」
「何が……何があったのですか、あなた! 一体どうして、そんな……⁉」
想像だにしない事態に遭遇し、母と娘は抱き合ったまま混乱の渦に沈む。
豹変は、父が仕事から帰った直後であった。
以前ならば、大きな責任を伴う仕事を終えた後は真っ直ぐ家に帰り、妻と娘と抱擁を交わし心を癒し、娘を寝かしつけた後は妻と共に寝て体を慰めるのが常だった。
だが、いつもよりも遥かに遅く帰った彼は、頑張って夜遅くまで起きてまで出迎えた娘と顔を合わせるや否や、きっと目を吊り上げて平手を繰り出したのである。
何の前触れもない、娘が粗相をしたわけでも、疲れた所に苛立つ一言を発したわけでもない、突然人が変わったように怒りを露わにし、それまで振るった事もない暴力を浴びせかけたのである。
夫の見た事もない表情と聞いた事もない声に、妻は戸惑いながら娘を背に庇い、変わって鋭い眼差しで夫を睨みつけた。
「何があったかは存じませんが、自分の苛立ちを娘にぶつけるなんて、これは父にあるまじき暴挙ですよ! 冷静になりなさい! ちゃんと聞かせて下さいまし、そんな風になる程の何かがあ―――」
「煩いと言っている‼ 黙れ塵が‼」
夫を宥め、落ち着かせようとした妻を、夫は激昂しながら殴りつけた。
喧嘩など一度もした事がないであろう、肉だけしか載っていない大したことのない拳。
それでも、妻にとっては夫から初めて受けた暴力。ごり、と骨がぶつかる音が鳴り、続いて鈍い痛みが走ると、妻はへなへなとその場に座り込んでしまった。
「あ、あな、た……?」
「ぐだぐだと説教何ぞ垂れおって……お前は黙って私の言う事を聞いておればいいのだ! 口答えをするな! 胸糞悪い女が…!」
殴られた頬に手を添え、呆然となる外にない妻を放置し、夫は踵を返すとどすどすと足音を響かせて歩き去っていく。
残された妻と娘は、遠ざかっていく一家の大黒柱の背中を見送り、固まるばかり。
夫にして父親である男の背が見えなくなり、ばたんと扉が閉じられる音が響いたその瞬間……少女は、自分の平穏な生活が壊れ始めた事を、うっすらと悟り始めた。
だが気付いた時には、とっくに手遅れであった。
「調子に乗るなよ、糞婆」
「誰があんたに従うものか……お前の娘も同じだ、鬱陶しいからさっさとどけ、塵が!」
父が妻子に対する態度を変え、近寄らなくなってから次に起こった異変は、使用人達であった。
少女や父母に敬意を抱き、何時も笑みを消す事が無かった彼らは、父が豹変した翌日辺りから一人、また一人と態度を変え始めたのだ。
食事を用意しなかったり、言葉遣いが粗雑になったり、舌打ちをしながらぎろりと鋭い目で睨んできたり、挙句少女や母を邪魔だと言わんばかりに足で小突いてきたり。
それまでの上下関係をまるで無視した、度が過ぎた行いを繰り返すようになり出した。
そんな豹変した者達に、まだ真面であった使用人達が叱責する事態が始めのうちは何回か発生したが、やがてそれも一つ一つ無くなっていった。
気づけば商家中の全員が似たような態度になり、少女と母に一方的な敵意を向けるようになっていった。
「……一体、どうして、こんな事に……」
「お、おかあさま……しっかり。わたしがついておりますから…」
変貌していく日々に少女は困惑し、しかし幼い彼女は何も解決する事はできなかった。
愛する夫に殴られ、信頼していた使用人達に虐げられ、耐えがたい裏切りを受けた母は日に日に窶れ、かつての美貌が翳り始めたのに、してやれるのは心配することくらい。
どんなに毎日を嘆いても、父も使用人達も元には戻らない。
日に日に彼らの視線は鋭くなり、精神的・身体的暴力の回数は見る見る増えていく。少女の身体には青痣が幾つもできたが、使用人達は心配するどころか、いい気味だと嘲笑う始末であった。
少女が無力感に苛まれたその頃、再び父が動いた。
少女が機嫌を伺いながら、恐る恐る話しかけても容赦なく殴り飛ばすようになっていた父が、突如近付いて来たかと思うと、険しい表情を浮かべて母の腕を掴んできた。
「―――来い! さっさとしろ! 動け!」
「あ、あなた…おやめください! こんな、乱暴な……!」
嫌がる母を無理矢理引き摺り、ここ数日は全く使っていなかった夫婦の寝室へと連れ込み、閉じこもってしまったのである。
少女は部屋の外に置き去りにし、父母は一晩中出てこなかった。
耳を聳てれば、また殴られているのか鈍い音が響き、同時にくぐもった呻き声や悲鳴が聞こえてくる。
変わり果ててしまった父を、そしてそんな男に嬲られる母を案じ、しかしやはり何もしてあげられないと嘆きながら、少女は両親が戻ってきてくれるようにと淡い願いを抱き、膝を抱えて蹲っていた。
耐えれば、時を待てば、また以前の平穏で幸福な日々が戻って来るかも知れないと、根拠のない祈りを支えにして一晩中待ち続けた。
そして、母は戻ってきた。
窶れていた顔は健康的に戻り、心なしか以前よりも自信満々といった態度で、夫婦の寝室から夫と共に出て来た。
「お、おかあさま…―――!」
少女ははっと顔を上げ、自分の前に戻ってきてくれた母の姿にほっと安堵の息を吐く。
そして湧き上がった衝動のまま、一日ぶりの母の温もりに触れようと、手を伸ばし飛びつこうとし。
「―――触らないでよ、汚らわしい」
ばしんっ、と。
冷たい表情で鼻を鳴らした母に平手打ちを食らい、真横に倒れ込んだ。
じんじんと痛みが走る頬に手を添え、呆然と母を見上げる。自分に向けられている母の眼差しが、以前父が自分に向けていた物と全く同じ蔑みの視線である事を理解すると、全身の血が凍りついたかのような恐怖を抱く。
「さっさとこんな塵、片付けないと。折角良い家が手に入ったのに、塵が居付いたままじゃ寛げやしないわ」
「……お、かあ、さ、ま?
「あーやだやだ、こういうの全部自分で片付けないといけないのかしら。やらせる奴だけ残しとけばよかったかもしれないわねぇ……まぁ、今更どうでもいいけど」
苛立たし気に髪をかき上げ、娘から目を逸らす母。普段はやらない、豊満な身体つきを誇示するような仕草を見せ、自宅の中を弾得て見るかのように見まわしていく。
少女は頬を押さえたまま、固まるばかりであった。
父や使用人達に続き、唯一の味方と思っていた母までもが変わり果て、少女の心身を支えていたものが少しずつ崩れていくのを感じる。
やがて、身を震わせる己が娘に対し、母はまた冷たい眼差しを送ると片足を振り上げた。
「じゃあね、塵。あんたが居てとっても鬱陶しかったわ―――どっかで適当に野垂れ死になさい」
そんな冷酷な言葉を最後に、そして顔面に襲い掛かった激痛を最後に。
少女は意識を手放し……朦朧とした意識の中で、一人の女が下品に高笑いする様を幻視し、闇の中へと沈んでいった。
次に少女が目を覚ましたのは、粘っこい感触が気持ち悪い塵溜めの中だった。
近くに人の気配はない、自分一人だけが、塵溜めの中に放り出されている。
その瞬間自分は、あの者達に棄てられたのだ―――そんな揺るがぬ事実を理解し。
塵溜めの中で一人、溢れ出した感情を抑える事が叶わなくなり、大きな声を張り上げて泣き叫ぶのだった。
何の意味もなくとも、何もかもを失った少女には、そうする事しかできなかった。
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「……ちっ、最悪な夢だな」
うっすらとした闇の中を漂っていた意識が、朝の陽光を瞼に受けた事で現実に引き戻される。
最悪の寝覚めを経験した少女―――ライアンは気だるげに体を起こし、住処の壁の穴から差し込んでくる陽光を睨みつける。
何も纏っていない身体からずり落ちる毛布を肩に羽織り、大きく伸びをする。ごきごきと首や肩から音が鳴り、昨晩は大分魘されていたのだなと、自分で自分を嫌悪する。
ずいぶん昔の記憶を、つい昨日のように感じてしまった。
吐き気がする程に腹立たしい思い出を再び体験させられ、ライアンはばりばりと頭を掻いて唸り声をこぼす。今更こんな夢を見る程気にしているとは、自分は随分女々しかったのだな、とそう思う。
辺りを見渡せば、他の子供達はまだ起きていない……あの怪物は、連れを残して何処かに消え去っている。
どこに行ったのか、と辺りを見渡していると、不意にライアンの周囲を大きな影が覆った。
「……なんだ、それは」
「一宿一飯ノ恩義……トカイウヤツダ」
訝しげに睨みつけるライアンに、野良猫やら野良犬やらを何匹も加えた巨大な黒い竜―――アサルティが答える。
どさどさと地面に置かれる獲物の数々を見やり、ライアンは深くため息を吐く。
見た目と相反する真摯さを見せつけるこの怪物には、どう対応するのが正しいか、全くわからなかったのだ。
「……お前、本当に何なんだ。中に人が入ってるだけじゃないのか」
「知ラン、ムシロ俺ガ知リタイ。……トニカク、コレデ寝床ヲ借リタ礼ハ返シタゾ」
無駄に礼儀正しい、そして義理堅い黒竜の言葉に、ライアンは頭を抱えて項垂れる。
ちらり、と横目を向け、山積みになった獲物を確認する。
種類はともかく、それなりに肉が載った十分な量の食料である。野良犬や野良猫どころか人肉さえ奪い合うような劣悪な環境で、これだけあれば何日持たせられるやら、と頭の中で算盤を弾く。
また大きく溜息をこぼしたライアンは、踵を返し何処かへ泳いでいこうとするアサルティに掌を突き出し、呼び止めた。
「そこで待ってろ、それ使って朝飯位は作ってやる……あいつらは起こさないようにしてやってくれ」
「…ワカッタ」
訝しげに首を傾げつつ、頷いたアサルティに奇妙な可笑しさを抱き、ライアンは立ち上がり自分の服を探す。毛布を適当に丸めて放りながら、肌着代わりの襤褸布を拾って、自分の無駄に大きな胸に巻き付け、形を整える。
その様を見守りながら、アサルティは少し驚いたように小さく唸る。
常に眉間にしわが寄っていた小さな盗人達の長の表情は―――何故かその時ばかりは柔らかく、微笑みを浮かべているように見えた。
「……俺もどうかしているな、あんな薄情者共の夢を見た後で、あんな訳の分からない化け物に対しては、逆に親しみを抱くなんて」