図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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欲求

ミクロ的最適解とマクロ的最適解が一致しないことはよく知られている。ゲーム理論や経済学の用語を使えば、ナッシュ均衡はパレート最適ではないということだ。

 

有名な問題、囚人のジレンマの亜種を考えよう。二人の局員がいる。それぞれ自分の業務のノウハウがあり、それを公開するか秘匿するかを選ぶことができる。互いに公開すれば大きな成果を得ることができるが、どちらかが秘匿した状態でもう一方が公開すれば公開したほうだけが損をする。そして公開しなければ業務はいまのあまり効率の良くない状態のままだ。

 

さて、局員の一人の目線に立とう。もし相手が公開するつもりなら、自分は秘匿しておくことで利益を得ることができる。もし相手が秘匿するつもりなら、わざわざ公開して馬鹿を見る真似はしたくない。つまり、情報の共有は選択されないのだ。より大きな視点から見ればそれはあまり効率が良いわけではないのにもかかわらず、である。

 

ではこのジレンマを解決するにはどうしたらいいだろうか?例えば相手が公開しない場合を「裏切り」と捉えてペナルティを課すこと。あるいは外部から介入して利益の値を書き換えてしまうこと。まあ色々な手はあるが、それは社会という集団を構築する上で培われてきたものの中にも見出すことができる。やはりメタ的視点は重要だな。

 

「というわけで、作業手引の作成者には適切な便宜を図る必要があるわけだ」

 

利得表を黒板に書いて私は言う。

 

「では局長、実際に我々が手引を作るとしたら何の益があるんです?」

 

局員が聞いてくる。

 

「まあそうなるよな、強いて言うならこの職に就いていられるということだ」

 

「酷い脅しだ」

 

笑い声が聞こえる。まあこういう危ないジョークができる程度には信頼関係ができていると考えよう。

 

「まあそういう脅迫に頼らなくてすむよう、ある程度自分で業務の方向性を決めて意欲的に取り組んでくれる構成員で組織を作るほうがいい」

 

「働く喜び、ですか……」

 

「そう。もちろん全員がそれを感じるわけではないことはわかっている。今日の糧のために汗を流す人もいる。それでも、だからこそ、仕事は楽しい方がいいだろう?」

 

図書庫の城邦における労働価値観はかなり職業によって異なる。例えば衙堂の思想を引っ張ってこよう。人は働かなければならないのは、神との賭けに負けたからである。人は先を予測する知恵とともに新たな欲を手に入れたため、現実との差に苦しむことになる。自身が小さい存在であることを知り、小さな満足を大切にするために最もいい方法が神々への懇願と感謝である。そういった超越存在を感じることによって人間の弱さを理解したのであれば、我々は手を取り合って生きていかねばならないということがわかるそうだ。解釈は色々あるらしいが、ケト流の纏めによればこんなところ。別の考え方もある。例えば商者の思想はこの欲を一定程度満たすことを重要視する。人の欲を知り、その人にとって欲でないものを知ればそのやり取りによって自らの欲を満たすことのできる利益を手にすることができる、と。

 

参考までに、ここらへんで「欲」と呼ばれているものは日本語のそれとは少しニュアンスが違い、自然に起こる渇望とかと訳すべきかもしれないものだ。あまり宗教に触った経験がないからここらへんをかつての世界の思想と比較することは難しい。せいぜい三大宗教ぐらいわかればいいだろうと思って聖書とクルアーンに目を通した後仏典のどれを読めばいいんだよとなって冷めた。いやプロテスタントとカトリックは一応かなり共通した聖典を使っていたがなんだよ仏教のあのジャンル細分化と後世の創作と脚注の量。

 

「そういうわけで人を管理するなら、そういう面に気を配るある種の責務がある。何を求めている?なぜその選択をする?どうしてその行動をした?そういう部分を分析するためには外部の目が必要になる、ここまでは?」

 

局員を見渡すが、問題なく理解できているようだ。いや一応私の予想ではこのレベルの思想がこの世界で生まれるとしたらあと数百年かかるものなんだけどな。工業化によって効率を求めた世界で生まれたような考え方の、上澄みだけを使っているようなものだ。さすがにそのままでは劇薬だろうがここにいる局員なら耐えられるはず、と思ったら普通に取り込み始めている。

 

「この中には班長として部下を持っている人がいる。そしてかつていた組織に戻り、集団を率いることになる人もいるだろう。忘れてはならないのはそこにいるのはすべて違う、しかし私たちと同じような人間であるということだ。それは自分の職だけではない。あらゆる職業はその職業が存在するという時点で何らかの形で社会の中で役割を持っていて、それゆえに対等であると言える」

 

ここらへんは自分の思想の強さを感じるところだ。根拠文献のない個人的な意見だが、職業差別はたいてい社会基盤を支える人に対して向けられる。それは誰かがやらないといけないが誰もやりたくない仕事を社会的に弱い立場の人間が押し付けられるからだ。純粋にこれは効率が悪い。それにそうやって社会的立ち位置が固定されてしまっては能力の育成やらに問題が生まれるのだ。

 

「そういうわけで、敬意を忘れないように。ひとまず休憩に入ろうか」

 

講義内容はそろそろ折り返しを迎える。なんというか、半分は洗脳だな。幸いにも思想的に対抗するためのベースとなる知識を多くの局員が持っているので、こちらも頑張ろう。

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