岸辺露伴は疾駆らない   作:大河原大河

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episode 5 - 眩き可憐

 


 

名称が与えられて初めて、それが実際に存在していることに人間は気づくものなのだ。

そうして、世界の新しい一部分が誕生してくる。

 

ニーチェ 『悦ばしき知識』

 


 

 

ぼくの名前は岸辺露伴。

漫画家だ。

 

・・・なに? 今さら言うことでもないだろう、って?

 

そんなことはない。

ぼくが名乗ったことで、君はぼくを岸辺露伴だと認識した。

 

 

つまり、これから話すのは・・・

そういった()()の話ということになる。

 

 

 

 三月初週、短距離重賞の開催日。

 岸辺露伴はレース場にいた。

 T県F市まで足を伸ばした露伴の目的は、本日のメインレースに出走する、とあるウマ娘を取材することだ。

 ただし露伴自ら望んだものではなく、編集の勧めによるもの。

 

 ラウンジシートに備え付けられたベランダから、会場を見下ろす。場内に集まった人は正しく数え切れないほどで、場内には三月と思えないほどの熱気が渦巻いている。

 手すりを掴む手がわずかに汗ばんだ。

 

「いや~期待しちゃいますね! わくわく!」

 

 隣の女性編集が、弾むような声で言った。

 

「〈わくわく〉って口にする奴、初めて見たよ」

 

 手すりに腹を乗せて、ベランダから上半身を乗り出した女性。一つに結った髪が背中で楽しげに揺れている。

 加連(かれん)(もえ)。今日の取材をセットした編集者。

 

「っていうか、君、ぼくより楽しんでないか? これ、ぼくの原稿のための取材だろ?」

「早く出てきませんかね~。カレンチャン!」

「…………。まったく」

 

 

 発端は一週間前に遡る。

 

 

「テーマ?」

「はい、そうです! 今回、各先生方に特別読み切りをお願いするにあたって、一つテーマを設けようと考えておりまして!」

 

 カフェ〈ドゥ・マゴ〉。

 湯気の立つコーヒーを一息で飲み干した萌編集は、そう息巻いた。

 

 集英社からやってきた若手の編集者は、挨拶も早々に、鼻息荒く説明を始める。かなり気合が入っているようだった。

 語られた前置きによると、今回の特別読み切りは、彼女が先輩の手を借りずにまとめ上げる初めての企画になるそうだ。

 

 露伴にとってはかなりどうでもいい話である。

 

「で……その〈テーマ〉って?」

「〈胸キュン〉です!」

「…………。ぼくは構わないが、」

「あァ~~~露伴先生、仰りたいことは分かります! 〈ピンクダークの少年〉はサスペンスやホラーテイストの作品、そういった味を求めているはずのファンが胸キュンな読み切りを出されて満足するだろうか? 入社数年、()()()()()()()()若造が、勢いだけで適当な企画を進めることを編集部は肯定しているのか? そういった心配をなさっているのでしょう? 違いますか?」

「違う」

「大丈夫ですッ! そんな露伴先生を納得させるためのデータは用意してきましたッッ!」

「データを出すより会話をしろッ! 僕が気にしているのはそこじゃあない」

 

 露伴に叱責され、取り出しかけた資料の束を名残惜しそうに鞄に戻す。

 

「では、何を気にされているのですか?」

「〈ネタ〉だよ。胸キュンな読み切りを描くのに、ちょうどいいネタがない」

 

 岸辺露伴は一流の漫画家だ。もちろん、編集部やファンの要望があれば、胸がキュンとしてしまうハートフルなストーリーを描くことだってできる。

 ただ、それには新鮮で生き生きとしたネタが必要だ。

 どんなジャンルの漫画を描くにしたって、絶対に揺らぐことない前提。

 岸辺露伴が描く漫画のクオリティの高さは、ネタへの〈こだわり〉にあるのだ。

 

 今、露伴が使えるネタのストックは〈ピンクダークの少年〉で用いる系統に寄っていた。描く機会の少ないジャンルの物語を描こうとするならば、別途、新たにネタを探すところから始めなければいけない。

 

「デートします?」

「君、若手というだけですべての言動が許されると思ってないか?」

「なら……そうですね。巷で噂のウマスタグラマーでも見に行きましょうか!」

「あのねェ……そんな、いちSNSで発信力のある人間を見に行ったところで、読者に響く原稿が描けるとは思えない。ネタは自分で探す」

「人間じゃなくてウマ娘ですよ。それにレースにも出てるんです、この子」

 

 萌編集は露伴の顔に向けて、スマートフォンの画面を押し付けてきた。

 映っていたのは、洗練された可憐さを持つウマ娘だ。ライトグレーのセミショート、カチューシャと一体化した黒い耳カバー、アクセントに赤いリボン。投稿の尽くが自撮りで、それらに一つの例外なく、彼女の可愛らしさを褒め称えるコメントが並んでいる。

 

 フォロワー数は三百万。

 ウマスタグラムにそう詳しくない露伴でも分かる、驚異的な数字。

 

Curren(カレン)……」

「そう! 自撮りの天使――カワイイの権化ことCurren! トゥインクル・シリーズにおいてはカレンチャンです! 週末のレースに出走するそうなので、レース後の取材を申し込むとか……。知ったばかりの私でも分かる、練り上げられた至高のカワイさ! 私的には、胸キュンなキャラクターを描くための参考になると思うんですが、露伴先生的にはどうでしょう?」

「ウマ娘……ウマ娘ねェ」

 

 興味があるかと問われれば、ある。

 ただし以前に比べると興味の程度は下がっている。

 

 露伴はウマ娘――ナイスネイチャやマンハッタンカフェ――に〈ヘブンズ・ドアー〉を使い、記憶を読んだ。彼は、これまで読み解いた記憶から、ウマ娘と人間は()()()()()()()()と判断していた。

 人間とウマ娘では考え方にほとんど差がない。明確な差は肉体強度のみ。

 ウマ娘は、人ならざる怪物の思考を描くためのモデルには、ちょっぴり力不足なのだ。

 

「…………。まァ、いいよ。週末だろ」

 

 ただ……それでも、貴重な〈意思疎通が図れる〉人外なのだから、取材の機会を設けること自体には反対しない。

 

 それに、そういえば。

 トレセン学園こそ何度も訪問したが、レース場で本気の勝負を見たことはなかった。

 

「会いに行こうじゃあないか。カワイイの権化とやらにな」

 

 

 

 メインレースの発走時間が迫る。

 ウマ娘たちが次々と本バ場に入ってくる。

 今日開催されるメインレースはG3、レースの格付けとしては上から三番目となる。出走者はもちろん強者揃い。G1クラスで上位入賞を果たした者や、下位クラスで連勝している勢いに乗った者など、バリエーションに富んだ顔ぶれだ。

 そして、その中で最も勝利を期待されているのが――

 

 客席でひと際大きい歓声が上がった。

 

「いつも応援ありがとうございま~す!」

 

 超有名ウマスタグラマーCurren、改め、本日の一番人気。

 カレンチャンが現れたのだ。

 

 ぺこりと一礼、カワイイポーズ。再びの歓声。

 人気の高さはフォロワーの数でもあるが、走者としての実力も意味している。

 取材前の下調べによると、カレンチャンは短距離レースで素晴らしい成績を上げていた。昨年夏から秋にかけての重賞四連戦で全勝し、海外遠征でも健闘。今、短距離路線で最も強いウマ娘と呼ばれることもあるという。

 カワイさと強さを兼ね備えたウマ娘となれば、人気が出るのも当然だろう。

 

 露伴はカレンチャンを見つめたまま、隣の編集者に話しかける。

 

「しかし……君、想像してたより静かだな。〈わくわく〉してたんだろ? きゃあ~~~とか言ってみたらどうだい?」

「…………」

 

 反応はなかった。

 よっぽど集中しているようだ。無視されたのは気に入らないが、静かな分には結構、とカレンチャンに意識を向ける。

 

 ファンファーレが鳴り響いた。ウマ娘たちがゲートの中に収まっていく。

 場内の声が少しずつ減っていき、ついには無音となる。

 唾を飲むことさえ憚られるような、勝負が始まる前の、静寂。

 

 良い雰囲気だ。

 露伴はスケッチブックを手に取った。

 勝利への執念――決意――願い――。生々しい感情が、会場に満ちている。

 

 ゲートが開く音と同時、ウマ娘たちが一斉に飛び出す。カレンチャンは集団の前の方に位置取り、前方を逃げるウマ娘を追いかける。

 遠く、走る姿に焦点を合わせ、真剣な表情を映し取る。

 

 短距離レースは〈瞬間〉だ。瞬きの間に状況が変わる。ゴールが近づくにつれて後方にいたウマ娘が速度を上げ、距離が縮まってくる。ウマ娘たちが一団となり、先頭を目指す。

 観客の多くが、カレンチャンが抜け出してくることを期待した、が――

 

 集団の内々に呑まれたまま、レースは決着した。

 

「負け、か……」

 

 順位を示す掲示板は、カレンチャンが四着だったことを示している。

 

「おい。負けた場合も取材はさせてくれるんだろうね」

「…………」

「……っていうか、レースは終わったんだ、そろそろぼくの問いかけに応えてくれないか」

 

 露伴は萌編集の方を見――ようやく気付いた。

 

 

 

「…………………………………………」

 

 

 その異常な様子に。

 

 

 

 ぽたりと唾が滴り落ちる。口を閉じることもせず、食い入るようにカレンチャンを見つめる。睨みつけている? いや、敵意や害意の類ではない、ただそれだけに集中している。

 見ることだけに意識を割いているのだ。

 見ること以外のすべてを捨て置いて、彼女は走り終えたカレンチャンの姿を見つめている。

 

 それは――そう、刻み付けるように、というのが表現として最も正しい。

 

 目に、脳に、記憶に、その姿を刻み付けるように。

 見つめている。

 

 まばたきもせず、動きもせず。ただ、じっと見つめている。

 

 異変だ。

 何らかの異変が起きている。

 

「あれが…………」

 

 観察を続ける露伴の前で、萌編集が呟いた。

 

「…………私の、……すべき……………………」

 

 そして彼女は突然走り出した。

 露伴が制止の声を発するより早く、ベランダを飛び出す。

 

「おいッ! 止まれ! 〈ヘブンズ・……ッチ!」

 

 後を追いかけた露伴だったが、すでに萌編集の姿はラウンジシートの階から消えていた。

 足を止める。速度で対抗するのを諦める。

 

 ()()()()

 

「なんだアレは!?」

 

 加連萌は単なる人間、普通の編集者だ。岸辺露伴が追いつけないはずがない。

 なのに追いつけなかった。

 走り始めのスピードも、その後の加速も、プロスポーツ選手並み……いや、それを遥かに超えている。人間の限界速度を超えている、ように感じた。

 

「……まるで……」

 

 ウマ娘に変化した(なった)かのような。

 

「おい、そこの奴。スタッフに伝えておけ。取材はやめだ、岸辺露伴には急用ができたってな」

 

「え!? 岸辺露伴!? サイン下さい!」との声にインクを飛ばして応えると、露伴は萌編集が通ったであろう階段を下っていく。

 振り返りざま、ファンを指差す。

 

「応援ありがとう。サインは描いた、あとちゃんと伝えとけよ!」

「は、はい!」

 

 カレンチャンへの取材など、後回しでいい。

 露伴の興味は萌編集に向いていた。

 まずは彼女を探し出す。それから〈ヘブンズ・ドアー〉で記憶を覗き見る。彼女の中には、確実に、生じた変化についての記述があるはずだ。絶対に読む。読まなければ気が済まない。

 …………。

 

 

しかし、その日、どれだけ後を追おうとも――

ぼくは加連萌を見つけられなかった。

彼女は失踪した。

 

 

 


 

 

 

 トレセン学園から少し離れた川辺。

 岸辺露伴は残りわずかとなった本を閉じる。

 

 何人かウマ娘は通りがかったものの、目的としているウマ娘の姿はいまだ見えない。トレーナーから聞いた情報なので間違いないはずだが……。入れ違いになったのかもしれない。

 学園に戻るつもりでベンチから腰を上げた。

 

「あ~っ! 露伴先生!」

「だいぶ待ったぞ。レース翌日くらい身体を休めたらどうなんだ」

 

 そこへ、狙ったように駆け寄ってくる少女が一人。

 カチューシャと一体化した黒い耳カバー、左側には赤いリボン。

 カレンチャンは汗を拭い、露伴の鼻先に指を突きつけてくる。

 

「取材の予定! 急にキャンセルだなんて、カレン、ちょっとびっくりしちゃいました!」

「ああ、急遽別の用ができてな」

「それで、今日は……謝りに来てくれたんですか? わ、けっこう意外――」

「違う。聞きたいことがある」

「――でもなかったかぁ。やっぱりイメージ通りかも……オレ様系?」

 

 カレンチャンが首を傾げて言う。

 オレ様系という評価にはだいぶ不服がある露伴だった……が、言い返している状況でもない。

 

「君だけが知っている秘密の場所を教えてほしい」

「どうして?」

「担当編集が失踪した。ぼくとその編集者は昨日、君のレースを観戦していてね。君の走る姿を見終えてから、彼女はおかしな独り言を呟き……そして走り去った」

「だからカレンに関係ある場所を……私だけが知っていそうな場所を探したいってことですか。えっと、おかしな独り言って、どんな?」

「『あれが、私の』……それと何かを『するべき』相手だと、そんなふうな内容だった」

「私の……」

 

 露伴の話を聞き、カレンチャンは考え込むような様子を見せた。

 

 

 

 ――――。

 萌編集の失踪翌日、岸辺露伴はトレセン学園を訪れていた。

 目的はもちろんカレンチャンに会うため。カレンチャンの周辺を探ることで、萌編集に辿り着くことを期待しての訪問だ。

 

 あのとき。

 加連萌は明らかに、カレンチャンに執着していた。

 故に学園と、寮。レース場から萌編集を追えなくなった後、露伴は編集部に立ち寄ったのち、カレンチャンが普段生活している場所の周辺で聞き込みを行った。しかし有意な情報は得られなかった。

 なので、学園に何度目かの入構を申請した。

 

 ただし事情を真っ正直に伝えるのは止めた。ただでさえ〈トレッドミルの怪異〉や〈深夜校舎への不法侵入〉の影響でトラブルメーカーだと思われている節がある、これ以上疫病神みたいな扱いを(主に駿川秘書から)受けるのはムカついた。萌編集の失踪を自分から警察沙汰にするつもりもなかった。

 以前関わった事件――マンハッタンカフェの記憶喪失に関連する情報提供をしたい、という名目で、露伴は学園にやってきた。

 マンハッタンカフェ本人、そのトレーナー、関係者たちに対し、簡潔な説明を行い――

 その後の自由時間で、本来の目的である萌編集の痕跡を探り――

 それから――――

 

 ――――カレンチャンに頼み込んでいる。

 

 

 

「うん、よし! 秘密の場所、教えてもいいですよっ。でも条件が二つあります」

「どっちか一つにしてくれないか」

 

 露伴の文句を聞き流し、カレンチャンは話を続ける。

 

「一つ目の条件は、イベントの宣伝協力! カレン、今『カワイイダービー♪』ってイベントを計画してて~、拡散をお願いしたいです!」

「……二つ目は?」

「編集さんを探しに行くの、私もついていきますっ」

「ダメだ」

「じゃあ教えませ~ん」

「…………はぁぁああああ~~~~~~~。あのさァ、冗談言ってる場合かよ。彼女の様子は尋常じゃない、正気を失ってたんだ。何が起きるか分からない。加連萌の関係者でもない君が、どうして彼女を探しに行こうとする?」

「それは……う~ん、何となく?」

「おいおいおい、ぼくだって危険を承知で探しに行くんだぞ。怪我したらどうする。いいから場所だけ教えろ」

 

 危機感がない少女だ。真剣さも。

 それがカレンチャンに対する露伴の第一印象だった。

 だから二つ目の条件を聞いた瞬間、露伴は断った。ウマスタグラマーらしく映える写真をゲットすることが目的なのだろうから、少し危ないことを匂わせれば引き下がるに違いない。

 露伴はそう考えた。

 しかし。

 

「えっと、加連萌さんは人間ですよね?」

 

 カレンチャンは声を抑えて尋ね、

 

「なら問題ないです」

 

 微笑んだ。

 

「――――」

 

 瞳に宿っていたのは〈絶対に譲らない〉という決意。

 人間相手に後れを取らないという自信はあるのだろう。だが、そうでなくとも心に決めている。カレンチャンは、露伴に明かせない何らかの理由をもって〈加連萌に会わなければいけない〉と決意している。

 

 露伴は説得を諦めた。

 今のコイツに何を言ったところで一切聞き入れない。時間の無駄だ。

 

「トレーナーに一声かけなくていいのか?」

「大丈夫ですっ。信頼されてますから!」

「そーかよ」

 

 カレンチャンが先導するように前を歩く。

 

「ところで、よくカレンの走ってるところ分かりましたね。学園で待ってても良かったのに~」

「ああ。君のトレーナーに()()()

「ふ~ん、お兄ちゃんに……。ということは露伴先生、さっき嘘吐いたんじゃないですか?」

「何がだよ?」

「情報聞き出すとき『カレンチャンにも謝りたい』とか言ったでしょ。じゃなきゃ、お兄ちゃんが簡単に学園外の人にランニングコース教えるとは思えないですもん。だからホントは謝りに来たんじゃないかな~って……どうです?」

「…………。さて、どうだったか」

「まぁいいですけど~」

 

 実際、彼女の予想は部分的に当たっていた。

 露伴は学園を訪問した際、昨日の取材キャンセルに対する謝罪もしたいとカレンチャンのトレーナーを紹介してもらっていた。そうして〈ヘブンズ・ドアー〉でトレーナーの記憶を読み、ランニングコースを把握した。

 

 信頼に基づいた的確な予想、瞳に宿っていた決意……。

 最初の印象とはずいぶん違った姿だ。

 ただカワイイだけのインフルエンサーじゃあなさそうだった。胸キュンなキャラクターを描くための参考になるかも――という萌編集の評は、思いのほか合っていたのかもしれない。

 

「…………。というか君、トレーナーのこと、お兄ちゃんって呼んでるの?」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんですから」

「へぇ……元から家族だったんだ」

「家族と同じくらい、深~いところで繋がった仲なんです!」

「……………………」

 

 露伴はそれ以上の言及を控えることに決めた。

 

 

 

 

 

「ここですよっ」

 

 日が傾き始めた頃、カレンチャンが自慢するように両腕を広げた。

 小高い山を登った先にある広場。林の中で唯一光の差し込むその場所は、まともに整備されているとはとても呼べない、ただ雑草を刈り払っただけの空間だった。

 近くからは水を叩きつける音が聞こえてくる。

 どうやら滝もあるらしい。

 

 トレセン学園とは完全に別の町だ。そもそも、露伴が最初に案内されたのは駅だった。「ここから電車に乗りますよ~」とカレンチャンに指示されるがまま、いくつか路線を乗り換え、ようやく到着した駅からさらに移動してきた。

 かろうじて県境を越えてはいないが、都市部から見るとかなり外れに位置している。

 

「なぜこんな場所に?」

「カワイくあるためには、私だけの修練所が必要なんですっ!」

「……まァいいや。萌編集を探すんだろう。二手に分かれるぞ」

「え~。別行動ですか? 露伴先生、お一人で大丈夫です? 怖くありません?」

「君、ぼくのことを何だと思ってるんだよ……いいから向こうを頼む。ぼくは逆側を探す」

「は~いっ」

 

 カレンチャンが指示した方向に歩き去るのを見届けてから、露伴は山中へと踏み入った。

 雑草をかき分けながら、萌編集の痕跡を探す。

 足跡でもなんでもいい。ここにいるなら何かは残っているはずだ。失踪したときの狂乱状態が今も続いているのなら、証拠を消すような理性は保てていない。

 五感を研ぎ澄まし、自分ではない何者かの存在を感じようと試みる。

 

「萌さぁ~ん……いたら返事してくださ~い……!」

「あいつ……」

 

 耳をすますとカレンチャンの声ばかりが聞こえてきた。声の響いた方角を睨みつける。

 期待はしていなかったが、やはり自力で探し当てるしかないようだ。

 息を強く吐き出す。

 

 加連萌はカレンチャンにまつわる場所にいる。その居場所がここかは分からないが、カレンチャンに関するどこか、という部分には確信めいた予感がある。

 レース場で見た〈カレンチャンへの強い執着〉もあるが……。

 カレン。加連(かれん)

 ……偶然にしちゃあ、少々できすぎだ。

 

「萌さぁ~~~ん……!」

「うるさいぞ君! もうちょっと声量を落とせ!!」

 

 思わず叫ぶ。周りの物音も探れやしない。

 すぐさま山が静かになった。聴覚も優れているウマ娘だ、成人男性の本気の声量程度でもしっかり耳に届いたようだ。

 ようやく周囲の調査に集中できる、と真正面に向き直った瞬間――

 

 

 

 いた。

 〈かろうじて人としての原型を保っているだけ〉の、彼女が。

 

 

 

 加連萌はその場で立ち尽くしていた。

 距離は目測で二十メートルほど。身長、体重、身体つきに変化はない――ように、見える。少なくとも露伴の目には。

 アグネスタキオンやマンハッタンカフェ、カレンチャン。彼女らウマ娘の体格は平均的な女性のものとそう変わらない。仮に加連萌が本当にウマ娘化していたとして、体格が急激に変わるようなことはないだろうと思っていたから、そういう意味において彼女の姿は露伴の予想通りではあった。

 

 だが、今の状態は予想外だ。

 

 予想以上に。

 予想していたよりも疾い速度で、()()()()()()

 

 加連萌の腕は〈だらん〉と力なく垂れ、肩にくっついているだけの振り子と化している。両脚からはとめどなく血が流れ出していて、脈打つごとに肌が濃く染まる。

 走り続けていたのだ、おそらく。

 ウマ娘の最高速度は時速七十キロを超える。

 人間はそんな速度の運動に耐えうる肉体を持っていない。

 

 かろうじて人の形を保っているだけ。

 リアルタイムで身体に何らかの変化が生じているとしても……完了前に、崩壊する。

 

「…………」

 

 彼女の内面を読むためにも、これ以上走らせてはいけない。

 露伴は一歩、加連萌に近づく。

 反応はない。

 加連萌は立ち止まっている。

 

 もう一歩。また一歩、と近づいていくも、まるで反応がない。露伴のことを見ていない。何か、別のことを考えているような、別のものに意識を割いているような――

 そう思った直後、加連萌の顔がこちらを向き――否。

 

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()――

 

 

 ――風が吹いた。

 

 露伴は振り返る。

 数メートル横を走り去っていった女の背を、目で追いかける。

 止められなかった。止める間もなかった。

 人間であるはずのモノ。人間とは思えないモノ。

 

 疾い。

 異常なほどに、疾い。

 

 改めて思う、人間の速度ではない。

 そして一般的なウマ娘の速度でもない。

 これから先の未来すべてを捨てても構わない、なんて覚悟と命を賭した、本気の――

 

 それは、正しく〈全身全霊〉のウマ娘の速度だった。

 

「そっちに向かうぞッ!! 気を付けろッ!!!」

 

 カレンチャンに届くよう叫び、露伴も走り出す。加連萌の姿は見る間に小さくなり、山中に消えた。

 山の斜面で足を滑らせそうになりながら、必死に走る。

 

 人間相手なら問題ない、などとカレンチャンは言っていたが、今の加連萌を人間のつもりで相手取るのはまずい。だからといってウマ娘のつもりで相対されると、加連萌がさらなる傷を負いかねない。

 平穏に事を終えるなら、〈ヘブンズ・ドアー〉で無力化するしかなかった。

 

「頼む、無事でいてくれ……!」

 

 祈るように呟く。

 不安ばかりが募る数十秒ののち、露伴はその光景を目撃した。

 

 徐々に速度を緩め、息を整えながら歩き、

 

「何をやってる?」

「露伴先生! も~、遅いですよっ?」

 

 緊張感のない声。

 カレンチャンは指一本で加連萌を寝かしつけていた。

 

「押さえつけてるんです! 血もたくさん出てて、危ないなって思って~」

 

 カレンチャンが指を押し付けているのは、鼻と上唇の間――いわゆる〈人中〉と呼ばれる個所だ。人中に狙い、身体のバランスを崩すことで動きを封じる……。冗句の類でしかないはずのそれを、カレンチャンは現実の技術として習得している。

 驚けばいいのか、呆れればいいのか。

 加連萌は抵抗する力もなくなったのか、黙って呼吸を繰り返していた。

 

「救急車は?」

「呼びました!」

「そりゃあ良かった」

 

 露伴はカレンチャンの肩に手を置くと、

 

「〈ヘブンズ・ドアー〉」

 

 

 


 

 

 

 ――――――――。

 ――ああ、そうでした。

 あれが、私の到達すべき、光でした。

 

 貴女のような栄光を期待されていたのです。

 

 初めての勝負で、人気通りに勝利しました。惜敗と勝利を繰り返しながら着実に実績を積み、人気や期待を落とさぬまま、重賞へ。

 きっと勝てると。

 勝利できるはずだと。

 

 二着。ほんの僅か、最後の最後で追い越されての敗北。

 惜敗だったのだから、次こそ勝てるだろうと人は私に期待しました。もちろん期待されるのは喜ばしいことです。期待に応えられれば、皆も私も嬉しいのです。

 私はまたも一番人気として出走しました。

 

 二着。前のレースよりも、もっともっと僅差での負け。

 最後の最後、下位人気だった娘が根性で上がってきて、前を行っていた私を捉えました。

 次こそは絶対に。

 

 二着。

 こんなものじゃあないはずだ。

 

 五着。

 

 

 それでも私は期待されていました。重賞で常に五着以内、掲示板を外さない、これはとてもすごいことなのです。でも、私への期待が止まないのはそれだけではありません。

 

 私は、貴女のような栄光を期待されていたのです。

 

 重賞を三連勝。

 初めてのG1レースで、二着以下を引き離して完勝。

 海外での健闘。

 貴女の蹄跡――その輝きが、あまりに眩しくて。

 誰しもが、夢を見ていたのです。

 皆も。私も。

 次のレースでも一番人気に押された私は、その日、七着に沈みました。

 

 そうして、それが私の最後のレースとなりました。

 

 貴女の輝きに陰りが生じたのなら、その分、私が頑張らなきゃいけなかったのに。

 ……眩しいです。

 眩しいです。

 貴女の残光が。あの日の閃光が。

 あんまりに眩しくて、自分の足元だって見えません――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――。

 ありがとうね。

 大丈夫。心配しないで。

 今度は絶対に、最っ高にカワイイカレンを見せるから。

 

 

 


 

 

 

「――――ぁ……」

 

 目を開く。天井が見える。

 私はゆっくりと身体を起こした。

 

 なんだかずいぶん久しぶりに目覚めたような気がする。窓の外は夕焼け色で、もうじき日が沈む頃だった。正確な時間を確かめるためポケットに手を伸ばすが、あるはずの場所にはスマートフォンどころかポケットさえなくて、そこでようやく自分が患者衣を着させられていることに気付いた。

 

 入院しているらしい。いつから?

 期間について考えようとしたら、今日が何日なのかも分からなくなっていた。

 

「私……」

「あ!」

 

 窓とは反対方向、つまり私の背中側で声がして、慌てた様子の足音が続いた。

 

「起きたんですね! 良かったァ~!」

「良かった、って……」

「あなたすっごい大怪我してたんですよォ~! 先生も緊急手術だ、なんて柄にもなく張り切っちゃってェ~……そういうときってだいたいマジでヤバいときなんですけど……。え、っていうかどこか痛むところはないですかァ?」

 

 私は振り返り、声をかけてきた人を見つめる。

 片腕に書類を持った、看護師と思しき女性だった。やはりここは病院のようだ。

 

「痛むところは……ない、です」

「うっそォ~! それって奇跡ですよォ、奇跡! っぱパネェわうちの先生……」

「それより……えっと、今日は……」

「今日は三月二十五日ですねェ。……二十五日? 二十五日ってなんか……あ!!」

 

 看護師は急に病室を飛び出していき、すぐ戻ってきた。手には一通の封筒が握られている。

 

「これ! 渡してって言われてたのさっきまで忘れてましたァ……セーフ……」

「誰からですか……?」

「あのォ……なんだっけ……超有名ウマスタグラマーの……」

「カレンチャン、ですか……?」

「あァ~そうそう、その方だったと思いますゥ~」

 

 フォロワー三百万人の超有名ウマスタグラマーにして、トゥインクルシリーズの短距離路線にて最も強いと呼ばれることもあるウマ娘。また、岸辺露伴に描いてもらう胸キュン漫画の参考とするため、取材を予定していたはずだ。

 

「……あれ?」

 

 予定していた。が、結局取材したかどうかの記憶がない。

 けれど、と思い直す。取材はしたのだろう。でなければ接点のない自分に手紙をよこすはずがない。私は封を切り、丁寧に折られた手紙を開く。

 

 書いてあったのは一文だけ。

『高松宮記念、見ててね』

 

「二十五日……」

 

 私は時計を見る。午後三時半。スタートまで十分を切っている。

 看護師に頼み、封筒の中に入っていたカードを入れてもらってテレビを点ける。各ウマ娘の紹介をしているところで、カレンチャンは二番人気となっていた。前のレースで見せ場なく四着となったことが影響したらしい。

 

 レースが始まった。

 先頭で逃げるウマ娘を見る形で、カレンチャンは二番手に付ける。早めに前に出てスピードを上げていく。千二百メートルの距離は、人間にとって遠くともウマ娘たちにとっては一瞬だ。わずかな位置取りの差、カーブの膨らみが勝敗を分ける。瞬間、判断力の勝負。

 

 先頭の脚が鈍ったと見るや、カレンチャンはコーナーから一気に切り込んでいく。

 ほぼロスなく立ち回り、最終直線に突入する。

 先頭が入れ替わる。

 カレンチャンが先頭に代わる。

 追い上げてくる後続を、しかしカレンチャンは突き放し――

 

 一着。

 身体半分ほどの先着。

 

 大歓声が迎える中、カレンチャンがウィナーズサークルに立つ。

 

『この前のレースで! カレンのことをすっごく心配してくれた人がいました。だから、今日はぜ~ったい、カワイイカレンを見せてやる~って思ってたのでっ!』

 

 汗まみれで、土塗れ。

 身体からは湯気が立ち昇る。

 カワイイとはかけ離れたようなそんな姿で、彼女は。

 

 

『勝つことができて、本っ当に、嬉しいですっ!』

 

 

 笑顔を浮かべた。

 彼女の笑顔を見た瞬間、私は――

 

「えッちょッ、どうしたんですか! ど、どこか痛み始めましたァ!?」

「ち、違います……そうじゃなくて……」

 

 涙が止まらなくて――

 

「じゃあなんで泣いてるんです?」

「一生の推しが決まった、って感じですゥ……!」

「それってめっちゃ良かったじゃないですかァ~!」

 

 感受性豊かな看護師は、もらい泣きしたらしい涙を拭いながら言った。

 

「怪我も治ったし……推しもできたしィ……サイコーの結末でしたね、()()さん!」

「はい!」

 

 私――()()萌は、看護師の言葉に頷いた。

 

 

 


 

 

 

 加連萌が失踪した日のことだ。岸辺露伴は編集部に連絡を取り、彼女が戻っていないかを尋ねた。

 すると、露伴は電話口の編集者にこのようなことを言われた。

 

「加連萌? そんな人、この編集部にいましたっけ?」

 

 よくよく話を聞いてみると、確かに加連萌はこの編集部に所属していた。

 ただし、社員名簿に記載のあった名前は〈安田萌〉だ。

 彼女は改名していたのである。

 しかも、名簿の更新が行われていない程度に改名は最近のことだった。

 

 名を変えること自体はよくある話だ。かつてウマ娘からの改名要望が数多く提出された結果、制度改正が行われ、現在では申請書類を一枚書けば(少なくとも一度は)簡単に名前を変えられる。

 

 だが、なぜ彼女は名を変えたのか?

 衝動的に変えたくなった? もちろん可能性は否定できない。

 しかし、露伴は別の考えを持っている。

 その考えを持つに至るきっかけは、やはり、紅茶の香りに彩られている。

 

 

 

 

 

 ――萌編集の失踪翌日。トレセン学園を訪れた際。カレンチャンに会いに行く少し前。

 露伴は旧理科準備室に立ち寄っていた。

 

 予定も約束もない突然の訪問だったが、アグネスタキオンは露伴を目視した途端ににんまり笑い、近寄ってきた。それで「聞きたいことがある」と告げた瞬間、ご機嫌に紅茶を淹れ始めた。

 

「聞きたいことだなんてねぇ。いやいや勿論喜ばしいことだよ。以前も言った通り、私は露伴先生と親しくなりたいと思っているんだ。いつだって大歓迎さ」

 

 テーブルにカップが置かれる。

 目の前で尾が楽しげに揺れていた。

 

「おーっと、シュガーポットを仕舞いっぱなしだった。ちょっと待っていてくれ……」

 

 戸棚に戻っていくタキオンを目で追うと、マンハッタンカフェと視線がかち合った。彼女は彼女で、自分用のコーヒーを淹れている。

 

「さっさと終わらせて下さいね……。あなたが学園にいると、たづなさんの心配事が増えますから……」

「確かにさっき会ったときはすごく嫌そうな顔してたなァ」

「……正直、好き嫌いを顔に出すのは珍しいです……」

「ぼくはそんなに嫌われてるのか?」

 

 カフェは否定も肯定もしなかった。

 こぽこぽとコーヒーの抽出音だけが返事をする。

 

「カフェ、出ていけというのは少し薄情すぎやしないかい? 彼は君の記憶喪失に関連する情報提供をしに来たと聞いているよ。ちょっとお茶を味わうくらいの滞在は許されるだろう」

「まぁ……そうですね……」

 

 タキオンは席に腰かけると、どぼどぼ紅茶に砂糖を投入し始めた。

 尋常ではない量を溶かして――溶け切っていない。溶解度を超えている――から口を付ける。

 

「ま、そんなことはどうでもいい。それで、話とは?」

「砂糖を減らせ」

「まさかトレーナー(モルモット)くんの差し金か? 外部の刺客を導入するとは予想外だ。しかし私は何を言われても絶対に砂糖の量を減らさないぞ!」

 

 タキオンが砂糖袋を抱えて飛び退く。

 しまった。あまりの投入量に思わず指摘してしまった。

 

「……違う。ぼくが話したかったのは砂糖のことじゃあない」

「嘘を吐くな! 今砂糖のこと言ったじゃないか」

「いや、だって量おかしいだろッ! なんで袋から直に注いでるんだよッ!」

「普通だろう」

 

 異常だ。

 そんなに砂糖を過剰摂取するのは、彼女かゴキブリ型宇宙人くらいだろう。

 

「実際、タキオンさんの砂糖の量はおかしいですよ……私は見慣れましたけど……」

「えぇ~! カフェ、君も私を裏切るのかい!? 糖分は我々ウマ娘の走りにとって欠かすことのできないエネルギー! 君も過去に同意していたはずだ!」

「……摂りすぎは良くない、という話です……」

「そんなぁ~!」

 

 カフェがタキオンから砂糖の袋を奪い取る。

 しょぼくれた耳を眺めながら、ティーカップを空にした。

 

 

 

 閑話休題。

 露伴は本題を告げる。

 

「知り合いの人間が、ウマ娘に変化した可能性がある」

「ほう!」

「…………」

 

 アグネスタキオンが声を上げ、マンハッタンカフェは耳を動かした。

 それから露伴はタキオン(と近くで聞き耳を立てているカフェ)に対し、現状を伝えた。行方不明になった編集者、直前にレース場へ赴いたこと、レース観戦後の様子……。

「なるほど」と研究者は頷いた。

 

「露伴先生は彼女を探すための手掛かりが欲しい。つまり私は、萌編集の身に何が起きているかの考察をすればいい。……認識に間違いはないね?」

「ああ」

 

 露伴は同意を返す。相変わらず話が早い。

 

「そうだな。ふむ、どう話すか……」

 

 タキオンは背もたれに身体を預けてしばらく唸ったあと、切り出した。

 

「露伴先生はウマムスコンドリアについて知っているかな?」

「知らん。なんだそのふざけた名前のモノは」

「近年、存在が確認されたばかりの微生物……細胞内の一器官みたいなものさ。ウマムスコンドリアが体内にいると、変換可能なエネルギー量と変換効率が向上する。そして、この生物は特殊なDNAを備えていてね、性染色体と相互に関係し、人間発生時の形質発現に影響を及ぼすことが確認されている。……要するに〈ヒト女性をウマ娘に変える細胞〉と思ってくれればいい」

 

 まさに〈人間がウマ娘になる〉話――

 ではない。

 これは単に、ウマ娘がどうやって生まれるか、の話でしかない。

 

「ただし、哺乳類は爬虫類や魚類と異なり、発生時に確定した形質からは変化しない。受精時に〈ヒトの雄〉〈ヒトの雌〉〈ウマ娘〉のいずれかが決定して以降、ウマムスコンドリアはただのエネルギー変換器官でしかなくなる……というのが、現時点における一般的な見解だ」

「一般的な……ね」

「だが。私の見解は異なる」

 

 露伴の表情をちらと眺めてから、彼女は続ける。

 

「ウマムスコンドリアDNAには、ウマ娘の経験……記憶や過去、そして能力。そういった〈何か〉が秘められている。そして、何らかの刺激を切欠に本体の脳で情報を展開、再構築するのだよ。トリガーは様々……よく聞くのは、学園内の三女神像に祈ることだね。カフェも〈神託を授かった〉経験があるだろう?」

「…………。……さあ」

「答えを濁すのは大抵の場合、肯定さ。それでは結論を提出しよう」

 

 タキオンが前のめりになって告げる。

 

「編集者、加連萌。彼女はウマムスコンドリアと共生しながら、ウマ娘の形質発現を回避した貴重な人間(サンプル)だ。彼女の脳内では現在、ウマムスコンドリアに刻まれたウマ娘の記憶と能力が呼び起こされている。トリガーとなった出来事は〈カレンチャンのレース観戦〉だろう」

 

 露伴はあの日のレース場を思い出す。

 手が汗ばむほどの熱気。

 テレビで見るのとは比べ物にならない、熱量。

 

 強い強い刺激。

 思わず、いつかの熱を蘇らせてしまうくらいに。

 

「参考になったかな?」

「〈過ぎる〉くらいだ。助かった」

「そうかいそうかい! それほどまでに感謝しているというのなら」

 

 ずい、と顔を近づけてくる。鼻先がくっつきそうになり、手で払った。

 

「失踪した萌編集が見つかったら彼女に会わせてくれたまえ! 彼女の脳を解析すれば、ウマ娘という生物の深淵へまた一歩踏み込むことができるかもしれない!」

「検討しておく」

「はは、まるで政治家のような物言いだな! 期待しないで待つとしよう」

 

 

 

 

 

 …………。

 ……アグネスタキオンの考察はおそらくほとんど合っていて、間違いは一つだけだ。

 形質発現のトリガーとなった出来事を、彼女はカレンチャンのレースだと言った。しかし、レース観戦のときに初めて形質発現が起きたのならば、安田萌が改名したことの説明がつかない。

 だから、露伴はこう考える。

 

 ()()()()()だ。

 

 ウマスタグラムでカレンチャンを見つけ、ウマムスコンドリアの一部が先行して機能、()()()()()()()がトリガーとなり、ウマ娘化が進行していた。レース観戦は変質を加速させただけである、と。

 改名したことで()()()()()()()()()()()()()()()のだと。

 

 ならば逆に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 二十日ほど前。

 萌編集の記憶を〈ヘブンズ・ドアー〉で読んだ際、露伴は〈苗字を元に戻す〉よう書き込んだ。本人の意識の上では、すでに彼女は加連萌ではなく安田萌となっている。

 あの日を境に、加連萌という人間は消えた。

 カレンモエというウマ娘も消失した。

 実際、安田萌に戻った彼女は身体の異常も見当たらず、早々に退院したとのことだ。

 

 

 

 こうして事件は解決した。

 結局、カレンモエにどういった意味があり、どうしてカレンモエと名乗ることがウマ娘への変化に結び付くのかは分からないままだが……。

 

 けれど――そうだ。

 名は祝福にも呪いにもなる。

 単なる音でしかなかったはずのものが、その世界において、共通の意味と価値を持つようになる。

 

 名。

 それが何者なのかを示すもの。

 

 故にこそ――もう一度、示しておくことにしよう。

 

 

ぼくの名前は岸辺露伴。

漫画家だ。

 

 

 


 

 

 

 以下は後日談となる。

 

 カレンチャンの可愛らしさに安田萌の狂気を混ぜ込み、魅力たっぷりになったはずのヒロインを軸とし、露伴は胸キュンでハートフルな読み切りを描き下ろした。

 掲載された漫画は『面白いけど胸キュンっていうか胸ヒュン(ホラー的な意味で)』『heartfulじゃなくてhurtful』などの評価を受け、胸キュン度ランキングではなんと四作品中四位という最低な結果を出した。

 とはいえ、漫画が掲載されたことを喜ぶべきだ。

 つまりそれは、安田萌が完全に復帰し、しっかりと仕事をしている証でもあるのだから。

 

「で、先生! 次の読み切りなんですけど!」

 

 カフェ〈ドゥ・マゴ〉に呼び出された露伴は、ますます元気になった萌編集を見つめた。

 

「ぼく、参加しなくていいんじゃない? 最下位だったんだろ?」

「〈マッドサイエンティスト〉とかどうでしょう!」

「本気でそれを題材にするつもりなら、君の編集者としてのセンスを疑うよ」

 

 そこで、ふと思い出す。

 

「ああそうだ。その前に君、〈マッドサイエンティスト〉がどういうものか分かっているのか? 題材にする前に〈取材〉して〈理解〉すべきなんじゃないか」

「え……先生、マッドサイエンティストの当てがあるんですか?」

「当然だろう。ぼくを誰だと思っている。繋いでやるから一度話を聞いてみるといい」

 

 露伴はアグネスタキオンの連絡先を萌編集に伝え、その場は解散となった。

 

 

 

 数日後、ひどく憔悴した声で「別のテーマを考えます……」と言われたなんて話は……まァ、言うまでもないことだろう。

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