部屋に帰るなり、私は寝台へと倒れ込む。
「……大丈夫、ですか?」
「いいえ」
まったく酷い発言だった。いやまあ練習もなしに慣れない言語であれだけ話せれば上々だと考えたほうがいいのはわかるが、そううまく気分が向くとは限らないのだ。
「駄目なやつだって思われてないかな……」
「キイさんにしては珍しく弱気ですね」
「そりゃそうだよ、一応は発表することが生業だったんだから……」
国際学会の時は事前に機械翻訳した原稿を読んだわけだし、あの時の質問は準備してあって比較的簡単なものだった。それにここでは聖典語は教養とは言え、話せない人も少なくない。叩き上げの職人では聖典語の文字もわからないなんてことは珍しくないだろう。一応図書庫の城邦における東方通商語の識字率はかなり高い。まず全員が名前を書けるし、ほとんどの人があまり問題なく読むことができる。ちゃんとした文章を書くのは少し特殊技能になってくる、といった所だがそれでもそういう能力を持っている人は珍しくない。
「それでもいい弁舌でしたよ。質問した本人もここまで方言の問題が大きくなるとは思っていなかったようで」
「買いかぶられすぎだよ、私はただ知っていただけだからさ……」
工場で働く労働者や、銃を手にする兵士を同じ言語で作った同じようなマニュアルで管理できれば非常に楽だ。用語の統制は検索コストを減らす。それでも、その裏には抑圧される人がいたのだ。
「ねえ、ケト」
「なんでしょうか」
「こっち、来てもらえる?」
私は寝台の開いている場所をぽんぽんとうつ伏せのまま叩く。
「……わかりましたよ」
優しい声が聞こえて、少し遅れてケトが座ったのがわかる。ずいと身体を動かして、私はケトの腿に頭を乗せる。
「キイさん、ええと……男性が女性を慰めるような方法について僕は不得手で」
「……そういう意図はあまりないんだけど」
「……すみません」
ああ、そうだよな。価値観は違うんだよな。けどまあ、互いに了解があれば甘えるぐらいは許されるだろう。別にケトが想像していたような事態になってもそれはそれで受け入れるし。
ケトの手が私の髪をゆっくりと撫でる。
「……ねえ、私の選択が百年先で大きな問題を引き起こす可能性があるって言ったら、どう思う?」
「いえ、起こさないわけないですよ」
ケトははっきりと言い切る。
「一人の村人が路で転んだことをきっかけに、滅びた国家の伝説があります。人の身でそういった運命の繋がりを読み切ることなんて」
「それでもさ、明らかに私が恨まれるような選択はしたくない」
「……それほど、重要なのですか?」
「弱いものが敗れるのが道理であるとしても、やはり辛いものなんだよ」
「……キイさんは、本当にいい人です」
そう言うケトの体温は温かい。
「だけれども、全てを背負い込む必要はないんですよ」
「いや、今でもかなり他の人に任せてるし……」
優秀な実務担当者を管理する立場の人間にできるのは、何かあった時に責任を取ることぐらいだ。まあ、死で償うという考えがこの世界では薄いように思えるが最悪私の死を使えるなら最大限に使うべきだ、なんて考えるぐらいには思考が沈んでいる。
「なら、せめて僕にも隣にいさせてくださいよ」
「やめといたほうがいいよ、これは」
民族主義を作り出すことができる。互換性部品を使った銃を作ることもできる。そうすれば総力戦という思想をこの世界にもたらすことは不可能ではない。その先に勢力均衡やら冷戦やらが生まれるかは正直分からない。たとえ仮初の平和が生まれたとしても、この世界の人口で数百万の死者が生まれるだろう。それでも私が知る歴史で都市一つを巡って行われた攻防戦での死者数と桁が同じなのだから、技術の発展した状態での戦争というものは恐ろしいものだ。
「罪の意識に悩むのは、私だけで十分だ」
戦争後のトラウマに関する研究を読んだことがある。一部の人は新しい日常に慣れることができた。そうではなく、何度も何度も思い出す人もいた。結果として、社会から自らを切り離すしかなかった例もあった。
「私だけだったら、頑張って慣れるからさ」
命令を受ける側であれば、人間はそれなりの適応力を持つ。ただ、それを命令するのは狂人でなければ務まらない。
「……ケト?」
そう言った直後、私の顔はケトの腕の中にあった。
「そういう難しいことは後で考えましょう。いまはゆっくり寝て、明日起きてきちんと食べて、それから考え直しても遅くはありません」
「……そういうことに、しようか」
私は自分の思考を無理矢理にケトの方に向けて、抱きしめる肋骨のあたりに意識を集中させる。やっぱり、大きくなっているのだろうか。初めて会ってからそれなりに経つ。その間かなり近い距離にいた。私のことをこの世界で一番理解している人だろうし、たぶん一番心配してくれている。逃げられない自罰的な感情が襲ってくる。私は腕に力を入れて、息をゆっくりとする。まあ、ケトが私を裏切るというか私の隣から消える時があれば、それはもう潮時というやつなのだろう。曖昧な意識の中で、私はまとまらない思考に潜っていった。