岸辺露伴は疾駆らない   作:大河原大河

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episode 2 - 幻の夜

 用意されたティーカップは二つ。

 彼女の分と露伴の分。

 

「先生の活躍は聞かせてもらったよ」

 

 穏やかな香りが室内に広がる。

 焼き立てのパンのような、柔らかく甘い匂い。

 彼女は湯気の立つそれを手に取り、口に運んだ……一挙一動見せつけるように、ゆっくりと。それは露伴を安心させるための仕草に見えた。

 

「〈トレッドミルの怪異〉……ゴールドシップに救ってもらったらしいじゃないか」

「そう呼ばれているのは今初めて知ったが……。刺激的だったのは事実だな」

「ふぅン。それは、どちらの体験に対する感想だい?」

 

 彼女は問いかける。

 どちらの体験――何者かも判然としない影に〈追いかけられたこと〉か。

 或いは、〈ウマ娘の走る速度を味わったこと〉か。

 言葉少なに問われた二択へ、露伴は答えを提示する。

 

()()()()、だ」

 

 返答を聞き、彼女は満足そうに頷いた。

 

「ふふっ、当然だろうねぇ。露伴先生にとっての〈ネタ〉となる〈怪異〉と同じくらい、ウマ娘という生物は奥深いものだ」

 

 彼女は語る。

 明かりの消えた瞳で、何処でもない宙を見る。

 

「ウマ娘である私でさえ、その深奥にはいまだ至っていない」

 

 栗毛のショートヘア、頭部にぴんと立った耳。右耳には化学構造式を模したイヤリング。一見すれば真っ当そうな外見ながら、全身から漏れ出る狂気は速度への妄執。

 彼女――アグネスタキオンは独り言のように呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 トレッドミル事件から二か月。露伴はトレセン学園を再訪していた。

 きっかけは一通の手紙だ。

 突如として届いた送り主不明の手紙。

 中を開くと、トレセン学園にまつわる怪異についての大雑把な説明が綴られていた。

 

 取材を即決した露伴を、トレセン学園側は快く受け入れた。トレーナー用運動施設に不法侵入した件もあり、断られる可能性も考慮しながら(手紙のことを隠しつつ)の申し入れだったが、学園側は露伴の想定以上に心が広かったようだ。

 

「正直に言いますと、一度はお断りしようという話になったのですが……」

「本ッ当に正直だなァ~~~!」

「ウマ娘に興味のある者の取材を断ってどうする! と、理事長が仰ったので……」

 

 全身を緑の制服で包んだ理事長秘書――駿川たづながぼやいた。

 先を歩く足取りが、心なしか重そうに見える。

 

 駿川秘書は学園内の事務作業や掲示物の管理など、雑務全般を幅広く捌いている人物だ。普段の業務と並行して新米トレーナーのサポートも行っているらしく、露伴が以前に〈ヘブンズ・ドアー〉でトレーナーたちの記憶を探った際は、調べた全員の記憶に名前が残っていた。

 大変に有能なことは間違いない。

 

 だが、そんな彼女にとってさえ露伴の再訪問は厄介事であるようだ。

 鶴の一声で許可を出した理事長には感謝しておこう。

 

「私も正直に話したわけですし、教えて頂けませんか?」

「……何を?」

「目的を、です」

 

 とぼけた露伴を駿川秘書が声だけで追及した。

 

「申請を確認する限りでは、今度こそウマ娘の調査ということでしたが、また別の目的があるのでは? あなたの問題行動を見過ごすわけにはいきません」

「…………」

 

 どうやら岸辺露伴は危険人物と認定されているらしかった。

〈トレッドミルの怪異〉――前回の事件においては露伴も一応被害者のようなものなのだが……。

 

 そこで、しかし、と思い直す。

 視点を変えれば、あの事件は〈露伴が来なければ発生しない事件〉だった。トレッドミルの破損とレースグラウンドの消耗だけに終わったのも、単に幸運だっただけで、一歩間違えれば学園に被害者が出ていた可能性だってある。

 ……警戒されるのも止む無しか。

 

 露伴は大げさな身振りとともに尋ねた。

 

「疑うのは仕方ないが、にしても、だよ。もしもぼくが本当に心からウマ娘への関心を抱くだけの純朴な漫画家だったら、君、どうするつもりだい?」

「その時は誠心誠意、謝罪致します」

 

 駿川秘書は振り返る。

 決意のこもった目をしていた。

 

「ウマ娘たちに快適な学園生活を届ける――私は、私自身の〈決意〉のためなら強い態度だって取ります」

「そうかい。素晴らしい心がけだな」

 

 露伴はきっかけとなった手紙を懐から取り出し、手渡す。

 

「ウマ娘の調査、というのも嘘ではないけれど……これだよ。今回の目的は」

「では、失礼して」

 

 彼女が受け取った手紙を開く。

 内容――トレセン学園の怪異について。

 数は七つ。〈屋上で踊る黒い影〉〈夜の廊下で聞こえる泣き声〉〈ウロから響く不気味な音〉〈自身の影を永久に追いかけるウマ娘〉……他、どこか見覚えのある学校の怪談じみた内容からウマ娘育成機関らしい独自性のあるものまで。

 記載はいずれも概要のみ、詳細は――

 

「……旧理科準備室にて?」

「そうだ。ぼくは呼び出されている」

 

 手紙の主が誰かは分からないが、詳細は口頭で――と合流地点を指定されていた。

 今回の訪問における露伴の目的地だ。

 

「そうですか……はぁ」

 

 駿川秘書が嘆息した。

 

「どうした、分かりやすく落胆して」

「いえ……その……。露伴さんを呼び出した相手が誰か分かったので……」

「へえ」

 

 すぐ犯人が発覚するとは。

 手紙の主はよほどこの部屋と紐づいているようだ。

 悩ましげな駿川秘書の表情から、常習的に問題行動を起こしていることも察しが付く。

 

「それで? 犯人が分かったところで、この部屋に案内してくれるのか?」

「…………。案内は、します。見守っていた方がまだ良いでしょうし。タキオンさんが何を考えてこんな手紙を送ったかは定かではありませんけれど……」

 

 タキオンさん。

 タキオン……光より速い、仮想の粒子の名。

 それが犯人の名であるらしい。

 

「彼女の行動の不可解さは、今に始まったことではありませんから」

 

 本当に気苦労が絶えないのだな、と少し丸まった背中を見て露伴は思った。

 

 

 

 道中、何人かのウマ娘とすれ違う。どの娘もゲストの露伴へ礼儀正しく会釈していく。

〈ヘブンズ・ドアー〉を使う気がない――脅威とならないことを直感的に理解しているのか、今回は積極的に近づいてきて、サインを求める生徒までいた。

 恐るべき野生の本能。

 ウマ娘の記憶を覗き見るのは、なかなかに骨が折れそうだった。

 

「着きました」

 

 駿川秘書が立ち止まる。

 教室と教室の間、他と変わらないシンプルな引き戸。理科準備室の掲示があった痕跡こそ確認できるが、今は張り紙も何もない。

 控えめに扉をノックする――と同時、上階が揺れた。

 

「な、な、何事ですかっ!」

「あっ、たづなさん! 助けて下さい~ッ!」

 

 旧理科準備室に入ろうとしていた駿川秘書を、一人のウマ娘が呼び止める。

 

「何があったんですか?」

「屋上で、ゴールドシップさんが、ゴールドシップさんがァ~~~!」

「…………」

 

 ゴルシかよ!

 爆発事故レベルの揺れだった。まさか学内で爆発はないだろうと思いたいが、あの破天荒ウマ娘なら万が一にもやりかねない。

 同じことを考えたらしく、駿川秘書は扉に掛けた指を離し「少し待っていて下さい」と階段方面へ走り去った。

 

「『少し待っていて下さい』なァ……そうかァ……」

 

 駿川秘書の言葉を反芻する。

 清く正しい大人なら、まァ、彼女の帰りを待った方がいいとは思う。

 しかし、まったくもって残念ながら、露伴はここでちゃあんと彼女を待ってやるほど真面目でもお人よしでもない。駿川秘書が席を外してくれたことは、むしろ露伴にとって非常に都合が良い。

 

 遠慮も躊躇もなく旧理科準備室に入る。

 

「おや。誰かと思えば」

 

 室内にいたウマ娘が立ち上がり、露伴に向き直る。

 

「君が〈タキオンさん〉……でいいんだな?」

「そうとも! 私が君をここに呼びつけた張本人、アグネスタキオンさ!」

 

 突如として声を張る白衣を羽織ったウマ娘。

 

 犯人の自供が早すぎる。

 走る速度だけではなく生きるペースまで早いのか、ウマ娘は……。

 ゴールドシップと種類は違うが、どことなく変人の雰囲気が漂っている。

 

「ひとまずそこらに座りたまえ。紅茶でいいかな?」

 

 

 ――――。

 そうして場面は冒頭に辿り着く。

 露伴はアグネスタキオンに続き、紅茶に手を付ける。色は暗めの赤橙、ほろ苦さの後から甘みが染み出してくる味わいと飲みやすさ……セイロンティー、サバラガムワ産か。

 

「おやおや……。先に飲んでみせたとはいえ、躊躇う様子も見せないか。流石は岸辺露伴先生だなァ」

「……?」

 

 躊躇? 今の場面で?

 本気で不思議がっている様子の露伴に、タキオンは「ふぅン?」と逆に首を傾げた。

 

「私のことを聞いていないのか」

「問題児なんだろ」

 

 駿川秘書の発言から推測はできている。

 が、あくまで推測。ゆえに露伴はアグネスタキオンのことを〈学則を何度も破る生徒〉程度のものだと認識していた。

 

「ハッハッハ! そうか! なるほどなァ~!」

 

 露伴の答えを聞き、途端にタキオンは笑い出した。

 

「なんだ。何が面白い?」

「いやなに、私が露伴先生と会話する合理的な理由が一つ加わったというだけさ!」

 

 妙なことを言いながら、空になったティーカップを奪い取る。

 

「もう一杯紅茶を淹れてくる。それから手紙についての話をしようか」

 

 タキオンはカップを持ったまま、荷物の山の陰に隠れてしまった。

 

「…………」

 

 なんだアイツは。

 考えようによってはゴールドシップ以上の変人ぶりかもしれない。

 

 手持ち無沙汰となった露伴は周囲を眺める。理科準備室とは聞いていたが、アグネスタキオンが居城とするこの部屋はどうにも奇妙だった。

 

 構造自体は他と大差ない。

 妙だと感じるのは、部屋が二分されているせいだ。

 物理的に分かたれているわけではない。部屋を二つに割くように、趣味が分断されている。

 

 片側は白衣を羽織ったアグネスタキオンのイメージそのもの、彼女が愛飲している様子の紅茶関連品や試験管など実験用具、レポートが散乱している。

 もう片側はというと、紅茶ではなくコーヒー用のグッズを主に、洒落た小物が並んでいる。持ち主の几帳面さと面倒見の良さを表すように、いずれも美しく磨かれていた。

 タキオンと部屋を折半している人物がいるのだろうか。

 

「待たせたね。お代わりを用意したよ」

 

 疑問の答えを得る前に、新しい紅茶を持ってタキオンが戻ってきた。

 露伴の正面に座る。

 

「さて――本題に入ろうか?」

 

 彼女の言葉に応えるように、露伴はポケットから()()()()()()()()。タキオンに見せつけるようにひらひらと振る。

 

「〈手紙〉の話だ」

 

 ()()()()()()()

 一枚目の手紙に書いてあったのは、トレセン学園の七不思議を綴ったもの。それらは学校の怪談としてありがちな内容からウマ娘育成機関らしい独自性のあるものまで多岐にわたっていたが、露伴の興味を強く引くものではなかった。

 

 だから一枚目はフェイクに使った。

 本題は二枚目に書いてあった内容であった。

 

()()()()()()()()()――そんなことがあり得るのか?」

 

 淹れ直してもらった紅茶を口に運ぶ。

 最初のものとは香りと舌触りがわずかに変化していた。

 

「経緯を話そう」

 

 タキオンは芝居がかった動きで語り出す。

 

「とある一人のトレーナーがいた。彼は担当のウマ娘を思い、深夜までトレーニングメニューを考える勤勉な人物だった。その日も担当のために遅くまで仕事を続け、ようやく帰ろうと玄関に向かっていたときのことだ。……彼は見た」

「……何を?」

「〈駿川たづな〉を」

 

 想定外の名前が、タキオンの口から飛び出した。

 

「彼は駿川たづなに話しかけたが、相手は返事をしなかった。黙って彼に近づいた。異常を感じ取った彼は逃げ出したが、駿川たづなは恐るべき速度で彼を追ってきたという。まるでウマ娘のような速度で、だ」

 

 露伴は息を呑んだ。

 追いかけられる恐怖を、露伴は既に知っている。

 

「駿川たづなとの距離が縮まるほど、彼は全身が硬直するのを感じた。これ以上近づかれれば危ない――といったタイミングで〈安全地帯(セーフティゾーン)〉に逃げ込むことに成功した。彼は駿川たづなから逃げ延びたわけだ。後日、駿川たづな本人に確かめたが、その日その時間には自宅で眠っていたと証言している」

 

 話を締めるように手を叩く。

 

「以上が〈経緯〉だ。この話、露伴先生はどう見る?」

「ひとつ確認したいんだが――」

「駿川たづなは〈人間〉だよ。学園に登録されている情報が正しければ、だがね」

 

 タキオンは、露伴の言葉に先行して言った。

 

「人の言葉を遮るな、と教わらなかったのか?」

「生憎と私の親は放任主義でね。先生の発言に割り込むほど自由に育ってしまった」

「まったく」

 

 生意気な態度に嘆息しながらも、露伴は思考する。

 

 駿川たづなが人間だというのなら、ウマ娘ほどの速さで走ったという証言は明らかに矛盾している。

 まず疑われるのは目撃者であるトレーナーの錯覚、もしくは連日の勤務による過労が原因の幻覚。次点として考えられるのは、駿川たづなに成りすました別人による悪戯。

 だが、そうでなければ――

 

「人間がウマ娘になる……ねェ」

「そういった〈現象〉。〈怪異〉と呼んでも良いだろうね。人間とウマ娘は構造的・文化的な類似性が多く確認されているが、それでも生物学上は別の生物だ。その日その時間に眠っていた、という本人の主張との乖離は、ウマ娘化によって脳が異常をきたし、一定期間の記憶が消失したとも解釈できる」

「…………」

「私はウマ娘の研究のため、その〈現象〉を見てみたい。露伴先生は新たな漫画のネタとなる〈怪異〉を取材できるかもしれない――ゆえに提案だ。今夜、トレセン学園を調査したい。協力できるかい?」

 

 黙って話を聞いていた露伴は、それから呆れた表情を浮かべた。

 

「……オイオイオイオイ。君ィ~、自分の言っていることの意味をちゃんと理解してるんだろうな? つまりアレか? 大した根拠も証拠もない状況で、ほとんど思い込みみたいな考察の真相を確かめるために、深夜の校舎巡りに付き合わせるためだけに、わざわざぼくをこんな手紙一枚でトレセン学園まで呼びつけたってこと?」

「そして私に引き留められた。問題児の面倒を見ていた、とでも弁明すればいい」

「そんな言い訳が通るかよ……。ぼくは健全な少年少女のために漫画を描いている人間だぜ……社会的にはれっきとした大人なんだ。しかも! 君らが〈トレッドミルの怪異〉と呼ぶ事件でこっぴどく叱られた直後だッ! またも迷惑を掛けたとなれば、取材を許可してくれた理事長のご心労は想像できない!」

「〈再度〉の〈無許可滞在〉をしてもらいたい」

()()()()()()()()

「そう言ってくれると思っていたよ」

 

〈にやり〉と笑いながら、タキオンは続ける。

 

「一旦は校内を自由に見学するといい。日が暮れる頃には改めて連絡するよ。以降は私に任せてくれたまえ。……露伴先生の、事象観測者としての素質に期待している」

「ぼくはあまり期待してないけどね。ま、騙されたと思うことにするさ」

 

 タキオンは何度目かの高笑いを響かせた。

 

「……ああ、そうだ。確認したいことが一つある」

「どうぞ。答えられることなら、大抵のことは答えよう」

「先の話に出てきた〈安全地帯(セーフティゾーン)〉ってのはどこだ?」

 

 露伴だって命知らずなわけじゃあない。危険があると聞かされているのだから、逃走場所は把握しておきたかった。

 タキオンは真下を指差した。

「ここさ」

 

 

 

「……ところで、気になったんだが」

「なんだい?」

「ゴールドシップの起こした爆発事故……あれは〈仕込み〉か?」

 

 露伴は思い返している。

 旧理解準備室に入る寸前まで、露伴は駿川秘書と一緒にいた。仮にゴールドシップが事故を起こさず、駿川秘書を伴っての訪問だった場合、タキオンは手紙の話を進められなかったはずだ。

 本題の怪異は駿川たづなの姿をしているのだから。

 

「ハッハッハ! 仕込みだなんて! そんなことはないさ!」

 

 タキオンはティーカップを片付けながら、

 

「私はただ〈ゴールドシップがナカヤマフェスタと大勝負をすると聞いて〉〈ゴールドシップに花火を渡して〉〈派手な勝負が演出できると助言した〉だけだとも!」

「…………」

 

 やっぱりコイツ、油断ならないウマ娘だ。

 

 

 


 

 

 

 あと一時間もしないうちに日が沈む。

 調査開始はそこからさらに時を進め、トレーニング終わりの生徒とトレーナーが全員帰ってからになる。

 

 露伴は三階の教室に居座り、ウマ娘たちが走り込みを行うグラウンドを眺めていた。

 すでに取材予定時間は過ぎているが、駿川秘書が部外者を探している気配はない。校内放送で呼び出される可能性を考えていたが、そういった放送もない。

 ゴールドシップの対処でそれどころではないのか、もしくは、既に露伴は学校を離れたという情報でも届いたのか。

 どちらにせよ好都合だった。

 

「あの……そこの人……」

 

 太陽がほとんど隠れた頃。

 昼と夜の狭間。

 すぐ近くから、控えめな少女の声が聞こえた。

 

「そこの……部分的に緑色に発光している人……」

「そんな奴がいるのか?」

 

 周囲を見回す。

 漆黒の長髪をなびかせるウマ娘が露伴を見つめていた。黄色い眼。影の薄い、闇に溶けるような気配の少女。

 教室には彼女の他には露伴しかいない。

 つまり、彼女が言った〈おかしな呼び名〉は露伴に向けてのものらしい。

 

「ぼくは緑色に発光してはいないが、なんだ」

「腿の後ろ、大腿二頭筋の辺りです……」

 

 言われた場所を見てみる。

 緑色に発光していた。

 

「うおッ! なんだこれッ⁉」

「多分、タキオンさんの薬のせいかと……あの人、周りの人によく薬盛ってるので……」

「〈そういうこと〉かッ……!」

 

 旧理科準備室での会話を思い返す。

 二杯目の紅茶に感じた違和感を思い出す。

 あのとき、一杯目と二杯目で〈香りと舌触りがわずかに変化している〉と感じた。

 

 タキオンが露伴と会話する合理的な理由。

 相手が問題児だと知りながらも、肝心の部分を知らない漫画家。

 

 要するに、露伴は気付かぬ間にタキオンの実験台にされていたのだった。

 

「すみません……」

 

 黒髪のウマ娘が頭を下げる。

 ふわり、とコーヒーの香りが舞った。

 

「どうして君が謝る? アイツの保護者とでも言うのか?」

「そういう訳ではありませんが……。いえ、そんなことよりも……」

 

 彼女は露伴を見つめると、指先で奇妙な紋様を描いた。

 

「アナタ……〈良くないモノ〉に憑かれています……」

「なんだと?」

「……怖がらせるつもりはありませんが……ただ、危なそうだったので……」

 

 小声で呟いた黒髪のウマ娘は「良ければ、これを」とお守りを渡してきた。

 

 少女の言葉から害意は感じられない。

 本心から露伴を気遣っているであろうことは理解できた。

 現在露伴が赴こうとしている現場、シチュエーションと合わせて判断するに、彼女にはもしかしたら霊や怨念の類が見えているのかもしれなかった。

 

「気持ちはありがたいが、不要だ」

「…………。そうですか……。……お気を付けて」

 

 それ以上言葉を重ねることはなく、少女は影のようにいなくなった。

 

 

 

 

 

 そして――夜。

 

「……よし」

 

 露伴はタキオンから指定された現場へと足を運んでいる。

 タキオンと露伴は別行動をしていた。出会える確証がないのであれば捜索範囲を広げた方がいい、と判断した結果だ。怪異と鉢合わせたら即座に大声を上げ、互いを呼ぶ手筈になっている。

 

 露伴が任されたのは、過去の目撃地点だった。

 タキオンが訪れたときは不発だったが、露伴ならあるいは――ということだ。

 

 トレーナーが駿川たづならしきものに襲われたのは、トレーナーたちの部屋から玄関に至るまでの廊下の途中。何度か曲がり角はあるものの、順路はごく単純で見通しも良い。

 だからだろうか。

 或いは、露伴が〈スタンド使い〉故にか。

 

 異常はすぐに見つかった。

 

「トレーナーさんですか?」

「いや、ぼくは――」

 

 そう返事をしようとした露伴だったが、すぐに気付く。

 聞き覚えのある声色。

 駿川たづなの声。

 

 ――違う、考えるべきは声の主よりも――

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 

 露伴はその姿を目撃した。緑色の制服を着た、駿川たづなと思しき立ち姿――()()()()()()()()()()()()に。

 呟くような声。囁くような声。

 そんな声なんて届くはずがない距離だ。

 なのに、彼女の言葉を、露伴はどうして認識できている?

 

「トレーナーさん? どうしてそんなに遠くにいるんですか? トレーナーさん?」

「…………」

 

 おかしい。

 どう考えても、おかしい。

 

「トレーナーさん? ねえトレーナーさんってば。トレーナーさん?」

 

 駿川たづならしきものは、繰り返す。

 

「トレーナーさん?」

 

 発声の気配もなく。

 

「トレーナーさん?」

「トレーナーさん?」「トレーナーさん?」

「トレーナーさん?「トレーナーさん?」」「トレーナーさん?」

「トレーナーさん?」「トレーナーさん「トレーナーさん?」?」「トレーナーさん?」

「トレ「トレーナーさん?」ーナーさん?」「トレーナーさん?」「トレーナーさん?」「トレーナーさん?」

「ト「トレーナーさん?」レーナーさん?」「トレーナーさん「トレーナーさん?」?」

「トレーナーさ「トレーナーさん?」ん?「トレーナーさん?」」「トレーナーさ「トレーナーさん?」「トレーナーさん?」ん「トレーナーさん?」?」

「トレーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん? トレ「トレーナーさん?」ーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん「トレーナーさん?」? 「トレーナーさん?」ト「トレーナーさん?」レ「トレーナーさん?」ーナーさん?「トレーナーさん?」 「トレーナーさん?」トレーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん? トレーナーさん?「トレーナーさん?」

 トレーナーさん?」

 

「――――」

 

〈怪異〉だ。

 

 露伴は確信する。

 声を上げろ。アグネスタキオンを呼べ。

 判断は行動に結びついた。脊髄反射で喉が声を吐き出そうとする。しかし――

 

 ()()()()

 

 喉が固まっている。

 喉どころじゃない、まるで身体に毒が注入されたかのように全身の筋肉が硬直し始めている……!

 

「――――!」

 

 百メートル先の〈怪異〉が、露伴に狙いを定めた。

 慌てて後退する。

 

 露伴はアグネスタキオンから聞いた話を思い出していた。〈駿川たづなとの距離が縮まるほど、彼は全身が硬直するのを感じた〉――恐怖のあまり身体が動かなくなったものと考えていたが、そうじゃあない。

 神経毒をぶち込まれたみたいな異常。

 アレは、標的に何らかの病を引き起こす、正真正銘の〈化け物〉だ……!

 

〈怪異〉が徐々に距離を詰めてくる。ウマ娘が如き速度を持つ化け物にとって、百メートルなどほんの一瞬。

 露伴の身体が石のように固くなる。

 動かなくなる。

 動けなくなる。

 

「くッ――!」

 

 ならば、抵抗が許された今のうちに――

 露伴は〈ヘブンズ・ドアー〉を発動し、自らの腕にその一文を書き込んだ。

 

 ――〈旧理科準備室まで走る〉――

 

〈ヘブンズ・ドアー〉はほとんどの場面において絶対的な力を持っている。

 旧理科準備室まで走れと命じれば、走ろうとはする、だろう。

 しかし相手は対象の身体を動かなくさせる〈怪異〉だ。そして距離が近づくほどに硬直は強まる。動かないはずの肉体を〈ヘブンズ・ドアー〉が無理に動すことになる。

 

 つまり。

〈怪異〉との距離が近くなるほど肉体が壊れやすくなる。

 

 だから露伴は、自らの内部で骨が軋む音を聞きながら、四肢に意識を集中して〈ヘブンズ・ドアー〉による疾走を支援した。

 漫画を描けなくなるのは困る。

 意志を超越して動く身体に、死ぬ気で付いていく。人間の限界速度で〈怪異〉との距離を維持し、セーフティゾーンまで走る。疾駆(はし)ることだけ考える。

 

「はァッ……!」

 

 

 

 ――――。

 そんな状況だったから。

 着いた頃になって、ようやく理解した。

 

「は、ァ、ッ……! ハ――――ァ」

 

 今の今まで、自分が呼吸していなかったことを。

 

「おい⁉ 露伴先生! 何があった⁉ 言え、岸辺露伴!」

 

 室内に倒れ込んできた露伴を抱え、タキオンが叫んだ。どうやら先に調査を終え、戻ってきていたようだった。

 

「……〈ヤツ〉が…………。いる……」

「本当か!」

 

 息も絶え絶えに露伴が告げると、タキオンは嬉々として部屋を出ていった。

 止める間もなかった。

 

 マズい。アレはマズい。たとえアグネスタキオンがアレと同等の速度で走れるのだとしても、相手はこちらを硬直させる力を持つ怪異だ。

 追いつかれたら何をされるか。

 今すぐ部屋に戻れ、と忠告すべきなのに――身体が動かない。酸素が足りない。頭が働かない。

 

 というか、である。

 露伴のこの惨状を見て、どうして部屋を出ていくんだ……!

 

「戻ったぞ」

 

 無言でキレていると、むすっとした声が降ってきた。

 横倒れになった露伴を跨ぐようにして、タキオンが立っていた。

 

「校内を一通り見て回ってきたぞ。誰もいないじゃないか」

「…………。何……、だって?」

「露伴先生ともあろう方が、つまらない冗談を吐くものだね」

 

 白衣の研究者は、やれやれ、と首を左右に振った。

 

 

 


 

 

 

 以下は後日談となる。

 

「お守りを……タキオンさんの制服のポケットに、私の独断で入れています……。あの人が怪我をするのは、嫌なので……」

 

 黒髪のウマ娘はそう言った。

 またしても露伴が訪れたのは旧理科準備室。しかし提供されたのは紅茶ではなく、コーヒーだった。

 タキオンと部屋を分けていたのは、夕刻、三階教室で出会った影のようなウマ娘――マンハッタンカフェという名の少女であった。

 

 見えないものが見える体質の彼女は、必然、良くないものたちを集めてしまうこともある。故に他者を招いても問題ないよう、部屋に少々仕掛けを施しているらしい。

 セーフティゾーン扱いされていたことも納得がいく。

 

「アナタの助けになったのなら、良かったです……」

「ありがとう。本当に助かった」

「…………。そう言うのなら」

 

 カフェはお守りをテーブルの上に置いた。タキオンの制服に仕込んでいたというお守りは、務めを果たしたかのように燃え尽きていた。

 

「今後、タキオンさんに協力するのは止めて下さい……」

「どうやって知った」

「聞きました……」

 

「誰から」という露伴の問いかけには答えず、カフェは静かに尋ねる。

 

「〈怪異〉は〈怪異〉を引き寄せる……。アナタにも……覚えは、ありませんか……?」

「…………。…………」

 

 無言を肯定と取ったか、彼女は続けた。

 

「アナタは死にかけた。ああいったものは他にもたくさんいます……。命を賭けてまで……怪異を追い求める必要があるのですか? 漫画家として名を馳せたアナタなら……もっと平穏な生活を送ることだって、できるのでは……?」

「ハッ。そんな人生を送ってたまるかよ。ぼくはこれからも取材を続ける」

「何故ですか……?」

「そんなこと、分かり切っているだろう」

 

 露伴は何を聞くのか、とばかりに鼻を鳴らして立ち上がる。

 

「漫画を描くためだ」

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