図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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星辰

揺れる火が作る影は心を落ち着かせてくれる。硬いパンをゆっくりとスープでふやかし、少しずつ食べていく。

 

これは良いものだね

 

「ありがとうございます」

 

定型文も学びつつある。もちろん私が勝手に紐付けている日本語と完全に一致しているかはわからないが、それでもケトの笑顔を見ると私も嬉しくなる。転移性恋愛という言葉が頭の中に浮かぶが私は表情を変えずにそういう思考を追い出す。いやもちろんこういうところでインフォーマントとの関係性に関する職業倫理的なものをきちんと考えておくことは自分の価値観をきちんと持つためには不可欠だろうけど、多少の緊急避難は容認されるべきだ。そもそもそういう概念を相手や相手の所属している社会が持っているかどうかもわからないのに。この話はやめよう。醜い自己正当化を考え続けるのは心に良くない。

 

「████……夜に空に光るものを見るのは好きですか?*1

 

うん

 

たぶん星のことだろう。そう言えば今まで見ていなかったな。

 

「食べ終わったら、一緒に見ましょう」

 

ケトはそう言って微笑んだ。

 


 

天の川を見たのは、下手すれば産まれて初めてかもしれない。もちろん存在は知っている。プラネタリウムでもよく見る。ただ、こんな淡い帯が天球を一周するように存在するのを実体験するのはやはり特別な気分だ。

 

「キイさんは星の名前を知っていますか?」

 

いいえ

 

「それでは教えます。まずあの明るいのが███████、その上の方に行くと……*2

 

固有名詞はわからないが、ケトが空の星々の名前にかなり詳しいのには驚いた。私は全ての一等星を言えるかどうか怪しいレベルなのに。

 


 

現代天文学において、星々は真空に近い宇宙空間に浮かぶ核融合を起こしたガスの塊として扱われる。それぞれの星は自由気ままに動くため、夜の星空は目に見えないほど小さいながらも変わっている。この運動を固有運動というが、肉眼で観測することは理論上不可能ではない。これは専門家用語でやれるものならやってみやがれの意味である。実際、十分な視力があれば数十年かけてわずかに動いた星のズレを観測できなくもない。

 

同じ速度で動いているのであれば、遠いより近いほうが見かけの運動は大きくなる。また、同じ明るさを持った星なら近いほうがより明るく見える。つまり、明るい星ほど基本的によく動く傾向がある。とはいえ21世紀の地球から見て最も固有運動が大きいバーナード星はもともとの星が暗いので肉眼では見えないのだが。

 

それでも運動はゆっくりとしたもので、数万年経っても星空が「歪む」程度だ。十万年経つと位置のズレが激しくなり、多くの星座は注意しないともとの形がわからなくなるだろう。百万年もすればもう復元は無理だ。

 

ケトの説明を聞きながら、私は夜空を見上げる。知っている星の並びがない。地軸の歳差運動で天球の北極星を担う恒星が移っていくとかそういうレベルではない。南半球の恒星でもない……たぶん。さて、これで色々と可能性が絞れるぞ。

 

青銅器は紀元前10000年には作り方が知られていなかった。それ以前ではない。そこから現代までの間であるとすると、この星空は説明がつかない。はるか先の未来か、他の惑星か、あるいは平行世界か何かか。バタフライ効果が天文学的スケールでどのように作用するかは専門外だが、多体問題に初期値鋭敏性があることは有名なので一億年ほどあれば星空が全く違うことになるぐらいはあるかもしれない。ただまあ、ここが私に馴染みがある世界ではないのは間違いない。このレベルのセットを組むのは少し離れた恒星系に私を連れて行くよりは安くできるだろうが、それでも馬鹿げた額が必要になるだろう。ただヒトが存在するということは私とケトが遺伝的に繋がっていることを示唆するもので、共通祖先が……。

 

いやもういいや。面倒くさい。元の世界と今いる場所の関係性を厳密に知ることにあまりメリットはない。もしここが地球なら世界地図を描けるが、逆に言えばその程度だ。

 

ここは異世界。私は異世界転移をした。そういうことにしよう。そういうふうに、言葉を定義しよう。現代っ子なので、タイムスリップとかパラレルワールドとかよりも異世界という響きのほうが馴染みがあるのだ。それに「これが流行りの異世界モノかぁ!」と言える。この言葉を理解することができるのは今の所私以外いないように思われるが。それと異世界モノが流行っていたのは少し昔ではなかっただろうか。

 


 

「……大丈夫ですか?」

 

ケトが私の背中に軽く触れる。

 

……うん

 

久しぶりに涙を流した。これが悲しみから来るのか、好奇心から来るのかは正直自分でもわからない。ただ心配そうにのぞき込むケトを安心させないといけないな。

 

ねえ、ケトくん*3

 

「何でしょうか、キイさん」

 

私にもっと、ここのことを教えてほしい

 

「いいですよ。ただ……」

 

ただ?

 

「いつか、あなたのことを知りたいです」

 

「……うん」

 

最上のコミュニケーションではないだろうが、及第点ぐらいは出せるだろう。私は少しケトに寄って、彼の背中に手を当てた。

*1
星……夜に空に光るものを見るのは好きですか?

*2
それでは教えます。まずあの明るいのが白明星、その上の方に行くと……

*3
ここでキイが使っている敬称は同年代から年下まで性別問わず幅広く使えるものであるが、キイがケトに使うときは原則「くん」と訳出する

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