図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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確率

「私の知る手法は、適用できる条件があります。一つ、結果の原因となる要素を分離し、数字にできること。二つ、できるだけ同じ条件で、一部の原因だけを変えて繰り返し試せること。三つ、必要な算学的知識があること」

 

記憶を探る。一応この方法は活版印刷機のインクを作る時に使ったのでそれを思い出せばいい。まああれは条件をそれなりに絞って検定をカンで行ったようないい加減なものだったが。

 

「つまりは釉薬の話であれば秤を用いて配合を行い、同じ炉で焼けばいい、と考えればいいか?」

 

「炉の内部での熱の差があるでしょうから、実際には置く場所もできるだけ散らばらせたいところですね」

 

「なるほど。しかし、算学の知識か」

 

「ええ。私もここは詳しくは覚えていないのですが……」

 

「やっと、人間らしいところを見れましたな」

 

商者は小さく笑う。

 

「私は人間ですよ。限界もあれば病みもするし、いつかは死ぬ存在です」

 

「全知の魔物、というわけではないのか」

 

彼が意識しているはずはないが、ピエール=シモン・ラプラスが言った魔物の話を思い出すな。この世界にも決定論は存在するが哲学的議論では「決定論だと思う人にとっては決定論だし、運命論だと思う人には運命論なのだ」という不思議な結論が出ていた。ここらへんはもう少し詳しく読んでみたいが、あまり時間がない。

 

「……ええ。その根底にあるのは多くの数を整理し、その中から特徴を見つけ出すような分野ですね」

 

「調査術か?」

 

「近いものはあります」

 

「そして、なぜ算学がそこまで重要に?」

 

「端的に言えば、偶然と必然を区別するためです」

 

「ほう」

 

興味深そうに彼は言った。

 


 

この世界で使われている賭博用の賽は骨を使ったものだし、それを転がすテクニックも含めてゲームが成立している。となると、事故とかの方がいいか。

 

「会計の計算で、答えが合わない事はありますか?」

 

「……避けることは難しいな。計算は容易ではないし、悪い指を持つものもいる*1

 

「ではある人物が計算をした時だけ、特に差が大きいとしたら?」

 

「その計算者を疑るのが道理だろうな」

 

「そうです。もちろん彼に問題はなく、ただ運命の巡りが悪いだけかもしれません。では具体的にどれほど頻繁に差が大きいのであればそれは強く疑うにふさわしくなるでしょうか?」

 

「……一概には言えないだろう」

 

「ええ。ここでは話を簡単にして、信頼できる会計員が行った場合には10回に1回、銀片にして1枚を超える差が出るとしましょう。で、そこのケト君が同じような会計をしたとしましょう。そして銀片1枚を超える差が出た」

 

「疑わしいな。ただ、偶然かもしれない」

 

「そう。たまたま、10回に1度巡り合うような不運が彼と共にあっただけかもしれません。では2回連続であれば?」

 

「より疑わしくなる。さすがに服を脱がせるべきだろうな」

 

「そう。10回に1度起こることが、更にもう一度起こるのは100回に1回に過ぎません。これを多いと捉えるか、あるいは少ないと捉えるかは様々でしょうが2回しか試していないのに100回に1回しか起こらないようなことがあるのは奇妙です」

 

「確かに」

 

ここまで確率論の基礎はすんなりと確立できた。まあ本当はアンドレイ・ニコラエヴィッチ・コルモゴロフの公理主義的確率の話まで持っていければいいが、これは私でもちゃんと理解していないので数学のできる人に任せよう。

 

「では、2回行って1回、銀片1枚を超える差が出たとすれば?」

 

「疑わしくはあるが、最初の時ほどではない」

 

「ええ、ではここでその疑わしさを数字で表しましょう」

 

私は10×10の升目を描く。

 

「100回に1回は2回とも差が出る。逆に100回に81回は2回とも差が出ない。残りの部分、100回に18回は一度差が出る、というわけです」

 

「……なるほど」

 

「試す回数をもっと増やすこともできます。例えばケト君が10回試し、3回差が出たとしましょう。これは、どれくらい起こり得ることでしょうか?」

 

私はそう言いながらペンを走らせる。計算を急げ。ええと ${}_{10} \mathrm{C}_3$ は120。$\lg 0.9$ は

 

$$\begin{eqnarray} \lg 0.9 &=& \lg 9 - 1 \\ &=& 2 \cdot \lg 3 - 1 \\ &=& 2 \cdot 0.4771 - 1 \\ &=& -0.0458 \end{eqnarray}$$

 

と求められる。あとは代入して計算だ。

 

$$\begin{eqnarray} {}_{10} \mathrm{C}_3 \cdot 0.1^3 \cdot 0.9^7 &=& 120 \cdot 10^{-3} \cdot 10^{-0.0458 \cdot 7}\\ &=& 120 \cdot 10^{-3.32}\\ &=& 120 \cdot 10^{-4} \cdot 10^{0.68} \\ &=& 0.01 \cdot 1.2 \cdot 10^{0.68} \end{eqnarray}$$

 

$10^{0.68}$が5より少し少ないぐらいだから、6%弱と言ったところか。

 

「100回に6回ほど、そういう事が起こります」

 

私の計算を、長髪の商者もケトも呆けた顔をして見ていた。*2

 

「……この計算が必要なのか?」

 

「そうです、これでも簡単なものですよ」

 

さすがに駄目か。まあこれを解読するには相当の知識と発想力が必要になる。さらりと使っている常用対数はヘンリー・ブリッグスのアイデアによるもので1600年頃だったかな。

 

「それにしても意外だったな。もっと珍しいものかと」

 

「直感はこの手の計算に慣れていないんですよ」

 

「つまりこのように計算して、起きたことがわずかしか起こらないようなものであれば……それは偶然と言うより、何かがあると考えるべきだ、と」

 

「その通りです」

 

今回の例ならp値が5%より上なのでギリギリ偶然かもしれないというところだ。まあ0.05はよく使われるくせに雑すぎる数字なので、議論も雑になるが。

*1
「悪い指を持つ」は東方通商語の言い回しで少額窃盗・横領を意味する。

*2
ここでの計算は全て略記型東方通商語数字を用いて行われた。

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