アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 作:春風駘蕩
「……誰だね、君は」
突如、自分の許しも得ぬままに目の前に陣取って来た女に、男は険しい顔で吐き捨てるように問う。
視線は女の顔、異様に整った人形のような顔に向けられ、眉間には深いしわが刻まれる。一人で味わっていた憩いの時間に割って入った無粋な輩に対し、明確な敵意を抱く。
「礼儀がなっていないな。ここは今、私が貸し切っているお気に入りの店だ。許しも得ずに入るとは、余程私に嫌われたい愚か者のようだな」
「うふ、そんな怖い顔をなさらないでください……私恐ろしくて泣いてしまいますわ」
胡乱気な顔で迎える男に構う事なく、女は妖艶な笑みを湛えて男の目を覗き込む。
長くしなやかな足を組んで自身の艶めかさを男に見せつけ、頬杖をつきつつ前のめりになり、振れれば指がさぞ柔らかくだろうっという、巨大な果実のように豊満な胸の谷間を誇示する。
大きく開いた胸元は、そこらの男であれば簡単に理性を飛ばさせる程の色気を放ち、今は目の前の男に対して誘惑の香りを放っている。
気の所為か、女からは実際に熟した果実のように香ばしい香りさえ漂っているように感じられた。
「知る人ぞ知るやり手、商人の中の商人たるゴドウィン様にお会いする為に、わざわざ遠くからやって参りましたのに……そんな冷たい態度を取られてしまっては悲しいですわ」
しゅん、と笑みを引っ込めた女は、代わりに雨に濡れた子犬のように弱々しく同情を誘う表情になる。憂いを湛えた瞳が伏され、見る者に罪悪感を抱かせる。
女はそのまま、男の手に縋りつこうとし、そろそろと染みも傷も何もない手を伸ばしていく。
だが、それが触れようとした瞬間。
ぱんっ、と激しい乾いた音が響き、女の手が宙に弾き飛ばされた。
「近付くな、薄汚い女め!」
がたん、と座っていた椅子を蹴飛ばし、立ち上がった男が目を吊り上げて怒鳴りつける。
いきなりの事で理解が追い付いていないのか、きょとんと呆ける女を見下ろし、女が触れようとした箇所を付近で何度も擦る。まるで雑菌に触れられたような態度で、男は最大の嫌悪感を示していた。
「お前のような輩はこれまでに何度も見て来たわ‼ どいつもこいつも遜り、縋りつき、他人の慈悲に味を占めた野良犬のように寄って来た! 少しでも甘い顔を見せてやれば、奴等は調子に乗って何度も儂から漏れだす甘い蜜を啜りに来た‼ 気持ちの悪い、糞共めが‼」
自分以外の何物も信じていない彼にとって、一定の範囲に近づいてくる存在は尽くが敵であるという認識であった。故に素朴な恰好で自らを偽り、人を雇って自分を守る壁を作っている。
自分に態々近づいてくるような存在は、自分の財産を目当てにしているに違いない。ならば誰一人近付かせてなるものかと、男は常日頃から自分の存在を隠してきた。
そして、目の前にいるこの女は明らかに自分を狙ってきている。
かつて自分の元に心からの味方であるかのように振る舞い、内心で醜い欲望に突き動かされてやって来た不埒な輩と同じような、欲望に塗れた汚い目を見せて。
男はぺっ、と唾を吐き捨て、がつんと女が頬杖をつく机を蹴りつける。
黙り込んでしまった女を鋭い刃のような目で見下ろし、噴き出した苛立ちのぶつけ所を探して地面を何度も踏みつける。
「どうせ貴様も、儂の金が狙いだろう! 誰がくれてやるものか! 女は何よりも信じられん……妻だの愛人だのと擦り寄って、儂を操っていい暮らしをしたいだけの俗物が! 汚い! 業突く張りが!」
「……」
「さぁ、とっとと失せろ! 儂が見逃してやっている間にさっさと失せろ! 触りたくもないんだ、お前の様な塵なんぞに‼」
がんっ、と自らが蹴り倒した椅子を再度蹴り飛ばし、踵を返す男。
息を荒げ、顔中に汗を噴き出させ、男は一刻も早く女の姿を視界から外そうとするように、足早に席から離れていく。
そんな姿を、様子を窺っていた小さな盗人達は、険しい表情で見守っていた。
周囲に潜む護衛に感づかれないよう細心の注意を払いつつ、二人の会話が聞こえる程度の距離にまで近づき、離れる時機がないかと探っていた。
の、だが、恐ろしい剣幕で吠える男に怯え、離れる時機を見失い、思わず二人の声を最後まで聞く羽目になっていた。
「……なんか、かわいそうな人だね」
「あ、ああ…そうだな」
じっと静かに聞き耳を立てていた弟分達が振り向き、兄貴分の少年に語る。
聞こえてくる言葉から察した通りならば、あの男もまた理不尽な人生に振り回され、猜疑心で凝り固まってしまった悲しい人物なのだろう。
自分達は信じていた家族に裏切られ、追い出され、貧しい暮らしに追いやられた挙句同じ境遇の者同士で集まって、協力し合って今を必死に生きている。
あの男も多くの人間に裏切られ、今や誰も信じず自分一人の為だけに金を稼ぎ、死ぬまでたった一人で生きていくつもりでいる。
始まりは自分達と似たようなもので、関わべきでない危険な存在だと思いつつも、どうしても同情せずにはいられなかった。
「あの人には、ライアンみたいな人がいなかったんだね」
「たすけてくれる人がだれもいなくて……それでああなっちゃったんだね」
「……そうだな」
弟分達の悲し気な呟きに相槌を返しながら、少年は店の入り口にまで差し掛かった男を注意深く見張る。他者に対して過剰な程の拒絶感を示す男の境遇には同情するが、そうしたからと言って味方になってくれるわけではない。
以前、あの男は裏社会で恐れられる恐ろしい男。不用意に近付いてどうなるものか、わかったものではない。
「……とりあえず、ここを離れるぞ。ゴドウィンがあの女に気を取られているうちに、あいつから距離を取った方が良い」
「……うん」
弟分達の背中を叩き、少年は店に残された女を一瞥し、頭を振って歩き出す。
おそらくこの後、あの命知らずの女が碌な目に遭わないだろう。この国の裏社会を牛耳る怪物の機嫌を損ね、只で済むはずがない。
見逃すとは言っていたが、後になって人目に付かない場所に連れ込まれ、甚振られた挙句に商品として出荷されるかもしれない。そういう事を平然と行える人物を相手にしてしまったのだから。
気の毒だとは思いつつ、相手の恐ろしさを知らずに近付いた愚か者として、自分達が無事に逃げる犠牲になって貰おう。そういう意味では、ありがたい介入だったと胸中で感謝しながら歩を進める。
―――だがその歩みは、少年の背後で蠢く何かの気配を感じ取った瞬間、まるで極寒の冷気に晒されたようにぴたりと静止した。
「ちっ……だったら、仕方がないわね」
背後から聞こえてきた、心底苛立った様子の舌打ちの声。
それが、先ほどまで気色と色気に満ちていた例の女の声である事を理解し、少年は思わず驚愕と困惑で振り返る。
店では少年と同じく、その場を立ち去ろうとしていた男が険しい表情で立ち止まり、女に再び向き直っていた。
「……大人しく姿を消せば見逃してやるといったのが、理解できなかったのか」
「はっ、見下してんじゃないよ。老い耄れに凄まれた程度で怯えるとでも思ったのかい? 馬鹿か、調子に乗るんじゃないよ耄碌爺」
顔は先程と同じ、しかし相手に向ける視線は蔑みと苛立ちに満ちた剣呑な物。
目を離した僅かな間に、別人のように態度を豹変させた女に、男は額とこめかみ、そして手の甲に太く血管を浮き立たせる。
女はそれを目の当たりにしながら、さらに挑発するように鼻を鳴らして罵倒の言葉を吐き続けた。
「何よ、爺のくせに餓鬼みたいな癇癪起こしちゃって、見っともないったらありゃしないわよ。ちょっと揶揄っただけで本気にしちゃって、ほんと器の小さい男。むきになっちゃって馬鹿みたい」
「……お前……‼」
「私だって、あんたみたいな皺だらけの爺なんて願い下げだけど……こんなに扱いにくい奴なら、もういいわ。操るのはやめ、全部貰っちゃうわ」
けらけら喧しく喋り、男を嘲笑う女。美しい顔立ちが台なしになる程、女が向ける目は醜く悍ましく、男に、いや、他者に対する侮蔑が表れている。
男は頬をひくひくと痙攣させ、やがて全身を怒りでぶるぶると震わせる。
今日に至るまで、金儲けで苦労した時代にも受けた事のないような嘲笑と罵倒を受け、頭の血管が切れてもおかしくがないほどの憤怒を見せつけた。
「この…存在そのものが不快な塵めが! 失せろと言ったのがわからんか⁉ ……いや、もういい。お前のような愚か者は商品にしても何の得もない、この場で処分してくれる! おい、この女を殺せ‼」
真昼間の街中にいる事も忘れ、辺りに配置しておいた護衛達にそう命じる。
そもそも、雇い主の命令も忘れて赤の他人を近付かせる間抜けな護衛の所為でこのような不快感を味わわされたのだ、と先程から全く動きを見せない護衛達に対する怒りも燃やす。
始末次第、連中にも罰を与えねば。そう目を吊り上げて苛立つ男であったが―――いつまで経っても、護衛達は男の元に姿を現さなかった。
「…? おい、何をしている! さっさとこの女を殺せ‼ 周りの目など気にするな! 早くやれ! おい‼」
一向に動きがない周囲に、男は困惑しながら怒号を放つ。
しかし、どんなに待っても護衛達が姿を見せる様子はなかった。男が寛いでいた時と同じく、辺りはしんと静まり返ったままで、男の怒号が虚しく消えていくだけであった。
男はそこでようやく我に返り、ある違和感に気付く。
出かける前に確認した護衛が周りに一人も見当たらず、それどころかこんなにも自分が騒ぎ、怒鳴っているというのに、周りにいる人間が誰一人として反応を見せていないのだ。
茶を呑んでいた老夫婦も、燥いでいた子供も、手を繋ぎ楽し気に話していた男女も、誰一人として自分達の方を見る事なく……それどころか、一点を見つめたまま固まっているのだ。
「……何だ、これは。おい、何だこれは⁉ ふざけているのかお前達、おい!」
男はさっと表情を変え、辺りを見渡しながら後ずさる。周りの固まった人間達に大声で呼びかけながら、徐々に覚束なくなる足取りでずるずると後ろに下がっていく。
まるで、時間が凍りついた中に自分一人だけが取り残されたかのような光景に、男の顔から大量の冷や汗が吹き出す。
男の足は無意識のうちに、そんな凍りついた時間の中で平然と動き、嗤っている謎の女から離れようとしていた。
「くっ、ふふ。ねぇ、あんたの呼んでる護衛ってぇ……こいつらの事ぉ?」
女はそう言って、男の足元を指差す。すると、女の背後から何かが飛んできて、鈍い音を立てて地面を転がってくる。
転がって来た
丁度股の間に転がり、正面を上にして止まったそれは―――自分が雇い、もっとも使える者と判断していた護衛、その首から上だった。
「―――ひ、ひぃい⁉」
恐怖に目を見開き、大きく口を開いた絶叫の形で固まった護衛の生首を前に、男はそれまで這っていた強気を保つ事ができず、情けない悲鳴をあげて腰を抜かす。
影の支配者という他人に向けた仮面を剥ぎ取られた男は、最早意味のない悲鳴をこぼして藻掻く事しかできなくなる。
そんな彼の元に、女はにたにたと不気味に嗤ったまま近付き、足元に転がった生首を掴んで男の前に掲げてみせた。
「こいつ、あんたに近づくのに邪魔だったからさっさと殺しちゃった。うるさいとぜんぶ台なしになっちゃうから、最初に首を切って声帯を潰してさ? 気を遣うの大変だったんだよね……あ、他にもあるのよ。見る?」
がたがたと震える男に構わず、女はそう言って自身の衣服の胸元に手をかけ、がばっとさらに広げる。
布が勢いよく剥ぎ取られ、白く豊満な乳房が曝け出される……その寸前、女の胸がぼこりと波打ち、丸い肉の塊が幾つも転がり出てくる。
それらが全て、首だけになった己の護衛である事がわかると、男は悲鳴も上げられず、魂が抜けたように脱力してしまった。
「……ぁ、あぁあ……あ…」
「あらぁ? 何よ、もう壊れちゃったの? まだ駄目よ、あんたはあたしの事を馬鹿にして見下した事に対する罰を受けてないんだもの。ほら、起きて起きて」
女を凝視したまま、呻き声を漏らすだけになった男に、女は不満げに唇を尖らせて肩を掴んで揺らす。
現実を放棄しようとしてか、精神を壊してしまった男はどんなに揺すっても元には戻らず、やがて女は舌打ちを一つこぼして立ち上がる。
「はぁ……まぁ、いいわ。許してあげる。
にこにこと上機嫌に笑いながら、女は男の頬に触れる。
虚ろな目で見上げてくる、当初の覇気も活力も何もかもを失くした男の顔を上げさせ、鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけ。
そして、女の全身がずるりと、半透明なえきたいのような何かへと変貌した。
「じゃあ―――イタダキマス」
どす黒い七色の何かへと変貌した女は、べろりと下のような部分で口のような穴の淵を嘗め、男の顔面に喰らいつく。
どぷんっ、と男の顔だけでなく全身が七色の液体状の何かの中に取り込まれ、うっすらとした影しか見えなくなる。やがてそれは、端からぼろぼろと崩れて小さくなっていき、最後には消えて無くなってしまう。
液体状の何かはしばらくの間ぐねぐねと蠢き、粘ついた気味の悪い音を響かせる。
獲物を咀嚼するような、胃袋が消化を行っているかのような蠕動を全体で行い、ぼこぼこと表面が何度も変形を見せる。
そして……不定形だったそれは、突如形を取り始める。二本の足、二本の腕、そして胴と頭が分かれ、指や毛といった細かな部分が形作られていく。
半透明だった表面も次第に色がつき、ねちゃねちゃと音を立てていた体は弾力を帯び、液体から個体へと変じていく。
そして現れたのは、一切傷の残らぬ、泰然とした表情を湛えた男―――ゴドウィンであった。
「……あ~あ、やっぱり爺の身体奪っても全然嬉しくないわ。財産を貰うにも、こいつの声としゃべり方でいちいち部下を操らなきゃいけないし……本当、面倒臭いわ。あ~あ……」
口を開きこぼれ出たのは、男の声ではなく先ほどの女の声。気だるげに響くその声も、徐々に男のものに変わっていき、見た目も声も態度も何もかもが同じになる。
ごきごきと首の骨を鳴らし、自らの身体の調子を確かめるような仕草を見せると、それは―――大商人に成り代わった何かは、にたりと不気味に嗤ってみせた。
「次はもっと綺麗な女を狙っちゃお。南にはまだ言ってないわよね……あっちは確か胸の大きい女とか、身体つきの整った女とかが多いって聞いたし、奪うならそっちの方が良いわよね。うふ、うふふふ……今から楽しみだわ~」
愉しそうに話す男の顔の半分が、先程の女の顔に変わる。あまりにも歪な姿を晒しながら、その何かは店の中で踊るように歩き回る。
悍ましい光景を間近で見せられているにも関わらず、店の中にいる誰一人として驚愕する様子はなく、相変わらず凍り付いたように固まったまま。心なしか、その光景を当然の元として受け入れている雰囲気さえあった。
そしてその光景に怯え、戸惑う者は、店の外の物陰に身を潜める三人の小さな盗人達だけとなっていた。
「……ま、まずい、まずいよあれ…!」
「う、うわぁ……うわあぁあ…!」
あまりにも恐ろしく、悍ましく、気が狂いそうな光景を目の当たりにしてしまい、弟分達はがたがたと震えて兄貴分にしがみつく他にない。
兄貴分の少年もまた真っ青な顔で立ち尽くし、顔中冷や汗まみれになりながら、やがてはっと我に返ると背中に縋りつく弟分達の方へ振り向く。
「―――に、逃げるぞ! 早く‼」
もう、気配を殺す事も身を隠す事も考えていられない。
あの化け物の近くから一刻も早く離れなければと、小さな盗人達はもつれそうになる足に叱咤して、全速力で走り出す。
じゃり、と小石を蹴る音が響いたその瞬間……佇んでいた何かが、ぎょろりと人間にはありえない体勢で振り向き、苛立たし気に舌打ちをこぼした。
「…あぁ、あれの掃除もしなきゃいけないのか。ほんっとに迷惑だわ、社会の塵の分際で」
「ほんとほんと」
「蚊みたいに潰したらどんなに気分いいだろうね」
「さっさと殺しちゃおうよ~」
女が鬱陶しそうに呟くと、それまで周囲で制止していた店の中の他の客達がぞろぞろと動き出し、同じ方向を見やって口々に騒ぎ始める。
すると、客達の顔がずるずると蠢き、全員が同じ女の顔に変じていく。全員が苛立ちに歪んだ恐ろしい形相で、遠ざかる少年達の背中を睨みつけている。
そして、その場にいた全ての人影が崩れ、液状に変じた何かが濁流のように溢れ出し、蛇のように体をしならせて少年達を追い始める。
……甲高い悲鳴がどこかから響き渡る中、街からは人の気配が全て消え失せていたのだった。