図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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第1章
状況把握


目を開けて知らない天井を見た瞬間に、私の脳は急加速を始めた。動かそうとした身体に走る痛み。思わず声が出てしまう。博士課程までずっと難問に付き合わせてきた私の思考は、きちんと外部を認識し始めた。そして、大量のエラーを吐き出す。

 

ここはどこだ?今はいつだ?視界に入る光景を分析していく。畳換算で六畳程度の部屋。灰色の冷たそうな床。漆喰(しっくい)塗りらしい白い壁。ガラスのはまっていない小さな窓から差し込む日光。自分が寝ているのは膝程度の高さの寝台。壁にある燭台らしき場所の付近は煤でわずかに黒ずんでいる。木製に見える扉はあまり大きくはない。

 

動く右手を半ば無意識に乾いている喉に当てる。そこまで寒くはない。今は三月ではなかったか?ナースコールはない。点滴もない。ここは医療機関ではない。手当ては、と私はシーツとでも呼ぶべき自分の上にかかっていたものをめくる。服はいつもの普段着ではなく荒い織物で、腕に巻かれた包帯は金属製の針のようなもので留められていた。ああまったく、情報が多すぎる!

 

すっと、興奮が収まる。呼吸をゆっくりとしよう。まだ心臓は早く動いているが、思考は落ち着いてきた。そして、口角が上がっていく。面白い謎が与えられた時の高揚感。

 

全てを解決する素晴らしいアイデアは、ここが未来か過去か、あるいは異世界か何かだということ。しかしこれは万能すぎる。反証可能性がない議論は科学的ではない。もう少し仮説を考えよう。まずは傷の処置の分析だ。医師免許は持っていないが、医学史はかじったことがある。ハッカ臭と包帯に染みた油は消炎効果を期待したものだろうか。血が滲んでいないところを見ると、どこかから大きな出血をしているというわけではないらしい。血が止まった後に包帯が取り換えられたのかもしれないが。だとしたら手間がかかっている。包帯の素材ははっきりとはわからないが、漂白されておらず端がほつれているところを見るとある程度使い古された布だと考えられる。それでもきちんと洗って清潔にはしてあるのだろう。身体を動かして確認していくと何ヶ所か打撲があり、どこかの腱をやったかもしれないことが明らかになった。腕と脚を特定の角度に曲げようとすると痛みが走るが、逆に言えばうまい具合に落ち着いた場所を見つけられればそこまで問題はない。寝台に座るぐらいまではできそうだが、そこから立ち上がるのは難しい気がする。無理に動くこともないだろう。それに確認するだけで結構全身が辛い。

 

落ち着いて、自分の上にかけられていたものに目を向ける。茣蓙(ござ)によく似ているが、素材がイグサかどうかはわからない。マットレスに当たる部分も同じように細い草の茎と糸で編まれている。ここだけ見ればなんとなく日本の匂いを感じられるが、逆に言えばそれ以外のものから地理的な情報を得られる気配がしない。縫い目が不揃いなので、手作業で作られているらしいことが読み取れる。こんなところで考古学の知識を使いたくはなかった。

 

改めてどうしようもないことを確認したので、もう一度眠るとする。無駄に思い悩むことに意味はない。人生は結構いきあたりばったりでなんとかなる。大切なのは、後悔しない選択をするためにそこそこに元気でいること。

 


 

思い出せる一番最後の記憶は、階段で足を踏み外したこと。

 

その直前の記憶は、博士課程修了の知らせを受け取ったこと。

 

総合研究大学院大学文化科学研究科産業技術史研究専攻D3(博士課程3年生)だなんて長い肩書がなくなって、博士(文学)を持った無職になることが決定したところまでは覚えている。就活をさぼったのが悪い。大学だろうが他の研究機関だろうが、なんなら技術と知識だけなら普通に文系でも理系でも就職はできたのではないだろうか。論文執筆に熱中しすぎた。

 

昔からそういうところがある。なにかに集中すると周りが見えなくなるのだ。だからといって集中した分野で他の追随を許さない、なんてことはない。大抵は思考が脇道にそれて、雑多な情報を頭に入れて、そこから自分が脱線していたことに気がついて改めて元の問題に向かうことになる。その時に色々と読んだり調べていたりしていたことがたまに役に立つが、ほとんどの場合は違う。無駄な知識は人生の解像度を上げるかもしれないが、それは別に幸福には結びつかないことが多い。

 

今更後悔してもどうしようもないことをくよくよ悩むのはやめよう、と思っても嫌な感情は押し寄せてくる。

 


 

物音がして、私は目を開けた。扉が折りたたまれて、隙間からひょこりと少年が顔を出す。顔つきからすれば一五か一六だろうか。あどけなさと可愛さが感じられる風貌だが、視線はあくまで真剣なものだ。

 

「█████████ █████」

 

「は?」

 

聞いたことがない音の連なりだった。いや、言語なのはわかる。音節があったし、強弱があった。

 

「███ █████████ ██████」

 

少年が心配そうな顔を私に向ける。

 

「ええと、日本語は話せるかい?」

 

「███ ██ ████ ████」

 

私は苦笑いをした。言語パズルはあまり得意ではないのだが。

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