『まず第一に、新しいことを外界から学ぶことは、どのような子供であっても自然に行うことです』
舌がうまく回らない。聖典語は純粋に不慣れなのだ。とはいえ手を動かして書いた分、多少は頭の中で文章は編める。あとは、ゆっくりでもいい。出力することだ。
『そして子供は周りの大人、特に親を見て育つわけです。そこには教材は存在しない』
たぶん語彙の選択はこれでいいんだろうな。ケトを信じよう。
『いえ、むしろこれは子供の周りにあるもの全てが教材となると考えるべきでしょう。しかし、見ることも気がつくこともできないものを子供はどうやって学べるでしょうか?』
記憶を探れ。読んできた本を思い出せ。
『指を折って数えることは自然に学ぶかも知れません。しかし積の概念を自ら見出す子供はどれだけいるでしょうか?そういう時にこそ、教本は意味を持つのです』
周りを見渡すが、まあ受けは悪くない。
『しかし畑を耕し、空模様を読み、山野を駆けることは教本を通して教えるのは難しいでしょう。しかし良い種と種の間隔、雲の量と方角による天候の予測、あるいは周囲の環境から地形や方角を読み取る知識は教本を助けとして身につけることができます。重要なのはあくまで教本は副であり、行動が主であるということです。一定以上の能力を持っていれば、自ら学び、試し、そして記録を取るようになるでしょう。これを賢者と言わないで何と言うでしょうか?たとえ聖典語の詩句を
ここらへんは少し皮肉交じり。反感はどこまで売っていいのか分からないが、これくらいはセーフ、と。
『……つまり、聖典語によらない本を作ろうというのかね?』
そういう反応が来る可能性は考えていたが、こんな短時間で私のやりたいことを導けるとは。驚きだ。
『それは必要なことになるでしょう』
『では、いずれの言葉によって作る?』
『いずれの、ですか』
『ああ、説明が足りぬか。この城邦で話されている言葉と、船で数日行った先で話されている言葉とは、共に東方通商語であるが相違を有する。ここまでは?』
『解しています』
方言の問題か?……いや、もう少し面倒だ。これは標準語の問題か。
「地域の差異を潰し、一帯を同じ言葉で染めてしまう……」
口から言葉が溢れる。そうか、私の知っている公教育は国民国家の存在を前提としていた。そして国民国家はまだここには存在しない。そして国民を形成するものの一つが統一された言語だ。ここらへんは相互に絡み合っていて面倒だが。
『……すみません、少し考える時間を』
私はそう言ってケトを見る。私の深刻そうな顔を見て何かを察してくれたようだ。
「後はしばらく僕がどうにかします」
小さな声でケトは言う。ありがたい。息を吐いて、私は思索に潜る。
図書庫の城邦とその周囲における方言は、まだ不慣れな私がはっきりと認識できる程度には存在する。移動手段が少なく、マスメディアもなく、聖典語のように蓄積された資料と文法の研究がない以上そこにあるのは相互理解可能性のある言語を話すゆるやかな集団だ。そこに共通語を定めることは、ある意味で線を引くことだ。この言葉を話すものは我々と同類である、と定義することだ。私の知る歴史では国民という概念は歴史と文化と言語によって決められた。しかし歴史も文化も言語も地理的広がりがあるものだ。それをむりやり一つにまとめるということは、歴史上では同化政策という形で現れた。
方言札はその例として挙げるのに適しているだろう。起源はフランスだったか。「私は標準語以外を話しました」と書かれた板を首から下げさせられる。屈辱によって支配しようとする考えは私の趣味ではないし、そういう政策は大抵百年以上くすぶる火種になる。それは私の望むところではない。
ではどうするか?できるだけ一般的な語彙と、平易な文法で教本を作るしかない。それがどれだけ大変なことかを予測することは難しい。そして一歩間違えれば少数言語を消し去ることになるのだ。この世界で生まれる問題は近代以降生まれた人権という概念と照らし合わせるべきではないだろうが、なぜ少数言語の話す権利というものが議論されているかの理由を辿ればいい。それは恨みを買うのだ。分断を招くのだ。それを押し潰すにせよ、受け入れるにせよ、コストは安くない。
「ケトくん、これは後で文章として書きたい」
意識を戻して、小声で囁く。議論は白熱しているようだ。聖典語に耳を慣らしていく。
『なら内容を何にする?家で糸を紡ぐ少女にも、船を操る少年にも共に教えなければならないものは何か?それとも糸の撚り方と風の読み方を全員に教えるのかね?』
ああ教育内容。これもまた面倒な問題だ。ただ私の論稿を受けてか、男女別の教育をする方向には進んでいないらしい。よかったよかった。
「わかりました。難しい内容なのは全員わかっているので、問題ないはずです」
これでケトの評判が下がることにならなければいいのだが、と私は考える。今回の発表はかなり雑だった。最終手段はあの論稿の作者が私だとバラすことだが、まあそれはできるだけ最後の手段にしたい。かなりの誤解を招きそうでもあるし。