図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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収束

二項定理は古くから知られていた。式の展開であったり、組み合わせであったりの分野に頻出だからだ。それは以下のことを主張する。

 

まずある $n$ 個の中から $k$ 個のものを選び出す組み合わせの数を $\require{amsmath}\binom{n}{k}$ と表そう。高校でやる${}_{n} \mathrm{C}_{k}$の別の書き方だと思ってくれればいい。例えば $\binom{5}{2}$ なら5個から2つを選ぶ組み合わせの数なので10となる。

 

このとき、

 

$$\begin{eqnarray} & &(a + b)^n\\ &=& \binom{n}{0} a^n b^0 + \binom{n}{1} a^{n-1} b^1 + \binom{n}{2} a^{n-2} b^2 + \cdots + \binom{n}{n-1} a^{1} b^{n-1} + \binom{n}{n} a^0 b^n \end{eqnarray}$$

 

が成り立つというのが二項定理である。総和の記号 $\Sigma$ を使っていいなら、

 

$$(a + b)^n = \sum_{k=0}^{n} \binom{n}{k} a^{n-k} b^k$$

 

だ。これをシンプルになったと思うかは人それぞれだが、シンプルになったと思うような人間が数学界を支配しているので反論の余地はない。さて、前回出てきた謎の数を思い出そう。$\delta$ を小さい数と置いた時に

 

$$(1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}}$$

 

という数について知りたい。ただ、これでは少し扱いにくいのでちょっとしたトリックを使おう。整数 $n$ があって、$\delta = \frac{1}{n}$ と置くことを考えよう。$\delta$ を小さくするためには、$n$ を大きくしていけばいい。これを用いてさっきの式を書き直すと

 

$$\left(1 + \frac{1}{n} \right)^{n}$$

 

となる。指数部分が整数 $n$ になったので、二項定理が使いやすい。やったぁ。ここで $a = 1$ 、$b = \delta$ に対応するので

 

$$\left(1 + \frac{1}{n} \right)^{n} = \sum_{k=0}^{n} \binom{n}{k} \delta^k$$

 

ここで最初の数項を実際に求めてみると

 

$$\begin{eqnarray}\left(1 + \frac{1}{n} \right)^{n} &=& \binom{n}{0} + \binom{n}{1} \delta + \binom{n}{2} \delta^2 + \binom{n}{3} \delta^3 + \cdots\\ &=& 1 + n \cdot \delta + \frac{n(n-1)}{1 \cdot 2} \cdot \delta^2 + \frac{n(n-1)(n-2)}{1 \cdot 2 \cdot 3} \cdot \delta^3 + \cdots \end{eqnarray}$$

 

となる。ここで雑な近似をしてしまおう。$n$ は大きい数なので、$\delta \cdot (n-1)$ や $\delta \cdot (n-2)$ は $\delta \cdot n = 1$ と同じとみなす。こうすると

 

$$\begin{eqnarray} & & 1 + n \cdot \delta + \frac{n(n-1)}{1 \cdot 2} \cdot \delta^2 + \frac{n(n-1)(n-2)}{1 \cdot 2 \cdot 3} \cdot \delta^3 + \ldots\\ &=& 1 + 1 + \frac{1}{1 \cdot 2} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3} + \ldots \\ &=& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} \cdots\end{eqnarray}$$

 

これを $\Sigma$ を使って書いてもいい。階乗って定義したっけ? $n! = 1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot \cdots \cdot (n-1) \cdot n$というやつ。ああ、あと$0! = 1$と特別に定義しておく。これでとてもシンプルになるぞ。

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} + \cdots\\ &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1!} + \frac{1}{2!} + \frac{1}{3!} + \cdots\\ &=&\sum_{k=0}^{\infty} \frac{1}{k!} \end{eqnarray}$$

 

ええと極限の定義をしてない?あと無限和についてもいい加減?いいんだよそもそも近似の評価もしていないんだ。イメージでよろしく。

 


 

「実際に最初の8項を計算すると、2.718253ぐらいでしょうか?」

 

「そんなものかな」

 

計算が速い。というか若い学徒はもう筆算術をものにしていた。結構慣れるの難しいんだがな。これだから天才ってやつは嫌いなんだ。凡人が頑張って歩いてきたところまで一足飛びでたどり着いてくる。

 

「ならば、勾配は0.43といったところか」

 

雑に作られた対数表から局員は読み取って言う。ええと、$\ln 10$ の逆数だから $1/2.303$ 、まあそのくらいか。

 

「……大丈夫?」

 

私は突っ伏すケトに声をかける。

 

「……なんとか」

 

ケトに合わせると残りの二人が退屈してしまうし、二人に合わせるとケトが置いていかれてしまう。速度のバランスが難しい。

 

「ええと、怪しいところは二つありますよね。一つ目は数の大きい時の置き換えがきちんと成り立つかどうか」

 

$\delta \cdot (n-k) = 1$ のところを指してケトは言う。

 

「あとは限り無く数を足してどんどん大きくなっていかないか……」

 

近似の評価と有界かどうかか。幸い答えられる範囲だ。というかちゃんとわかっているな。

 

「よし。前者は少し難しいから今度にさせて。後者は今答えられるよ」

 

私は先程の和の式を書き直す。

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1} + \frac{1}{1 \cdot 2} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot 4} + \cdots \end{eqnarray}$$

 

「こうなるから、これより大きな数字を考えるよ。例えば……」

 

$$\begin{eqnarray} \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot 4} &=& \frac{1}{2} \cdot \frac{1}{3} \cdot \frac{1}{4}\\ &<& \frac{1}{2} \cdot \frac{1}{2} \cdot \frac{1}{2}\\ &=& \frac{1}{2^3} \end{eqnarray}$$

 

「となるよね。あとはこれを他の項に対しても考えていけば……」

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1} + \frac{1}{1 \cdot 2} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot 4} + \cdots\\ &<& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{2^2} + \frac{1}{2^3} + \cdots \end{eqnarray}$$

 

「はい、半分ずつになっていく項の和だ。これは見たことある?」

 

「紙を半分ずつ切り取っていくようなものですよね。分数部分の総和は1を超えないはずです」

 

「そう。ということはこの和はたかだか3。あとはこの値がある一定の値に近づいていくことを示すよ。まず、私たちは実際の詳しい値を知るよりもある程度の範囲にあることを知れればいいんだ」

 

ケトは頷く。

 

「求めたい値を挟み込むように考えていけばいい。例えば項を足していくのを途中でやめた時の和を考えれば、求める数はこれより大きいということは求められるよね」

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& \sum_{k=0}^{\infty} \frac{1}{k!}\\ &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1!} + \frac{1}{2!} + \frac{1}{3!} + \cdots \\ &=& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} + \cdots\\ &>& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6}\\ &>& 2.66 \end{eqnarray}$$

 

「そうですね。でも、ある数より小さいことは言えますか?先程3より小さいことはわかりましたけど」

 

「一応同じように上から押し付けるようなものを考えることはできるけど……」

 

具体的な式はぱっと出せないし、それを評価するにはもう少し微分の概念を構築したい。まあ、ここは雑に誤魔化そう。

 

「例えば、ある数を考えよう。例えば2.8。足していくと、これを超える時があるか、あるいはないかのどちらかなのはいい?」

 

「ええ」

 

「もし超えたら、次は新しい数について考える。たとえば3を超えないことはわかっているから2.9とかね。逆に2.8を超えないなら、もう少し小さい数を考える。さっき計算してくれたおかげで2.718を超えることはわかっているので、2.75を超えるかどうかを考えればいい」

 

「超えるかどうか、実際に計算する必要がありますよね?項を足していっても、相当先である値を超えるとかならすぐにはわからないと思うのですが」

 

「いや、これは実際に超えるかどうかはわからなくていいんだ。大事なのは超えるか、あるいは超えないかのどちらかであるということ。どちらでもない、なんてことは起こらない」

 

「少し待ってくださいね……」

 

ケトは少し考え込む。その間に残りの二人は、と見ると局員の方は今までの流れを整理していて若い学徒の方はこの計算を $(1, 0)$ じゃなくてもっと他の点にも拡張していた。それは微分なんだよ。ちょっと待ってくれ。いや別にいいか。微分で得た関数の微分をやりはじめたら止めよう。

 

「……つまり、どちらであっても値の範囲を絞り込めるので、どこかに値が近づいていくのは間違いないということですか?」

 

「その通り。残りの二人もここは理解できた?」

 

「ええ」

 

「大丈夫です」

 

よかった。残るは評価か。これは少し面倒な匂いがするな。

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