「よくまあ、それらしい来歴を……」
私はケトの作った文章を見てため息を吐く。
「良くなかったですか?」
「いや、かなりいいと思うよ。念のために聞くけど、これって少し調べたら全部出鱈目だってわかるようにしてある?」
「ええ。まともに知識のある人間なら間違うはずがない誤りを混ぜてあります」
「……まあ、それに気がつかないような人間は何見せても信じないから駄目か」
「そういう実例を知っているんですか?」
「いくつかね」
陰謀論者たちはこういうものが大好きだ。ジョークで作られた文書を堂々と証拠として持ち出して失笑を買うのは度々見たものであるが、まあ私だって他の人から見れば全くの誤った歴史的知識を持っている可能性も十分にあるわけだ。できるだけ反論を受け入れるようには自覚して行動していたが、自己正当化バイアスの影響が自分にどれだけあるかわからない。
「それでもこんな形で発表するとなれば、まあ少し騒ぎにはなるでしょうね」
「必要であれば私はすぐに反論文書を作るよ」
「いえ、たぶんその必要はないと思います」
「どうして?」
「既に図書庫の講官の何人かにこの文書のあらましを話しています。中には腹を立てた人もいまして」
「行動が周到すぎる……」
改めて私は目の前の少年の能力評価を一段階上げる。
「是非原文を読みたいとのことで」
「待ってもらってね?」
「もちろんです」
ケトが頷いたのを確認して、改めて私は謄写版刷りの文章を見る。内容はこう。大図書庫におけるぼかされてはいるが十中八九私だと見る人が見れば予想するある重要人物に対して、これもモデルがいるらしい頭領府の中の専門家がとある文書を見せた。それはあのトゥー嬢の父をモデルにしたかつて失脚したある政治家、の信奉者だった人物の死後に遺品の中から発見された草稿で、頭領府の専門家はこれを読んでノイローゼになり、直接は言及されていないが死ぬかあるいは仕事ができない状態になったことがほのめかされている。大図書庫の重要人物はこれに対して反論する前に、ごく一部の専門家に対して公開することを決めた。その一部をあなたに差し上げる。などなど。
「これ、出てくる人達は……」
「もちろん全員悪い笑顔で許可をくれました」
「酷いな……」
「なんなら実際に読んだ人の気分が悪くなるよう呪いの言葉でも盛っておきましょうか?」
「やめておいて。私はそういう物の力を受けやすいから」
「おや、意外ですね。キイさんならそんなものは迷信だと切り捨てそうだと思っていたのですが」
「誓いだの呪いだのというのは、どうしても人の心を縛るんだよ」
「けれども、それを無視する人も多いですよ」
「私はそうじゃないというだけ。気持ちよく眠れるようにいいことをするのが私の信条なんだよ」
「わかりました。まあこの件については僕が動いていいですか?」
「お願い。というより私は動けないからな……」
印刷物がゆっくりとではあるが増えてきた。トゥー嬢の書いた「基質の分離と分析」もそろそろ印刷が終わるらしい。本の情報を記した
今後必要なことを考えていく。ソフト面では教育制度を中心とした人材の育成。それと並行してできるハード面の活動はないだろうか。つまり私以外がやればかなり長い時間がかかり、私が手を付けることでかなり技術の発展が進むもの。例えば電気はそうだった。その存在自体がわかってしまえば、そして方向性が定まってしまえば技術というものは加速させることができる。マンハッタン計画が例の一つとして挙げられるだろう。大統領が計画を承認してから3年も経たずに、「ガジェット」と命名された
もっと他の分野でもいい。宇宙開発やコンピュータ科学、バイオテクノロジーでも似たようなことは起きた。産業界が着目し、多くの学生が専門家として雇われ、そして花火のように事業が一瞬だけ輝く。こうしてあとに残るのは専門性を失ったかつては優秀な技術者だった人達と次の分野に目標を移した投資家である。うーんこれはかなり偏見混じりの意見だな。まあ私は基本こういう華やかな分野にあまり縁も興味もなかった。なにせ高校時代は工作機械と工業材料を学び、大学では歴史学を専攻していたのだ。前者は既に枯れた技術となっていたし、後者の有用性は怪しいところだ。
どうせなら、その方向性をある程度こちらで決めてしまいたい。例えば抗菌薬の開発は有機化学の発展とともにあった。ただ、ここで赤外分光光度計のような道具があれば?あるいは冶金学の研究にX線回折が使えたら?もちろん、基礎となる理論や実験が欠如するという問題点はあるが、そもそもそういうことは私の知る世界の歴史ではかなり一般的だったし、先を知らない状態で避けることはまずできない。それに私は一応最低限の科学の知識はある。理論の抜けた場所をカバーする研究案を匿名で出すことぐらいはできるだろう。今回の文書はそれができるかどうかの確認の意味もある。