図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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矛盾

20世紀以降の数学史は、あまり研究の進んでいない分野だ。理由は単純である。それを理解するためにある種の才能が必要とされ、歴史研究の専門家として育ってきた人間が太刀打ちするには複雑すぎる世界がそこにはあるからだ。もちろん双方の知識を縦横無尽に振るう人もいるが、少なくとも私はダフィット・ヒルベルトの出した23の問題については何を言っているかすらよくわからない。問題の定義が曖昧なので当然だろと数学をやっている人は言うかもしれないが。

 

まあでも、そういう非直感的な数学の世界が作られるようになったのは数学が実用を無視した純粋な学問として捉えられるようになったから、というのはあるだろう。つまりこの物理的世界とは切り離された、一種独特の世界ができたのだ。

 

「つまり、この紙の上で行われる記号を操るという行為によって、例えばある土地に蒔くべき種の量が出たとしても、その二つはあくまで別のものなんだよ」

 

「……ええ、言われればそうです。紙の上のインクのしみは、実物とは関係がない」

 

私の言葉に、新顔の学徒が言う。

 

「その通り」

 

私は黒板の前に座り、三人の生徒を見る。ケトと、衙堂の会計員と、あと長髪の商者が送り込んできたケトより少し下ぐらいの若い学徒。最後の彼は算学においてなかなか腕がいいらしい。まあ、確かに数学は比較的年齢を無視できるゲームだ。数学オリンピックを見てみろ。あれでも扱う分野に縛りがあるのだ。それがない無差別級数学界でもティーンがarXivに論文を書いていたりする。査読がないから誰でも出せるには出せるけどそういう意味ではない。

 

「とはいえ私は実用主義を重んじていてね、使えそうな内容に絞って教えたいと思う」

 

私は一冊の冊子を取り出す。

 

「複製はまだ作っていないから、譲り合って見てほしいのだけれども」

 

知っている基本的な数学知識を雑にまとめたものだ。あまり体系的ではない。

 

「最終的に、これをざっくり理解してまとめてほしい。そうだな、ケト君が理解できる水準であればまずはいいだろう」

 

三人が冊子を覗き込み、変な顔をする。そもそも用語も記号もちゃんとしたものがないのだ。抽象的な図から、意味をどこまで読み取れるかは未知数だ。なので私が必要なのだが。

 

「どの内容が知りたい?」

 

「……この、積を求める部分を」

 

局員が言う。

 

「いいよー。基礎をやるか、それとも早足でも全体を見るか」

 

「全体を見たいです」

 

学徒が元気に言う。

 

「ではまずは、積を和に変換することを考えようか」

 

私は言う。さて、のんびりやろうか。

 


 

「百の百倍は万。私の略記法だと、$10000$と書くことになる。これについては彼は慣れて……る?」

 

私は学徒に目を向ける。この世界の算学を知っていたとしても、それとはレベルが違う内容をやるのだ。どこまでできるのだろうか。

 

「わかりますよ、大丈夫です」

 

空位記号については問題なし、と。

 

「ええと、積の記号を頭文字を取ってこういうふうに書くとすると*1……」

 

$$100 \times 100 = 10000$$

 

「こうなるよね」

 

頷く三人。

 

「はい、ここで方針を説明する。まず簡単に試してみる。そこから規則を見出す。そして規則を拡大していく」

 

「規則を安易に拡大しては、破綻が生まれないか?」

 

局員が聞いてくる。素晴らしい。やはり天才を教えるのは馬鹿でもできるな。

 

「そう。しかし破綻というのは二種類あって、一つは例えば計算によって起こり得ないような結果が出た場合。もう一つは作業によって矛盾と定義したような状態が起きた場合」

 

「……違うのですか?」

 

ケトの質問。

 

「違う。例えば前者は『財布の中身に銅葉が $3-5$ 枚入っている』というようなものだ。しかし、これは紙の上ではある種の数として扱うことができる」

 

「あまり主流ではないが、そういう試みは行われているのを読んだことはある」

 

そう呟く局員。おお、あるんだ。

 

「後者のほうは、例えば『我々は2と3を異なるものとして扱う』と宣言しておいて、計算の結果『2と3は等しい』という結論が出た場合のこと」

 

「ええと、例えば2の平方根が2つの数の比として表せないことを示す際に使われるような、矛盾を示す場合だと思えばいいでしょうか?*2

 

「その通り。私のやり方は慣れそう?」

 

「あとで復習します」

 

「よろしい。終わった後ならたぶんその教本というかその雑稿も読めるはずだから。っと、話を戻そう」

 

私は手早く黒板に式を書く。

 

$$\begin{eqnarray} 1 \times 10 &=& 10 \\ 10 \times 10 &=& 100 \\ 100 \times 10 &=& 1000 \\ 1000 \times 10 &=& 10000 \\ 10000 \times 10 &=& 100000 \end{eqnarray}$$

 

「ここから、どういう法則性が読み取れる?」

 

「10倍するごとに、空位記号が一つ増えている」

 

局員の言葉に残りの二人も同意する。

 

「そう。つまり、10倍するという積を、空位記号の数に1を足すという和の操作に変換できているんだ」

 

少し訝しそうな視線が飛んでくる。まあ、ここからが面白くなるんだって。

*1
以降キイの板書では「積」を意味する聖典語の頭文字2つの合字を積の記号として、「は」を意味する単語の潰れた筆記体を等号として用いているが、以下では全て標準的な数学記号を用いて表す。

*2
「数」とだけ言った場合、文脈にある程度依存するが自然数(正の整数)として扱われる事が一般的である。

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