岸辺露伴は疾駆らない   作:大河原大河

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episode 1 - 人を超えた速度

 町外れの喫茶店。オープンテラスの一角で、男女が向かい合わせに座っていた。

 

「そういえばァ~。先生」

 

 手元の鏡でセミロングヘアーのカール具合を確かめながら、女が尋ねた。

 

「〈ウマ娘〉……って知ってますぅ?」

 

 質問を聞いて、男の側――岸辺露伴は首を傾けた。紅茶のカップから口を離し、目を細めて対面に座る女性編集を睨みつけると、おもむろに息を吐く。

 何を今さら当然のことを、とでも言いたげな視線だった。

 

「……あのさぁぁ~~~。君、漫画家に一般常識の有無を問うわけ?」

「ご存知のようですね」

「知っている、いないのレベルにないだろ。ぼくの漫画ほどとは言わないが、ウマ娘、それとトゥインクル・シリーズは多くの人間が楽しんでいる大衆娯楽だ」

「ですよねェ……当然知ってるとは思ったんですけど、一応、確認しとこうかなって。先生ってたくさんのこと知ってる割に、たまに至極当たり前みたいなこと知らなかったりするじゃないですか?」

「君、マジで失礼だよな……。心の広いぼくだからこうして会話してやっているが、他の漫画家とコミュニケーション取れてるのかよ」

「取れてますよォ~。てか、君じゃなくて〈浜本〉。ちゃんと呼んで下さいってばァ~」

 

 カールした髪の先を指でいじりながら、浜本編集は答えた。

 

「ふん。どうだか」

 

 ともかく――話題を戻すと。

 

 ウマ娘。

 尻尾と耳、超人的な走力を持つ生命体が、人間と区分してそのように呼ばれている。

 

 ウマ娘たちが苛烈なレースを繰り広げるスポーツ・エンターテインメントであるトゥインクル・シリーズ。露伴の漫画〈ピンクダークの少年〉に及ばずとも、日本国民に人気のコンテンツであることは間違いないだろう。

 

 とはいえ、情熱をもって追いかけているわけではない。

 近年、どんなウマ娘が活躍しているのか、までは知らなかった。

 

「……で、ウマ娘ね。ウマ娘がどうかしたのか?」

「実はァ~……変な話があるんですよねェ……」

「変な話?」

 

 興味を示した漫画家の様子に、へへ、とふやけた笑みを浮かべ、ようやく浜本編集は露伴と目を合わせた。視線がかち合った瞬間なんとなく気分が優れなくなり、露伴は目を閉じた。

 

「トレセン学園――あ、日本ウマ娘トレーニングセンター学園の略ですよ?」

「いちいち説明しなくていい。それくらい分かる」

 

 浜本編集が口にした〈日本ウマ娘トレーニングセンター学園〉とは、T都F市に存在する日本最大のウマ娘養成機関の名だ。

 著名なウマ娘の大半はトレセン学園から輩出されていると言っていい。

 

「そうですかァ~……」

「いいから早く話せ。ぼくは暇じゃあないんだ」

 

 テーブルを指で叩き、先を促す。

 この編集との付き合いはそう長くないが、それでも、今まではこれほどもったいつけた話し方をしてはいなかったはずだ。今回のこれが何を意図したものかは不明だが、もしも露伴を苛つかせることが目的だとすれば、目論見は見事に成功している。

 

「えっとォ~。トレセン学園には、ウマ娘用のトレーニング設備だけじゃあなくて……指導教員(トレーナー)用の設備もあるんですよ。指導する側も体力勝負だし、ある程度は身体づくりが必要だろうってことで」

「そりゃあそうだ。どんな職業でも体力は必要だからな」

 

 無論、漫画家もそうだ。露伴は日頃からジムに通って、体力づくりに励んでいる。

 

「そのトレーナー用施設……〈出る〉らしいんですよねェ~~~」

「〈出る〉って……何が?」

()()()()()()()()()()が」

「……ムゥ」

 

 ウマ娘よりも速い人間、だって?

 確かに気になる噂だ、と口元に手をやる。

 

 ウマ娘の走力は人間を超越している。並のマラソン選手程度になら勝つ自信のある露伴だが、体力、速度ともにウマ娘には勝てる気がしない。過去に一度レース映像を見たことがあるが、比べること自体が間違いだとすぐ理解した。

 ウマ娘と人間は生物としての強度が異なるのだ。

 

 だというのに、そんなウマ娘を上回る走力の人間がいるとは……。

 そもそも、人間かどうかさえ疑わしい。

 

「ねえ、トレセン学園に取材って出来ないの?」

「待ってましたあッ!」

 

 露伴の問いかけを聞いて即、浜本編集はアッパーテンションで立ち上がった。

 

「――――」

 

 この編集との付き合いはそう長くないし、個性を完全に把握しているとは言い難かったが、それでも今日のこれは〈例外〉だ。これほどハイテンションで「待ってましたあッ!」なんて叫ぶことはなかった。

 叫ぶようなキャラクターでもないと思う。

 

 だからこそ――敢えて。

 残っていた紅茶をゆっくり口に運び、成り行きを見守ることにした。

 ネタを求める露伴の本能が、何らかの事態を予感している。

 

 ――面白くなりそうだ。

 

「〈ゴルシさん〉!」

「〈応よ〉!」

 

 浜本編集が呼びかけるや否や、露伴のすぐ近く、木陰から何者かが飛び出してきた。

 人間を超越したスピード。対応する時間も〈ヘブンズ・ドアー〉を発動する余裕もなく、露伴の視界が暗闇に閉ざされる。

 どうやら上半身に袋を被せられたようだった。

 

 露伴の身体が持ち上がる。

 何者かの肩か、頭か。ともかく抱え上げられている。

 

 予想外なのは構わない。新鮮な出来事であるほど、想定外の出来事であるほどに露伴の体験は読者を魅了する武器となる。

 だが……!

 

「おい浜本! 漫画家を扱うときは丁寧にやれッ! 身体全部が仕事道具だぞ!」

「おおっと、そうだった。生まれたてのマシュマロをジェットコースターに乗せるときのように……優しく……そして大胆に舞うッッッッ!」

「人を抱えて回転するなァッ!」

 

 袋の中で身体を揺さぶるが、露伴を抱える何者かはびくともしない。

 

「まぁ落ち着けよ幸田露伴。大丈夫、煮たり食ったりはしねえって!」

「ぼくは文豪じゃあないッ! 岸辺露伴だッ!」

「随筆集に書かれたアレ好きなんだよな~。〈面白い漫画にはリアリティが必要だ 自分の見たことや体験したことを描いてこそ面白くなるんだ だから味も見ておこう ペチャリ〉ってやつ」

「随筆集を書いた覚えはない!」

「そうだっけ? まぁいいだろどっちでも」

 

 どっちでも良くはない。

 ……のだが、このまま言い争っても無駄だと露伴は判断した。自分を抱えているゴルシという相手に、どうやら話は通じないようだ。

 諦めて口を閉ざす。

 

 ついでに暴れることも止めた。

「喋ると舌噛むぞ!」と忠告されたからではない。

 露伴が抵抗を止めたのは、これから向かう先の予想が付いたからだ。

 

「いっちょ飛ばすぜ! 月の裏側まで!」

 

 暴れた拍子に触れた耳は、人間にあるまじき、特徴的な形をしていた。

 

「取材許可はしっかり取っておきますのでェ~」

 

 喫茶店の浜本編集が、豆粒のように遠ざかった二人へ告げた。

 

 

 


 

 

 

「ぴすぴ~す! というわけでアタシがゴールドシップ様、通称ゴルシちゃんだぜ!」

「…………」

 

 いきなり袋を外されたかと思ったら、いきなり自己紹介をされた。

 周囲は薄暗い。黒色の布にでも囲われているらしく、意図的に灯りを排した場所のようだ。まさか本当に月の裏側まで移動したわけもなく、おそらくトレセン学園内のどこかなのだろうとは思うが、状況は把握できない。

 唯一明らかなのは、目前のウマ娘がゴールドシップと名乗っていることだけだ。

 

 色白、長身、抜群のスタイル。美しく切り揃えられた銀髪のロングヘアー、をたなびかせた立ち姿……からは想像できないほどの〈話の通じなさ〉。

 直感する。

 こいつ、変人だ。

 

 変人(変バと呼ぶべきか?)ことゴールドシップは、右手を銃の形に握ると、露伴に銃口、もとい人差し指を向けた。

 

「オメー……漫画家だろ? 知ってるぜェ~……〈ピンチダートの正面〉!」

「〈ピンクダークの少年〉だ」

「そうそうそれそれっ」

 

 頭を押さえる。おかしな人間には幾度となく出会ってきたが、おかしなウマ娘に出会うのはこれが初めてだった。

 

 いや、あるいは、と露伴は思い直す。

 ウマ娘との交流自体が露伴にとって初めての経験なのだから、スタンダードが分からなかった。もしや、ウマ娘とはゴールドシップがそうであるように破天荒な存在なのだろうか?

 

「だとすると、あまり近づきたくはないな……」

「フクキタル! ドトウ! 連れてきたぜ……三日前のラッキーアイテム! これがアタシの、ピンクダークの少年だッ!」

「お~戻られましたかゴールドシップさん。トレーナーさんが探してましたよ……って」

 

 黒い布の陰から何者かが現れた。

 外跳ねした栗色の髪と輝かんばかりの瞳が印象的な人物。フクキタル、ドトウと呼ばれた者のいずれかだろう。

 彼女はゴールドシップから露伴に視線を移し、それから〈ギョッ〉という擬音がピタリ当てはまる動きで後方に後ずさった。

 

「ここここここの方は⁉ もしかしなくとも作者様では⁉」

「言ったじゃねえかァ~~聞こえなかったのか? これがアタシのピンクダークの少年だあッッッッ‼ ってよ」

「わざわざ声量上げなくても聞こえてますよっ! 意味が分からないだけですってばぁ! なんでご本人連れてきてるんですか⁉」

「アァ? ご本人だァ? 違えだろフクキタル! いつだって、このゴールドシップ様だけが本物の〈漢〉だッ!」

「何言ってるんですかあ!」

 

 本当にな。

 露伴は内心で激しく頷いた。

 

 フクキタルと呼ばれたウマ娘――なのだろう、彼女にも特徴的な耳がある――はゴールドシップの奇行に頭を抱えている。

 フクキタルとやらには常識は備わっているらしい。どうやらウマ娘という生物そのものがおかしいのではなく、ゴールドシップという個体だけが異常なようだった。

 

「お、遅くなりましたぁ~~~」

 

 ウマ娘への理解が多少深まったタイミングで、後方から声。

 振り返り、侵入者の姿を確かめる。

 カーテンを引くような音と同時に飛び込んできたのは、垂れ耳のウマ娘だった。前髪のメッシュと豊かな胸が目に留まる。こちらがドトウと呼ばれたウマ娘だろうか。

 

「って、誰ですかこの方はぁ~⁉」

「おいおいコイツはアタシにあの日ラーメンを奢ってくれた一般人だろ、忘れちまったのか? 涙なしには語れない雪降るあの日の思い出をよォ……」

「君はもう少し主張に一貫性を保て」

「ふ、フクキタルさぁん……」

「私に訊かれましてもっ⁉」

 

 困惑するフクキタル、ドトウの両名を見つめる。

 

「す、救い……じゃなくてぇ、答えはないのですかぁ~?」

「だから私だって何も分かってないんですよぉ!」

 

 ゴールドシップの言葉から推察するに、露伴が連行されてきたのは、彼女ら二人が普段居場所としている場所のようだ。怪しさは多分に感じ取れるが、不穏さはない。

 一般人が立ち入ることなど先ず有り得ないのだろう、フクキタル、ドトウは露伴を見てすっかり動揺してしまっている。

 

「……ともかく。ゴールドシップ、だっけか」

「おう! なんか用か?」

「…………。いや、いい。とりあえず説明してもらおうか。ここはどこで、ぼくは何のために連れられてきたのかをな」

 

 

 

 

 

 ――三十分後。

 

「こちらがトレーナー用の運動施設になります」

 

 露伴は目的としていた施設を案内されていた。

 隣には、丁寧な物腰の気品あふれる少女がいる。メジロマックイーンと名乗ったそのウマ娘は、実際にメジロ家という名門のお嬢様であるらしい。

 

「案内ありがとう」

「どういたしまして。メジロのウマ娘たるもの、期待には全霊をもって応えるべし……他にご希望がありましたら、遠慮なく仰って下さいませ」

 

 結局。

 露伴が連れられてきたのは、日本一のウマ娘養成機関として名高い日本ウマ娘トレーニングセンター学園――トレセン学園で間違いなかった。案の定である。

 

 マチカネフクキタル、メイショウドトウの二人は普段から学園内で占いをしていて、露伴が先ほどまでいたのがその占い屋だ。

 黒い布で建てたテント内にテーブルと水晶を置いた安い作りの設備。

 三割の確率で道を示してくれると評判だという。

 

 三日前、大凶だったゴールドシップのラッキーアイテムとして〈ピンクダークの少年〉を指定した。露伴の漫画を所持するなり、読むなりすれば運気が上向く、という意図だ。しかし、破天荒なゴールドシップ……いやもうゴルシでいいか……は漫画を読んで運気が上昇するのなら、作家を持ち歩けば運気が天元突破すると思ったらしい。

 その後、どうやってか浜本編集に連絡を取り、結託して露伴を誘拐してきたとのこと。

〈作家を持ち歩く〉という発想時点で露伴は理解を諦めている。

 てかマジであの編集はもっと漫画家を大切にしろ……ッ!

 

 さておき。

 ゴルシに連れ去られる前、露伴はトレセン学園に取材を申し込もうとしていた。

 せっかくの機会を利用しない手はない、と運営側に会わせてほしい旨を伝えたところ、理事長からの謝罪とスピード承認が得られた。

 

 ――唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first,the rest nowhere)――

 トレセン学園の校訓として語られる言葉。

 

 なるほど、対応力の面でもひときわ優れた学園か、と思っていると、合わせて案内役を付けるから自由に学園内を見て回ってよいとの連絡があった。

 

「よっす露伴ちゃん! また会ったな!」

 

 やってきたのはゴルシだった。

 

「オイオイオイオイ、どうして君なんだ。もっとまともな案内役はいないのか?」

「こんな美少女が学園案内してやるってのに不満なのかよ? お高くとまりやがってェ~、お前は鳥か! メジロか! マックイーンか!」

「もっと単語に脈絡を付けろ! 鳥とメジロはともかく、急に俳優の名を出すな!」

「わたくしの名前ですわ」

 

 ゴルシの陰から、新たなウマ娘が登場した。

 変人のインパクトに呑まれてまったく見えていなかったが、彼女がゴルシとセットで案内役を任されたようだ。

 

「メジロマックイーンと申します。岸辺露伴様、でしたわね?」

「あ、ああ……失礼。君の名前だったのか」

「気にしていませんわ。この人が原因なので」

「なんだよォ~~冷たいじゃんかよマックイーン! 三か月前はあんなに熱くアタシを求めてきたってのによォ~~~~」

「あなたがとっておきのモンブランを盗んだからでしょう!」

 

 多少胸をなでおろす。

 マックイーンは常識人のようだ。それに、ゴルシの奇行に悩まされている様子である。

 仲間意識じみたものが湧いてくる。

 

「トレーナー用の施設を見学したい、と聞いていますが、間違いありませんか?」

「ああ。よろしく頼む」

「ではゴールドシップさん、先導して……ゴールドシップさん?」

 

 手綱を引くように手を引き寄せたマックイーンだったが、そこにゴルシの姿はなかった。いつの間にか消えている。

 辺りを見回すと、ゴルシは露伴たちから百メートルほど離れた場所で手を振っていた。ワープでもしたのかよ、と驚く。

 

「あと頼むわマックイーン!」

「ゴールドシップさん⁉」

「いやー悪い、用事ができた! これから宇宙救わなくちゃいけねえんだ! じゃな!」

 

 猛然とダッシュ。

 人間からすればありえない――ウマ娘としては常識的なのかもしれないが――速度で、ゴルシは彼方へと走り去っていった。

 

「…………」

「…………」

「……すみません、本当に……」

 

 悲痛な面持ちで、マックイーンが呟いた。

 以上がトレセン学園に着いてから三十分の間に起きた出来事である。

 

 そうして現在。マックイーンに案内され、露伴はトレーナー用の運動施設を眺めていた。

 トレッドミル他、いくつかの機器に触れる。

 

「ふむ……並のジムとは比べ物にならないほど物がいいな……。さすが日本最高峰のトレーニング機関だ」

「トレーナー用の設備はすべて理事長のポケットマネーから出ていると聞きましたわ」

「何ッ⁉ 〈自腹〉なのか、これ〈全部〉⁉ 数千万レベルだぞ全部合わせたら!」

「ええ」

 

 驚く露伴に、マックイーンは微笑みを返した。

 冗談で言っているわけではなさそうだ。

 露伴だって必要があれば山を六つ買うくらいはするが、まさかウマ娘の業界にも同じような奴がいるとは思わなかった。トレセン学園の底の知れなさを味わう。

 

「……変な奴もいそうだな」

 

 興味は湧くが、しかし。

 今日の本題は別だ。

 

「一つ聞きたいんだが」

「何でしょうか?」

「〈ウマ娘よりも速い人間〉って見たことあるか?」

 

 合点がいった、とばかりにマックイーンは露伴を見つめた。

 そりゃあそうだ。本来、トレセン学園に取材となればウマ娘について調べるのが〈普通〉だろう。

 

 だというのに、真っ先にトレーナー用施設の見学を所望する奇妙な来訪者。

 内心、疑問を抱いていたことは簡単に想像できる。

 

「なるほど。噂話の調査、でしたか」

「その通り。ぼくはウマ娘そのものより、そっちの噂に興味がある」

「だとすると……あまり有益なお話はできませんわ」

「何故?」

()()()()()()()()()()()()()()()ので」

「…………」

 

 メジロマックイーンは断言した。

 

 その後、取材を続けるも、確かに出てくる話は「噂の内容こそ知ってはいるが大抵のウマ娘は信じていない」「トレーナー陣も同様」といった内容ばかり。噂の出所さえも不明だった。

 

 正攻法では埒が明かない。

 そう判断した露伴は、もう一つの手段を用いることにした。

 もう一つの手段――無論、彼のスタンド能力〈ヘブンズ・ドアー〉のことだ。

 

 アウェイだからと能力の使用を控えていた露伴だが、ここまで情報が出てこないとなれば、まともな取材は時間の無駄だ。触れた相手を本にし、記憶を読む力――〈ヘブンズ・ドアー〉で学園関係者の記憶を探れば、噂話の出所くらいは見つけ出せるはずだ。

 

 …………、そう、思っていた。

 

 

 

 

 

「……さて」

 

 夜。

 人気もウマ娘の気配もない、真夜中のトレーナー用運動施設。

 露伴は物陰で息を潜めていた。

 

 マックイーンと別れてから、露伴は何人かのトレーナーに声を掛け、記憶を読んだ。

 ウマ娘の記憶は読めなかった。彼女たちは、岸辺露伴という部外者に近づこうとしなかった。ウマ娘としての本能が露伴の企みを事前に察知したのかもしれない。

 トレーナーらの記憶から読み取れたのは、断片的な情報だ。〈人〉〈影〉〈トレッドミル〉〈速〉〈超〉〈走〉〈夜〉〈神〉……落書きされたように乱雑な文字で、ページに綴られている。

 

 内容そのものよりも、露伴はその文字にこそ違和感を見出した。

〈ヘブンズ・ドアー〉で人間を本にすると、その内容には個人の性質が顕れる。神経質な性格であれば細く繊細な文字、真面目な性格であればきっちりと整った配置、大雑把であれば文字同士が重なっている、といったように。

 

 しかし。

〈ウマ娘より速い人間〉を指し示すであろうそれらは、すべて、同じ字体で書かれていた。

 

「…………」

 

 そして、彼らの記憶に決まって刻まれていた時間帯――〈夜〉。

 

〈ウマ娘よりも速い人間〉とやらは夜に出没するのだろうか。

 夜までの滞在が許可されるか。

 ……熟考の末、露伴は一旦トレセン学園を離れた振りをして、夜まで無断で居座ることにした。

 

 記憶に記されていた以上、手に入れた情報は、当人たちにとっての絶対的な真実だ。

 夜、影、トレッドミル――噂の怪異が現れるとすれば、夜のトレーナー用トレッドミルということになる。噂話の正体を確かめるべく、露伴は物陰からトレッドミルを見守り続けた。

 

 既に時刻は日を跨ぎ、丑三つ時が迫っている。

 やはり出ない。

 噂は噂でしかなかったか……と諦めの心地が生じた露伴の前で、

 

「!」

 

〈うぃぃぃいん〉と静かにトレッドミルが動き始めた。

 

 もちろん機上には誰もいない。無人のトレッドミルが動作している。

 露伴は目を離さない。あるいは離せない。最初は低速だったトレッドミルが、時間とともに速度を上げていく。誰かがその上を走っているかのように加速していく。

 そして、その速度メーターが〈25.0km/時を記録した〉瞬間――

 

 

 

 ――トレッドミル上に()()()()()()()()が発生した。

 

 

 

「――――ッッ!」

 

 ()()()

 露伴は即座に身を翻し、逃走を決めた。肉体に血を回し、持ちうる力のすべてを費やして、全速力で逃げ出した。

 

 人。

 走。

 トレッドミル。

 ……神。

 

 あれは――

 あれは、()()()()()――――

 

〈影〉は猶予を与えるようにトレッドミル上をしばらく走った後、くるりと身体を反転させ、露伴を追いかけ始めた。

 並のマラソン選手程度になら勝つ自信のある露伴だが、()()()は並のマラソン選手どころの騒ぎじゃあない。

 露伴は知っている。

 

 アイツに追いつかれたら、死ぬ。

 殺される。

 

 露伴はトレーナー用施設から脱出し、レースグラウンドにまで逃げてきた。もしかしたら、施設さえ離れればもしかしたら、と僅かな希望に縋った逃走路だったが、〈影〉はどんどん露伴に接近してきている。

 

 露伴は〈影〉が走る道の上にいる。

〈影〉に追いつかれたら――〈影〉の障害となったら、瞬間、邪魔者と認識される。

 

 速度では勝てない。

 勝てるはずがない。

 足を止めればすぐにでも〈影〉は露伴の首を捩じ切るだろう。露伴が〈ヘブンズ・ドアー〉を発動するよりも、遥か、速く。

 

「はァ……ッ! クソッ……! やはり、罠か……! ぼくを、誘き寄せるためのッ…………!」

 

 それが神であるならば。

 本当に神に取り憑かれたというのなら。

 人間の記憶に干渉し、情報を操作し。意図的に噂を発生させることも可能だろう。露伴が噂話を聞けば、取材にやってくることだって――

 

 露伴の背後に〈影〉が迫る。

 死が迫る。

 

「クソッ! お、追いつかれる……ッ!」

 

 露伴の首に〈影〉の手が掛かった、

 と、同時に。

 

「だらっしゃーーーーーい‼」

 

〈影〉の真横をすり抜け、露伴を引き上げる誰かの腕。

 煩いほどに聞き馴染んだ、変人の雄叫び。

 

「〈ゴールドシップ〉……!」

「ハッ……やっと名前呼んでくれたな、岸辺露伴!」

 

 紅白の衣装に身を包んだゴールドシップが、露伴を抱え上げ、〈影〉から逃げていた。

 

「お前……どうしてここに……!」

「どうしてって……このグラウンド、模擬レース場だぜ? ウマ娘が走ってんのは何もおかしくねえだろ」

「今何時だと思ってる!」

「ゴルシちゃん時計で六万光年だな」

「それは距離の単位だろ!」

 

〈影〉と同等……いやそれ以上の速度で疾走しながら、ゴールドシップは普段と変わらない様子で露伴と会話している。

 緊張感がない。緊張する必要もない。

 マックイーンの言葉が頭をよぎる。

 

 ――〈ウマ娘より速い人間は存在しない〉――

 

「おいなんかモヤモヤした変な奴!」

 

 ゴルシは後ろを振り返ると、〈影〉を指差して叫んだ。

〈影〉との距離は既に十メートル以上。

 

「テメーはコイツを〈追い込んだ〉つもりだろうけどなあッ! 残念ッ! テメーよりもアタシの方が〈追い込み〉は得意なんだぜえッ!」

 

 ゴールドシップが前を向き、強く大地を踏み込んだ。

 さらに加速。〈影〉との距離が遠くなる。

 

 ゴールドシップは露伴を抱えたままゴールゲートを通過した。

〈影〉は空中に溶けるように霧散した。

 

 

 


 

 

 

 以下は後日談となる。

 

 ゴールドシップに抱えられたまま理事長室を訪れた露伴は、大人として有り得ないくらいにこっぴどく叱られ、当面の間、トレセン学園関係者との接触を禁止された。合わせてゴールドシップは外出を禁じられたようだが、何ら反省することなく外出を繰り返しているらしい。

 作業場兼自宅に戻り、今回の経験をネタに次の原稿に取り組もうとした露伴だが、編集部から電話が掛かってきた。

 原稿の進捗を確認する電話だった。

 編集に渡したと答えると、電話相手が「あれ?」と首を傾げているのが分かった。

 

「編集部内に露伴先生と連絡を取った者がいないのですが……」

 

 おかしな話だった。

 露伴は確かに喫茶店で編集と待ち合わせ、原稿を渡し、そして彼女からトレセン学園にまつわる噂話を聞いた。ゴールドシップと結託し、露伴をトレセン学園まで連行する手筈を整えたのも彼女だ。

 

「名前は……確か……」

 

 浜本。と自称していた……。

〈はまもと〉。

 ……彼女が自らをそう〈称〉するまで、露伴は彼女の名前を認識していたか?

 

「…………」

「あのぅ、露伴先生? どうかしました?」

「何でもない。別の原稿と勘違いしていた、期日には間に合わせるから安心してくれ」

 

 そう言って電話を切る。

 

「ゴルシ、あいつ……誰に、いや〈何〉に声を掛けた……?」

 

 露伴は指先で頭を突きながら、深く深くため息を吐いた。

 

「連絡先を聞いておくべきだったかな……」

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